真紀の控え室のドアを軽くノックする音が聞こえ、続けて、ドアの向こう側から、「グローブの装着をお手伝いに上がりました。」 という女性と思しき声がしたので、真紀は、「どうぞ。」 と答え、椅子から腰を上げた。すると、「失礼いたします。」 と言いながらドアを開けたのは、この夜の最初の試合で、里緒をキャンバスに沈めた夕香だった。

 Tシャツを着ている以外は、自分が試合をしていたときのものと同じコスチュームで、真紀の目の前に現れた夕香は、真紀に、椅子に腰を下ろすよう促し、テーブルの上に、手にしていた、十オンスの赤いボクシンググローブと、小さなバッグを置いた。そして、その中から、包帯のような形をしたもの取り出すと、真紀の前で膝立ちになり、「固さが気に入らないようだったら、遠慮せずに言ってくださいね。」 と真紀に告げ、真紀の左手に、バンデージを施し始めた。

 真紀は、『アイドル・ボクシング・スタジアム』 のときに、バンデージ巻きをしてくれるスタッフよりも、慣れた手つきで作業を進める夕香の顔を眺めていたが、しばらくすると、お互いに黙ったままでいることに、少しバツの悪さを感じるようになってきたので、真紀は、思い切って、夕香に話しかけてみることにした。

「えーと、…… 夕香さん、でいいのかな?」

「ええ。…… あ、私の名前をご存知だということは、試合をご覧になったんですね。」

「はい。…… 坂田さんから、セコンドは試合に出ている人たちで持ち回りだ、と聞いてるんですけど、今、こうしてお手伝いをしていただいてるということは、夕香さんが私のセコンドを担当されるんですか?」

「はい。…… もう、試合をご覧になったのでお分かりだと思いますが、セコンドと言っても、給水とか、マウスピースの扱いをする程度ですけどね。…… よろしくお願いします。」

「こちらこそ、よろしくお願いします。…… あのう、…… 夕香さんは、こういうお仕事を、頻繁にされていらっしゃるんですか?」

「んー、平均すると、ひと月かふた月に一度ぐらいですかね。東京で、こういうボクシングのイベントをやるときには、ほとんど声をかけていただいてるんじゃないかと思います。」

「そうですか。…… でも、こういう仕事って、辛くないですか? …… 肉体的にも、精神的にも。……」

「確かに辛いこともありますけど、…… 私、海外で勉強したいことがあって、その準備をしながらお金を貯めてるんですよね。…… このお仕事は、拘束される時間の割に、すごくいいお金になるので、言い方はあまり綺麗じゃないですけど、私にとっては、貴重な資金源なんです。特に、今夜は、普段の倍以上いただけることになってるんで、正直なところ、呼んでいただけることを、本当にありがたく思ってます。」

 そんな会話をしている間に、夕香は、真紀の両手にバンデージを巻き終え、真紀に感触を確認させると、真紀に、「マウスピースは、試合まで私が預かりますので、今のうちに用意していただけますか?」 と申し出た。そして、真紀が、この夜のために作っておいたマウスピースをバッグから取り出して夕香に渡すと、夕香はそれを一旦テーブルの上に置き、その横に置いてあったグローブを手に取って、真紀の拳に装着し始めた。


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「坂田さんは、試合の勝敗がだいたい決まったら、それが綺麗なKOに収まるように、女の子に演技してもらう、って言ってたんですけど、今日の夕香さんの試合も、そうだったんですか? …… 私には、あまりそんな感じには見えなかったんですが。……」

「ああ、そうですね。里緒さん、最後まで本気のようでした。里緒さんが最初にダウンをしたとき、私は、そこから里緒さんが受けに回ってくれるんじゃないかと思ったんですけど、その後も、里緒さんは、全力で向かってきたように感じました。」

「あ、やっぱり。」

「ええ。…… それでも、里緒さんの腕の振りは、もうかなり鈍くなっちゃってましたから、それほど苦労しなくても、対応できたんですけど、…… でも、まったく顔をガードしてくれなかったので、ちょっと困りました。それまでのダメージを考えると、あれ以上は、あまり顔を殴りたくなくって。…… で、里緒さんには申し訳ないですけど、おっぱいを攻撃して、里緒さんの動きを止めることにしました。」

