充分に休息を取り、体力を回復した晴子は、その夜のメインイベントで、千夏のセコンドを勤め、真紀との試合にKO負けした千夏の肩を支えて、控え室に戻ってきました。そして、控え室に置かれた簡易ベッドの上に千夏の腰を下ろさせようとしたとき、それまで痛々しく丸まっていた千夏の腰がピンと伸びたので、晴子は驚いて目を丸くしました。
「千夏さん、…… だ、大丈夫なんですか?」
「うん。心配させちゃってごめんねぇ。…… どう? 迫真の演技だったでしょ?
…… それにしても、星野さん、ずいぶん強くなってたなぁ。よっぽどメイリンちゃんにリベンジしたいのね。」
そんなことを口走りながら、嬉しそうにクスクス笑っている千夏の姿を見て、晴子は、安堵のため息を洩らすのと同時に、千夏に対して、何か底知れないものを感じました。
ちょうど、晴子が千夏の手からグローブを外し終わったとき、控え室のドアがノックされ、ほどなく少しだけ開かれたドアから、彩が顔を出しました。彩は、千夏に大丈夫かと声をかけましたが、彩の表情は、それほど心配をしているような感じではありませんでした。そして、彩の問いかけに千夏がウインクで応えると、彩の顔に微笑が浮かびました。
「その様子じゃ、心配するだけ無駄だったようねぇ。…… お店の方は、あと私と他の子でやるから、あなたはもう上がりでいいわ。……
それから、晴子さん、だったわね? あなたもこのまま上がっていいって、坂田さんが言ってたわ。せっかくだから、千夏に何かおいしいものでも奢ってもらいなさい。お疲れ様でした。」
千夏は、リクエストしてくれれば、お寿司でも中華でも、六本木で一番のお店に連れてってあげると、晴子に持ち掛けましたが、晴子が、あまり高価なものだと、気兼ねして、おいしく食べられる気がしないと言い張ったので、結局二人は、近くのファミリーレストランに向かうことにしました。
ファミリーレストランの席に腰を下ろし、従業員にオーダーを伝えると、千夏が晴子に話しかけてきました。
「ねぇ、晴子ちゃんは、このお仕事、まだ続けるの? それとも、今夜だけで、もうやめちゃう?」
「ええ。今夜だけにするつもりでした。今夜のお仕事のお金をいただいたら、東京の生活を終わりにして、秋田の実家に帰ろうかな、って思ってたんです。……
でも、ちょっと悔しいんですよね。負けたのは仕方ないにしても、本当に何もできなくて、ただ殴られるだけで終わっちゃった感じでしたから。……
だから、もう一度だけ、このお仕事をしてみたい。…… できれば、今夜の相手の人ともう一度試合をして、勝てなくてもいいから、少しでもいいところを見せたいかな、とも思うんです。」
「ふぅーん。…… でも、いいところを見せたけど負け、よりも、やっぱり勝てた方がいいよね?」
「それは、…… もちろん、そうですけど。」
晴子がそう言って、はにかむように笑うと、千夏は、テーブルに少し身を乗り出してきました。
「ねぇ、…… もし、晴子ちゃんが、あの子に勝ちたいと本気で思ってるんだったら、お姉さんが力になってあげてもいいんだけどなぁ。……」
その後、千夏は、晴子が一方的にやられてしまった原因は何だったのか、そして、花恋に勝つためにはどうしたらいいのかを、晴子に説明していきました。千夏の話を熱心に聴いていた晴子は、食事が終わった頃には、もう一度試合をする意思を固めていました。
別れ際に、「もし花恋に勝てる自信がついたら、花恋ともう一度試合ができるように、私が坂田さんに口利きしてあげる」
と、千夏に告げられた晴子は、千夏のアドバイスを実践できるよう、次の日から自分なりに練習を始めました。
それから三ヶ月ほどの後、千夏の計らいもあり、晴子は、プライムローズのリングの上で、花恋との再戦に臨むことになりました。
プライムローズのリングデビュー戦で、晴子を簡単に打ち負かしたことで、花恋はこの仕事を、相手を殴ってお金が稼げる、こんなおいしい商売はない、と感じていました。
それ以降も、花恋は月に一度ほどのペースでリングに上がり、すでに、晴子に勝った試合を含め、三試合連続のKO勝利を収めていました。その花恋にとって、この夜の相手である晴子は、苦もなく倒せる相手、取るに足らない相手だ、という認識しかありませんでした。
