ある程度覚悟していた交通渋滞にまったく遭遇しなかったため、坂田に伴われた真紀は、予定よりも三十分以上も前に、まだ夜の帳が下りたばかりの六本木に到着した。二人は、周囲の建物に比べると多少古めかしく見えてはしまうものの、それが返って高級な雰囲気を醸し出している、とあるビルに足を踏み入れた。

 坂田は、階段でワンフロア分地下に降り、ビル内の通路を大回りして、『会員制クラブ・プライムローズ 通用口』 と書かれたドアを、軽くノックした。すると、ドア越しに 「はい。」 と返事があり、坂田が自分の名を告げると、静かにドアが開き、二十代なかばほどの、品のいいロングドレスを着た女性が現れた。

「いらっしゃいませ。お話は店長から伺っております。 あ、星野さんもご一緒ですね。どうぞこちらへ。」

 坂田と真紀は、二人を店内に招き入れた女性のあとについて歩いていった。しばらくすると、二人の目の前に、プライムローズの営業フロアが広がった。営業フロアの中央には、三本のロープに囲まれ、キャンバスに赤い薔薇の花が描かれたリングが、ぽっかりと浮かび上がっており、それを一目見た坂田は、思わず、「ほう。」 と声を上げた。

 そのリングは、一般的なプロレスや、ボクシングの興行で使用されているものとは違い、床の上にそれなりのクッションを敷くのに最低限必要であろう、床から十五センチほどの高さにキャンバスが設置されていた。また、そのリングをぐるりと囲むように、沢山の椅子とテーブルが配置されていたが、まだ時間が早いということもあり、その椅子に腰を下ろしている客は、まだ一人も居なかった。

 坂田と真紀は、リングサイドを埋めた席から少し離れた、それでもリングが完全に見通せる場所に置かれた小さなテーブルに誘導された。真紀が、テーブルの傍に置かれた二つの椅子の一つに、シューズや替えの服が入った大き目のバッグを下ろすと、二人を案内した女性が、真紀に話しかけてきた。

「あ、星野さんには、控え室として、個室を用意してあります。そのバッグだけでも、そちらに移しておきません? よろしければご案内いたしますが。……」

 彼女の申し出に、真紀は少し迷った仕草を見せたが、すぐに、「あ、じゃぁ、そうさせていただきます。」 と答え、再び彼女の後ろについて歩き出した。

 真紀と離れると、坂田は、無人のリングサイド席を通り抜けて、リングのすぐ横へとやってきた。そして、コーナーマットやロープ、キャンバスなどの感触を確かめ、満足そうな表情を浮かべた。

 すると、彫りの深い、端正な顔立ちの、黒のタキシード上下を上品に着こなした背の高い男性が、坂田の方に歩み寄ってきた。

 その男に、坂田が片手を上げて軽く挨拶をすると、その男も、同じような仕草で、坂田に挨拶を返した。

「よっ、藤原。久しぶり。」


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 『プライムローズ』 は、その界隈では老舗の部類に入るナイトクラブだ。オープン当初から十五年ほどの間、オーナー兼店長として店を仕切っていた前オーナーが、ちょうど六本木ヒルズが完成するのと同じ頃、年齢的に長時間の立ち仕事が重荷になってきたのを理由に、当時、彼が、芸能界の中で一番に目をかけていた、日本一のセクシー女優、杉山彩に、店の権利を譲り渡した、という経緯を経て、現在に至っている。

 女優として忙しい毎日を送っている彩に代わって、店の切り盛りをする人物が必要だと考えた前オーナーは、当時、新宿のナイトクラブで雇われ店長をしていた、藤原という男に目をつけた。藤原が店長をしている新宿の店に何度か通った彼は、藤原の接客術と、商売人としての感性に確かなものを感じ、その店から藤原を引き抜いて、自分の後釜として、『プライムローズ』 の店長に据えた。以降、『杉山彩の店』という新しい看板と、ナイトビジネスに携わる人間として、類まれなる才能を持つ藤原の手腕により、『プライムローズ』 は、前オーナー時代の顧客を一人たりとも失うことなく、相変わらず、連日多くの客で賑わっていた。