「ああ、なるほど。そういうことだったんですか。…… ねぇ、夕香さん、里緒ちゃんが、KO負けの演技を拒んだのは、里緒ちゃんが、まだこういう仕事に慣れてないから、ってことなんですかね?」

「うーん、そうかも知れないですね。里緒さんは、こういう仕事をするのは、今夜が初めてのはずですから。…… でも、やっぱり、どうしても負けたくなかった、っていうのが、本当のところだったんじゃないかな。…… 負けて、これだけのお客様の前で全裸を晒す、っていうのは、AV女優さんみたいな、裸になることが本業の人でない限り、ものすごく抵抗のあることでしょうからね。まして、里緒さんは現役のグラビアアイドルですし、それだけは、どうしても嫌だったんじゃないか、と思います。」

 夕香がそこまで言い終わったときに、ちょうど、グローブのテーピングが終わった。そして、真紀が自分の拳同士をぶつけ合わせ、『アイドル・ボクシング・スタジアム』 て使っている十六オンスのものよりも、かなり小さく見えるボクシンググローブの感触を確かめていると、夕香は、「あと十分ぐらいで試合が始まると思いますので、それまでここでアップしててください。リング入場の時間が近づいたら、またお知らせに伺います。」 と、真紀に告げ、テーブルに置いてあった真紀のマウスピースを手に取って、真紀の控え室から出て行った。


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「大変長らくお待たせいたしました。本日のメインイベント、まず、赤コーナーより、星野真紀選手の入場です。」

 夕香の指示で、フロアから少し陰になっている位置で待機していた真紀は、入場のコールに、「よしっ!!」 と自分に気合を入れたあと、しっかりと胸を張って、リングに向かって歩いていった。そして、ダークレッドのロープを潜ると、真紀は、綺麗な薔薇の花が描かれたキャンバスの上で両腕を上げ、観客席からの歓声に応えた。

 引き続いて、メイリンの入場がコールされた。すると、真紀が入って来たのとは、フロアのちょうど反対側あたりにメイリンが現れた。そして、真紀と同じぐらいの歓声が飛ぶ中を、メイリンも黒コーナー近くのロープを潜り、リングの中に入ってきた。

 普段は、ブラウン系の色に染めることが多いが、この夜は、濡れたような、綺麗な艶の黒髪で登場したメイリンのコスチュームは、見事なまでに、黒一色に統一されていた。他色のトリムが一切入っていない黒いトランクスに、黒のブラ。ストライプなしの黒いシューズは、ストラップまで黒で、もちろん、拳を覆っているのも、真紀のものと同じサイズの、黒いグローブだった。その中にあって、眉のライン以外は、ほぼスッピンに近い状態で試合に臨む真紀とは対照的に、メイリンの唇にくっきりと塗られた真紅のルージュが、いかにも妖しげな雰囲気を醸し出していた。

「それでは、只今より、本日のメインイベントを行います。先に皆様にご案内いたしましたように、この試合は、ラウンド無制限の完全KO決着ルールで、敗者に課される罰ゲームは、『勝者の気が済むまで、勝者に奴隷扱いを受ける』 という、この世界では、敗者に最大の屈辱を強いるものになっております。…… 相手を打ち負かし、女王役を手に入れるのはどちらか。また、敗者として試合終了のゴングを聞き、究極の辱めを受けるのはどちらなのか。皆様、最後まで、存分にご堪能くださいませ。…… 尚、この試合は、特別に、当プライムローズのオーナー、杉山彩が、レフェリーを務めます。どうぞ、盛大な拍手を。」


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 彩がリングに入ると、リングアナウンサーが促した通り、大きな拍手と歓声が起こった。彩は、得意のセクシーポーズを周囲の観客に披露したあと、ニュートラルコーナーのある位置に向かい、それを背にして、長い腕を上段ロープに伸ばした。

