黒コーナー近くで、彩が、クリンチ状態の二人にブレイクを命じたところで、第三ラウンド終了を告げるゴングが鳴った。

 肩で大きく息をしながら、赤コーナーに戻ってきた真紀は、口を開けて、夕香にマウスピースを外してもらい、用意されたストゥールに腰を下ろした。

「…… しぶとい女だ。…… それにしても、……」

 真紀は、全力で攻めても、第三ラウンド中にメイリンを仕留められなかったことに、少し苛立っていた。そして、第三ラウンドの残り一分を過ぎたあたりから、真紀は、自分の全身に、今までに経験したことのない、違和感のようなものを感じ始めていた。

 普段より、動いた分に比べて、疲れるのが早い気がする。…… それに、何となく、全身がだるい。……

 練習中や、『アイドル・ボクシング・スタジアム』 で試合をしたあととかに、その場に寝転がりたくなるぐらいの疲労感を感じたことは、今までに何度もあったが、それは、どちらかと言うと、心地良いと感じることができた。しかし、今、自分が感じているものは、それとは、少し感じが違う。……

 まあ、今夜は、自分が今までに経験してきた、『アイドル・ボクシング・スタジアム』 とは、意気込みとか緊張感とかも違うことだし、きっと、それが影響しているんだろう。そんなことを気にするよりも、今は、メイリンを倒すことだけに集中すべきだ。……

 真紀は、大きく深呼吸をしながら、黒コーナーのストゥールに座って、三度目のインタバルを過ごしているメイリンを睨みつけた。


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「どうだ? 何かわかったか?」

 第三ラウンドが終わり、真紀とメイリンがそれぞれのコーナーに引き上げると、坂田が、藤原に話しかけてきた。

「んー、星野の顔云々はよくわからなかったが、…… ラウンドの終わりの方は、攻め疲れ、って感じだったな。二度目のダウンのあとも、星野はすぐにメイリンをロープ際に追い詰めたが、三発ぐらい打った辺りで、手が止まっちゃってたしな。…… あれが、お前が言ってた、効果ってやつの影響なのか?」

「まぁ、そんなところだ。」

「ふむ。…… それと、 お前が、『あの場所』 で、メイリンがダウンするんじゃないか、って言ってたことについて、ちょっと思ったことがあってな。…… よく考えてみると、前にダウンしたときから、メイリンは、割と逃げ回っていた感じだったが、あの場所でダウンしたときも、もっと横に逃げ道があったような気がするんだ。…… なぜ、あのとき、メイリンは、横に逃げずに、ロープを背負ったのか。…… 実は、メイリンは、追い込まれたんじゃなく、逆に、メイリンが、星野をあそこに誘い込んだようにも思えるんだ。…… それに気づいたとき、メイリンには、あの場所ででダウンをする意思がある、っていう、お前の言い分が、多分正しいんだろうな、と思ったな。」

「ほう。上出来だ。」

「でも、理由まではわからん。教えろ。」

「よし。…… じゃあ、まず、ヒントをやろう。メイリンは、これまでに、都合三度ダウンしていることになるが、その三度のダウンに、共通していることがある。何だかわかるか?」

「そういう風に、情報を小出し小出しにするのは、昔っからの、お前の悪い癖だ。…… まあ、いいか。メイリンのダウンに共通してるものだな? …… うーん、三回とも、尻餅をつくみたいな感じだった、ってことかなぁ。…… そう言えば、三回とも、割とカウントが進むまで、その場に座ってたし、格好も、こう、ガバっと股を開くような感じで、似てたな。」

「うん、正解だ。…… そのときに、メイリンの正面の位置にいるお客さんは、メイリンの代名詞にまでなっている 『スーパー開脚』 を、ベストポジションから拝むことができたわけだ。逆に、メイリンの背中側のお客さんは、ちょっと歯痒い思いをしたことになる。」

「そういうことになるな。…… ん? ってことは、……」

「そう。…… メイリンは、お得意の、『スーパー開脚』 を、見せて回ってたんだよ。ご丁寧に、リングの周囲をほぼ三等分するような位置で一回ずつダウンして、ガバっと股を開き、リングを取り囲んでいるお客さん全員が、最低でも一回は、正面に近い角度から股間が見えるようにしてな。」

