瀬里奈との試合で、まさかの一ラウンド失神KO負けを喫し、病院直行となった夏美だったが、幸いなことに、検査の結果は良好、また回復も予想以上に早く、試合から三日目に理保がお見舞いに駆けつけたときには、夏美は、すでに翌日に退院の許可をもらえるほどまでになっていた。
理保は夏美に宛がわれた病室を訪ね、しばらくの間、夏美とのおしゃべりに興じた。理保は、あまりにも衝撃的な敗戦を喫した夏美が、精神的な傷を負ってしまっているのではないかと心配していたが、夏美と話をしているうちに、どうやらその心配はなさそうだと思えるようになった。
帰り際、理保が夏美に、「退院したら、一緒に食事しようね。でも、祝勝会じゃないから、ワリカンだよ。」
と言うと、夏美は、いかにも悔しそうに、「えーっ、オゴリじゃないのぉ? ちぇーっ。」
と口を尖らせた。夏美らしい反応に、理保は声を上げて笑い、安心して夏美の病室を後にした。
理保は、もう少し自分のボクシングに自信がついてからにしたいということで、夏美とのデビュー戦以降、試合を控えていたが、体力的にも技術的にも、ある程度納得できるレベルになったと感じたので、夏美が敗戦を喫した次の月のKホール定期興行にエントリーを済ませていた。
夏美との食事の前日、理保の元に、BBI日本事務局から、その月のKホール定期興行の試合スケジュールが送られてきた。そして、自分の対戦相手が、夏美を秒殺に葬った神崎瀬里奈であることを知った瞬間、理保の顔つきが変わった。
翌日、約束どおりに、理保は夏美と一緒に、いつものレストランで食事をした。
「理保ちゃん、次の試合、神崎さんが相手だね。」
二人が給仕にオーダーし終わると、夏美がそう切り出してきた。
「あ、やっぱり、なっちゃんも知ってたんだ。」
「うん。うちのクリニックには、Kホール大会の予定は、毎回送られてくるからね。……
理保ちゃん、あの人、動きは素人みたいだけど、パンチ力だけは間違いなく一級品だから、気をつけてね。……
また試合が始まった直後から、大きなパンチを振り回してくるかも知れない。私みたいに、まともにもらっちゃ、絶対にダメだよ。」
「う、…… うん。…… わかった。気をつけるよ。…… ありがとう、なっちゃん。……」
Kホールのリングへと通じる通路を歩く理保の心理状態は、「勝ち負けよりも試合内容、自分の持てる力を出し切ることが何よりも大切」
と考えていた夏美とのデビュー戦のときとは、まったく違っていた。
理保は、この試合に、夏美の弔い合戦の意味合いを感じていた。さらに、全面的に強力してくれる事務所のためにも、そして、何よりも、今後、プロボクサーの道を歩んでいく自分のためにも、この試合は、絶対に落とせない。必ず勝つ。……
勝利に対する、悲痛なまでの思いに、理保の表情は、恐ろしいほどまでに引き締まっていた。
そして、理保は、ややこわばったその表情を変えることなく、赤いロープをくぐり、リングの中へと身体を滑り込ませた。
試合開始前、レフェリーに呼ばれて、二人がリングの中央で向き合うと、瀬里奈は、理保の胸をじっと見つめ、大きなため息を一つ洩らした。
「うわぁ〜。…… 理保さんのおっぱい、すごーい。…… すごく大きいし、形もいいし、乳首の色もほんとに綺麗。…… 瀬里奈もこんなおっぱいだったらよかったのになぁ〜。……」
理保は、瀬里奈の言葉に、思わず顔を赤らめた。そして、夏美が、瀬里奈の試合前の様子を、「何か、緊張感、ってものがなくてさぁ。……
ちょっと調子狂っちゃうんだよね。」 と言っていたことを思い出し、確かにその通りだと思った。
自分の乳房を凝視しているだけで、一向に試合前の注意に耳を傾ける雰囲気のない瀬里奈に向かって、理保は一度、これ見よがしに咳払いをしてみたが、瀬里奈はそれにまったく反応しなかった。
このままでは、夏美と同じで、相手のペースに乗せられてしまう。…… そう感じた理保は、開き直って、ぐっと胸を張り、乳房を瀬里奈の目の前に突き出した。