 彩の紹介のあと、観客席は一旦静かになったが、リングアナウンサーが、「それでは、あらためて、この試合を闘う二人の選手をご紹介いたしましょう。」 と場内に告げると、再び観客席が賑やかになった。

「赤コーナァ〜〜〜、バスト88〜、ウエスト56〜、ヒップ87〜〜、アイドル・ボクシング・スタジアム・チャンピオン〜〜、星野ぉ〜〜〜真ぁ〜紀ぃ〜〜〜〜!!」

 コールを受けると、真紀は、あまりテレビカメラの前で見せたことのない、ちょっと怒ったような表情のままで、赤コーナーから一歩前に出て両腕を肩の高さに上げ、自分の力をアピールするポーズを取った。そして、口笛まで聞こえ始めた観客席を見渡しながら身体を一周させてから、赤コーナーに戻った。

「黒コーナァ〜〜〜、バスト86〜、ウエスト59〜、ヒップ86〜〜、エロ・スナイパァ〜〜〜、メイリン〜〜〜・オ〜ブ・ジョ〜〜イト〜〜〜〜イ!!」

 メイリンもまた、コールに合わせて黒コーナーを離れ、観客席に向けてポーズを取ったが、それは、真紀に比べると、力強さよりも、色っぽさをアピールするような感じのものだった。


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 メイリンの選手紹介が終わり、リングアナウンサーがリングの外へ出るのと同じタイミングで、ニュートラルコーナーに背中を凭れかけていた彩が、リングの中央に向かって歩き出し、真紀とメイリンに、こちらに来るようにと手招きをした。そして、それに呼応した二人が、ちょうどリングの真ん中で向き合うと、彩は、二人の顔を交互に見ながら、話を始めた。

「…… ちゃんとボクシングのルールに従って、試合を進めるように。相手を蹴ったり、倒れた相手を攻撃しちゃダメよ。…… それから、今夜は、このリングを初めてお客様にご披露する、大事な夜だし、素敵なお客様もたくさんいらしてるしから、あんまりみっともないファイトはしないでちょうだいね。…… 最後に、約束通り、負けたら、それなりの時間、相手の奴隷になってもらうわ。いいわね?」

 真紀は、彩が話を始めるときと、話し終わったときに、ちらりと彩と目を合わせただけで、あとはずっと、見下すような視線で、メイリンの顔を見つめていた。そして、メイリンも、やや上目遣いに、真紀の視線を受け止めていた。

 彩が話を終え、真紀とメイリンに、それぞれのコーナーへ戻るように指示すると、メイリンは、すぐにくるりと後ろを向き、真紀に背中を見せた。そして、真紀も、メイリンの背中に視線を当てたまま、身体の向きを変え、赤コーナーに向かって歩き始めた。

 真紀が歩きながら、赤コーナーの方に顔を向けると、そこには、Tシャツを脱ぎ、再び上半身裸で、赤コーナー近くのロープの外に立っている夕香がいた。真紀は、夕香の格好に少し驚いたが、メインイベントなら、このくらいの演出があってもおかしくないと思い直し、あまり気にしないことにした。

 真紀は、夕香のすぐ近くまでやってきて、そこで立ち止まった。そして、夕香に、口の中へ水を入れてもらい、軽く口の中をゆすぐと、その水を、夕香の差し出した小さなバケツに吐き出し、再び夕香に向かって大きく口を開け、マウスピースを咥え込んだ。

 真紀が口をもぐもぐさせてマウスピースの位置を細かく調整しながら、再び黒コーナー側に身体を向けると、メイリンも、夕香と同じ、グローブをつけていないだけで、あとは試合中と同じコスチュームの千夏からマウスピースを受け取り、赤コーナーの真紀の方に身体を向けた。

 やがて、「ラウンド・ワン」のコールがあり、試合開始のゴングが鳴らされた。


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 闇雲に攻撃を仕掛けて、ガードが甘くなったところに、交通事故のようなパンチをもらってしまうようなことは、絶対に避けなければならない。今夜はヘッドギアもしていないし、顔や頭への一打が、致命傷になってしまう可能性だって、決してゼロではない。……