 藤原は、しばらく言葉を失っていたが、やがて、小さく、「なるほど、……」 と呟いた。

「ってことで、スーパー開脚を見せる、っていうお客様サービスは、これで一通り終わったことになる。俺が、もう、メイリンはダウンしないと言ったのは、そういう理由からだ。…… じゃ、もう一つの方、…… 俺が、星野の顔をよく見とけと言っといたやつの方も、答え合わせをしておこう。」

「お、…… おう、…… そうだな。」

「お前は、気づかなかったようだが、…… 星野の顔の色、特に唇の色だ。…… 少し変だと思わないか?」

「ん? …… おう、そう言われてみれば、ちょっと唇は紫色っぽい感じに見えたな。」

「そうだ。…… それと、この前のラウンドで、メイリンがダウンした少しあとに、メイリンが、星野の右の脇腹に、いい感じのボディを一発打っただろう。覚えてるか?」

「ああ。確かに、そんなこともあったが、…… それが、星野の唇の色と、どう繋がるんだ?」

「右の脇腹の辺りには、胃の出口とか、肝臓の下半分とかがある。メイリンは、そこにダメージを与えるために、あの一発を打ったんだ。…… あそこをやられると、一時的に内臓機能が落ち、血行障害が起こる。星野の唇が紫色になってるのは、その影響で、チアノーゼを起こしているからだ。…… 身体がだるく感じられ、疲れやすく、また、その疲れが抜けにくい状態になるんだな。」

「…………」

「星野は、自分の身体に起こった異変に、もう気づいているはずだ。が、それが、何が原因で起こっているのかまでは、わかってないだろう。…… 脇腹に打ち込まれた、毒針の存在まではな。……」


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 第四ラウンドが始まると、再び、真紀は、自分からどんどん前に出て、メイリンを攻め立てた。しかし、ここでというところで、メイリンにうまくクリンチに逃げられ、最初の一分が過ぎる辺りまで行っても、真紀は、メイリンから、ダウンを奪うことができずにいた。

 そして、そのあたりから、明らかに、真紀の動きが鈍り始めた。それは、真紀の行動の中に、「少しでもいいから休みたい」 という意思が感じられるものが混じるという形で、現れるようになっていた。

 それまでは、メイリンを、ロープ際やコーナーに追い詰めると、真紀は、これでもかと言わんばかりに、メイリンに連打を浴びせていたが、それが、前ラウンドの終盤と同様に、二発、三発と打ったところで、完全に手が止まってしまうようになってきた。また、二人の距離が離れたときに、それまでの真紀は、間髪を空けずに、メイリンとの間合いを詰めていたが、その出足にも勢いがなくなり、クリンチのあとなど、メイリンとの距離が開いたときに、ほんの数秒ではあるものの、明らかに、間合いが開くようになってきていた。

 第四ラウンドの終わりが近づいてきたときには、どちらかと言うと、足が前に出ているのは、むしろメイリンの方だった。そして、真紀がロープを背にして、メイリンの両脇に腕を差し込み、クリンチに逃げたところで、第四ラウンド終了のゴングが鳴った。

 やや肩を落とし気味にして、赤コーナーに引き上げてくる真紀の足取りは、前のラウンドが終わったときに比べるとはるかに重く、真紀の表情にも、真紀が極度に疲労しているさまが、ありありと表れていた。そして、べったりと涎がついたマウスピースを、夕香に外してもらった真紀は、用意されたストゥールに、どすんと腰を落とした。

 やっぱり、動きの量に比べて、異様に疲れるのが早い。…… 相変わらず、身体中だるいし、攻めていても、次のパンチを打つ、という元気が湧き上がってこない。…… どうして、こんなに、キツい状態が続くんだろう? …… こんな大事な夜に、どうして? ……

 両腕を中段ロープに伸ばし、大きく深呼吸を続けている真紀は、前回のインタバルのときに感じていた違和感が、今や真紀の全身を蝕んでいることを思い知らされていた。

 やがて、セコンドアウトのコールが場内に流れた。夕香に、マウスピースを口に入れてもらい、気だるそうにストゥールから腰を上げた真紀には、一分間休憩した分の体力を回復したという実感が、あまり湧いてこなかった。