 プライムローズの人気を支える要素の一つとして、定期的に行われる、さまざまなショーの存在があった。それは、実力のある歌手のミニコンサートであったり、華麗なテクニックをナマで見ることができるマジックショーであったり、ときには、魅力的なダンサーによる、エロティックなものであったりした。店の造りもそれに対応できるように、ショーの内容に合わせて、いろいろな形のステージを設営できるようになっていたり、出演者のための控えスペースも充実したものになっていた。

 そしてもう一つ、表向きは店の休日に、一部の常連客のみを対象にして行われる、過激なショーも、月に二度ぐらいのペースで行われていた。その中には、オーナーである彩が女王役を務めるSMショーなどもあり、それを堪能することができる、『選ばれた招待客』 のリストに載せてもらうために、足繁く、プライムローズに通う客の数も、少なくはなかった。

 坂田と、プライムローズの店長である藤原は、関東にある某一流大学経済学部の同期生で、専攻科目からゼミまで一緒で、言わば、『同じ釜の飯を食った仲』 だった。二人とも、サークル活動などの団体行動を嫌い、どんな相手とも一定の距離を置くいう、人付き合いのスタンスも一緒で、それが理由なのか、二人は変に気が合った。親友と呼ぶほど近い関係ではないが、何かあったときにはすぐに心を通じ合わせることができる、坂田と藤原は、学生の頃から、そんな間柄だった。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


「たまの休みに店を開けさせちまって、すまんな。」

「気にすんな。むしろ、こういう、滅多に見ることの出来ないイベントネタを提供してくれるのは、うちとしては大歓迎だ。…… それにしても、お前の方で招待した客の顔ぶれはすごいな。金の臭いがぷんぷんするぜ。いったいどうやって、これだけの客をかき集めた?」

「まあ、…… 世の中には物好きが山ほどいるってことだ。…… それはそうと、ずいぶん立派なリングじゃないか。すごくしっかりした造りだし、ちょっと小ぶりで、店の床とキャンバスの高さの差がほとんどないから、すごくいい感じの臨場感が出てる。床のクッションも申し分ないし、これだったら、プロレスショーみたいなものもできるだろう。キャンバスの絵も店のイメージそのままで、すごく綺麗な仕上がりだ。いや、大したもんだよ。」

「そう言ってもらえると、彩も喜ぶだろう。…… いやな、彩がさ、お前の方の招待者リストを見て、これだけのお客さんが来るなら、ちゃんとしたものを作ろう、って言い出してな。ポストをしっかり固定できるように、絨毯剥がして、工事までさせたんだぜ。」

「ほう。そりゃまた、ずいぶんな熱の入れ方だな。…… それと、コーナーが赤青ではなく、赤黒になってるようだが、……」

「ああ、それも彩のアイデアだ。別に公式な試合をするわけじゃないし、別に、赤青にこだわんなくてもいいんじゃないか。それに、赤青よりも、赤黒の方が、店のコンセプトに合ってるし、…… とか言ってたっけかな。でも、正直、これだけ見栄えのするものができるとは思わなかった。それなりに金はかかったが、いい買い物だったと思ってるよ。」

「そうか。…… いや、これだけのものを用意してもらえると、こちらとしても有難い限りだ。そう言えば、彩ちゃんはもう来てるのか?」

「ああ。豪華な顔ぶれの来客に備えて、只今念入りに化粧中だ。…… しかし、こんなに気合の入ってる彩を見るのは、結構久しぶりだ。女の子同士が本気で殴り合う、そういう場を仕切れるのが嬉しくてたまらんらしい。Sの血が騒ぐんだとさ。」

