街を行く人々の上着が半袖から長袖に変わり、いよいよ今年も、BBI新人トーナメントが幕を開ける季節になった。
フライ級は、瀬里奈が引退してしまったことで、トーナメントの参加者がちょうど八人となり、どの選手も三回勝てば優勝という、きれいな組み合わせラダーができあがった。そして、夏美も理保もすでに全勝ではなくなっているものの、デビュー戦のレベルの高さが評価され、夏美が第一シード、理保が第二シードを宛がわれることになった。
トーナメントの組み合わせを知ったとき、理保は、デビュー戦で夏美に負けたあと、夏美に、「練習して、もっと強くなるから、もう一度試合をしてください。」
と言ったことを思い出した。
「なっちゃんは、絶対に決勝に勝ち上がってくる。…… 私が二つ勝てば、なっちゃんともう一度試合ができるんだ。」
夏美との再戦を実現させるために、決勝までは絶対に負けない。…… 理保は、その想いを心に秘め、激しいトレーニングの日々を過ごしていた。
夏美は、瀬里奈戦での悪いイメージを微塵も感じさせず、一回戦、準決勝と、二試合続けて鮮やかなKO勝利を飾り、決勝へと駒を進めた。
理保も、一回戦をKO勝ち、準決勝はKOこそ逃したものの、第五ラウンド、続く最終第六ラウンドで計三回のダウンを奪う完璧に近い内容で勝利し、決勝へと勝ち上がった。
そして迎えた、年末恒例のKホール大会。
BBI日本エリアの新人王決定トーナメント・フライ級決勝戦という舞台で、夏美と理保は、再びグローブを合わせることとなった。
大歓声に迎えられてリングに上がった理保は、リングを一周して、四方の観客席に挨拶を済ませると、宛がわれた銀のコーナーに向かい、コーナーマットを背にした。すると、ほどなく、一旦静かになっていた観客席がざわめき立ち始めた。
理保と同様、夏美もまた、現役のナースであるというプロフィール、そして、瀬里奈戦の負けが一つ含まれるものの、これまでの五試合がすべてKO決着という豪快な戦績に、多くの熱狂的なファンを掴んでいた。リングへの通路をゆっくりと歩いていく夏美にも、激励の声援が数多く飛んだ。
リングに上がった夏美は、右手の拳を高く掲げると、ちらりと理保と視線を合わせ、「どう? 私も結構人気者でしょ?」
とでも言いたげに、にやっと笑った。いかにも夏美らしい仕草に、理保はクスリと微笑んだ。
夏美が試合前のアピールタイムを終え、金のコーナーへ戻ると、二人の入場シーンを穏やかな笑顔で眺めていたレフェリーが、二人に、リングの中央に進み出るようにと合図を送った。
試合前の注意を終えて、銀のコーナーに戻った理保は、BBIのスタッフに咥えさせてもらったマウスピースをきゅっと噛み締めた。
待ち望んでいた夏美との再戦、それも、組んでもらった試合ではなく、自分の力で新人トーナメントを勝ち上がり、その決勝という晴れ舞台で、夏美に思い切りぶつかることができる。……
理保は、心地良い興奮を感じながら、試合開始のゴングを待った。
観客席から湧き上がる歓声の中を、試合開始のゴングが鳴った。
理保は、夏美との再戦に少し舞い上がっている自分を戒めるように、一度自分に気合を入れ直してから、ゆっくり銀のコーナーをゆっくり離れた。
金のコーナーを後にした夏美も、両腕をガードのポジションに構え、理保と距離を詰めていった。
理保が鋭いジャブで口火を切ると、すぐに激しい戦闘がスタートした。
リーチの長さを利して、ジャブを主軸に試合をコントロールしていきたい理保、自慢のパンチ力にモノを言わせるために、インファイトに持ち込みたい夏美。……
ファイトスタイルの違いを象徴するように、理保は積極的に足を使い、夏美の周りを横へ横へと移動しながら、次々と鋭いジャブを飛ばし、夏美は不規則に上体を振りながら、理保の懐に踏み込んで、ボディからのコンビネーションフローで試合の主導権を握ろうとしていた。
やがて、第一ラウンド終了のゴングが鳴り、まだ興奮の収まらない観客席からの大歓声の中を、二人は息を弾ませながら、それぞれのコーナーに戻っていった。
続く第二ラウンド、第三ラウンドと、闘いは激しさを増す一方だった。ますます鋭さに磨きがかった理保のジャブは、幾度となく夏美の顔を揺らし、夏美の重いフックも、理保のボディを捉えるごとに、確実に理保の体力を削り取っていった。
第三ラウンド終了まであと三十秒ほどになったところで、遠目の位置からの攻撃にやや配慮を怠っていた理保は、夏美が打ってきた左ストレートをカウンター気味にもらってしまった。このパンチで、一瞬理保の動きが止まり、ガードが乱れた。夏美はそれを見逃さず、素早く一歩踏み込んで、理保の顔面に思い切り右フックを叩き込んだ。
膝の力と、平衡感覚とを同時に失った理保は、崩れるようにキャンバスに腰を落とした。
