花恋が、東京駅で、秋田へ帰る晴子を見送った日から半年ほどが経ち、すでに花恋は、プライムローズの従業員の中で一番の元気キャラとして、すっかりお店になじんでいました。千夏の言葉通り、プライムローズは、花恋が以前勤めていたキャバクラとは比べ物にならないほど、上品な、奉仕し甲斐のあるお客様ばかりが集まる店で、花恋は、プライムローズで働けることを感謝しつつ、充実した日々を過ごしていました。
その一方で、花恋は、坂田が仕切っているボクシングイベントの選手として、ふた月に一度ほどのペースでリングに上がり、晴子との
『最後の勝負』 を制したあとも、三試合続けて勝利を手中に収めていました。そして、その連続勝利に自信をつけた花恋は、いろんな面で師匠と崇めている千夏に、一度挑戦してみたい、自分の実力がどれだけ千夏に通じるのかを試してみたい、と考えるようになっていました。
ある夜、プライムローズの営業が終わったあと、他の従業員と一緒に店の後片付けをしているとき、花恋は、千夏に、思い切って、私と試合をしてくれないかと告げました。すると千夏は、「おっ、ついにアタシとヤる気になったか。」
とでも言いたそうに、ニヤリと微笑みました。
「オッケー。…… じゃ、来月のイベントのときに試合を組んでもらうように、アタシから坂田さんに頼んどく。それでいいかな?」
「はい。よろしくお願いします。」
「よぉ〜し、じゃぁ一丁派手に揉んでやるかぁ。…… もちろん、職場の同僚だからって、これっぽっちも手加減しないからね。大勢のお客さんが見ている前で、コテンパンにやっつけてやるから、覚悟しておくように。いいわね。」
そう言うと、千夏は嬉しそうに顔を崩し、花恋を抱きしめました。
その夜のメインイベンターの一人として、プライムローズのリングに上がった花恋は、リングの中央で千夏と向かい合い、レフェリーを務める彩の言葉に耳を傾けていました。
「…… 今夜、プライムローズにお集まりいただいた、すべてのお客様を魅了するような、素敵なファイトを期待してるわ。……
それじゃ、コーナーに戻って。」
彩の指示に従って、一旦赤コーナーに戻ってきた花恋は、セコンド役の女性から受け取ったマウスピースをぎゅっと噛み締め、黒コーナーに控えている千夏の姿を、じっと見据えました。
まだ、私が千夏さんに勝つのは無理かも知れないけど、せめて、最初の何ラウンドかだけでも、いい勝負ぐらいにはもっていきたい。私は、千夏と同じ、長身サウスポーの晴子ちゃんと、すでに三度試合をしてるから、そのケーススタディをしっかり生かせば、きっと活路は見えてくる。……
やがて、観客席のざわめきが大きくなってきたプライムローズの店内に 「ラウンド・ワン」
のアナウンスが流れ、引き続いて、試合開始のゴングが鳴りました。
第一ラウンドが終わり、かなり重苦しい表情で赤コーナーに引き上げてきた花恋は、セコンド役の女性にマウスピースを抜き取ってもらうと、用意されたストゥールに腰を下ろしました。
長い腕から放たれる鋭く重いジャブに、なかなかパンチの届く範囲に近づかせてもらえない。何とかパンチの届く範囲に飛び込んでも、強烈なカウンターが待っている。それを嫌がって、しっかり顔をガードしたまま突っ込んでいくと、今度はボディを抉られる。逆に、一旦距離を置こうとしても、いつの間にか距離を詰められ、態勢を立て直す暇を、まったく与えてもらえない。……
花恋の想像を遥かに超えた、千夏のスピード、パワー、テクニックの前に、花恋は、第一ラウンドの三分間を終えただけで、完全な八方塞がりの状態に追い込まれていました。
この、あまりにも一方的な劣勢から脱出するにはどうしたらいいのか、千夏の攻撃を食い止め、反撃に転じるためにはどうすればいいのか。いくら考えても、花恋には、その糸口さえ見つかりませんでした。大勢のお客さんの目の前で、コテンパンにやっつけてやる。……
試合を申し込んだときに、千夏から返ってきた言葉が、花恋の心に、重く圧し掛かっていました。
でも、千夏さんに一番弟子だと認めてもらうためにも、また、自分を拾ってくれた彩さんに、この子を採用して正解だったと思ってもらうためにも、最後まで頑張らなくちゃ。……
セコンドアウトのコールが場内に流れると、花恋は、どんなに苦しくても、自分からは絶対に試合を投げない、最後の最後まで千夏に食い下がるんだと、自分に言い聞かせて、ストゥールから腰を上げました。
ほどなく、第二ラウンド開始のゴングが鳴り、花恋は再び、万が一にも勝ち目が残っていなさそうな試合へと戻っていきました。……