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 メイリンを攻め落とすだけの、気力と体力が蘇ってこないことには、話にならない。今は、とにかく、できるだけ時間を稼がないと。…… 第五ラウンドが始まると、真紀は、自分からは前へ出ず、メイリンが近づいてきたら、軽くジャブを出してから斜め後ろに下がるなどして、最小限の動きでメイリンとの距離を保つ、という、戦法に頼らざるを得なかった。

 そうしているうちに、真紀は、全身を覆っていただるさから、徐々に開放されていくように思えてきた。

 これならなんとかなりそうだ。…… あと少しだけ時間を稼いで、疲れが抜けてきたら、また攻撃を仕掛けよう。…… そんな考えが、真紀の頭に浮かんだ。しかし、それを待っていたかのような頃合で、それまで、真紀が牽制気味のパンチを打つたびに、後ろに下がっていたメイリンが、それをブロックして、積極的に真紀との距離を詰めてくるようになってきた。

 迎撃に出た真紀のフックを、ダッキングでかわしたメイリンは、腕をガードの位置に上げた真紀に、右、左と二発、振り幅の小さいボディブローを打った。そして、クリンチに逃げようとした真紀が、メイリンをホールドするまでの、わずかな時間の間に、メイリンは、真紀のお腹にもう一発、パンチを当てた。

 彩がブレイクを命じ、二人を引き離すと、真紀は大きく後ろに下がった。しかし、メイリンは、すぐに真紀に詰め寄ってきた。そして、後ろに下がりながら出した、真紀の牽制パンチをやりすごし、メイリンが、真紀の懐に深く入り込んできた。

 真紀はやや腰を落とし、メイリンの顔をめがけて、左、右とフックを放ったが、メイリンは、これをしっかりブロックし、両拳のグローブで顔を覆うような体勢のまま、真紀に体重を預けてきた。そして、ロープを背負った真紀のわき腹に一発、さらに、十数秒前とまったく同じように、真紀がクリンチに逃げる直前にもう一発、真紀のボディを叩いた。

 その後も、メイリンは、真紀を追い回しては、こつこつと、真紀のボディを攻めてきた。一発一発には、それほど威力を感じないものの、体力を取り戻して反撃に出たい真紀にとって、それは、一番ありがたくないパンチだった。メイリンの黒いグローブがお腹に当たるごとに、メイリンを倒すための気力と体力が、少しずつ溶けていってしまう、…… 嫌であっても、真紀には、そんな気がしてならなかった。そして、それが事実であることを証明するように、メイリンを牽制するパンチも、至近距離に近づいたメイリンを迎撃するパンチも、徐々に、真紀には、打てなくなってきた。

 第五ラウンドのラスト間際、真紀は、赤コーナーに追い詰められ、グローブで顔を覆って、身体を丸めるだけになっていた。メイリンは、がっちりとガードを固めた体勢で、真紀の背中をコーナーマットに押し付け、真紀が反撃に出ないのをいちいち確認しているような、ゆったりとした間隔で、グローブ越しの真紀の顔を狙ったパンチを混ぜながら、真紀のボディに攻撃を加えていた。

 真紀が赤いコーナーマットを背負ってから、それほど破壊力を感じることのできない、女の子パンチ気味のボディブローは、すでに四発、真紀のお腹に打ち込まれていた。そして、その五発目が、真紀のお腹に食い込んだとき、第五ラウンド終了のゴングが鳴った。


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「勝負あったな。…… もっとも、お前に言わせれば、もともと勝負はついていた、ってことになるんだろうが、……」

 夕香が足元に差し出したストゥールに、真紀が腰を下ろしたのを見届けると、藤原は、そう呟いた。

「まぁ、…… そんなとこだ。」

 坂田がそう答えると、二人は、お互いの顔と、遠からずKOシーンが展開されるであろうリングの方とを、交互に見遣りながら、会話を始めた。

「なぁ、…… お前が言う通り、メイリンが、いつでも星野をKOできるだけの、実力の持ち主だったとしたら、だ。…… こう、回りくどい、って言うか、…… ずいぶん手間隙かけて、星野を嬲ってる、ってことになるよな。」

「ああ。…… ただ、メイリンには、三ラウンドとか、四ラウンドとか、最低限、そのくらいまでは、試合を引っ張って欲しいとは伝えてある。観に来てるお客さんにしても、一分二分であっさり勝負がついちまうよりも、その方がいいだろう。」