 藤原は、そう言って、楽しそうに笑った。

「じゃ、そろそろお客さんが来る時間だし、準備せにゃならんこともあるんで、一旦失礼する。酒でも食いモンでも、欲しいものがあったら遠慮せずに言ってくれ。」

「わかった。よろしく頼む。」

 そんなやりとりのあと、藤原がプライムローズ正面玄関近くの従業員スペースへと消えると、坂田は自分に宛がわれたテーブルへと戻っていった。そして、ほどなく、真紀も、坂田の居るテーブルへ戻り、椅子に腰を下ろした。

 ちょうどその頃から、プライムローズには、次々と客が集まってきた。真紀は、その顔ぶれを見て、目を丸くした。真紀の知っている芸能人の数も一人や二人ではなく、所属の看板グラビアアイドル二人を伴った、某大手プロダクションの社長の姿もあった。それ以外にも、来客すべてがいかにも上品で、かつ一目でお金持ちとわかる衣装、風貌であったし、客の二割以上が女性であったことも、真紀を大いに驚かせた。

 真紀がプライムローズに到着してから小一時間ほどの後、リングサイドを埋めた椅子のほぼすべてが埋まると、少し派手な黒のタキシードを着た男性がリングの中に入り、天井から降ろされてきたマイクを手に取った。

「レディース・エンド・ジェントルメン。…… プライムローズにようこそおいでくださいました。それでは、皆様お待ちかねの、魅力的な美女によるボクシング、只今よりスタートいたします。どうぞ存分にご堪能くださいませ。」


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


「黒コーナァ〜〜〜、バスト98〜、ウエスト58〜、ヒップ85〜〜、Jカップグラビアアイドル〜〜、夏江ぇ〜〜〜里ぃ〜〜緒ぉ〜〜〜〜!!」

 この夜のオープニングマッチ、ピンク地に水色トリムのトランクス、同じカラーコンビネーションのシューズというコスチュームで、黒コーナーに待機していた里緒は、リングアナウンサーのコールに合わせて、黒いコーナーマットに凭れかけていた背中を起こし、リングの中央に向かって歩み出ると、世の巨乳ファンの目を釘付けにしてきた爆乳を惜しげもなく晒し、十二オンスのグローブをつけた両腕を上げて、周囲から飛んでくる歓声に応じた。

 レフェリーに呼ばれ、リングの中央で相手と対峙して、試合前の注意を受けているとき、里緒は、それまでと同じように、少し不貞腐れているようにも見える、闘志と緊張感の入り混じった感じの、強張った表情のまま、相手の顔をじっと見つめていた。

 里緒よりも先に、『宮本夕香』 のリングコールを受けた、この夜の里緒の相手となる女性は、白地に赤トリムのトランクスに、赤白のコンビのシューズという、かなりシンプルな色合いのリングコスチュームだった。彼女の顔立ちは、タレントの優香に少し似ていて、それで、韻の同じ名前を使っているのかな、と真紀は思った。彼女の身長は里緒と同じぐらいで、里緒ほどではないものの、全体的な身体の線の細さに比べると、豊かで形のいい乳房をしており、ちょうど真紀をワンサイズ小さくしたような印象のボディラインをしていた。

 里緒と夕香が一旦それぞれのコーナーに戻ると、彼女たちのセコンド役と思しき女性が、二人にマウスピースを咥えさせた。セコンド役の女性は、おヘソが見える程度に丈の短いTシャツを身につけていたが、下半身は、試合に臨む二人と同じようなトランクスとシューズだった。真紀が、「今、セコンドをしている人たちも、これから試合をするんですか?」 と坂田に尋ねると、坂田は、「うん。セコンドは、試合をする女の子が、持ち回りでやることになってる。」 と答えた。

 やがて、リングの外に待機しているリングアナウンサーから、「ラウンド・ワン」 がコールされ、引き続いて、試合開始のゴングが鳴らされた。

 二人は、両腕を胸の前にしっかり構えて、それぞれのコーナーを離れた。そして、夕香をパンチの射程に捉えると、里緒は、夕香の顔をめがけて、右、左と、腕を振った。夕香は、上体をやや斜めに曲げながら、里緒のパンチを、何とかグローブでブロックした。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 里緒と夕香の試合は、第二ラウンドを終えたあとのインタバルまで来ていた。

