晴子との、『最後の勝負』 のあと、グローブを外してもらい、手早く着替えだけを済ませた花恋は、すぐに、晴子が運び込まれた控え室に向かいました。
花恋がドアをノックすると、控え室の中から、「どうぞ」「はぁい」 という、二人分の声が、ほぼ同時に返ってきました。そのどちらもが、明るい感じのトーンだったので、花恋は、少し心を落ち着けてから、ドアを開けることができました。
部屋の中には、晴子と、晴子のセコンド役を務めていた夕香の姿がありました。タオル地のローブを羽織った晴子は、花恋が晴子に負けた夜に、声を押し殺して泣いたときと同じ簡易ベッドの上に寝かされていました。
夕香は、少し離れたところに置いてあった椅子をベッドのすぐ横に引き寄せ、花恋に、「どうぞ」
と薦めてきました。花恋が、夕香に小さくお辞儀をしたあと、その椅子に腰を下ろし、晴子に、「大丈夫?」
と声をかけると、晴子は、にっこりと微笑んで、「うん。」 と答えました。
「…… 花恋さん、強いですね。…… 何か、格闘技やってたんですか? 空手とか。……」
「いや、そういうわけじゃないけど、…… 私、子供の頃、ガキ大将で、男の子と殴り合いの喧嘩とか、しょっちゅうだったから、……」
「そうなんだ。…… じゃぁ、ちょっと相手が悪かったなぁ。あはははっ。」
KO負けという結果で試合を終えた直後なのに、晴子が、なぜこんなに楽しそうにしているのかを、花恋は、少し不思議に感じましたが、それは、晴子が元気な証拠であって、晴子のケガを心配していた花恋にとっては、とても有難いことでした。
「私ねぇ、花恋さんには、すごく感謝してるんですよ。」
「感謝? …… 私に?」
「ええ。…… 最初に花恋さんに負けたときから今日まで、本当に充実してましたから。……
私の実家、秋田の、本当に片田舎なんです。だから、都会にすごく憧れてて、高校を卒業してすぐに、一人で東京に出てきたんですけど、実際に暮らしてみると、東京は、秋田を出る前に思っていたほど、素敵な街じゃないってことが、だんだんわかってきました。人と人との繋がりが薄いような気がするし、水も空気もおいしくない。……」
花恋の顔から視線を外し、天井を見上げた晴子の顔は、故郷・秋田の、澄み切った夜空に浮かぶ満天の星を思い出しているかのように、穏やかな微笑みを湛えていました。
「…… 東京で暮らしていくためのお金を、アルバイトで稼ぐことから始めたんですけど、一年経っても、二年経っても、ずっとそのままの毎日でした。私、何してるんだろう、東京に何しにきたんだろうと思うと、すごく空しかった。……
それで、秋田に帰ろうと思ってた矢先に、坂田さんに誘われたんです。ちょっとヘンなお仕事だったけど、三年間東京で暮らした記念になればいいかな、って思ったんで、一回だけお仕事して、終わったら秋田に帰るつもりでいました。……
でも、あまりにも簡単に負けちゃったんで、ちょっと悔しくなっちゃって、……」
「うん。その話は、千夏さんに聞いた。……」
「そうでしたか。…… で、そこで千夏さんにヒントをもらったんで、練習を始めたんです。何か、学生の頃に戻った感じで、すごく楽しかった。……
特に、花恋さんに勝ったあとの、今日までの三ヶ月は、自分が納得できる試合がしたい、やれることを全部やって、それで秋田に帰る、って決めてましたから、すごく集中できました。……
最初の相手が花恋さんじゃなかったら、多分、こんな経験はできなかったと思います。……
だから、すごく感謝してるんです。」
「なるほどねぇ。…… でも、それってさぁ、私じゃなくて、千夏さんに感謝するのが、筋なんじゃないの?」
「あ、そうかも知れないですね。あはははっ。」
コロコロと笑う晴子の顔を見て、花恋は、何となく、この子とはウマが合いそうだ、いい友達になれるかも知れない、と感じました。
「ねぇ、…… 本当に、秋田に帰っちゃうの?」
「はい。実家に帰って、しっかり花嫁修業します。…… 私には、農家の嫁が一番性に合ってる。東京で暮らすことで、強くそう感じるようになりました。お父さんと同じような、おいしいお米を作るために、毎日毎日一生懸命働いている人のところへお嫁に行って、その人をしっかり支える。今は、私が幸せな人生を送るには、それが一番だと思ってます。」
晴子の答えを聞いて、花恋がため息をついたとき、特徴のあるテンポで控え室のドアがノックされました。そして、中からの返事を待たずにドアが開き、そこから千夏が顔を出しました。
「ベッド確保できたよ。車ももう用意してあるから、準備できてるんならすぐに移動してね。……
夕香ちゃん、悪いけど、付き添いお願いね。」
そう言いながら控え室に入ってきた千夏に、晴子は、元気よく返事をして、ベッドから起き上がりました。夕香も、にっこりと頷いて千夏に了解の意思を伝え、すぐに、近くに置いてあったスポーツバッグを肩に掛けました。
花恋が、自分の方に歩いてきた千夏に、「晴子ちゃんは、どこへ行くんですか?」
と、少し不安げに尋ねると、千夏は、穏やかに微笑みながら、花恋の両肩に手を置きました。
「晴子ちゃん、ちょっと派手にやられちゃったからね。一応、今日は病院で一泊してもらうことになったの。でも、もうお医者さんに一度診てもらってるし、あくまでも念のための様子見だから、心配しなくても大丈夫よ。」