立ち上がった理保に、第三ラウンドの残り、そして、続く第四ラウンドと、夏美は一気呵成に攻め込んできた。理保は、これにまったく怯むことなく応戦し、第四ラウンド中盤には、接近戦の中で夏美の顔面に見事な左右のコンビネーションブローを当て、ダウンを奪い返した。
今度は、理保が一気に夏美を攻め落とそうと、カウントエイトで立ち上がった夏美に襲い掛かったが、夏美もダウンのダメージを感じさせることなく反撃し、ダウン以降はほぼ互角の展開で第四ラウンドを終えた。
中盤から終盤へとラウンドを重ねていっても、二人の動きが疲労やダメージの蓄積によって少しずつ鈍っていくだけで、試合の激しさは、一向に衰える気配がなかった。
第五ラウンドには、理保の得意の左アッパーをまともに食らった夏美が尻餅をつき、第六ラウンドの終了間際には、理保が夏美のボディブローを受けてキャンバスにうずくまった。そして、第七ラウンドの中盤、理保がまたしても夏美のボディでダウン。これで決着がつくのかと思われたが、立ち上がった理保が、勝負を決めに来た夏美の一瞬の隙をついて、夏美のアゴに左フックを叩き込み、またしてもダウンを奪い返した。
すでに、クリーンヒットを何度も顔面に受けてきた夏美は、かなり足にきている状態で、軽いパンチを受けたときでも不自然に腰が落ちたり、大きくバランスを崩したりすることが多くなってきた。
理保の方も、フットワークの軽快さはおろか、まったくのベタ足になってしまうほどまでに疲労が限界に近づいてきていて、自慢のジャブも、左のリードブローもほとんど出ない状況になっていた。
それでも二人は、体力やダメージの回復のために時間を稼ごうという素振りを、微塵も見せることなく、真っ向から打ち合いを続けた。
あと少しで第七ラウンド終了というところで、理保のロングフックが夏美の顔に命中した。夏美は斜め前へと大きくバランスを崩し、顔のガードががら空きになっていたが、理保には次のパンチを振る力が残っていなかった。夏美は必死にその場で踏みとどまり、理保にしがみついて体重を預け、理保をニュートラルコーナーに押し込んだ。そして、二人に一歩近づいたレフェリーがブレイクを命じたところで、第七ラウンド終了のゴングが鳴った。
理保の身体から腕をほどいた夏美は、肩で大きく息をしながら、おぼつかない足取りで、金のコーナーへ戻っていった。理保も、疲労困憊を絵に描いたような様子で、とぼとぼと銀のコーナーに向かって歩き出した。
用意されたストゥールにどっかりと腰を落とした二人は、リング内の一番遠い位置にいる相手を見据え、「次の最終ラウンド、……
絶対、理保ちゃんを、…… なっちゃんを、KOするんだ。」と自分に言い聞かせた。
第七ラウンドを終わった時点で、ジャッジの採点は、一人が夏美の二ポイントリード、もう一人が逆に理保の二ポイントリードとなっていた。第七ラウンド分の数字を書き終えた、残る一人のジャッジは、ここまでの自分の採点を計算し、両者イーブンであることがわかると、大きなため息を一つ洩らし、椅子の背もたれに凭れかかった。そして、「できることなら、最終ラウンドの採点欄を、空欄のまま、オフィシャルに提出したい。この試合、どちらの勝ちでもいいから、KO決着という形で勝負を決めさせてあげたい。」と呟いた。
二人がBBIのスタッフが差し出したマウスピースを咥え終わると、「ファイナルラウンド」のアナウンスが聞き取りにくくなるほどの大歓声の中、最終ラウンド開始のゴングが鳴った。やや重い足取りでそれぞれのコーナーを後にした二人は、お互いをパンチのレンジに捉えると、再び激しい打ち合いを演じ始めた。そして、ラウンド終盤までに、二人はそれぞれ一度ずつダウンを奪い合った。それでもまだ、試合の決着はついていなかった。
最終ラウンド、残り三十秒、右フック同士が相打ちになり、同じようにがくんと腰を落とした二人は、相手にしがみついてダウンを逃れようとしたが、どちらも相手と自分の体重を支えることができず、二人は絡みつくようにして、キャンバスに倒れた。
極限まで疲弊しているせいか、二人ともすぐには立ち上がれずにいた。すると、レフェリーが、「立ち上がって試合を再開するように。すぐに立てないのなら、ダウンを取ります。」と、二人に警告した。
この言葉を受け、二人は、いかにも気だるそうにキャンバスから腰を上げた。立ち上がった二人の戦意を確認したレフェリーは、「ファイト」と一声かけて、二人から一歩後ろに下がった。
お互いのパンチが届く距離から一歩だけ下がった位置で向き合った二人は、同時に踏み込み、ほんの少しだけ残された力と、「この一撃で、必ず試合を決める」という気持ちとを拳に込め、自分の持っている最高のパンチを、相手に向けて放った。