 ここまでは、手数では圧倒的に里緒が優っていたし、第二ラウンドの中盤には、里緒は、夕香からダウンを奪っていた。しかし、お互いのコーナーに戻って、ストゥールに腰を下ろし、次のラウンドに備えて身体を休めている二人を眺めている真紀は、最終的にこの試合の勝者となるのは、夕香の方ではないかと感じていた。

 真紀には、積極的に夕香を攻撃しているものの、里緒がパンチを出すときの腕の振りや、相手の追い方に、かなり無駄な動きがあるように思えたし、夕香からダウンを奪ったときも、パンチが有効打となった、と言うよりも、里緒が夕香を押し倒した、という印象の方が強かった。そして、第二ラウンド終盤には、早くも疲労が溜まってきたのか、それまでに比べて、里緒の手数が少しずつ落ちてきていたし、守勢に回ることの多かった夕香にしても、里緒の手数の割には、それほどダメージを受けている、という感じではなかった。

 次の第三ラウンド、あるいはその次のラウンドあたりで、里緒の疲労が限界に近づいて、自分から積極的に攻撃を仕掛けられなってしまうと、そのあたりから、戦況は夕香の方に大きく傾くのではないか、もしそうなったら、里緒は劣勢を挽回することができず、そのまま敗者として、試合終了のゴングを聞くのではないか、と、真紀は思った。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 インタバルの間にいくらか体力を回復した里緒は、第三ラウンドが始まると、再び、たわわに実った大きな乳房をぶるんぶるん揺らしながら、夕香に向かってパンチを振るい始めた。

 しかし、真紀の予想通り、第三ラウンドの後半あたりから、里緒の動きが明らかに鈍り始めた。それに伴い、手数もがくんと落ち、ラウンドの終わり間際になる頃には、里緒は、足もなかなか前に出て行かない状態に陥っていた。そして、次の第四ラウンドに入ると、じわじわと前に出て攻撃を仕掛けてくる夕香に対して、ときおり反撃を見せるものの、ロープやコーナーマットを背にした里緒が、クリンチに逃げるシーンが目立つようになってきた。

 そして、第五ラウンドが始まって三十秒ほどが経ったとき、夕香に攻め込まれ、里緒はまたロープを背にしていた。必死に腕を振り回して応戦を始めたものの、がら空きになった顔面に二発、三発とパンチを浴びると、里緒は、大振りを続けている身体の平衡を乱し、ついには、潰れるように、前のめりにキャンバスに倒れた。

「ダウン! …… ワン、…… トゥー、…… スリー、……」

 里緒は、うつ伏せの体勢のまま、しばらく、はあはあと大きな息を吐き出していたが、やがてゆっくりと身体を起こし、立ち上がった。そして、カウントをエイトで止めたレフェリーに向かってファイティングポーズを取った。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 夕香の方もかなり疲れているのか、試合が再開されても、夕香には、里緒を一気に攻め落とすという勢いは感じられなかった。

 しかし、里緒がダウンを喫してから一分ほどが経ち、クリンチがブレイクになったあと、二人の距離がパンチの届く範囲までに縮まると、夕香は再び、里緒に向かって、パンチを出し始め、里緒も、最後の力を振り絞って腕を振り回し始めた。すると、夕香は、やや上体を沈め、完全にノーガードの体勢になっている里緒の胸に、アッパー気味の左フックを打ち込み、そしてもう一発、里緒の豊かな胸の膨らみに、右拳を覆っている赤いグローブをめり込ませた。