「うむ、そりゃぁ確かにそうだ。」

「星野と試合をするに当たって、メイリンには、いくつかリクエストをしてあるんだ。今言った、勝負をある程度長引かせることも、そのうちの一つに入ってる。それから、星野の顔に、できるだけケガをさせないこと。メイリンが、あまり星野の顔に向かって強いパンチを打ってないところを見ると、これもちゃんと守ってくれてるわけだ。…… それと、もう一つ、出来れば、ってことで、メイリンに頼んでおいたことがある。…… こっちの方も、今のところは、なかなかうまくやってくれてるがな。」

「ほう。…… 何だ?」

「それはな、…… 星野が、リベンジしたくなるような、…… もう一度、メイリンと試合をさせてくれと、星野が言い出したくなるような内容で、ってことだ。…… まるっきり歯が立たないなら、いくら悔しくても、もう一度勝負したいという気は起こらないだろうがな。でも、メイリンが、最後まで実力を晒さなければ、星野は、いい勝負だったのに、とか、本当は自分が勝っていたはずなのに、とか思うだろう。そうすれば、星野の性格を考えると、自分から再戦を言い出してくる可能性は高い。」

「なるほどな。…… ってことは、…… お前、まだ何か企んでるな?」

「まぁ、な。…… 今や、芸能界で、トップアイドルの地位にまで伸し上がった星野真紀だ。こういう形でリングに上げるだけで、数百万の価値は楽にある。今夜だけで使い捨てにするのは、もったいないっちゅうもんだろう。……」


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 第六ラウンドが始まると、メイリンは、普通に歩く以下のスピードではあるものの、まっすぐに、真紀との距離を詰めてきた。

 横へと頼りないステップを踏みながら出した、真紀の左ストレートを空振りに終わらせたメイリンは、あっという間に、真紀をロープに追い込んだ。そして、真紀の左右のフックをきっちりブロックしてから、真紀がクリンチに逃げる前に、グローブでガードをしている真紀の顔へ一発、さらに、お決まりのように、真紀のボディへ二発、パンチを打ち込んだ。

 第六ラウンド開始から一分と少しが経過したとき、真紀はまた、ニュートラルコーナーに退路を遮られていた。そして、ボディに二発もらったあと、真紀が、メイリンをホールドしようと、両腕を少し身体から離したとき、二人の胸の隙間をすり抜けるようにして、黒いボクシンググローブが、真紀の視界の下から飛び出してきた。

 下アゴをしゃくり上げられるような衝撃のあと、真紀の視界全面に、一瞬だけ、プライムローズの天井が映った。そして、大きく縦に揺れた真紀の視界が、再びメイリンを捉えたとき、真紀の両膝は、真紀がイメージしている以上に折れ曲がっていた。真紀は、その場に踏ん張ろうと、膝に力を入れたが、もう間に合わなかった。

 真紀の小さなお尻が、わずかな着地音とともに、キャンバスに落ちた。


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「ダウン! …… ワン、…… トゥー、…… スリー、……」

 真紀は、両拳のグローブとお尻をキャンバスにつけたまま、彩の指示に従って、対角線上のニュートラルコーナーへ歩いていくメイリンの背中を、少しだけ目で追った。そして、はあはあと大きく呼吸を続けながら、ちらりと彩の顔を見たあと、視線を足元のキャンバスに落とした。

 結果としてダウンを奪われることになったものの、メイリンが最後に放ったアッパーカットは、真紀には、あまり、効いた、という感覚はなく、意識もはっきりしていたし、足にきている感じでもなかった。しかし、これまでに食らい続けてきた、何十発ものボディブローに体力を削り取られ、真紀は、どうしようもないほどまでに疲れ切っていた。

 このまま、ごろりと横になり、手足を投げ出したら、どんなに楽だろう。…… ふと浮かんだその衝動を、真紀は瞬時に否定した。

 …… だめなんだ。…… 今夜だけは、…… この試合だけは、どんなに辛くても、負けるわけにはいかないんだ。……

「…… フォー、…… ファイブ、…… シックス、……」

 やがて、真紀は、ゆっくりと立ち上がり、カウントをエイトで止めた彩にファイティングポーズを向けた。そして、真紀の両手首を掴んで、「真紀ちゃん、まだ続けられる?」 と尋ねた彩に、辛さがありありと表情に出ている顔を向け、小さく頷いた。