試合前の注意に呼ばれた花恋は、今夜も楽勝だという自信を漲らせて、リングの中央で、晴子と向き合いました。
「ふぅ〜ん、面構えは割と良くなったじゃない。…… 今日は何ラウンドまでもつかしらねぇ?」
そんなことを考えながら、上目遣いに晴子の顔を見つめる花恋の表情には、薄笑いすら浮かんでいました。
試合前の注意が終わり、赤コーナーに戻った晴子は、セコンドから口に入れてもらったマウスピースを噛み締めながら、千夏に授かった
『花恋攻略法』 を、頭の中でしっかりと復唱しました。
ほどなく試合開始のゴングが鳴り、二人はゆっくりと、それぞれのコーナーを後にしました。
自分の左側へ左側へと回りながら、少しずつ間合いを詰めてくる晴子に向かって、花恋が一発目の左ストレートを打とうとしたとき、晴子の右腕が素早く伸びました。そして、花恋が、「えっ?」
と思ったのとほぼ同時に、晴子の右ジャブによって、花恋の顔面は、軽く弾け上がっていました。
一瞬だけ怯んだ花恋は、すぐに右腕を大きくスイングしましたが、晴子はすでに、花恋のリーチの外へと逃げたあとでした。
自分の一発目はできるだけ当てて、相手の一発目は確実に避けること。……
千夏に授かった 『花恋攻略法』 の中で、一番大切だと思っていた部分をまず実践できたことは、晴子にとって、大きな自信になりました。
その後も、デビュー戦で晴子と闘ったときと同じように、花恋は激しく攻撃を仕掛けてきました。しかし、「腕の長さの違いを最大限に生かすこと。自分の攻撃だけが届く距離を、できる限り維持すること。」、「相手が突進してきても、真後ろに下がってはいけない。横への動きでやりすごすこと。コーナーに追い込まれるのは、絶対に避けること。」
という千夏の教えを忠実に守り、ディフェンスに重点を置きながら、コツコツとパンチを当ててくる晴子に有効なダメージを与えることは、花恋には、まったくと言っていいほどできませんでした。
第三ラウンドが始まって一分ほどが経過したとき、花恋は、全身を投げ出すようにして、左ストレートを放ちました。花恋の右側に回りこむようにして、これをかわした晴子が、前方に大きくバランスを崩していた花恋の顔面に、素早く右ストレートを合わせると、花恋は体勢を立て直すことができず、思わず、両拳のグローブをキャンバスについてしまいました。
花恋は瞬時に起き上がり、晴子に向かって突進しようとしました。しかし、花恋が一歩目を踏み出そうとしたのと同時に、レフェリーがすっと身体を入れて、花恋の行く手を遮りました。
「ダウン!」
レフェリーは、花恋にダウンを宣告すると、まだその場に立ち尽くしている晴子に、ニュートラルコーナーへ向かうよう指示しました。
レフェリーがカウントを始めると、花恋は、両腕をだらりと垂らし、さも忌々しそうに、「はぁっ」
と大きな息を吐き出したあと、両拳のグローブをアゴの前に構えました。
「…… フォー、…… ファイブ、…… シックス、……」
ダウンを奪われ、レフェリーにファイティングポーズを向けている姿を、リングを取り囲む観客に晒すことは、花恋にとって、たまらない屈辱でした。
今のパンチは、転びそうになったところに、たまたま当たっただけで、これっぽっちも効いてないんだ。早くカウントを止めて、試合を続けさせろ。……
花恋は、怒りと苛立ちを、そのまま顔に出し、ゆっくりとカウントを進めるレフェリーと、ニュートラルコーナー近くに立っている晴子とを、交互に睨みつけました。
プライムローズのリングデビュー戦の時とは違い、晴子が自分の攻撃を余り怖がらなくなっていることや、それによって、晴子のフットワークと長い腕が、かなり厄介な存在になったことを悟った花恋は、第一ラウンドの終盤あたりから、ひたすら攻撃を仕掛けていくという戦法を、少し控えていました。しかし、ダウンを奪われたことで冷静さを失ってしまった花恋は、試合が再開されると、鬼のような形相で晴子に向かって突進し、再びブンブンと腕を振り回し始めました。
続く第四ラウンドも、花恋は全力で攻撃を仕掛けてきましたが、闘牛士のような動きで、冷静に花恋のパンチをかわし続ける晴子を捉えることはできませんでした。そして、ラウンドの半ばを過ぎたあたりで、ついに花恋の疲労はピークに達し、なかなか足が前に出なくなり、手数も極度に減ってしまいました。