 メイリンがどんなパンチを打ってくるのか、威力はどのくらいあるのか、自分の攻撃を、どう防御してくるのか。…… とりあえず、第一ラウンドは、ディフェンスに最大限の意識を置いた上で、適度に攻撃を仕掛ける程度にして、そのあたりを探ることに専念しよう。…… 真紀は、そんなことを考えながら、ゆっくりと赤コーナーを離れた。

 二人は、相手の左側へ左側へと回りながら、少しずつ相手との距離を詰めていった。そして、パンチが届くまであと少しのところまで来ると、メイリンは、身体の前に構えていた腕を少し上げ、黒いグローブで顔の下半分が隠れるほどの位置に構えた。

 真紀は、そのタイミングで、メイリンの顔に向かって、左のジャブを二発伸ばした。真紀のジャブは、真紀が意図した通り、メイリンのグローブを弾いただけだったが、メイリンは、ピクリと顔を背けるような反応を見せた。そして、すぐにバックステップを踏み、真紀から一歩遠ざかった。

 再び二人の距離が縮まったとき、真紀は、がっちりとガードを固めて、上半身をぐっとメイリンの方に近づけてみた。すると、メイリンは、やや力を込めて、左ストレートを一発打ってきた。真紀は、これをしっかりブロックし、メイリンが一歩踏み込んで、続けざまに放ってきた右フックを、スウェイでかわすと、素早く後ろに下がって、メイリンのパンチのレンジの外へ出た。

 相手の手の内を探る、ということでは、メイリンも、真紀と同じことを考えていたようで、第一ラウンドは、二人とも、一気に攻め込んで連打を仕掛ける、というシーンは、あまり見られなかった。

 第一ラウンド終了のゴングが鳴ると、二人は同時に、やや前傾させていた上体を起こし、身体の前に構えていた腕を下ろした。そして、お互いの相手の顔を見つめながら、身体の向きを変え、それぞれのコーナーに戻っていった。


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 ゴングと同時にロープを跨いでリングに入ってきた夕香に向かって、大きく口を開け、マウスピースを外してもらった真紀は、夕香の用意したストゥールに腰を下ろして、両腕を中段ロープに伸ばした。

 ゆっくりと深呼吸をしながら、真紀は、一ラウンドを費やしたリサーチの結果を振り返っていた。

 ときおりパンチを怖がる仕草を見せるものの、メイリンのディフェンスは、思ったより固い。一発、いいボディが入ったように思えたが、そのときも、それでガードが崩壊してしまうことはなく、すぐにクリンチに逃げて、流れを切ってきた。…… まぁ、そのくらいでなければ、これだけ厳しい罰ゲームが待っている試合を受けることもないだろう、と真紀は思った。

 ただ、真紀は、第一ラウンドで、メイリンが打ってきたパンチは、ストレート系、フック系のどちらも、わずかながら、肘が身体の内側に曲がりながら出てくる、いわゆる、『女の子パンチ』 の軌道になっていることにも気づいていた。これなら、パンチの威力は、大したことはないだろう。……

 次のラウンド、もう一段ギアを上げて、メイリンを攻める。…… でも、まだ油断は禁物。ディフェンスはしっかりと。…… 急ぐことはない。最終的に、あの女に、キャンバスに転がったまま、テンカウントを聞かせればいいのだ。……


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 坂田と藤原は、リングサイドに配置された、『特等席』 の輪から少し離れたところにあるテーブルから、真紀とメイリンの試合を眺めていた。

 第一ラウンドが終わり、ボクシンググローブで拳を覆った二人が、それぞれのコーナーに戻ると、藤原は、手にしたグラスから、ウーロン茶を一口すすった。

「無敵のメイリン様は、またずいぶん遠慮してるようだな。」

「ああ。…… しばらくは、手の内を晒さずに、星野の実力がどのくらいのものなのか、探ってる、ってとこだろう。」

「ふむ。まあ、そんなとこなんだろうが、…… しかしな、どうも俺には、メイリンが、お前が言うほど強いようには見えんのだ。…… こう、…… 星野に比べると、動きも少し女の子女の子してる感じだし、……」