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 その後、防戦一方になりがならも、真紀は、何とか形勢を逆転しようと、メイリンの顔を目がけて、何度か大きく腕をスイングした。しかし、その内の三度に一度ぐらいは、顔をガードしたメイリンのグローブに当たるだけで、残りは全て、メイリンの顔の前や、メイリンの頭の上を、空しく通り過ぎるだけだった。

 第六ラウンドの残りが四十秒ほどになったとき、真紀は、しがみついたメイリンの肩の上にあごを乗せ、大きく口を開けて、はあっ、はぁっと、荒い呼吸音を洩らしていた。彩が身体同士をぴったりとつけている二人に歩み寄り、ブレイクを命じると、メイリンは、両腕を肩より少し低い位置まで上げて、両脇を開けたが、真紀は、メイリンにしがみついたまま、なかなか腕を解こうとはしなかった。

「ブレイク! …… 真紀ちゃん、メイリンから離れなさい!」

 彩に名指しで注意され、ようやく両腕を下ろした真紀が、二歩ほど斜め後ろに下がると、彩は、真紀とメイリンの間に、すっと身体を入れ、「私がブレイクを命じたら、すぐに従うこと。クリンチしたまま、いつまでも休んでちゃダメよ。」 と、責めるような表情と口調で、真紀に告げた。すると、いかにも気だるそうに、両腕を肩からダラリと垂らし、上目遣いに彩の顔を見つめていた真紀は、今にも泣き出しそうな表情で、二度ほど小さく頷いた。

 彩が二人の位置を確認し、「ファイト!」 と一声かけて、二人から離れると、メイリンは、ゆっくりと、しかし、まっすぐに、真紀との距離と詰めていった。そして、メイリンの接近を嫌がるように、真紀はまた、斜め後ろへ、斜め後ろへと、後退を始めた。

 リングから少し離れたテーブル席で、リング上の光景を眺めていた藤原が、「もう、そろそろだな。」 と呟くと、隣に座っている坂田も、リングの方を見つめたまま、小さな声で、「ああ。」 と答えた。


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 メイリンに詰め寄られ、あと少しで、ロープに追い込まれる、というところまで来たとき、真紀は、その場に踏みとどまり、逆転の一発を狙って、あらん限りの力で、右腕をスイングしようとした。しかし、真紀が右腕を振りかぶり、腰を捻ろうとしたとき、真紀には、メイリンがやや腰を前屈させ、左ストレートを伸ばしてくるのが見えた。

 私のパンチはターゲットを外れ、メイリンのストレートは、私の顔に命中する。…… 腕を振り切る前に、真紀はそう感じ取ることができたが、疲れ切っている真紀の身体が、それに反応することはなかった。そして、真紀の予想通り、振り切った右腕の先についている真紀の赤いグローブは、またもやメイリンの頭の上を通り過ぎ、メイリンの左ストレートは、カウンター気味に、真紀の頬のあたりにヒットした。

 パンチの衝撃と、目一杯振ったパンチが空振りになってしまったことで、真紀は、身体の軸の回転を止められないまま、大きく後ろによろけた。そして、左腕を上段ロープに引っかけて、身体を支えるような感じになったとき、真紀は、メイリンに、半分以上、背中を向けた格好になっていて、顔も同じ方向に向いてしまい、一時的に、メイリンをまったく視野に捉えていない状態になっていた。

 このままダウンして、少し休もうか。…… そんな考えが、真紀の頭をよぎった。

 真紀が、その答えに迷ったほんの一瞬の間、真紀の意識は、すぐそばに迫っている敵の存在から、完全に離れてしまっていた。

 その敵は、その一瞬の間に、真紀の視野の外で、反時計回りに、鋭く上半身を捻っていた。そして、真紀が、その答えを実行に移すことができず、再びメイリンの方に身体を向けようとしたとき、メイリンの右腕が勢い良く振り切られ、黒いグローブが、真紀のお腹にめり込んでいた。

「ぅ ぐぇっ!!」

 内臓を潰されたかのような痛みと苦しみに、一瞬にして真紀の両膝が折れ曲がり、真紀は、キャンバスに崩れ落ちた。そして、真紀の口から、ねっとりとした涎にまみれたマウスピースが吐き出された。


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「ダウン! …… ワン、…… トゥー、…… スリー、…… 」