ロープ際に追い込まれそうになった花恋がクリンチに逃げ、晴子の身体をリングの中央あたりまで押し返したところで、第四ラウンド終了のゴングが鳴りました。
レフェリーが二人にコーナーに戻るよう指示すると、晴子はしっかりと胸を張って、赤コーナーに向かいました。花恋は、その晴子を、恨めしそうな顔でちらりと見やったあと、荒い呼吸を繰り返しながら、黒コーナーに向かって歩き始めました。
次の第五ラウンド、花恋が完全に失速したことを確信した晴子は、一気に攻勢に転じました。
第五ラウンドのちょうど半分が過ぎたころ、晴子のコンビネーションブローを何とかブロックした花恋は、身体を凭れかけるようにして、晴子にしがみついてきました。そして、クリンチが解かれると、晴子はまた、すぐに花恋との間合いを詰めました。
花恋は、その場に踏みとどまって応戦しようと、大きく左腕を振りかぶりました。しかし、花恋のスイングが晴子に届く前に、がら空きになった花恋の顔面を、晴子の鋭い右フックが捉えていました。
この一撃で、花恋の両膝があっけなく折れました。そして、花恋の張りのあるお尻が、キャンバスの上に、どすんと落ちました。
「ダウン! …… ワン、…… トゥー、…… スリー、…… フォー、……」
背中をキャンバスにつけたまま、二度ほど息を吐き出したあと、のろのろと身体を起こし始めた花恋は、カウントアウトを免れる寸前で、ようやく、レフェリーに向かって力のないファイティングポーズを向けました。
しかし、レフェリーが試合再開を告げ、ニュートラルコーナーに控えていた晴子が距離を詰めてくると、ずるずると後退した花恋は、すぐにコーナーに追い詰められてしまいました。
退路を失った花恋は、襲い掛かってくる晴子に何とか抵抗しようと試みました。しかし、立て続けに、顔面に二発パンチを浴びた花恋は、両腕で顔を覆い、晴子から顔を背けてしまいました。そして、晴子が、反撃の気配が消えた花恋のボディに、思い切り、左フックを叩き込みました。
このパンチをまともに食らった花恋は、「ぐふっ」 という小さな呻き声を洩らし、その場にしゃがみ込むように、両膝をつきました。そして、身体を丸め、小さく震えだした花恋の口からこぼれ落ちた青いマウスピースが、美しい薔薇の花が描かれたキャンバスに転がりました。
「ダウン!」
四つん這いになった花恋を横目でちらりと見遣ったあと、晴子は、レフェリーの指示に従って、反対側のニュートラルコーナーに向かいました。晴子の左拳には、三ヶ月前に完敗した相手を仕留めたボディブローの感触が、しっかりと残っていました。
「…… ワン、…… トゥー、…… スリー、……」
レフェリーがカウントを進めていっても、花恋は、涎を垂らし、キャンバスに両膝と両肘をついたまま、小刻みに全身を震わせるだけでした。だらしなく開かれた花恋の口から不規則に洩れてくる、呻きにも似た喘ぎ声は、晴子の渾身のボディブローが、一時的に、花恋の呼吸を奪い取ってしまったことを物語っていました。
「…… エイト、…… ナイン、…… テン! ノックアウト!!」
レフェリーが両腕を交差させ、試合終了のゴングが打ち鳴らされると、晴子は、赤いグローブに覆われている両拳をぎゅっと握り締め、心の中で、「やったぁ!!」
と叫びました。
晴子は、一旦赤コーナーに戻り、花恋がレフェリーにトランクスを脱がされる様子を眺めていましたが、そのうちに、ふと、自分が花恋に負けたとき、花恋に、中学生よりも洒落っ気のない下着だと言われたことを思い出しました。
レフェリーが作業を終えると、晴子は、まだキャンバスにべったりとうつ伏せに倒れたままの花恋のそばに歩み寄り、花恋を見下ろして、お返しの言葉を投げつけました。
「ふぅ〜ん、黒のTバックなんだ。…… さすがに遊んでる人は違いますねっ。」
その後、花恋から剥ぎ取られた青いトランクスを受け取った晴子は、レフェリーに右手を掲げられ、少し照れくさそうに、勝者のポーズを取りました。勝者として試合を終え、リングを取り囲む観客からの拍手喝采を浴びることは、晴子が考えていたよりも、気持ちのいいものでした。
その横で、花恋は、キャンバスに四肢を投げ出し、苦痛に顔を歪めて、はぁはぁと荒い呼吸音を洩らし続けていました。
○ 晴子 KO 5R 2分26秒 花恋 ×