その仕草に、理保の大きな乳房がゆらぐように揺れると、瀬里奈は目を大きく見開き、さらに顔を理保の胸に近づけて、「うわぁ、うわぁあ〜。」
と感嘆の声を上げた。
ようやく試合前の注意が終わり、二人は一旦、それぞれのコーナーに引き上げてきた。そして、二人がマウスピースを咥え終ると、場内に、「ラウンド・ワン」
のアナウンスが流れ、試合開始のゴングが鳴った。
コーナーを離れた二人の距離が徐々に縮まり、お互いのパンチのレンジまであと少しまで来たとき、瀬里奈の上体がすっと沈み込んだ。その瞬間、「大きなパンチは、絶対にもらっちゃダメ」
という夏美の助言が、理保の脳裏を走った。
「おしぼり入りまぁ〜す!」
理保が反射的に上体を反らすと、瀬里奈の左拳を覆っている黒いグローブが、うなりを立てて、理保の顔の前を通過していった。
今みたいなのをまともにもらったら、一撃で試合が終わりかねない。…… 理保は、瀬里奈の大きなパンチに対しては、常に警戒を怠ってはならない、と感じた。
第一ラウンドの終盤、理保は瀬里奈の左フックをかわして、瀬里奈の懐に潜り込んだが、さらに前に踏み込んできた瀬里奈に体当たりを食らう格好になり、理保は大きく後ろによろめいた。
瀬里奈は、バランスを保つために一瞬両腕を開いた理保に右フックを打ってきた。理保はこのパンチをしっかりブロックしたものの、崩れた体勢を立て直すことができず、キャンバスにどすんと腰を落とした。
「ダウン。ニュートラルコーナーへ。」
間違いなくスリップだと思っていた理保は、レフェリーのコールに耳を疑った。
理保は、すぐに立ち上がり、レフェリーに、「パンチは当たっていない。今のはスリップだ。」
と訴えかけたが、レフェリーは、首を横に振りながら、理保の目の前でダウンカウントを進めた。
理保は顔を顰めて、大きな溜息をついたが、すぐに気持ちを切り替えることにした。
「今のダウンは、もう済んでしまったこと。…… 瀬里奈さんの、あれだけ大きなパンチを振り回すボクシングは、絶対に最後まで続かないはず。とにかく、今は、ポイントを挽回するために無理に攻撃を仕掛けるのではなく、瀬里奈さんの攻撃を確実にかわし続けながら、チャンスを待つこと。私がすべきことはそれだけだ。……」
第一ラウンドのダウン後を無難に乗り切った理保は、インターバルの間、頭の中で瀬里奈の攻撃パターンを整理し、これならもっと自分から攻めても大丈夫だという確信を掴んだ。
そして迎えた第二ラウンド、理保は前のラウンドよりも積極的に瀬里奈のパンチのレンジに侵入し、大きなパンチを振り回す瀬里奈の攻撃の隙をついて、瀬里奈の顔面にびしびしとジャブを打ち込んだ。
その後も、瀬里奈は、『大きなパンチをもらわないことが最優先』というスタンスで試合を進める理保を、一向に捉えることが出来なかった。
第三ラウンドの終盤には、空振りを続けることで、急激に消耗した瀬里奈の体力は、早くも底を尽きかけていた。極度の疲労と、打っても打ってもパンチが当たらないというもどかしさに、瀬里奈の表情は、まったく余裕のないものに変わってしまっていた。
第四ラウンド、瀬里奈は、開始から何十秒かの間だけはパンチを振り回していたものの、そこで完全なガス欠状態に陥ってしまった。
動きの止まった瀬里奈の顔面に、理保が右フックを打ち込むと、瀬里奈の腰が一瞬落ちた。そして、何とか踏ん張った瀬里奈は、理保に抱きつき、そのまま理保をロープへと押し込んだ。
すぐにレフェリーが二人に近づき、ブレイクを命じたものの、瀬里奈は理保に体重を預けたまま、なかなか理保の身体に巻きつけた腕を解こうとしなかった。
耳元で繰り返される瀬里奈の荒い呼吸音に、理保は、大きなチャンスが訪れたことを感じ取った。
「瀬里奈さん、かなり疲れてるな。…… よーし、ここで一気にたたみかけて、勝負を決めてやるっ!」
ようやくクリンチが解消され、瀬里奈がほぼリングの中央まで戻ると、理保はすぐに瀬里奈との間合いを詰め、大きなモーションで右腕を振りかぶりかけた瀬里奈に、得意のコンビネーションブローを叩き込んだ。
「ラブ・アッパー!」
最後の左アッパーも的確にターゲットを捉え、瀬里奈の顔が、綺麗に捲り上がった。
瀬里奈の両膝がガクンと折れた。瀬里奈は、両腕を開き、脚を繰ってバランスを取ろうとしたが、身体を支えることが出来ず、仰向けにキャンバスに転がった。
「やった!!」
理保は、会心の手応えに一度両拳をギュッと握り締めてから、レフェリーの指示に従って、ニュートラルコーナーに向かった。
すぐに身体を起こし、四つん這いになったものの、瀬里奈はがっくりと頭を垂れたままで、動きを止めた。
「…… フォー、…… ファイブ、…… シックス、……」
やがて瀬里奈は立ち上がり、レフェリーにファイティングポーズを向けたが、そのいかにも気だるそうな動き、苦しそうな表情に、理保は、瀬里奈にはもう、ほとんど余力が残っていないことを確信した。
試合が再開されると、瀬里奈は必死の形相で反撃に出てきた。しかし、振りの鈍いスイングを三回ほど空振りしただけで、瀬里奈の手はあっさり止まってしまった。そして、理保が自分から距離を詰める行くと、瀬里奈はずるずると後退を始め、簡単にコーナーに追い詰められてしまった。顔を腕とグローブで覆い、亀のように身体を丸めた瀬里奈に、理保は再び襲い掛かった。
五発、十発と、理保は、瀬里奈のガードの上から力強いパンチを打ち込んだ。すると、それに耐え切れなくなったのか、瀬里奈は、理保に正対させていた身体を横に向けてしまった。
瀬里奈の身体がわずかに浮き上がったことで、ボディ周りにできた隙を、理保は見逃さなかった。理保が一歩踏み込んで思い切り右腕を振り切ると、理保の赤いグローブが、瀬里奈のお腹に深くめり込んだ。
理保が一歩退くのと同時に、瀬里奈の両膝があっけなく折れた。そして、瀬里奈の口から、涎まみれのマウスピースがこぼれ落ちた。
「ダウン! ニュートラルコーナーへ!」
すぐに、レフェリーが二人の間に割って入り、「どうだ。立てるものなら、立ってみろ!」
とでも言わんばかりの、厳しい視線で瀬里奈を見下ろす理保を制した。
ダウンカウントが進んでいく間も、瀬里奈は右腕でお腹を抑えたまま、呻き声を上げながらキャンバスの上をのたうつだけで、立ち上がる素振りを見せなかった。そして、カウントがシックスまで進み、瀬里奈が体勢を変えてキャンバスにごろりと仰向けになったときも、瀬里奈に立ち上がる気配はなかった。
瀬里奈さんはもう立てない。私の勝ちだ。…… 理保がそう確信し、険しくしていた表情を緩めたとき、瀬里奈の口から、「ふぇ〜ん。」
という、だらしない声が洩れた。瀬里奈の、その意外な行動に、理保は、「えっ?」
と、小さな声を洩らした。
「…… もしかして、…… 泣いちゃっ …… た?……」
理保が思った通り、瀬里奈は、左手の黒いグローブでぐちゃぐちゃに歪ませた顔を覆い、大声を上げて泣き始めた。
「うぇ〜ん。…… 痛いよ〜!…… 苦しいよぉ〜!…… うえぇぇ〜ん!」
やがて、テンまでカウントを取り終えたレフェリーが、頭の上で両腕を交差させると、瀬里奈の泣き声をかき消すように、試合終了のゴングが鳴り響いた。
BBIスタッフの手を借りて上体を起こし、リングから降りるために金のコーナーに戻っていくときも、瀬里奈は泣き声を上げたままだった。
「うぇ〜ん。…… 痛いよぉ!…… もうボクシングなんてやめるぅ!…… 双葉理保のばかぁ!……」
その横では、理保がレフェリーに右手を掲げられ、観客席に勝者のポーズを向けていた。
夏美とのデビュー戦のときも、KO負けという結果に終わったものの、理保は、すべての力を出し切ったという満足感を味わった。しかしながら、初めて、勝者として、KO勝ちの勝者として、試合を終えることの喜びは、理保にとって、また格別だった。
観客席からの声援に応えていると、理保の脳裏に、麗子の試合を初めて観戦したときのシーンが蘇ってきた。「これで、麗子先生が歩んだものと同じ道の第一歩を、やっと踏み出すことができたのかな、……」
と、理保は思った。