 小さな悲鳴を上げた里緒は、大きな乳房を覆うようにして、斜め後ろへと逃げたが、それにより、里緒は、ニュートラルコーナーに追い込まれることになってしまった。そして、夕香が里緒を追って里緒の前に立ち塞がり、腕を振るう構えを見せると、里緒は、乳房を抱え込むようにして、黒いグローブで顔を覆い、身体を丸めた。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 夕香は、顔を覆っている里緒のグローブ越しに二発パンチを当てたあと、里緒のわき腹に一発、さらに、渾身の力を込めたボディフックを、里緒のお腹にヒットさせた。すると、里緒は、「うぐっ」 と呻き声を洩らし、キャンバスに両膝をついた。そして、マウスピースを吐き出すと、そのままキャンバスに横倒しになった。

「ダウン! …… ワン、…… トゥー、…… スリー、……」

 レフェリーのカウントが進んでいっても、里緒は、顔いっぱいに苦悶の表情を溢れさせ、両腕で乳房とお腹を抱えるようにして、わずかにのたうつだけだった。夕香は、そんな里緒を、少し悲しげな目で見下ろしながら、里緒が倒れているのとは反対側のニュートラルコーナー近くを、うろうろと歩き回っていた。

「…… エイト、…… ナイン、…… テン!! ノックアウト!!」

 レフェリーのKOコールに続いて、試合終了を告げるゴングが乱打された。リングの中央へと歩み出て、勝者としてレフェリーに右手を掲げられた夕香は、少し照れくさそうに勝者のポーズを取った。

 その後、夕香が一旦赤コーナー戻り、しばらくすると、レフェリーが、里緒の股間から剥ぎ取ったトランクスとアンダーウエアを、夕香に渡しに来た。それを受け取った夕香は、再びリングの中央へと歩を進めると、その 『戦利品』 を右手のグローブで掴み、高々と両腕を上げて、試合終了直後のときよりも堂々と勝者のポーズを取り、リングを囲んだ観客席からの歓声に応えた。

 夕香がリングを降りると、この試合のセコンド役を務めていた二人の女性が、全裸のまま放置されていた里緒のそばに歩み寄り、グローブで顔を隠すようにして泣いていた里緒を、抱きかかえるようにして立たせると、里緒の腰に小さなタオルを巻いて、里緒の股間を隠した。そして、里緒は、そのまま黒コーナーに戻ってロープをくぐり、セコンド役の二人の女性に添われたまま、泣きながら控え室へと帰っていった。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 里緒と夕香の対戦のあと、もう一試合が終わると、真紀は、坂田から、そろそろ準備を、と指示を受け、自分用に宛がわれた控え室へと向かった。すると、それと入れ替わるように、藤原が坂田の居るテーブルにやってきて、真紀が使っていた椅子に腰を下ろし、手にしていたグラスの中身をうまそうに飲み干した。

「こんなとこで、仕事サボってていいのか?」

「いやぁ、彩がな、『せっかく坂田さんが来てるんだから、あなたはゆっくりしてていいわよ。』 って言うんでな。」

「そうか。…… 彩ちゃんにも気を遣わせちまったかな。」

 すると、藤原は、笑みを浮かべながら、小さく横に首を振った。

「いや、多分、今夜の仕切りを全部自分でやりたい、俺にあんまりウロチョロして欲しくない、ってのが本音なんじゃないかな。…… お客さんへの挨拶もあらかた終わってるし、ま、ここは、彩の言うことを素直に聞いて、おとなしくしてるのが利口だろう。俺もこういう見世物は嫌いじゃないから、今夜は、ここでゆっくり見物させてもらうことにするよ。…… ところで、メインイベントのレフェリーを彩がやるっていう話だけど、あんな素人で、本当に大丈夫なのか?」