「…… プ …… プリティ・アッパー ……」
「…… 愛の …… お注射 ……」
二人の、『最後のパンチ』は、どちらもターゲットを直撃し、二人の口から、マウスピースが同時に弾け飛んだ。
夏美の、渾身のストレートをまともにもらった理保は、「あんっ」と小さな声を洩らしたあと、潰れるように、キャンバスに横倒しになった。夏美も、理保の左アッパーに両膝の力を奪われ、キャンバスにどすんとお尻を落とし、そのまま仰向けに転がった。
綺麗なダブルノックダウンに、レフェリーは一瞬だけ驚いた表情を見せたが、すぐに倒れている二人を同時に指差して、ダウンカウントをスタートさせた。
「ダウン! …… ワン、…… トゥー、……」
まだキャンバスに倒れたままの体勢から、まったく動かない二人を交互に見ながら、レフェリーはカウントを進めていった。
「…… スリー、…… フォー、……」
理保は、のろのろとキャンバスからお尻を持ち上げ、何とか四つん這いになった。夏美も、頭を浮かして両肘を引き寄せ、上半身を起こし始めた。
「…… ファイブ、…… シックス、……」
片膝立ちになった理保は、必死に身体を支えようと、キャンバスを踏みしめた左脚に力を込めた。完全に上半身を起こした夏美も、立ち上がるために、キャンバスについた両腕を踏ん張り、お尻をキャンバスから浮かせた。
「…… セブン、…… エイト、……」
理保が、両膝を震わせながらも、両腕で何とかバランスを取って完全に立ち上がったのと同時に、一度は浮き上がった夏美のお尻が、ぺたんとキャンバスに落ちた。夏美の両脚には、身体を支えるだけの力は、もう残っていなかった。
レフェリーは、理保が立ち上がったことをちらりと横目で確認すると、必死にもう一度腰を浮かそうとしている夏美に身体を向け、カウントを進めた。
「…… ナイン、…… テン! ユー・アー・アウト!」
レフェリーが頭の上で両腕を交差させると、試合終了のゴングが打ち鳴らされた。
夏美は、レフェリーに向かって片腕を伸ばし、まだ戦意が残っていることを訴えるような素振りを見せていたが、試合終了のゴングの音を聞き届けると、その腕を下ろし、大きな息を一つ吐いたあと、再び仰向けにごろりと横たわった。
理保の方も、自分が夏美をKOし、試合が終わったということを悟ると、その場にへたりこみ、そのまま動かなくなってしまった。
勝者となった理保は、このあとすぐリングの上で行われる、新人王に送られるティアラの授与セレモニーを残していた。しかし、理保の身体をチェックしたドクターが、極度の疲労に加えて軽い脱水症状の兆候ありとの診断を下したので、興行進行のスーパーバイザーは、授与セレモニーまで少し時間を取り、理保を休ませることにした。理保はBBIのスタッフに抱えられるようにして銀のコーナーに戻り、ストゥールに腰を下ろした。
軽い脳震盪の診断が出ていた夏美のために担架が用意されていたが、夏美は、「授与セレモニーの前に、リングの上で、理保ちゃんを祝福してあげたい。」と言い張った。ドクターが、もう一度、入念に夏美の身体をチェックし、OKを出したので、夏美も、BBIスタッフの手を借りて、金のコーナーに戻っていった。
ゆっくり、時間をかけて給水し、体力を取り戻した理保がストゥールから腰を上げると、夏美もそれに合わせるようにストゥールから立ち上がり、理保の方に歩き出した。そして、リングの中央で、二人はしっかりと抱き合った。
「理保ちゃん、おめでとう。今度は、私が理保ちゃんの背中を追いかける番だね。」
夏美の言葉に、理保ははにかむように微笑み、小さく頷いた。
「じゃ、お祝いのキス、…… ね。」
理保は、一瞬目を丸くしたが、すぐに表情を崩し、もう一度小さく頷いてから、ほんの少しだけ唇を突き出すようにして、目を閉じた。夏美も目を閉じ、理保の柔らかい唇を、優しく覆った。
二人の唇が離れたとき、理保の目には、涙が浮かんでいた。
理保の心の中は、ボクシングの世界に飛び込んで本当に良かったという喜びや、最高のライバルであり、最高の友人である夏美への感謝の気持ちで、いっぱいになっていた。
理保がそんな幸せに浸っていると、夏美は、理保の身体に回していた腕をほどき、両手のグローブで、理保の右腕を掴んだ。そして、リングサイドに報道カメラマンが集まり始めたメイン観客席の方に、理保の身体を向けるように促し、理保の右腕を高く掲げた。
「あー、ダメ、ダメ。理保ちゃんは、試合に勝って、新人王になったんだよ。……
勝った人は泣いちゃダメ。さ、笑って、笑って。」
夏美にそう言われ、一生懸命笑顔を繕うものの、理保の涙は、もう止まらなくなっていた。理保はときおり、左手のグローブで涙を拭いながら、盛んに焚かれるカメラのフラッシュを浴びていた。