 藤原が、次の句を継ごうとしたとき、坂田は、「そこだ。」 と口に出した。

「…… メイリンの凄いところは、強さだけじゃない。見ているものに、まったく不自然さを感じさせることなく、いくらでも、自分の実力を落としたフリができるんだな。…… やろうと思えば、最初の試合に出てた、夏江里緒とか、あのあたりの実力の子に、まったく歯が立たずにKOされる、みたいなことも、ごくごく自然に見えるように演じられるわけさ。」

「うーん、そう言われても、にわかには信じられんな。……」

「おまけにな、メイリンの強さは、彼女の外見からはまったくわからんのだ。…… 優秀なボクサーであれば、例えば腕の筋肉であるとか、腹周りの鍛え具合とかが、どうしたって見た目にはっきり出てくるのが普通なんだが、メイリンの場合、見た目は、どこにでもいる、か弱い女性そのものなんだ。これもメイリンの凄いところだと、俺は思ってる。…… まぁ、今の時点で、お前が俺の話を信用できないのも、無理はないだろう。」

 坂田がそう言い終わったところで、セコンドアウトのコールがかかった。藤原は、まだ少し納得がいかなそうな表情のまま、「うーむ、……」 と小さな唸り声を洩らすと、視線をリングの方に向け直した。


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 夕香が差し出したマウスピースを咥え込んだ真紀は、第二ラウンド開始のゴングと同時にコーナーを離れ、インタバルの間に考えていた通りに、前のラウンドよりも積極的に、メイリンに攻撃を仕掛けていった。これに対し、メイリンは、あまり、迎え撃つという感じではなく、どちらかと言うと、ガードをしっかりと固めて、真紀の攻撃を凌ぐことにウエイトを置いているようだった。

 第二ラウンドが始まってから、一分ほどが過ぎたとき、レフェリーの彩が、クリンチ状態の二人にブレイクを命じ、一旦二人を引き離した。そして、そのあと、二人の距離が再び縮まってくると、珍しくメイリンが自分から先に手を出してきた。

 メイリンは、真紀の顔をめがけて、右、左と、スイング気味のパンチを放ってきた。真紀は、一発目をグローブでブロック、二発目をダッキングでかわし、すぐに身体を起こして、右フックを返した。

 メイリンは左腕を頭を覆う位置に戻そうとしたが、その前に、真紀の右フックがメイリンの頬の辺りにヒットし、メイリンの顔が大きく横に捻じれた。すると、メイリンの腰が一瞬落ち、メイリンは斜め後ろに大きくよろけた。そして、メイリンの形のいいお尻が、綺麗な薔薇の花がプリントされたキャンバスの上で弾むのと同時に、彩が二人の間に割って入った。

「ダウン! ニュートラルコーナーに下がって。」

 観客席のざわめきは、この試合の最初のダウンシーンに、一気に歓声に変わった。

 彩の指示に従って、ニュートラルコーナーに退いた真紀は、ダウンを奪ったパンチに、あまり手応えがなかったことを、少し不思議に感じていた。

「…… ワン、…… トゥー、…… スリー、…… フォー、……」

 あの程度の当たりで、倒れちゃうものなのかなぁ。…… メイリンへのダウンカウントが進む間、真紀は、そんなことを思っていた。しかし、良く考えてみれば、パンチが効く効かないは、どれだけ強く当たったかということと、完全に一致するものではない。当たり所さえ良ければ、軽く振ったパンチでも、相手が倒れることもあるだろう。…… 真紀は、そう思い直し、とりあえず、メイリンから奪ったダウンを奪ったことに満足することにした。


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 メイリンの顔が大きく横に曲がり、メイリンの腰がガクンと落ちたとき、坂田と藤原は、ほぼ同時に、「うおっ。」 と、小さな驚きの声を洩らした。