「まぁ、本職がリングのすぐそばで見てることだから、問題ないだろう。それに、彩ちゃんがレフェリーをしてくれれば、絵的に締まるしな。有難いことだ。」

「ふむ、そんなもんか。……」

 そう言ったあと、藤原は、坂田のグラスがほとんど空になっているのを見つけ、「お前、仕事中は飲まない主義だったよな。」 と坂田に尋ねた。坂田が、「ああ。」 と答えると、藤原は、近くにいたフロアレディの一人を捕まえ、ウーロン茶を二つと、フルーツの盛り合わせを一皿持ってくるように伝えた。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 真紀は、この夜の試合用に与えられた、『アイドル・ボクシング・スタジアム』 で真紀が使っているものと同じ色合いの、紅色ベースにコールドのトリムに仕上げられたリングコスチュームを、控え室のテーブルの上に広げ、しばらくの間、それを眺めていた。やがて、椅子から腰を上げた真紀は、「今日は絶対に負けない。あの女に地獄を見せてやる。」 と、自分に気合を入れ、着替えを始めた。

 真紀は上半身裸になり、リングコスチュームの一つであるブラに、首と腕を通した。胸元のカットはかなり大きかったが、真紀の身体にぴったりフィットするサイズだったので、かなり動き回っても、乳房がこぼれ出てしまう心配はなさそうだった。ただ、ほんの少しではあるが、乳首が浮き出てしまうほど、真紀が予想していたよりも、生地は薄手のものだった。それに気づいた真紀は、一瞬顔を曇らせたが、まあ、これでも、前の試合に出る女の子に比べれば、破格の待遇かな、と真紀は思った。

 その後、小さなアンダーウエアのボトムの上にトランクスを穿き、シューズの紐をきっちりと結ぶと、真紀は、控え室に置いてあった大きな鏡に、自分の全身を映してみた。

「あっ、ちょっとかっこいいかも。……」

 自分用のリングコスチュームに好印象を持った真紀は、鏡に映った自分の姿を見ながら、少しの間、シャドーボクシングに興じた。一旦動きを終えた真紀は、もう少し身体を動かしておいた方がいいかな、とも、思ったが、坂田に、「頃合を見て、バンデージとグローブの装着に人を遣るから、着替えだけ済ましておいてくれ。」 と言われたのを思い出した真紀は、その人物が来てからでも遅くないか、と思い直し、用意されていた大きなバスローブを羽織って、再び椅子に腰を下ろし、そのときを待つことにした。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 リングの上では、前座格の最後の試合が、まもなく第四ラウンドを迎えようとしていた。この試合もそろそろKO劇が見られるのではないかという期待から、リングを取り囲む観客たちのボルテージも、かなり上がってきていた。

 セコンドアウトのコールと同時に、シルバーのトランクスとシューズを身に着けた、日本人としてはすこし浅黒い感じの、しかし綺麗な肌の色をした女性が、黒コーナーのストゥールから、すっと立ち上がった。身長は真紀と同じぐらい、栗色に染められた、まっすぐに伸びた長い髪、スレンダーという表現がぴったりの細めのボディラインに、形のいい、やや大きめなバストのこの女性は、細面の顔に少し意地の悪そうな笑みを浮かべ、この夜の相手を見つめた。

 彼女から少し遅れて、赤コーナーの、青白コンビのリングコスチュームで試合に臨んでいるブロンド美人も、やや気だるそうに、ストゥールから腰を上げた。彼女の身長は、相手の浅黒肌娘よりも七、八センチほど高く、出るところは出てへっこむところはへっこんでいる、見事なプロポーションで、しかも、初めの試合に出た里緒よりも大きい、見事な乳房を湛えていた。

 ゴングが鳴り、第四ラウンドが始まると、浅黒肌娘は、かなり振りの鈍くなってきたブロンド娘のパンチを簡単にかわし、彼女をロープ際に追い詰めた。そして、まったく手の出なくなった彼女に連打を浴びせ、最後に左フックを彼女のボディに叩き込んで、あっさりと、この試合二度目となるダウンを奪った。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 ブロンド娘がカウントエイトで何とか立ち上がり、試合が再開された。すると、浅黒肌娘は、ブロンド娘から少し離れたところで立ち止まり、彼女に、「さあ、打ってらっしゃい」 とでも言わんばかりに、手招きをした。相手の挑発に、ブロンド娘は、顔を歪めながら、ぶんぶんと両腕を振り回したが、放った五発のパンチはすべて空振りに終わった。