 真紀は、両腕でお腹を押さえたまま、キャンバスの上をのたうっていた。真紀の目には、ニュートラルコーナーに引き上げていくメイリンの姿も、ダウンカウントを続ける彩の姿も映っていなかった。まともにもらったボディブローの、地獄のような苦しみに、真紀の両瞼は、固く閉じられていた。

「…… フォー、…… ファイブ、…… シックス、……」

 相変わらず、真紀は、芋虫のように身体を曲げ、両腕でお腹を押さえて、キャンバスをのたうっていた。しかし、そんな絶望的な状況に置かれても、真紀は、このままカウントアウトされ、敗者として試合を終えることを、必死に拒んでいた。

 立つんだ。あの女には、負けられないんだ。…… その意思の力で、真紀は、ついに腕をお腹から引き剥がし、身体を丸めて、両肘と両膝をキャンバスにつくというところまで、体勢を立て直した。

「…… セブン、…… エイト、……」

 腕を伸ばし、膝を立てるんだ。立って、試合に戻るんだ。…… 真紀は、自分の身体にそう命じたが、ボディブローの苦しみに耐えているだけで精一杯の、真紀の身体は、もう、真紀の意思通りには動いてくれなかった。

 ちくしょう! ちくしょう! …… 真紀は、心の中で何度もそう叫んだ。しかし、どんなに自分を奮い立たせようとしても、真紀の身体は、もうそれ以上、動かなかった。

「…… ナイン、…… テン! ノックアウト!!」

 彩のKOコールに引き続いて、試合終了を告げるゴングが乱打された。

 キャンバスの上でうずくまる真紀の目尻から、一粒、二粒、悔し涙がこぼれ落ちた。


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 彩に右腕を掲げられ、リングを取り囲む観客に、勝者のポーズを披露し終えたメイリンは、一度黒コーナーに戻り、千夏にマウスピースを外してもらった。そして、相変わらず両肘と両膝をキャンバスにつけ、身体を丸めている真紀の傍へとやって来た。

 メイリンは、足の裏で、真紀の腰骨のあたりを軽く蹴り、真紀の身体を仰向けにひっくり返すと、真紀の顔の前でしゃがみこみ、妖しげな笑みを浮かべながら、真紀を見下ろした。

「おっぱい、潰しちゃおうかな、とかも思ったんですけど、…… やっぱり、やめときました。おっぱいを潰されたら、星野さん、もう、明日から、芸能界で生きていけなくなっちゃいますもんね。…… 感謝してくださいね。」

 メイリンの言葉に、真紀は、鬼のような形相で、メイリンを睨みつけた。

 いっときは、KO負け寸前まで行ったくせに。…… それに、あの、変な、疲れがまったく抜けなくなるような、体調の乱れさえなければ、キャンバスに寝転んだまま試合終了のゴングを聞くのは、間違いなくお前だったんだ。…… 悔しさを抑えきれなくなった真紀は、メイリンの顔に、ペッと唾を吐きかけた。

 メイリンは、特に驚く様子もなく、妖しい笑みを真紀に向けたままだった。そして、顔についた唾を拭き取る仕草をまったく見せずに、再び口を開いた。

「星野さん、…… 自分の立場が、わかってないようですね。…… それじゃ、この試合に負けたということが、どういうことなのか、今から、星野さんの身体に、きっちり叩き込んであげますね。」

 そう言うと、メイリンは、すっと立ち上がり、真紀の頭の真後ろの方へと移動した。そして、真紀の上半身を起こし、そのすぐ後ろに腰を下ろすと、真紀の首の下に左腕を回し、両脚で、真紀の身体を挟み込んだ。

 真紀が、メイリンに何をされるのかがわかったときには、すでに、真紀は、スリーパーホールドに、がっちりと極められていた。真紀はすぐに抵抗しようとしたが、ボクシンググローブをつけたままでは、首に回されたメイリンの腕に、手を引っ掛けることもできなかった。

「ちょっと準備しますから、それまで、気持ち良く眠っててくださいね。」

 真紀の耳に、メイリンの言葉が届くと、メイリンは、真紀の頚動脈のあたりを、さらに一段強く締め上げた。すると、わずかの時間の後に、険しかった真紀の表情がとろんとなり、やがて、真紀の全身から力が抜け落ちた。


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