 尻餅をついたメイリンに向かって、彩がダウンカウントを始めると、藤原は坂田の方に、ちらりと視線を向けた。

「おいおい、無敵のメイリン様は、本当に大丈夫なのかい?」

 そう言われて、坂田も藤原の方に視線を遣ったが、またすぐに、リングの方へと顔を向け直し、落ち着いた口調で、「ああ、大丈夫だろう。」 と答えた。

「本当にそうなのか? お前もずいぶん驚いてたみたいじゃないか。お前も、まさか、メイリンがダウンするとは思っていなかったんじゃないのか?」

「…… 驚いたのは確かだが、…… そういう意味じゃないんだ。」

「じゃあ、…… 何なんだ?」

「…… スリップ・アウェイ。…… パンチが当たる寸前に顔を捻ることで、パンチのダメージを軽減させる、極めて高度なテクニックだよ。しかも、本当にギリギリのタイミングまで待ってやがる。…… まったく、あんな小技をどこで覚えてくるんだか。……」

「えっ? ってことは、メイリンが、効いたフリをして、わざとダウンしてる、って言うのか?」

「多分な。…… 今の、星野のパンチな、元々は、もっとメイリンの首の軸の方に向かって飛んできてるんだ。それを、首を少しだけ後ろに引いて、顔を回転させることで衝撃を吸収できるように微調整している。…… 一瞬の出来事だから、俺も100パーセント自信があるわけじゃないが、多分そういうことだと思う。…… 俺もこの角度から見てるから、ようやっとわかったぐらいだし、リングサイド席に陣取ってる人間の中で、このトリックに気づいたヤツは、恐らく誰もいないだろう。……」


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 メイリンは、キャンバスに腰を下ろし、大きく股を広げた格好で、彩の進めるダウンカウントを聞いていたが、やがて、ゆっくりとキャンバスから腰を上げ、ダウンカウントがエイトまできたときには、両腕をだらりと垂らした状態で、彩の前で直立していた。そして、彩が、やや俯き加減になっているメイリンの顔を覗き込むようにして、大丈夫かと尋ねると、メイリンは、小さく二度ほど頷き、胸の前にグローブを構えた。

 彩が、試合続行の合図をすると、真紀はすぐにメイリンとの間合いを詰め、メイリンをロープ際に追い込んだが、メイリンはすぐにクリンチに逃げてきた。そして、ブレイクが命じられ、二人が一旦引き離されると、真紀は再びメイリンに向かって突進した。

 メイリンは、すぐにガードを固め、顔をグローブで覆った。そのグローブ越しに、真紀がパンチを二発、力一杯叩き込んだあと、真紀が三発目のパンチを振るったとき、メイリンの上体がすっと沈み込み、真紀のパンチはメイリンの頭の上を通り過ぎた。

「何か来るっ!」

 パンチをかわしたメイリンの動きの速さと、沈み込んだ上体が自分の右側に流れていったことに、試合が始まってからそれまでの、メイリンの動きとは、何か異質の臭いを感じ取った真紀は、瞬間的に反応し、両腕を引き上げて、顔の右側全面を右手のグローブで覆った。

 グローブに隠れた真紀の視界の外で、メイリンの、鉤形に曲がった左腕が、鋭く振り切られ、黒いグローブが、真紀の右脇腹にめり込んだ。

「ぐぅっ!……」

 思わず小さな呻き声を洩らした真紀は、すぐに身体をメイリンに寄せ、メイリンの頭を抱え込んで、クリンチに逃げた。


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 彩にブレイクを命じられたあと、意識的にメイリンから遠く距離を取った真紀は、両腕をだらりと垂らして、その場で大きく呼吸してみた。すると、パンチをもらったときの衝撃の割には、息苦しさを感じることもなかったし、痛みもそれほど感じなかった。

「今のボディ、大したダメージはないみたいだけど、…… この女、意外と弾を隠し持ってるかも知れない。…… さっきのダウンも、タイミング良く当たっただけで、あまり、効いてる、っていう感じでもないし、…… やっぱり、もう少しディフェンスに意識を置いて、試合を進める必要があるのかな。……」

 真紀は、そんなことを考えながら、両腕を再び胸の前に構えて、メイリンとの距離を詰めていった。

 その後、しばらくの間、真紀は、二発、三発とパンチを打ったあと、それ以上に、メイリンを深追いするのを意識的に避けていた。しかし、メイリンは、打たれては後ろに下がり、打たれては後ろに下がりしているだけで、真紀には、あまり反撃をしてくる気配が感じられなかった。

 ラウンドの終わり近くになる頃には、真紀は完全に接近戦の封印を解き、どんどん前に出て、後退を続けるメイリンを追い回していた。そして、真紀がメイリンをニュートラルコーナーに追い詰め、身体を丸めてガードを固めるメイリンに、力一杯振ったフックを三発ほど浴びせたところで、第二ラウンド終了のゴングが鳴った。


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 続く第三ラウンド、最初の何十秒かの間、メイリンは、真紀を攻撃する気配を見せていたものの、それを過ぎると、前のラウンドの終盤のように、完全に防戦一方となってしまった。そして、ラウンド開始から一分と少しが経ったとき、真紀は、またしても、メイリンを赤コーナーに追い詰めていた。

 背中をコーナーマットに持たれかけるようにして、身体を丸め、グローブで顔をがっちりと覆っているメイリンに、真紀が連打を浴びせると、徐々にメイリンの膝が曲がり始め、ついに、メイリンのお尻が、キャンバスにぺたんと落ちた。

「ダウン! …… ワン、…… トゥー、…… スリー、……」

 メイリンから離れた真紀は、やや頬を紅潮させ、両腕に力こぶを作るポーズで、観客席をぐるりと一回り眺めながら、ニュートラルコーナーへと歩いていった。

 キャンバスにお尻をついて、ロープ下段の、赤いコーナーマットに背中を凭れ掛けていたメイリンは、カウントセブンで腰を上げ、ファイティングポーズを取った。

 まだ、少し殴り足りない気もするが、今日の試合は、勝つことが絶対条件。ここで一気に勝負を決めてやる。…… 彩が、メイリンの戦意を確かめ、試合再開を命じると、真紀は、飛び出すようにしてニュートラルコーナーを後にし、メイリンに襲い掛かった。


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 第三ラウンド残り30秒、坂田と藤原に背中を見せるような位置で、キャンバスにお尻をべったりとつけ、両腕を下段ロープに両腕をかけたメイリンは、彩に、この夜三度目となるダウンカウントを向けられていた。

「…… フォー、…… ファイブ、…… シックス、……」

 やがて、メイリンは、ちょうどカウントアウトを免れるタイミングで、キャンバスから腰を上げ、彩の前でファイティングポーズを取った。

「…… なあ、坂田。これで三度目のダウンだぜ。…… まぁ、メイリンが負けても、別に、俺が何か損する、ってわけじゃないが、…… 本当に大丈夫なのか?」

 藤原の問いかけに、坂田は、落ち着いた、自信に満ちた声で答えた。

「ああ、大丈夫だ。メイリンがダウンするのは、これが最後だろう。」

「ほう。ずいぶん自信があるようだな。…… 何か根拠でもあるのか?」

「ああ。実は、このラウンドの、一回目のダウンのときに、何となく、メイリンが何をしようとしてるのかがわかってな。いつになるかまではわからないが、メイリンは、もう一度、今の位置あたりで、最後のダウンをするんじゃないかと思ってた。予想的中、ってわけだな。」

「おいおい、位置までわかるってのか?」

「ああ。…… このラウンドが終わったら、そこらへんを、ちゃんと解説してやる。」

「…… わかった。…… しかしなぁ、俺には、メイリンが演技しているとは、どうしても思えんのだがなぁ。…… だいたい、試合が始まってから今まで、まるっきりいいとこなしだろう。」

「いや、そうでもない。…… ヤラレっ放しに見えるだろううが、本当にもらっちゃいかんパンチは、まだ一発ももらっちゃいない。かわすなり、ブロックするなり、当たる場所をちょっと変えるなりして、全部うまくやりすごしてる。…… それにな、あの女は、もう、星野を潰すための手も、ちゃあんと打ってるよ。」

「何だと?」

「そろそろ効果が現れる頃じゃないかと思ってたが、どうやら、そんな感じだな。……まぁ、それも、このラウンドが終わったら教えてやる。…… それまで、星野の顔をよく見ていろ。ヒントぐらいは見つかるはずだ。」


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