 彼女の手が止まると、浅黒肌娘は、逃げるようにバックステップを踏むブロンド娘を、黒コーナーへと一気に追い込んだ。退路を失ったブロンド娘は、先のダウンの直前と同じように、グローブで顔を覆い、身体を丸めて防御体勢を取った。すると、浅黒肌娘は、顔をガードしているブロンド娘のグローブを軽く何発か叩いたあと、少し重心を落とし、彼女の肘の両脇からはみ出してしまっている胸の膨らみに、嬲るようなパンチを当て始めた。

 ブロンド娘は、乳房への攻撃を嫌がるように、身体を捩ったり、小刻みに腕の位置を動かしたりしていたが、浅黒肌娘は、じっくりと彼女の動きを読みながら、あらゆる方向から、正確にパンチをヒットさせ続けた。そして、二十発近いピンポイントパンチがブロンド娘の立派なバストを波打たせたころには、彼女の意識は、何とか胸をカバーしたいという部分にウエイトが偏り、グローブの位置が顔から離れてしまっていた。

 浅黒肌娘は、不意に上体を起こし、ブロンド娘の頬に、振りの鋭い右フックを叩き込んだ。すると、ブロンド娘の膝が一瞬にして折れ、彼女は、ごろりと、キャンバスに横たわった。

「ダウン! …… ワン、…… トゥー、…… スリー、……」

 レフェリーがカウントを始めると、仰向けに倒れているブロンド娘は、片手のグローブを顔に当て、何度か小さく身体の向きを変えていたが、ときおり、「オゥ、…… オゥ、……」 という呻き声を洩らすだけで、立ち上がる気配はなかった。

「…… エイト、…… ナイン、…… テン!! ノックアウト!!」

 試合終了のゴングが鳴ると、浅黒肌娘は、グローブを握り締めて顔の高さに上げ、リングの中を小さく一周するようにして、己の強さをアピールした。

 やがて、黒コーナーに戻った浅黒肌娘は、レフェリーから、KOされたブロンド娘のボトムウエアを受け取った。そして、それを右手のグローブで掴み、目の前で無様な姿を晒しているブロンド娘の巨大な乳房をぐっと踏みつけて、両腕に力こぶを作るポーズを取った。


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -


 メインイベント前の、少し長めの休憩時間に入ってから十分ほどが経過したとき、それまで、しばらくフロアから姿を消していた彩が、坂田と藤原の居るテーブルにやってきた。

 黒白の縦縞が入ったトップス、黒のパンツスーツを身につけた彼女は、坂田の前で立ち止まると、その場でクルリと身体を一回転させ、「どう? 結構似合うでしょ?」 と、坂田に問いかけた。坂田が首を縦に振ると、彩は、「ありがと。」 といいながら、近くにあったストゥールをテーブルの近くに引っ張り出し、そこに腰を下ろした。

「ねぇ、坂田さん。さっきの試合に出てた、ちょっと色の黒い人だけど、…… 普段、どんなお仕事してるの?」

「ああ、千夏ちゃんだね。…… 半年ぐらい前から、都内のSMクラブで働いてるよ。」

「その前は?」

「割と長いこと、イメクラみたいな感じのお店にいたみたいだね。その間に、アダルトビデオにも、何本か出てるハズだよ。…… 彩ちゃん、何か、気になることでもあるの?」

「うん。…… 実はね、うちでSMショーをやってるときに、私と一緒に女王様役をやってる子が、今度結婚するんで、近いうちにやめちゃうのよ。…… で、その子の後釜を探してるんだけど、…… あの人、ちょっといいかな、って。…… ねぇ、もし良かったら、うちに来ないか、って話してもらえない?」