花恋が、夕香に付き添われた晴子が出て行ったばかりの控え室のドアを、寂しげな表情で見つめていると、千夏が、花恋の肩を軽く叩き、花恋の顔の前に、一枚の紙片を差し出しました。それは、千夏がプライムローズで使っている名刺で、余白に、誰かの携帯電話の番号とメールアドレスが、手書きで記されていました。
「それ、晴子ちゃんのケータイの番号とメアド。もう一度、直に会って話がしたいんなら、早めに連絡取らないとダメよ。晴子ちゃん、秋田に帰るまで、もうそんなに日がないはずだからね。」
花恋は、千夏の名刺に手書きされた文字を見つめながら、少しの間、晴子のことを考えたあと、千夏の方に向き直り、小さく頭を下げました。
「そうします。…… いろいろ気を遣っていただいて、ありがとうございました。」
「うん。…… で、花恋ちゃんは、これからどうするの?」
「私? 私ですか?」
「あなた、前のお店辞めちゃったでしょ? 明日から、どうやって食べていくの。それとも、坂田さんのお仕事だけで生活していくつもり?」
千夏に指摘されて、花恋は、はっと我に返った気持ちになりました。
晴子に勝つため、自分にできることは全部やるために、邪魔になると思ったから、キャバクラを辞めた。晴子との三度目の勝負までは、晴子に勝つことだけに集中し、その先どうするかは、試合が終わってから考えればいい、……
花恋は、この三ヶ月間を、そうして過ごしてきました。
「あ、…… そうですね。…… えっと、……」
花恋が答えに詰まると、千夏は、やっぱりね、とでも言いた気に、少しいやらしい感じの笑みを浮かべました。
「ねぇ、良かったら、ここで働かない?」
「え?」
「実はね、オーナーの彩さんにも、店長にも、もう話はしてあるの。…… って言うか、彩さんね、あなたと晴子ちゃん、二人とも、目ぇつけてたっぽいんだよね。店長も、ああいう元気のある子はいい、うちにも一人欲しいキャラだねぇ、って言ってたし。……
だから、アタシの口からは、今ここで採用とまで言えないけど、あなたにその気があるなら、多分大丈夫だと思うわ。……
もし、あなたが、この先、お水関係の仕事で生活していく気があるんだったら、このプライムローズは絶対に間違いのないお店よ。それだけは、アタシが保証してあげる。……
どう? ここに来ない?」
晴子と花恋の、『最後の勝負』 から一週間後。すでに、東京駅23番ホームに入り、あと何分かで発車する、秋田新幹線・こまち19号のすぐそばで、最後のおしゃべりに興じている、二人の姿がありました。
この一週間、二人は、一緒に食事をしたり、ゲームセンターやカラオケボックスで遊んだりして、仲良く過ごしました。前日には、晴子の部屋を訪ねた花恋は、引越しの荷造りを手伝いながら、おしゃべりを楽しみました。そして、この日、晴子が東京を後にする最後の瞬間まで、晴子と一緒に居たいと思った花恋は、入場券を買い求め、新幹線のホームまで、晴子についてきていました。
ホームの時計を見上げた晴子が、「そろそろ時間だね。」 と花恋に告げると、花恋は、少し寂しそうに頷きましたが、急に何かを思い出したように、小さく声を上げました。
「いっけなぁ〜い。忘れるところだった。」
花恋は、上着のポケットに手を突っ込み、そこから取り出したものを、晴子に手渡しました。それは、長さ5センチほどの、赤と黒の小さなボクシンググローブが一つずつついているキーホルダーで、赤いグローブの手の甲の部分に
『H』、黒い方には 『K』 の文字がプリントされていました。
「それ、私からのプレゼント。…… 晴子ちゃんが東京を発つのに間に合うように、急いで作ってもらったんだ。」
『H』 と 『K』。それが、晴子と花恋の頭文字を意味していることは、すぐに晴子に伝わりました。
「ありがとう。…… 大切にするね。」
晴子が、そう言葉を返したとき、こまち19号の発車を告げるベルが、ホームに流れました。そして、晴子が車両に乗り込むと、すぐに、乗車口のドアが閉まり、晴子を乗せたこまち19号が、ゆっくりと動き始めました。花恋は、その動きに合わせて、何メートルか移動しながら晴子に手を振り、晴子もそれに応えるように、花恋に向かって手を振り続けました。
こまち19号がどんどんスピードを上げ、花恋の視界から消えると、花恋の瞳に、じんわりと涙が溢れてきました。……
晴子は、本当に秋田に帰ってしまった。…… 電話で声は聞けるし、メールのやり取りもできるけど、一緒に食事をしたり、買い物をしたり、そういうことができない所へ行ってしまった。……
せっかく、あんなに仲良くなれたのに。……
花恋は、その場に佇み、俯いたまま、しばらく感傷に浸っていましたが、やがて、溢れた涙を拭って顔を上げ、両手の拳を、ぎゅっと握り締めました。
「晴子ちゃんは秋田に帰っちゃったけど、私はまだまだ東京で頑張る。千夏さんみたいな、かっこいい女になって、絶対に玉の輿に乗ってやるんだ。……
私は、そのために、東京に出てきたんだから。……」
自分に気合を入れ直した花恋は、軽快な足取りで、新幹線の改札口へと向かう階段を下りていきました。
誘ってくれた千夏さんに迷惑をかけないためにも、精一杯、頑張らなくっちゃ。……
この日は、花恋の、プライムローズ初出勤日でもありました。