「ああ、それなら彼女にとっても好都合だと思うよ。彼女、元々Sっ気が強くて、それで今の店に移ったらしいんだけど、毎日そればっかり、ってなると、飽きちゃうみたいでね。今日の仕事を頼むときに、少し世間話をしたんだけど、そのとき、どっかいいお店知りませんか、って言ってたからね。確か、水商売の経験もあるはずだから、ここだったら、喜んで来てくれるんじゃないかな。」

 少し甘ったるいような感じの表情だった彩の顔が、ぱっと明るくなった。

「そう。…… じゃ、あとで、直接話がしたい、って、彼女に伝えておいて下さらない?」

「ああ、かまわないよ。…… ただ、千夏ちゃんは、僕にとってもドル箱なんでね。彼女の力が必要なときには、僕の方を優先してくれる、っていうのが条件だ。これでどう?」

「いいわよ。…… でも、そのときには、できるだけうちのお店を使ってちょうだいね。これだけのお客さんを集めることができるんだったら、すごくいい商売ができそうだしね。」

 坂田が、わかったと答えると、彩は嬉しそうに微笑んだ。

「…… それからね、真紀ちゃんとの試合が終わったあと、メイリンが、素敵なSMショーを見せてくれるように、いろいろ小道具を用意しておいたわ。」

「ん? 何か、メイリンが勝つって、決まってるような口ぶりだねぇ、彩ちゃん。」

「あら、違ったかしら? 私がレフェリーをやらせていただく、今日のメインイベント、試合に負けて、奴隷扱いを受けるのは、真紀ちゃん。…… そうなんでしょ?」

 坂田が、答えに窮していることを悟られないよう、「彩ちゃんは、どうして、そう思うのかな?」 と、彩に尋ねると、彩は、小さく笑った。

「真紀ちゃんは、どんなことにも、脇見をしないで全力でぶつかっていくタイプだけど、メイリンは、勝ち目のない喧嘩には手を出さない子よ。よーく周りを見回して、少しでも自分が傷つく可能性があれば、するりと勝負を降りてしまう、…… メイリンって、そういう狡賢い能力に長けてる子なのよ。……」

 彩は、妖しい笑みを浮かべながら、話を続けた。

「…… さっき、真紀ちゃんとメイリンに、少しだけ会ってきたんだけどね。…… これから殴り合いをしよう、って言うのに、メイリンには、変な意気込みとか、恐怖感とかがまったく感じられなかった。百パーセント、勝ちを確信した目をしていたわ。真紀ちゃんも、勝利を確信した目をしてたけど、完全に意気込みが先行しちゃって、周りが見えている感じじゃなかったわね。…… だから、騙されてるのはどっちか、騙されやすいのはどっちか、って考えると、答えを見つけるのは、そう難しいことではないの。…… 今夜の生贄は、星野真紀。…… 賭けてもいいわよ。」

「ほう。…… ずいぶん自信があるようだね。」

「メイリンって、私と同類だからね。わかるわよ。…… じゃ、試合の前に、お客さんたちに、この衣装を見せて回ってくるから、失礼するわ。さっきの、千夏ちゃんの話、よろしくね。」

 そう言うと、彩は、ストゥールから腰を上げ、坂田に小さく手を振りながら、坂田と藤原が居るテーブルを離れていった。

 坂田はしばらく黙ったまま、彩の姿を目で追っていたが、やがて、大きく息を吐き出し、「同類、か。…… 流石は女王様だ。この試合が出来レースだってことを、いとも簡単に見抜きやがった。……」 と呟いた。

「なぁ、坂田、…… 俺も、前もってお前から話だけは聞いてるわけだが、…… メイリンって、そんなに強いのか?」

「ああ。…… 例えば、彩ちゃんがスカウトしたがってた千夏ちゃんな。今、彼女の闘いぶりを見たから、お前も彼女の実力は何となく掴めたと思うが、本気のメイリンと試合をしたら、彼女でも、まったく歯が立たないと思う。…… まぁ、見てればわかるだろう。……」


- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -