氷川麻耶・ファイトクラブ 第二話


由佳梨の戦譜






Scene. 1


 関東近郊のとある私立高校に通っている北原由佳梨は、一年生の夏休みが始まる少し前に、同じソフトボール部に所属している仲の良い女友達と二人で近所の繁華街を歩いているとき、地元でモデル事務所を営んでいる一人の女性の目に留まり、その場でスカウトされた。

 十六歳とは思えないほどあどけない顔立ち、それとは対照的に、十六歳とはとても思えないほど健康的でメリハリの利いたボディ。…… 由佳梨は、本名を使った『YUKARI』の芸名デビューし、すぐに事務所で一番の稼ぎ頭になった。スカウトされてから半年の後には、全国規模の少年誌にカラーグラビアで紹介されたこともあった。が、しかし、それも一度きりのことで、由佳梨も、最終的にはどこにでもいそうなB級アイドルの一人に落ち着いてしまった。

 もともと由佳梨はそれほど芸能界に憧れていたわけではなく、仕事の量が減っても特に落胆する様子もなかった。仕事に追われて学園生活が送れなくなってしまったり、学業がおろそかになってしまうという可能性がなくなったことで、むしろ由佳梨は売れなくなったことで少しホッとしていた。

 籍だけは事務所に置いたまま、由佳梨は普通の一女子高生に戻った。クラスメイトとの楽しいおしゃべり、所属していたソフトボール部の活動、由佳梨は連日充実した日々を送っていた。


「ねえ、由佳梨。『GGR』、一緒に観に行かない?」

 高校三年生になってふた月ほど経ったある日、ソフトボール部の活動を終えてロッカールームを後にしようとした由佳梨に、同じソフトボール部に入っている、和美という名の一人のクラスメイトが話しかけてきた。

 『GGR』、正しい名称は『ガールズ・ゴー・ランブル』。このイベントは、その当時から一年ほど前に始まった、所属団体を問わず広く一般から女子選手を集めて行われる総合格闘技大会で、二ヶ月に一度のペースで開催を続けており、次の開催がちょうど由佳梨の住んでいる市で行われる予定になっていた。和美は、もう少しだけ身体が大きかったら女子プロレスラーを目指すところだったというほど格闘技が好きで、由佳梨に『GGR』の存在を教えたのも、この和美だった。

 由佳梨も格闘技は嫌いな方ではなかったし、和美の「入場料は私が持つから」の一言が決め手になって、由佳梨は『GGR』を観戦することに決めた。




Scene. 2


 和美と『GGR』を観にいく二日前に行われたソフトボール部の公式戦で、由佳梨は守備で大きなエラーを犯し、あやうくチームの勝利を台無しにするところだった。この試合、バッティングの方もまったく振るわず、チャンスに三度回ってきた打順をいずれも凡退に終わってしまった由佳梨は、少しだけ負の感情を引きずったまま、『GGR』の会場に向かった。

 和美の用意した席は由佳梨が予想していたよりも遥かに上等で、リングサイドと言い切ってしまっても差し支えないほどだった。和美へのお礼ということで、由佳梨は試合が始まる前に会場の売店に赴き、一番高価なランチボックスとポップコーン、それとジャンボサイズの飲み物を二人分購入し、それを携えて席に戻った。試合開始が近づいてくるにつれて、由佳梨は初めて経験する生の格闘技の試合会場の雰囲気に、徐々に呑み込まれていった。

 『GGR』の売りは、そのルールの過激さにあった。噛み付き、目潰し以外はほぼすべての攻撃が認められる、言わば喧嘩ファイトに近かった。

 試合が始まると、由佳梨の興奮はピークに達したままになってしまった。普段近所を歩いていてもおかしくない、どこにでも居そうな若い女性が、スポーツブラにスパッツ、オープンフィンガードグローブに身を包んでリングに上がり、由佳梨の目の前で信じられないような激しいファイトを繰り広げた。

 顔を殴られて鼻から血を流しながらも、相手をキッと睨みつけ、臆することなく相手に立ち向かっていく選手、致命的な技に極められても限界までギブアップを拒む選手、彼女たちの健気な闘いっぷりに、由佳梨は心を奪われた。そして最後の試合が終わり、相手をKOした選手が両手を挙げて勝利をアピールする姿を見たとき、由佳梨の中で何かが弾けた。


 興奮を鎮めることができないまま、由佳梨は和美と別れて家に戻り、自分の部屋のベッドの上に仰向けになった。

 闘う女性の美しさを目に焼き付けてきたこの夜、モデルの仕事をしているときに由佳梨が何となく感じていた違和感のようなものが、由佳梨の中ではっきりと形になってきた。

 カメラマンの求めに応じてポーズを取り、感情の伴わない笑顔を振り撒く。…… そんなものは、美しさでも何でもない。…… 今日、リングの上で死力を尽くして闘った女性たちに比べれば、私なんて。……

  ……… 私も、彼女たちのように輝きたい。……………

 由佳梨は、込み上げてくる想いを我慢することができなかった。

 高校を卒業したら、私もあのリングの上に立つ。由佳梨はそう心に誓った。




Scene. 3


 翌日から、由佳梨は行動を開始した。根が真面目な由佳梨は、ソフトボール部の練習を休むことはなかったが、それとは別に、家の近くにあるスポーツジムに入会して、リングの上で闘うための体力を養い始めた。

 由佳梨の所属しているソフトボール部は、夏休み中に行われる地区トーナメントを二試合勝ち抜いたが、三試合目にしてトップシードになっていた高校と当たり、わずかの差で敗れた。その敗戦は、由佳梨にとって、高校のソフトボール部の活動が終わることを意味していた。その後、クラスメイトの大半が受験勉強に追いやられていく中で、由佳梨は大学受験には目もくれずにジムに通い続け、連日自分の身体を苛め抜いた。

 高校の夏休みが終わる頃、所属していたモデル事務所のオーナー兼所長と会う機会ができたとき、由佳梨は自分の想いを彼女に伝え、モデルの仕事を辞めたいと申し出た。

 所長は大層驚いたが、それを顔には出さずに、目の前で俯いている由佳梨の顔を見つめて腕組みし、考えを巡らせ始めた。

 由佳梨はグラビアアイドルとしてはもう用済みに近い存在だが、『格闘少女』という肩書きがつくとなると、それはまた別の話だ。由佳梨の意思を利用するようで申し訳ないが、これはもう一度由佳梨を売り出すチャンスであることは間違いない。…… 大した規模でないモデル事務所をやりくりするのはお世辞にも楽とは言えない。…… 彼女は、由佳梨を手放す気になれなかった。

 所長は大きな溜息をひとつ洩らしたあと、由佳梨に優しく話しかけた。

 「あなたの気持ちはわかったわ。でも、まだ事務所とは縁を切らないでちょうだい。あなたが格闘少女としての道を歩みたいのなら、事務所としては応援してあげるつもりでいるの。自信がつくまで仕事はお休みしていいから、自分のやりたいことを精一杯やってごらんなさい。…… 由佳梨ちゃん、頑張ってね。」

 結局、由佳梨は彼女の提案を受け入れ、事務所に籍を置いたままジム通いを続けることになった。


 卒業式を間近に控えた三月初めのある日、由佳梨は『GGR』を観戦するために試合会場に出かけた。そして前回同様、家に戻っても由佳梨の興奮が醒めることはなく、由佳梨のリングに対する想いは募るばかりだった。

 しばらく自室のベッドで天井を眺めながら物思いに耽っていた由佳梨は、ついに、「次の大会に出場する。五月に開催される次回の『GGR』で、私はリングに上がる」と決断した。

 由佳梨がリングに上がることを決めたと事務所の所長に連絡すると、彼女は少し驚いたものの、参加の手続きやコスチュームの手配などを事務所に任せてもらえないかと提案したので、由佳梨は礼を言って、所長の申し出に甘えることにした。

 見かけによらず格闘技に関する知識を豊富に蓄えていた由佳梨の事務所の所長は、由佳梨が『GGR』のリングに上がるには、まだ少しだけ早いのではないかと考えていた。しかし、由佳梨本人から申し出があったわけだし、由佳梨に対して、無下に「まだ早い」とは、彼女には言えなかった。彼女は少しだけ不安を抱えながら、『GGR』を主催しているイベント事務所の電話番号をコールした。




Scene. 4


 定期開催をスタートさせてから二年余りが経過し、立ち上げ当初から続いていた人気にやや翳りが出てきたことを、『GGR』の主催者は、ある程度致し方ないと割り切っていた。三月の大会で目玉になる選手が一人ケガをしてしまい、その選手から五月の開催には参加できないとの連絡もあったことだし、今度の開催はちょっと集客に苦労しそうだな、と彼は考えていた。

 そんなところへ、あるモデル事務所からへ連絡が入った。

「うちの事務所に所属しているモデルが五月の大会にエントリーしたいと言っているのですが、いかがでしょうか?」

 その連絡を受けたとき、主催者はその電話が悪質なイタズラではないのかと訝った。しかし、相手の話を聴いているうちに、試合に出たいと言っている娘が、一年近くに渡ってリングに上がるために鍛錬を重ねてきたということがわかった。

 主催者は、電話の相手に、出場を希望している選手の資料を送って欲しいと頼み、一旦電話を切った。ほどなく一通の電子メールが届いたので、彼はそのメールを確認してみた。

 メールに添付されていた一人の娘の顔写真を見て、彼は再び驚いた。

 確か、二年か三年か前に、少年誌のグラビアに載っていた娘だ。…… この娘が、『GGR』への出場を望んでいる。…… 本当だろうか?……

 もし本当にこの娘が試合に出るのなら、話題になることは間違いない。どれくらいの集客効果が見込めるのかはわからないが、売り方次第で新しい客層を呼び込むことができるかも知れない。……

 主催者はすぐにモデル事務所に連絡を取り、エントリー受付OKの旨を伝えた。後日、彼は念のために自分でモデル事務所に足を運んで、直に由佳梨と面談し、由佳梨本人の口から参加の意思を確認した。

 事務所に戻った彼は、広報セクションの担当者を捕まえて、『GGR』公式ホームページをすぐに更新するように指示した。




Scene. 5


 初めてリングに上がる前の夜、由佳梨は『GGR』のホームページを眺めていた。「『YUKARI』、参戦決定。」、そこには比較的目立つ文字でそう記されていた。

 由佳梨は、その下に大きく掲載されている自分の写真に視線を移した。

 その写真は三週間ほど前に撮影されたもので、濃紺のスパッツと、汗で身体にぴったりと張り付いたグレーのTシャツを身につけ、睨むような眼差しをスパーリングパートナーを向けている由佳梨の姿が映し出されていた。

 由佳梨が『GGR』に参加する意思を主催者に告げたあと、主催者側から写真撮影の申し込みがあり、由佳梨は、練習しているときの姿だけ、写真のためにポーズを取らない、という条件でそれに応じた。そのときに撮影されたのが、今、由佳梨がパソコンのモニタで見ているもので、由佳梨は、モデル時代に写された何千枚もの写真よりも、その写真が好きだった。

 由佳梨は長い間モニタに映し出されている自分の姿に見入ったあと、おもむろにパソコンの電源を落とし、布団の中に潜り込んだ。

 それでも初めての試合を翌日に控えた由佳梨は、興奮のあまり、なかなか寝付くことができなかった。しばらくして、ベッドから身体を起こした由佳梨は、部屋の明かりを点けて、お気に入りのスポーツバッグから、翌日の試合のために所長に贈られたリングコスチュームを取り出し、ベッドの上に並べた。

 少し派手な色合いの、上下お揃いのピンクのトップスとスパッツ。…… この色は、所長の一番好きな色だ。…… 由佳梨は少しだけ声を上げて可笑しそうに笑った。

 ベッドに並べられたピンクのリングコスチュームを見つめていると、由佳梨は不思議に落ちついた気分になることができた。最後にもう一段表情を崩した由佳梨は、そのピンクの衣装をスポーツバッグの中に戻し、再びベッドに横たわった。

 目を閉じると、間もなく心地良い眠気がやってきた。由佳梨はそのまま、深い眠りへと落ちていった。




Scene. 6


 由佳梨は目の前に立っている相手の顔を睨んでいた。濃い緑色のリングコスチュームを纏った、由佳梨よりも少しだけ身体の小さい相手の娘も、挑むような眼差しを由佳梨に向けていた。二人の手には、そのあどけなさが残る顔立ちとは不釣合いな、主催者の用意した黒いオープンフィンガードグローブ。……

 『GGR』五月開催のオープニングマッチとなる第一試合、観客席はほぼ埋まっていた。過去に雑誌のグラビアにも掲載されたほどの美少女である由佳梨が出場するということもあってか、取材用のカメラの数も、普段よりいくらか多かった。

 二人の横に立って簡単なルール説明を行っていた、薄いブルーのシャツに黒い蝶ネクタイの女性が二人に握手を促すと、二人は相手を睨んだまま両手を合わせた。そして、二人の手が離れると、由佳梨は自分に割り当てられた赤コーナーへと戻り、白いマウスピースを噛み締めた。

 やがて、観客席からの声援が一段と大きくなったところに、乾いた金属音が鳴り響いた。二人の娘はリングの真ん中へと進んでいった。


 二人の距離がお互いに手を伸ばせば届くまでになったとき、濃い緑色のリングコスチュームの娘がいきなり由佳梨に襲い掛かってきた。由佳梨も臆することなくキャンバスを蹴り、二人の娘は組み合った。が、相手の娘は由佳梨の足に自分の足を掛け、全体重を由佳梨に預けてきた。「しまった」と思った時にはもう遅く、由佳梨はなす術なく、そのまま後ろ向きに倒された。

 キャンバスに身体がつく直前、由佳梨は本能的に腕を下ろして、身体を庇ってしまった。そして、由佳梨が腕を位置をガードのポジションに戻す前に、緑色のコスチュームの娘は、由佳梨の大きな胸を覆っているトップスの少し上の位置に腕を伸ばしてきた。




Scene. 7


「……… く ……… くうっ、…………」

 由佳梨の目の前では、レフェリーがさかんにギブアップするかどうかを尋ねていたが、その姿が視界には入り込んでこないほど、由佳梨は動転していた。観客席から湧き上がる声も、由佳梨の耳には届いて来なかった。

 まだ試合が始まってから二十秒と経っていない。それなのに、すでに由佳梨は一回り身体の小さい相手に背後に回られ、致命的な状況に追い込まれてしまっていた。チョークスリーパー。相手の娘のそれほど太くない腕は、由佳梨の首にがっちりと巻きつけられていた。

   ………… 締め落とされちゃう。…………

 この状況が続くとどうなるのか、それだけは由佳梨にもはっきりと認識できた。由佳梨は小さな呻き声を上げ、オープンフィンガードグローブをつけた手を首に回された相手の腕に近づけ、わずかな隙間の中に指を捩じ込もうとしていた。

 場外に逃げる可能性も、由佳梨には残されていなかった。青い三本のロープが張られたリングのほぼ中央で、相手の足は由佳梨の胴体にしっかりと絡み付き、由佳梨の身体から自由を奪っていた。

   …… このまま何もできずに負けるなんて。……

   ……… そんなの絶対に嫌だ。………

   ………… 何とか、…… 何とか脱出しなきゃ。…………

 由佳梨の悲壮な願いもむなしく、戦況はまったく好転しなかった。白いマウスピースを口から覗かせている由佳梨の顔からは、徐々に表情が失われていった。

 やがて、由佳梨の全身から力が抜け落ちた。レフェリーは、相手の娘の腕を素早く二度三度とタップして、攻撃の手を止めるように命じ、すぐに試合終了のゴングをタイムキーパーに要請した。そして、相手の娘が由佳梨の首から腕を解くと、レフェリーは、薄目を開けたままぐったりとしている由佳梨の口から、急いでマウスピースを抜き取った。由佳梨の意識は、完全に吹き飛んでしまっていた。

 試合時間、わずか三十四秒。自分から一度も攻撃を仕掛けることができないまま、由佳梨のデビュー戦は無残な失神KO負けに終わった。




Scene. 8


 派手なピンク色がお気に入りのモデル事務所の所長は、事務所の応接セットであるソファに腰を下ろし、彼女のすぐ横にいる、前の日にリングの上で失神させられてしまった娘の頭を優しく抱いて、娘が泣き止むのを待っていた。

「…… 所長、本当に申し訳ありません。…… いろいろお世話になったのに、…… あんなことになってしまって。………」

「…… いいのよ、由佳梨ちゃん。…… あなたは、よく頑張ったわ。……」

「…… でも、…… 私、……」

 所長は、由佳梨の勝ち目は薄いと踏んでいた。ただ、あんな形で、…… 一分と持たずに、何もできないまま試合が終わってしまうとは。…… 所長は、自分がスカウトしただけあって、由佳梨の、真面目で、一本気な性格を良く知っていた。それがわかっているだけに、由佳梨の悲しみ、悔しさは、彼女にも痛いほど感じられた。

 腕の中で泣いていた由佳梨が何とか泣き止んだので、所長は由佳梨の頭から腕を解いた。所長がほっと溜息をついて、由佳梨に何か優しい言葉をかけてあげようと思ったとき、事務所のドアが開いた。

「慶ちゃん。」

「慶子さん。」

 事務所に入ってきた若い女性の顔を見て、応接セットのソファに腰を下ろしていた二人は、彼女の名前をほぼ同時に口にした。

 由佳梨に「慶子さん」と呼ばれた娘は、ぴんと背筋を伸ばして、ソファに腰を下ろしている由佳梨の前に歩み寄り、由佳梨に嘲るような視線を向けて口を開いた。

「デビュー戦を飾れなくて、残念だったわね。…… あなたがどれだけ努力したかは知らないけれど、格闘の世界は結果がすべてだわ。…… リングの上で失神しちゃったんだってね。さぞかし、自分の力の無さを思い知ったことでしょうねぇ。お嬢ちゃん。」

「慶ちゃん。……… あんた、何てこと言うの? 由佳梨ちゃんはあんなに一生懸命闘ったじゃないの。…… 確かに結果は伴わなかったけど、由佳梨ちゃんが今までとれだけ頑張ってきたのか ……」

 慶子に食ってかかろうとする所長に縋りつくようにして、由佳梨は必死に彼女を押しとどめた。

「いいんです、所長。…… 慶子さんの言う通りです。…… 私の力が足りなかったから、…… 私が弱いから、あんなに簡単に負けてしまったんです。……」

 まだ何か言いたそうにしている所長に一瞥をくれたあと、慶子は含み笑いを洩らし、さらに由佳梨に言葉を投げつけた。

「良くわかってるじゃないの、お嬢ちゃん。…… 格闘家になりたいと思ってる娘は、世の中にたくさんいる。その娘たちに、一年やそこらの修行で勝てると思っていたんだったら、それはとんでもない間違いよ。…… 悔しいでしょう。…… 悔しかったら、もっと自分を磨きなさい。」




Scene. 9


 神崎慶子と北原由佳梨。

 二人は事務所の中で誰も知らない者のない、犬猿の仲だった。いや、慶子が一方的に由佳梨を嫌っていた、と表現した方が正しいだろう。

 由佳梨より三つ年上の慶子は、十八歳のとき、由佳梨より一年ほど先に、由佳梨と同じ事務所の所属になった。慶子の夢は、アクションスターになること。それまでに少しでも顔を売ることを目的として、慶子はこのモデル事務所に籍を置くことにした。

 慶子が由佳梨を嫌っている理由は、「プロ意識が感じられない」と言うことだった。

 慶子は、巷にいる同じ年頃の娘に比べれば遥かに魅力的な容貌とボディではあるものの、アクションスターとして大成するためには、まだまだ自分の魅力では足りないということを自覚していた。デビューを果たすことができずに、無駄な努力に終わってしまうかも知れないが、そうすることでわずかでもチャンスが生まれるのなら、…… 慶子は毎日スポーツジムに通い、その身体に磨きをかける労を惜しまなかった。

 そんな慶子は、自分を売るための努力をしようとしない由佳梨が嫌いだった。それでも由佳梨は全国版の少年誌のカラーグラビアで扱われるまでになった。慶子は、一度きりではあるが、何も努力することなく全国レベルの仕事を手にした由佳梨に激しい嫉妬を覚えた。

 慶子にとっては、由佳梨はそれだけでも憎い存在だったが、由佳梨が十七歳のとき、さらに二人の仲をこじれさせる事件が起こった。

 当時、慶子には、広告代理店に勤務している恋人がいたが、二人が付き合い始めて半年もすると、彼は嫉妬深い慶子に嫌気が差し、慶子と別れようと考え始めた。ちょうどその頃、彼の扱っている仕事に由佳梨が起用され、時を同じくして、彼は慶子の前から姿を消した。もちろん由佳梨と慶子の恋人は仕事上の付き合いだけの関係だったが、慶子はそれを、由佳梨が自分から恋人を奪い去ったと感じ取った。

 この事件以降、慶子はあからさまに由佳梨に対して暴言を吐くようになった。「おっぱいが大きいだけで、それ以外は何の取り柄もない娘」。慶子はことあるごとにそう言い続けた。由佳梨が面と向かってそれに応戦してしまうことが何度か続き、二人の不仲は決定的なものになってしまった。

 それほど規模の大きくないモデル事務所にとって、二人は重要な戦力だっただけに、この二人の仲がどうにもならないほどになっていることは、所長にとって大きな頭痛の種だった。他の所属モデルやスタッフたちにも、その雰囲気は充分に伝わっていた。慶子と由佳梨を同席させてはいけない。それはこの事務所の不文律となっていた。




Scene. 10


 由佳梨の泣き声が、それほど広くない事務所の中に、再び洩れ出した。

「慶ちゃん。それ以上言ったら、私が許さないわよ。」

 所長は眦を立てて慶子を睨んだが、慶子は小さく息を吐き出して、表情を緩め、俯いた。

「…… 所長、…… もう、いいんです。……… 私、今日でここを辞めます。……」

 所長は、「慶ちゃん…」と言ったきり、黙ったまま慶子の顔を見つめた。慶子は所長の顔にちらっとだけ視線を向け、再び足元に視線を落とした。

「今、決めたことじゃありません。…… 事務所を辞める。今日は、それを伝えに来たんです。……」

 性格は少し歪んではいるものの、所長は慶子の持つプロ意識には一目も二目も置いていた。どんなに意にそぐわない仕事であっても、その仕事を受けて報酬を頂く以上は、誠心誠意クライアントに尽くす。自分がプロであると意識してそれができるのは、事務所で抱えているモデルたちの中で慶子一人だけ。まだまだ後輩のモデルたちに伝えてもらいたいことはたくさんある。……

「慶ちゃん。…… 本気なの? …… 本当に、ここを辞める気なの?」

「…… ええ。…… 私、東京へ行くことにしました。今、私が通っているジムの、東京のオフィスで雇ってもらえることになったんです。身体を鍛える環境もあちらは整っていますし、できるだけ早く上京したいんです。…… 急な話で申し訳ありませんが、近いうちにこちらを発つことにしました。……」

 所長は、慶子がそう言い終わって口をつぐんでも、しばらくの間、俯いた慶子の顔を見上げたままだった。

  今、慶子を失うのは、いろいろな意味で事務所にとって大きな痛手だ。何とか説得して、事務所を辞めることだけは考え直してもらいたい。…… だが、慶子の意思の強さは筋金入りだ。…… 一度事務所を辞めると言い出した以上、どんなことをしても引き止めることはできないだろう。……

 やがて、彼女は大きな息を洩らし、重い口を開いた。

「…… わかった。…… あなたを失うのは本当に惜しいけど、もう諦めることにする。…… 東京へ行っても頑張るのよ。………… 慶ちゃん、…… 長い間、ありがとう。……」

 慶子はそれに応えるように、小さく頷いた。

 少し仲の悪い娘もいたけれど、この事務所は居心地の悪い場所ではなかった。…… そんな想いを断ち切るため、悪役になって、すっぱり事務所を出て行くと決めていた慶子だったが、所長に「ありがとう」と言われると、少しだけ未練が込み上げてきた。それでも慶子は努めて冷たい表情を繕い、もう一歩、由佳梨に近づいた。

 由佳梨の視界には慶子の靴が見えていたが、由佳梨には顔を上げることができなかった。そんな由佳梨に、慶子の声が飛んだ。

「由佳梨、あなたには今まで随分辛く当たったけど、あたし、あなたには謝らないでここから出ていくわ。…… あなたにはプロ意識が足りない。…… 由佳梨、あなた、強くなりたいんでしょう。だったら、いつまでもこんなところでめそめそしていないで、さっさと帰って練習に励みなさい。あなたがここで泣いている間も、ライバルの女の子たちは、一生懸命自分の身体を苛めているのよ。」

 吐き捨てるようにそれだけ言うと、慶子は事務所のソファに腰を下ろしている所長と由佳梨のちょうど真ん中になる位置に立ち、深々と頭を下げた。そして頭を上げて踵を返し、四年近く在籍を続けたモデル事務所のドアに歩み寄ると、ためらうことなくそこを通り抜け、後ろ手に静かにドアを閉めた。




Scene. 11


 あなたがここで泣いている間も、ライバルの女の子たちは、一生懸命身体を苛めている。…… 慶子の言葉は、相変わらず泣き続けていた由佳梨を、すぐに動かした。慶子が事務所を出て行ったすぐあと、まだ涙で顔をぐちゃぐちゃにしていた由佳梨も事務所を後にし、そのまま普段通い詰めているスポーツジムへ向かった。その日由佳梨は、いつもより重い負荷を自分に課し、一日中涙をぼろぼろ流しながらトレーニングを続けた。


 もう一度『GGR』のリングに上がり、何としても前回の汚名を晴らす。由佳梨はそう心に誓い、それまで以上に身体を苛め始めた。

 激しいトレーニングを続ける中にあって、苦しい、辛いと感じることは毎日のようにあった。が、そんなとき由佳梨は、胸に深く刻み込んだ慶子の言葉を思い浮かべた。

   …… 悔しいでしょう。…… 強くなりたいんでしょう。……

   …… 強くなりたいのなら、もっと自分を磨きなさい。……

 その声を思い出すと、由佳梨はどんなに辛いトレーニングにも耐えることができた。


 所長が予想していたように、今まで鳴りを潜めていたいた由佳梨に対する仕事の依頼が、何件か事務所に申し込まれるようになってきた。

 仕事の依頼が来るのはとてもありがたいこと。でも、今の由佳梨は、『GGR』という名の火遊びに手を出し、大火傷を負った世間知らずの元アイドル、という目で見られている。それではあまりにも由佳梨がかわいそうだ。できることなら、もう一度由佳梨がリングの上で闘う姿を世間に見てもらってから、…… 由佳梨もそう望んでいるはず。…… 所長はそう考え、由佳梨に対する仕事の依頼を断り続けた。

 由佳梨も今のままでは世間に顔を晒したくないと思っていたが、それはあまりにも所長の好意に甘え過ぎで、少しずつでも仕事を受けて事務所の利益に貢献し、今まで自分の面倒を見てくれた所長に恩返しをしないと、と考え始めた。

 「仕事を受けてもかまわない」との由佳梨の申し出を、所長は聞き入れることにした。ただ、所長は、「由佳梨を、アイドルとしてではなく、一人の格闘少女として取り扱ってくれるところだけ」という厳しい制限を設け、慎重に仕事を選ぶ努力を怠らなかった。


 屈辱に満ちたデビュー戦から一年近くが経過した。その間、一日たりとも休まずにトレーニングを続け、自信を取り戻した由佳梨は、再び『GGR』のリングに上がる意思を固めた。

 所長にそれを告げる際に、由佳梨は、過去のイメージを払拭するため、リングネームを『YUKARI』から本名の『北原由佳梨』に変え、コスチュームも上下黒のものを用意して欲しいと所長に願い出ると、彼女もこれに賛同した。

 前の年、一抹の不安を抱えながら由佳梨をリングに上げた所長も、今回は胸を張って由佳梨をリングに送り出せることを誇らしく思った。彼女はすぐに、『GGR』の事務所へ由佳梨が出場を希望している旨の連絡を入れた。




Scene. 12


「もう絶対に無様なファイトはできない。…… それなのに、私は、……」

 一年振りの『GGR』会場の控室で、由佳梨は肩を落とし、荒い呼吸を繰り返していた。

 由佳梨が三日前に引いてしまった風邪は、まさにこのときがピークだった。由佳梨は、自分があまりにも体調管理に無頓着であったことを激しく悔いていた。…… あなたにはプロ意識が足りない。…… 慶子の言葉が、由佳梨の心に重くのしかかっていた。

 あまりの体調の悪さに、意識も少しぼんやりしていたので、「そろそろリングインしてください。」という係員の声にも、由佳梨はすぐに反応できなかった。「はい。」と力のない返事をして、由佳梨は椅子から腰を上げた。そして、オープンフィンガードグローブを装着した手でマウスピースを掴み、少し肩を落としたまま、控え室を後にした。

 リングに向かう由佳梨には、たくさんの声援が飛んだ。

「あんなに私を応援してくれる人がいるのに、私は、何よりも大切な、ベストの体調で試合に臨むということができなかった。……」

 由佳梨には、自分に向けられている声援一つ一つが重荷に感じられた。できることなら目を背け、ここから逃げ出してしまいたい。…… もちろんそんなことはできないし、会場に詰め掛けた観客にも、相手の娘にも、落胆している様子を見せるわけにはいかない。…… 由佳梨は表情を取り繕い、少し伏目がちに前を向いて、ゆっくりとリングへと歩を進めた。

 由佳梨がリングに上がると、間もなく試合に出場する二人の選手のリングコールがあった。上下白のリングコスチュームを身につけている相手の娘より、由佳梨のコールに対する声援は遥かに大きかったが、由佳梨には、コーナーマットに寄りかかっていた重い身体を一歩前に押し出し、リングの真ん中に向かって小さく一礼するのが精一杯だった。

 試合前、レフェリーに呼ばれた由佳梨は、リングの中央に進み出て相手の娘と対峙した。実際に相手を目の前にすると、身体のだるさはあまり気にはならなくなった。が、由佳梨には、少しでも気を抜くと、自分の体調の悪さが顔に出てしまうのではないかと感じられた。由佳梨は必死に相手の娘の顔を睨みつけた。

 その日の由佳梨の相手は、『GGR』に出場することができる年齢制限をクリアしたばかりの十八歳で、もちろんこの試合がデビュー戦ではあるものの、空手道場、キックボクシングのジムに長い間通っている娘だった。その娘は、目の前の由佳梨の目を見つめたまま、盛んに身体を小さく動かしていた。




Scene. 13


 試合開始のゴングの音と共に、オープンフィンガードグローブを手にした二人の娘は、それぞれのコーナーを離れ、ゆっくりとリングの中央へ歩み寄った。

 二人の距離が近づくと、相手の娘は、由佳梨に二度、三度とローキックを放ってきた。由佳梨はこのキックに冷静に対処したが、ダメージを軽減するために足を浮かせるだけで、由佳梨は少しふらつくような感覚に陥った。

 やがて由佳梨は、相手の娘がローキックを出したすぐ後のタイミングを見計らってタックルを仕掛けた。二人はもつれ合うように倒れたが、相手の娘も、グラウンドに持ち込まれたら自分が不利になるということは充分承知していたので、すぐに由佳梨にぴったりと身体をつけ、締め技、決め技に持ち込まれるのを防いでいた。

 キャンバスの上でしばらく揉み合っていた二人の娘がロープのすぐ近くまで来てしまったので、レフェリーを務める女性がブレイクを命じた。相手の娘はすぐに由佳梨の身体から離れて立ち上がったが、由佳梨は少しの間立ち上がることができなかった。ほんの数十秒の間に、由佳梨の息は完全に上がってしまっていた。

 それでも由佳梨は自分の体調の悪さをひた隠しにして、できるだけ平静を装ってゆっくりと立ち上がった。が、すでに激しく体力を消耗してしまっていた由佳梨の心中は穏やかではなかった。

   …… 試合が長引けば、体力に余裕のない私に勝ち目はない。……

   …… できるだけ早く、…… 一刻も早く、試合を決めないと。……

 そのためには、少し無理をしてでも相手に組み付き、グラウンドに持ち込む。…… そう由佳梨は判断した。

 レフェリーが「ファイト」の声をかけるのと同時に、由佳梨は少し腰を屈めてキャンバスを蹴り、相手の娘に向かって突進した。組み付く …… 由佳梨はそのことだけに気を取られ、相手の打撃に対する防御を敷くことをおろそかにしてしまっていた。無造作に近づいてきた由佳梨に対して、相手の娘は、素早く右腕を振った。

 ぐしゃ、という鈍い音が、リングの上で起こった。その瞬間、由佳梨の顔は醜く捻じ曲がっていた。

 打撃を得意とする娘の右の拳が、由佳梨の頬を打ち抜いていた。

 由佳梨は両膝を折り、そのままのめるようにキャンバスに崩れ落ちた。




Scene. 14


 濃い水色のシャツと黒い蝶ネクタイを身につけたレフェリーの女性が二人の間に割り込み、白いコスチュームの娘にニュートラルコーナーへ向かうように指示した。そして彼女は、目の前でうつ伏せに倒れている黒コスチュームの娘の顔のすぐ近くにひざまずき、ダウンカウントをスタートさせた。

「……… ワン、……… トゥー、……… スリー、………」


 由佳梨はレフェリーに向かって、ファイティングポーズらしきものを取っている自分に気付いた。由佳梨は意識を失ったまま、二年足らずの間に培ってきた闘争本能だけで立ち上がっていた。由佳梨にはカウントの進行状況が呑み込めていなかったが、それはすでに後半に入っているようだった。

 由佳梨へのダウンカウントをエイトで止めたレフェリーは、由佳梨の顔を覗き込み、「まだできるか?」と尋ねてきた。由佳梨はマウスピースを噛み締めて、小さく頷いた。その仕草を見たレフェリーは、ニュートラルコーナーに控えている白いコスチュームの娘に視線を投げたあと、「ファイト」とひと声かけて、一歩退いた。

 試合続行の意思表示をした由佳梨だったが、まだその場から一歩も動くことができなかった。身体がふらふらする、…… その原因は、体調不良とは明らかに違っていた。

 相手の娘は、すぐに由佳梨に襲い掛かってきた。ミドルレンジからローキック、ミドルキックを何発か放ったあと、必死にガードを固める由佳梨に向かって、その娘は一歩前に出て、拳を振るい始めた。

 このままでは相手の打撃の餌食になるだけ、…… そう感じ取った由佳梨は、ガードをがっちり固めたまま相手に体重を預け、何とか相手の娘に身体を密着させようとした。が、相手の娘は由佳梨の頭を抱え込むと、一旦全体重をかけて由佳梨をロープ際に押し込み、渾身の力を込めて膝蹴りを放った。

 由佳梨が相手の身体との空間を埋める前に、打撃娘の膝が由佳梨のお腹にめり込んだ。

 「ぐぅっ…」と呻き声を洩らした由佳梨の身体が少しだけ沈み込んだ。この一撃で、さらに大きなダメージを受けた由佳梨は、膝蹴りを防ぐために相手に身体を合わせることができなくなってしまっていた。由佳梨は身体を丸め、腕で身体の前面をできるだけ防御できる体勢を取ったが、打撃娘は続けざまに強烈な膝蹴りを飛ばし続けた。

 由佳梨の必死の防御も、打撃娘の膝蹴りの嵐によって、ついには決壊してしまった。由佳梨のお腹に、再びまともに膝蹴りが入り、由佳梨は崩れ落ちるようにキャンバスに腰を落とした。




Scene. 15


「…… あぅ …… あうっ ……」

 マウスピースを口から半分覗かせた由佳梨は、片手で激しく痛むお腹を抑え、もう片方の手と両膝をキャンバスについて、苦しそうな呻き声を上げた。吐き気を伴ったお腹の痛みは、強烈な力で由佳梨から戦意を毟り取ろうとしていた。

 それでも由佳梨は、必死に自分を問い詰めた。

   …… 私は、何のためにこのリングに戻ってきたの? ……

   ……… このままじゃ、…… このままじゃ、絶対に終われない。………

 由佳梨が手をキャンバスから離し、両足だけで立ち上がったときには、ダウンカウントはすでにセブンまで進んでいた。由佳梨は、はみ出したマウスピースを口の中に押し込み、鉛のように重い身体をレフェリーに向けた。そして、「試合を続けさせてください」という表情を顔一杯にして、レフェリーの女性を睨んだ。

 由佳梨にダウンカウントを告げているレフェリーは、「エイト」と口にしたときまでは、由佳梨をカウントアウトし、試合を止めるつもりでいた。が、苦しそうにお腹を抑えてはいるものの、闘志を剥き出しにした顔を向け、自分を睨んでいる由佳梨の迫力に、彼女は気圧された。

 レフェリーの女性はカウントをナインで止め、由佳梨の顔をじっと見つめたあと、再びニュートラルコーナーを背にしていた娘に、試合続行の合図を送った。


 何とか試合を続ける権利を手に入れたものの、由佳梨にはもう後がなかった。試合はスリーノックダウンシステムを採用しているので、次のダウンで自動的にKO負けになる。…… 例えここで守りに入っても、体力のほとんど残っていない自分に勝機はない。…… 由佳梨は、捨て身の戦法を選んだ。

 白いコスチュームの娘が、ゆっくりと由佳梨に近づいてきた。由佳梨は、叫び声を上げながらキャンバスを蹴り、相手の娘に向かって突進しようとした。

 由佳梨が前に足を運んだのと同時に、打撃娘は身体を捻り、一瞬だけ遅れて、彼女の右足が、大きく、綺麗な円を描いた。そして何分の一秒かの後、娘の脛が由佳梨の側頭部を確実に捕えた。

 次の瞬間には、由佳梨の身体は真横に吹き飛んでいた。

 試合終了のゴングの音が、由佳梨の耳に届くことはなかった。由佳梨は最後の一撃を食ったとき、キャンバスに着地する前に失神してしまっていた。




Scene. 16


 由佳梨が意識を取り戻したとき、由佳梨の目には、由佳梨を見下ろしているいくつかの顔が映っていた。心配そうな表情をしている、白いリングコスチュームを身につけた娘、レフェリーをしていた女性、それに、自分の顔に触れている、白衣を纏った四十年配の女の人………

 由佳梨が自分の目の前に並べられた顔を見渡すように、ゆっくり視線を動かすと、白衣の女性の顔にホッとした表情が浮かぶのが見えた。それと同時に、由佳梨は、一年前の試合と同様に、この試合もリングの上で失神してしまったことを悟った。

 相変わらず自分の顔に指で触れている白衣の女性が、「大丈夫?」と訊いたような気がしたので、由佳梨は小さな声で「はい。」と答えた。すると、白衣の女性は、安心したように、大きく息を吐き出した。

 まもなく、用意された担架の上に乗せられ、大きな胸の膨らみのすぐ下あたりに両手を置いた由佳梨は、そのまま医務室へと運ばれた。その途中、由佳梨がリングの上に少しだけ視線を移すと、つい今しがたまで自分に強烈な打撃を見舞っていた白いコスチュームの娘が小さく頭を下げ、タキシードを纏った男性から何かを受け取っている姿が見えた。


 医務室のベッドの上に横たわり、由佳梨は入念なボディチェックを受けていた。

 失神するほどまでに打ち負かされたダメージのせいか、皮肉なことに、風邪の影響による体調の悪さは、由佳梨には感じられなかった。しかし、またしても無残な敗戦を喫してしまったという事実は、由佳梨の身体からあらゆる力を奪い去っていた。

   …… また負けた。……

   ……… 汚名返上どころか、自力でリングを降りることさえできなかった。………

   ………… また、無様な姿を、リングの上で晒してしまった。………

 そんな言葉を心の中で呟きながら、由佳梨はぐったりとした身体を医務室のベッドに横たえていた。由佳梨には、悔しさを感じるだけの力さえも残っていなかった。

 やがて、医務室のドアが開いた。由佳梨がその音に気付いてドアの方に視線を向けると、事務所にいるときよりも少しラフな感じの服を身につけた所長の姿が由佳梨の目に映った。

 ドクターから、「後遺症が残るようなケガはしていないでしょう。」とのコメントを受け取った所長は、大きな安堵の息を吐いた。そのあと、ドクターに許可をもらった所長は、由佳梨の寝かされているベッドに近づき、由佳梨の上半身を起こして、優しく由佳梨の頭を抱いた。由佳梨もそれに甘えるように、所長の身体に腕を回した。

「由佳梨ちゃん、…… 今日はきっと調子が悪かったのよね。……」

 所長が由佳梨を慰めるつもりで口に出したこの一言は、激しく由佳梨を揺さぶった。

 確かに体調は最悪だった。…… でもそれは誰の責任でもない、すべて自分の不注意がもたらしたことだ。…… そのせいで、私は一年間の努力をすべて棒に振っただけでなく、一生懸命自分の面倒を見てくれた所長に、とんでもない迷惑をかけてしまった。……

 由佳梨の目に、一気に涙が溢れてきた。

「うわあああああああああぁぁぁぁぁ ……」

 由佳梨の泣き声が、医務室に響き渡った。

 由佳梨は所長の服を強く握り締め、大声を上げて泣いた。泣けば泣くほど、抗いようのない悔しさが込み上げてきた。由佳梨は所長の胸に顔を強く押し付けたまま、ただひたすらに泣きじゃくった。




Scene. 17


 念のため、由佳梨は入院して精密検査を受けることになった。検査の結果、試合当日のドクターの見立て通り、由佳梨の身体には異常は見当たらなかった。

 しかし、由佳梨の心には、大きな後遺症が残ってしまっていた。

 由佳梨本人も、始めはそれに気付いていなかった。が、由佳梨が退院してトレーニングを開始し、週に一度通っているボクシングジムでのスパーリングに臨んだとき、それははっきりと露呈された。

 大きなヘッドギアをつけて練習用のリングに上がった由佳梨は、スパーリング開始のブザーの音が鳴り、リングの中央に歩み寄っていったとき、何か違和感のようなものを感じた。そして、いつもスパーリングパートナーをしてもらっているプロの女子ボクサーが由佳梨の顔に向けてパンチを振り出そうとしている姿が見えたとき、由佳梨は、「きゃあっ」と声を上げ、両手のグローブで顔を覆ってしまった。

  ……………… 怖い。………………

 両腕をガードのポジションに上げ、亀のように身体を丸めたままになってしまった由佳梨は、そのままロープに追い詰められ、パートナーの連打を浴びた。由佳梨の異変に気付いたパートナーがパンチの手を止めると、由佳梨はその場にへたり込んでしまった。

 パートナーがキャンバスに腰を落としている由佳梨に、「由佳梨ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」と声をかけたが、あまりのショックに、由佳梨の耳には、その声は届いていなかった。

「由佳梨ちゃん、まだ身体が元に戻ってないみたいね。…… じゃ、今日はここまでにしておきましょ。… ね。」

 結局、スパーリングはその場で中止になり、由佳梨はリングを降りた。由佳梨は、「体調があまり良くないようなので、今日は帰ります。」と言い残し、ロッカールームに向かった。

 ロッカールームの椅子に腰を下ろした由佳梨は、前回の敗戦によって植えつけられた後遺症に愕然としていた。

   ………… 怖い。……… 顔を殴られるのが、たまらなく怖い。…………

 着替えを終えた由佳梨は、がっくりと肩を落としてボクシングジムを後にした。ボクシングジムから家に戻る途中、由佳梨の瞳から涙がこぼれ落ちてきた。

   …… こんな身体じゃ、『GGR』のリングに上がることなんてできない。……

 その涙は、家に着くまで止まることがなかった。


 このままでは、私はだめになってしまう。…… 由佳梨は気を取り直し、次の週もボクシングジムを訪れてスパーリングに臨んだ。しかし、結果は変わらなかった。

 ヘッドギアの上から一発顔にパンチをもらうだけで、由佳梨は何もできない身体になってしまっていた。両手のグローブで顔を覆い、身体を丸めるだけ、……

 顔への打撃に対する恐怖感は、由佳梨の心に強く根を張り、由佳梨を嘲った。

 由佳梨は前の週と同じように、ボクシングジムから家へと帰る道のりを、泣きながら歩き続けた。


 次の週、由佳梨の足がボクシングジムへ向くことはなかった。

 …… こんな身体でスパーに臨んでも、きっと前の週と同じ結果になるんだ。顔を一回殴られるだけで、何もできなくなっちゃうなんて、涙が出るほど恥ずかしいし、ジムのみんなに迷惑をかけるだけ。……

 一度練習を休んでしまうと、「練習を休んだ」という事実は、さらに由佳梨を追い詰めた。それは顔への殴打に対する恐怖感と相まって、由佳梨から、『GGR』出場に対する意欲を奪い去ってしまった。由佳梨の足は、毎日通っていたスポーツジムからも、だんだん遠のいていった。




Scene. 18


 二度目の失神KO負けからひと月ほど経ったある日の午後、由佳梨は、モデル事務所の応接セットに腰を下ろし、テーブルを挟んで所長と対面していた。

 ただならぬ雰囲気で由佳梨が事務所に入ってきたときから、所長は、由佳梨の口から良い知らせが聞けることは間違ってもないと覚悟を決め、由佳梨を事務所の隅にある応接セットの椅子に座らせた。

 何も言わず、しばらくの間、辛そうに俯いていた由佳梨の口が、ようやく開いた。

「…… 所長、ここを辞めさせてください。……」

 何となくそんな予感はしていたものの、その一言が実際に由佳梨の口から出たとき、所長の受けたショックは小さくなかった。彼女は 「由佳梨ちゃん、あなた、何を言い出すの?……」とだけ言って、黙ってしまった。由佳梨もまた、しばらく口を閉ざしていたが、やがて辛そうに想いを吐き出した。

「…… 私、顔を殴られるのが怖いんです。…… この前の試合に負けたあと、ボクシングジムで二度スパーをしたけど、二度ともだめでした。…… こんな身体じゃ、とてもじゃないけど、『GGR』に出ることなんてできないし、格闘家として生きていくことなんてできない。……」

「………………」

「…… 所長にはすごく感謝してます。わがままを聞いていただいただけじゃなく、こんな私を、格闘家としてあんなにも応援していただきました。…… 私、一度はリングの上で勝ち名乗りを受けたい、そうすることで、所長に恩返しをしたいと思って、自分なりに今まで頑張ってきました。…… でも、それももう無理です。私はもう、リングに上がれる身体じゃない。……」

 由佳梨の声がだんだん涙声になってきた。所長は、相槌を打つことすらできず、黙って由佳梨の告白に耳を傾けていた。

「…… 私は今、事務所では曲がりなりにも『格闘少女』として売ってもらっています。でも、今の私は、……… 私には、もうアイドルとしての価値もないし、『格闘少女』としての価値もない。…… 私、この事務所に籍を置いておくのが辛いんです。…… お願いです、所長、…… 私を見捨ててください。……」

 由佳梨がそれだけ言い切ってしまうと、二人の間を重い沈黙が支配した。やがて、所長は大きな溜息をひとつ吐き出し、口を開いた。

「…… わかった。由佳梨ちゃんがどうしても、っていうのなら、そうしてあげる。しばらく、ゆっくり休みなさい。…… でも私は、このまま由佳梨ちゃんと縁が切れてしまうのだけは嫌なの。だから、もしまたモデルのお仕事がしてみたいと思ったら、私に連絡ちょうだい。…… ね、由佳梨ちゃん。」

 由佳梨は、形だけ首を縦に振って、事務所を後にした。が、由佳梨は、迷惑をかけるだけかけてしまった所長の顔を見るだけでとても辛いし、もう二度とこの事務所に足を運ぶこともないだろう、と思っていた。


 格闘家への道を断念してジム通いをやめ、モデル事務所からも離れてしまうと、由佳梨を待っていたのは、何となく足が地につかないような、空しい毎日だった。こんなことではいけないと思いつつも、由佳梨は次の目標を見つけるための努力をする気にもなれなかった。

 そんな折、自宅のパソコンでインターネットをしていると、由佳梨の目に、『GGR』次回開催の情報が入ってきた。それは、三週間後に、東京で開催されることになっていた。

 最後に、もう一度だけ『GGR』を観戦して、自分が憧れたリングを目に焼き付けておこう。…… とても満足のいく結果は残せなかったけど、二年に渡って、自分なりに一生懸命頑張ってきたのは、このリングの上で輝きたかったからだったんだ。…… せめてそれを良い想い出として残しておこう。…… そして、それを見届けたら、格闘家への想いをすっぱりと断ち切り、新たな進路を探そう。…… 由佳梨はそう考えた。

 由佳梨はチケットの取り扱いをしている業者に連絡を取り、比較的隅の方の、目立たない位置にある席を一つ予約した。




Scene. 19



 『GGR』への想いを断ち切る、由佳梨がそう決めた日がやってきた。由佳梨は、落ち着いた気持ちで試合会場に向かい、エントランスでプログラムとスナック類を購入して場内に入り、自分の席に腰を下ろした。

「あれ?」

 プログラムに目を通した由佳梨は、思わず声を上げてしまった。

 プログラムが印刷された後に出場選手の変更があったらしく、対戦スケジュールを記載したページの一部がゴム印のようなもので修正されていた。あらかじめ印刷されていた一人の選手の名前とプロフィール欄に二本の横線が引かれ、そのすぐ上に、その選手の変わりにリングに上がる選手の名前が記されていた。

 神崎慶子。

 由佳梨はその名前の上に目を落としたまま、その場で固まってしまった。由佳梨の脳裏に、一年前、モデル事務所のソファに腰を下ろし、涙を流している自分の目の前で、罵倒とも檄文とも受け取れる台詞を残して去って行った、慶子の姿が浮かんできた。

 写真が掲載されていないので、本人かどうかはわからない。しかし、「神崎」という姓はそれほどありふれたものではないし、名前までまったく同じ。同姓同名の選手が存在すると考える方が不自然だ。……

 慶子さんが、今日、私の目の前で、『GGR』のリングに上がる。………


 心を落ち着けて、最後の観戦を楽しむ、…… そんな由佳梨の予定は、どこかへ行ってしまった。スケジュール通りに試合が進み、「神崎慶子」という名のファイターの出番が近づくにつれて、由佳梨の心臓の高鳴りは大きくなっていった。

 やがて、その試合の順番になると、青コーナーから、上下黒のコスチュームに身を包んだ精悍な顔立ちの女性がリングに上がった。それは紛れもなく、一年前に突然モデル事務所を後にした、慶子の姿だった。

 少しだけ年下に見える相手の打撃に手を焼きながらも、試合が始まってから五分ほどした頃には、慶子は相手の娘の腕をがっちりと掴んで捻り上げ、ギブアップを奪い取っていた。

 試合が終わったあと、慶子は無表情のまま勝利者賞を受け取り、観衆の声援に応えることもなく静かにリングを降り、控室へと消えていった。


 慶子の試合が終わったあと、由佳梨は呆然と席に座り込んだままになってしまった。リングの上では次々に試合が進んでいっていたが、息苦しそうに呼吸を続ける由佳梨の目は、リングに向けられてはいなかった。

 意を決した由佳梨は、慶子がまだ残っているであろう控室を訪ねることにした。観客席を離れた由佳梨は、手にしていたスナックを途中のゴミ箱に投げ捨て、まっすぐに選手控室のあるスペースに向かった。




Scene. 20


 由佳梨が慶子に宛がわれていた控室に着き、ドアを開けると、白いTシャツの上にトレーナーを羽織り、スウェットパンツに着替えを終えた慶子が、大きなスポーツバッグに荷物を詰めているところだった。

 由佳梨が慶子のすぐそばまで来ると、慶子はちらっとだけ顔を向けたが、表情をまったく変えずに、すぐに手元のスポーツバッグに視線を戻した。

「…… あの、…… おめでとうございます。……」

「ありがと。」

 由佳梨が何とか慶子に声をかけても、慶子は由佳梨に視線を向けることなく、一言答えただけだった。しばらく黙ったまま慶子を見つめていた由佳梨は、プログラムの上に慶子の名前を見つけたときから不思議に思っていた疑問を、慶子に向けてみた。

「…… あの、慶子さんは、なぜ今日リングに上がったんですか? ……」

 慶子は相変わらず由佳梨に視線を向けることなく、スポーツバッグに荷物を詰める手を動かしていた。

「今日試合する予定だった人、あたしが今、世話になっているジムの先輩でね、あたしが東京に出てきてから、何かと面倒を見てくれた人だったんだ。…… でも、五日前にケガしちゃって、試合に出れなくなった。…… もうスケジュールの変更は利かないし、そのまま欠場しちゃうといろんな人に迷惑がかかる。…… だから、あたしが代わりに出ることにしたんだ。あたし、その人と体重も同じぐらいだったし、…… それだけのこと。」

 由佳梨は、そっけない態度を取り続ける慶子に、消え入るような声で、「そうだったんですか。……」と答え、床へと視線を落とした。

 荷作りを終えた慶子は、目の前で俯いている娘に、「由佳梨。」と声をかけてきた。由佳梨がそれに答えて顔を慶子に向けると、慶子は左手を大きく振りかぶり、由佳梨の顔をめがけて拳を振ってきた。由佳梨は、「いゃあっ」と声を上げて顔を背け、両掌を慶子に向けるようにして顔の前で広げた。

 由佳梨の掌の直前で拳を止めた慶子は、由佳梨の仕草を見て、大きな溜息を一つ洩らし、小さく鼻で笑った。

「やっぱりね。……… そんなことだろうと思った。…… あなたがこの前の試合で負けたあと、事務所を辞めたってことは聞いてるよ。…… その身体じゃ、『GGR』のリングに戻ってくるのは無理ね。……」

 由佳梨はリングへの夢を捨てた理由を慶子に隠すつもりはなかったが、慶子に面と向かってそれを指摘されると、急に悔しさが込み上げてきた。…… この恐怖感さえなければ、私はまだ『GGR』での勝利を諦めることなどなかった。……

 由佳梨は唇を噛み、目に涙を浮かべて、再び床に視線を落とした。しばらくそうして悔しさに耐えていた由佳梨は、ある疑問点に思い当たった。

 慶子はアクションスターを目指していたのだから、身体は日頃から鍛えていた。ただ、たとえそうであったとしても、慶子には格闘技の経験がないはず。…… なぜ、今日、慶子にはこれだけの試合ができたのか? ……

 由佳梨がそんなことを考えながら顔を上げ、再び慶子に視線を向けると、慶子は名刺のようなものを一枚手に取り、なにやらその上にペンを走らせていた。視線を名刺の上に落としたまま、慶子は口を開いた。

「あたしには、格闘技の経験がない。…… 由佳梨、あなた、そう思ってるんでしょ?」

 由佳梨が戸惑いながら、「はい。…」と答えると、慶子はふっと息を吐き出した。

「あたし、普段はここで闘ってる。」

 慶子は、手にしていた名刺を由佳梨に手渡した。

「あなたにその気があるなら、オーナーに口を利いてあげてもいいよ。…… ここのルールでは顔への攻撃は禁止だから、今のあなたにはちょうどいいかもね。…… ただ、ここで闘うんだったら、おっぱいは晒してもらうよ。あたしが闘っているのは、そういうとこだから。…… 興味があるようだったら、連絡ちょうだい。…… じゃあね。」

 慶子はそう言って、荷造りを終えたバッグを肩に掛け、手渡された名刺を見つめている由佳梨のすぐ横を通り抜けて、控室を出て行った。

 慶子の残していった名刺の表には、こう記されていた。


氷川麻耶レディーススポーツジム 東京営業所
 ジム運営部エクササイズ課  神崎慶子




Scene. 21


 『GGR』の試合会場から自宅へ戻る途中、由佳梨はポケットの中に入れておいた慶子の名刺を見てみた。慶子は、自分が闘っている場所に興味があるなら連絡をくれ、と言っていたが、そのときに慶子の口から出た、「おっぱいは晒してもらう」という一言だけで、由佳梨には、慶子が闘っているのがとういう場所なのかを、容易に推理することができた。由佳梨は表情を緩めて大きく息を吐き出し、慶子の誘いを否定した。

「そんなところで、私が闘えるわけないじゃない。……」

 しかし、自宅に戻り、ベッドの上に横になった由佳梨の心はやや揺れ始めた。今日を限りに、『GGR』とも格闘技とも袂を分かつ、そう決めていた由佳梨だったが、慶子が『GGR』のリングの上で勝利を収め、レフェリーに右手を掲げられる姿を目の当たりにしたという事実は、由佳梨の心に新たな種を植えつけていた。

 由佳梨は、もう一度リングに戻りたい、リングに戻って、一度でいいから「勝ち」を経験してみたいという衝動に駆られた。…… 「顔への攻撃は禁止」、「今のあなたにはちょうどいい」、 …… 慶子が残していった言葉も、由佳梨の心をくすぐった。

 由佳梨は、慶子の話していた闘いの場についてできるだけ考えないようにし、その夜は床についた。が、次の日からまた足が地についていないような生活が始まると、一度はあっさり否定したはずの選択肢が由佳梨の心を支配し始めた。

 たとえこの胸を人目に晒さなければならないとしても、顔への打撃がないリングに立てるなら、…… 由佳梨の理性はその衝動を押しとどめていたが、その想いは日に日に由佳梨の心の中で大きくなっていった。

 何日か激しい葛藤を感じたあと、由佳梨は、慶子に渡された名刺に記入されている電話番号をダイヤルしていた。



 とある水曜日の夜、由佳梨は絨毯の敷かれた部屋の中に佇み、少し俯いて、自分に向けられている視線に耐えていた。由佳梨の正面には、豪華な椅子に腰を下ろした麻耶が、デスク越しに由佳梨を見つめていた。由佳梨の背後にあるこの部屋のドアのすぐそばでは、ジムのロゴ入りTシャツとスウェットパンツ姿の慶子が、冷ややかな視線を由佳梨に向けていた。

 やがて、麻耶は凭れている椅子から腰を上げた。

「ふうん。さすがに元グラビアアイドル、なかなかの素材のようね。お会いできて嬉しいわ。…… それじゃ、そろそろ試合の時間も近づいているようだし、さっそく私のリングを見ていただくことにしましょうか。…… 慶子さん、私はこれからパトロンの皆様のお相手をしますから、あなた、由佳梨さんをご案内して差し上げて。地下に降りる前に、お衣装はうちの従業員と同じものに着替えていただいてね。」

「はい。オーナー。…… 由佳梨、あたしについといで。」

 その声に由佳梨が慶子の方を見遣ると、慶子はわずかに口元を引き上げ、ニヤリと笑った。

 由佳梨は一瞬だけ戸惑った表情を作ったあと、麻耶に小さく頭を下げ、オーナー執務室のドアの近くに立っている慶子の後に従い、一階層下にある従業員用ロッカールームへと足を運んだ。




Scene. 22


 由佳梨の目の前で、予定されていた二試合が終わろうとしていた。漆黒のリングの上には、由佳梨と同じぐらいの体型の小麦色の肌をした娘と、それよりも一回り身体の小さな娘がいた。シルバーのビキニボトムとリングシューズを身につけた小麦色肌の娘は、すでに相手の赤いビキニボトムを剥き終わり、薄笑いを浮かべながら、涙をぼろぼろと流している相手の下半身奥深くまで、小麦色の指を捩じ込んでいた。

 赤いリングシューズだけになってしまった娘が、大きな泣き声を上げると、由佳梨は思わずリングから目を背けた。単純に女の子同士が闘うだけではなく、それ以外にも何かあるのではないかという予感はしていたものの、それは由佳梨の想像を遥かに超えていた。あまりにもむごい地下のリングの掟を、由佳梨は正視することができなかった。

「勝てばいいんだよ、由佳梨。」

 その言葉に、由佳梨ははっとして、自分のすぐ横に立ち、乾いた視線をリングに向けている慶子に向き直った。慶子は呟くように再び口を開いた。

「あんな風にされたくなかったら、勝てばいいんだ。…… 勝てば、おっぱいを晒すだけで済む。……」

 平然とリング上の光景を見つめる慶子の視線を追うように、由佳梨もリングに視線を戻した。相変わらず小麦色肌の娘の指は、相手の身体の中で激しく踊っているようだった。赤いリングシューズの娘の声がだんだん上ずり始め、やがて強いられた頂点に達してしまったのか、その娘は硬く目を閉じ、少しだけ身体を痙攣させ始めた。

 「儀式」が終わり、小麦色肌の娘が相手の娘の股間から指を引き抜いた。娘は立ち上がり、キャンバスに落ちていた相手の赤いビキニボトムを拾い上げて、勝者のボースを取った。品のいいスーツを着込んだパトロンからの、大きな拍手と喝采を受けて、娘は両手を高々と上げ、それに応えていた。

 由佳梨には、その娘の姿が、自分の憧れていた姿に被って見えた。リングの上で勝者となり、観衆の喝采を受けて、勝者のポーズを取る姿を。

 美しい勝者と、惨めな敗者、二人の娘がリングから降りると、慶子が「そろそろオーナーの部屋に戻ろうか。」と、由佳梨に声をかけてきた。由佳梨は小さく頷いてから再びリングに目を遣り、しっかりとその光景を目に焼き付けてから、リングを離れていく慶子の後を追った。


 オーナー執務室のあるビルの八階までの長い階段を上っていく途中、由佳梨の前を進む慶子は、後をついてくる由佳梨には視線を向けずに、独り言のように呟いた。

「ここにはいろんな娘がいる。純粋にリングの上で闘うのが好きな娘もいるし、単にお小遣いを稼ぎに来てる娘も結構多いよ。そこらへんの風俗で働くよりも割いいし、裸で闘ってることだって、ここなら確実に秘密にできるしね。…… 由佳梨、事務所を出て行ったときには言わなかったけど、あたしが東京に出てきたのは、ここで闘ってお金を稼ぐためでもあるんだ。…… あたしがアクションスターを目指してることは知ってるだろう? …… そのためにはお金が要る。充分に身体の手入れをするには、結構お金がかかるんだよ。…… 地方の売れないモデルじゃ、稼ぎなんて高が知れてる。だからあたしは東京に出てきて、ここで闘わせてもらってるんだ。ジムのスタッフとしても雇ってもらったから、身体を鍛える環境もすごく充実したし、今の境遇を与えてもらったことに、あたしはすごく感謝してるんだ。……」

 由佳梨は慶子の言葉に耳を傾けながら、薄暗い照明に照らされた階段を一歩一歩昇っていった。由佳梨の心は、勝者のポーズに対する憧れと、勝負がついた後の「儀式」との間で揺れていた。

 どちらかというと、負けたときのことはどうでも良かった。負けたら勝者の辱めに甘んじる、由佳梨にはその覚悟ができていた。それよりも、むしろ勝ったときのことが心配だった。敗者となった相手の娘を、周りの人間たちが期待しているように扱うことができるだろうか。……

 由佳梨がそんなことを考えていると、慶子がその部分をつついてきた。

「…… ここには素人に毛の生えたような程度の娘も多いから、よっぽどのことがない限り、あなたが負けることはないと思うけどね。…… でも、勝負がついたら、それなりに相手の娘を苛めてやらなきゃいけない。それがパトロンの皆様に対する礼儀だし、相手の娘に対する礼儀でもあるんだ。…… それができないんだったら、とっとと尻尾を巻いて、ここを立ち去ることね。…… やっぱり、あなたにはここで闘うのは無理かな。あなたみたいなお嬢ちゃんには、負けた娘をそんな風に扱えるなんて、あたしには思えないからね。……」

 あっさりと自分の考えを看破されてしまったことの悔しさに、由佳梨は唇を噛んだ。長い間憧れてきた『GGR』では、顔への打撃に対する免疫を失った自分は、もう使い物にならない。地下のリングでも、それにふさわしい掟に従うだけの勇気がない。由佳梨は、そう思いたくなかった。

 由佳梨は八階へと続く長い階段を、目にうっすらと涙を浮かべながら、俯いたまま昇り続けた。




Scene. 23


 由佳梨と慶子が麻耶の執務室に戻ってからしばらくすると、麻耶が執務室のドアを開いて中に入ってきた。麻耶は執務室の真ん中に立ち尽くしている由佳梨のそばに歩を進め、ためらうことなく由佳梨に尋ねた。

「どう? 気に入っていただけたかしら?」

 気に入った、というわけではない。ただ、リングの上で闘って、試合に勝ち、勝者のポーズを取ってみたい。そして、勝者の務めをきっちり果たすことで、慶子を見返してやりたい。…… 由佳梨の心は揺れたままだった。

 由佳梨はそばに立っている慶子の顔色ををちらっと伺ってみた。それを知ってか知らずか、慶子は不敵に口元を上げた。「あなたには無理ね」、由佳梨には、慶子がそう嘲笑っているように思えた。

「オーナー。……」

 俯いていた由佳梨は、意を決したように顔を上げ、麻耶に視線を向けた。

「…… 私を、……… ここで闘わせてください。………」

 由佳梨の言葉に、麻耶は、「そう。」と洩らし、表情を崩した。

「それじゃ、あなたの身体を拝見させていただこうかしら?」

 麻耶の言葉に、由佳梨は小さく戸惑いの声を洩らした。麻耶が由佳梨の身体に手を伸ばそうとすると、由佳梨は怯えるように一歩だけ後ろに下がり、再び自分の足元へ視線を落とした。麻耶はその反応を楽しんでいるように、小さく笑った。

「由佳梨、……」

 慶子が自分の名前を呼んだので、由佳梨は顔を上げ、薄笑いを浮かべている慶子の方に視線を向けた。慶子は由佳梨のそばを離れ、百八十センチ近い立派な体躯をぴんと伸ばして由佳梨を見下ろしている麻耶の方に身体を寄せた。そして慶子は、由佳梨の方に身体を向けると、浮かべていた笑みを消し、見下すような目で由佳梨を見据えて、口を開いた。

「オーナーは、あなたの身体を見たい、っておっしゃってるの。…… つまり、こういうことよ。」

 それだけ言うと、慶子は身につけているジムのユニフォームを、ためらうことなく脱ぎだした。ほんの数十秒の後には、ハイカットのスポーツシューズだけになった慶子の身体が、由佳梨の目の前に晒されていた。…… 形のいい大きな乳房、ほどよく筋肉のついた腕や太股、…… アクションスターを目指し、長年に渡って無駄なく美しく鍛え上げられてきた慶子の裸身に、由佳梨はしばらく唖然とした表情で見入っていた。

 慶子は、少しだけ口調を厳しくした。

「あたしは、あなたの何倍もの時間をかけて、自分の身体を磨いてきた。…… だから、それなりに自分の身体には自信を持ってるんだ。たとえ人前で裸になったって恥ずかしくない、そう思ってる。…… 由佳梨、このくらいの覚悟がないと、ここでは闘えないよ。…… あたしと同じリングに上がりたいんだったら、早くオーナーにあなたの裸を見てもらいなさい。」




Scene. 24


「まあまあ、慶子さん。そんなに由佳梨さんを責めなくても。……」

 麻耶は、俯いてしまった由佳梨を険しい表情で見つめている慶子をたしなめるように、少しだけ緩めた表情を慶子に向けた。そして由佳梨に向き直り、再び口を開いた。

「でもね、由佳梨さん。私のリングに上がれるのは、厳選された美しい競技者だけ、…… そうさせていただいてるのね。…… あなたにそれだけの価値があるかどうか、私は自分の目で確かめたい。…… さあ、私にあなたの身体を見せてちょうだい。」

 麻耶がそう言い終わっても、由佳梨は何も答えられずにいた。しばらく俯いたままじっとその場に佇んでいた由佳梨は、ちらっと慶子に目を遣った。慶子が両手を腰に当てて胸を張り、由佳梨に視線を向けたまま小さく鼻で笑うと、由佳梨の顔に悔しそうな表情が浮かんだ。やがて由佳梨は、正面に立っている麻耶に向かって小さく頷くと、身につけている衣服を脱ぎ始めた。

 大きな乳房を覆っている純白のスポーツブラと、これも純白のショーツだけになった由佳梨は、そこで一旦手を止め、再び慶子に恨めしそうな視線を向けた。慶子の表情は、「何でそんなとこで手を休めるの?」とでも言いたげだった。由佳梨は慶子から視線を切り、意を決したようにブラを脱ぎはじめた。

 慶子よりも一回り大きい由佳梨の乳房が、麻耶と慶子の目の前に露わになったあと、由佳梨の両手は一瞬だけ白いショーツにかかったが、由佳梨にはそれが限界だった。由佳梨は、消え入るような小さい声で「今日は、ここまでで勘弁してください」とだけ言い、腰の前で手を組み、俯いて目を閉じた。

 麻耶は由佳梨が必死に恥ずかしさに耐えている姿を見て妖しく微笑んだあと、由佳梨の身体に掌で触れ始めた。ふくらはぎ、太股、お腹、腕、…… 麻耶の掌は、由佳梨の筋肉のつき具合を確かめながら、由佳梨のみずみずしい肉体を這い上がってきた。

「…… とても魅力的な身体だわ。それに、ちゃんと鍛えてあるようだし。…… これなら、すぐにでもリングに上がれそうね。……」

 やがて、麻耶の掌が由佳梨の大きな乳房へと移ってきた。麻耶が少しだけしこった由佳梨の乳首を小指で軽くこねると、由佳梨はぴくんと身体を震わせ、少しだけ声を上げた。麻耶がショーツの上から由佳梨の股間を軽く撫で上げると、由佳梨はさらに辛そうな声を洩らした。

「こっちの方は、まだ経験不足みたいね。…… まあ、そのうちに慣れるでしょう。」




Scene. 25


 ジムのロゴ入りのTシャツを着て、金色のコーナーに控えていた慶子は、目の前で黒いボクシンググローブを自在に操る黒トランクスの娘と、一瞬だけ視線が合ったような気がした。

「じゃ、またあとで。…… 一分間だけですけど、ゆっくり休んでくださいね。」

 うわっ、この娘、ラウンドの残り時間までちゃんと把握してる。…… 敗色濃厚の女王様を出迎えるためのストゥールを右手に掴んでいた慶子は、熟練ボクサーの身体に染み込んだ特殊能力に驚かされた。

 黒トランクスの娘の台詞が終わったと同時に、第二ラウンド終了のゴングが鳴った。慶子は膝を折りかけた女王様の腰の下に、手にしていたストゥールをすっと差し出した。

 恵美子がストゥールに腰を落としたことを確認すると、慶子は黒いロープを跨いでリングの中に入り、エプロンに置かれていたペットボトルを二つ手に取って、中に入っていた水を、遠慮なく恵美子の頭の上からこぼした。それでも、がっくりと肩を落としている恵美子の表情に覇気が戻ることはなかった。

「哀れねぇ。…… 女王様はボクシングを少し甘く見ているようだ、ってオーナーは言ってたけど、確かにあの娘が相手じゃ、とても女王様に勝ち目はないわね。…… でも、ちょっと残念ねぇ。女王様の首を刈り取るのはあたしだって、ずうっと思ってたんだけど。…… ま、仕方ないわね。……」

 ペットボトルが二つとも空になると、慶子は恵美子の足元に落ちていたエメラルドグリーンのマウスピースを拾い上げ、青コーナーに置かれたストゥールに腰を下ろし、ロープに両腕を伸ばして、余裕たっぷりに恵美子を見つめている黒トランクスの娘に視線を向けた。

「それにしても、あの娘、なんて素敵なんだろう。…… 飛び切りの美人だって言うわけじゃないけど、相手を痛めつけているときのあの表情、背筋に寒気が走るほど魅力的だわ。身体だって、憎たらしいほど完璧に鍛え上げられてるし。…… あたしがアクション映画を撮るんだったら、悔しいけど、あたしよりあの娘を主役に据えるわね。…… まだまだあたしには魅力が足りないってことか。頑張らなくっちゃ。…… さ、仕事、仕事。」

 間もなく、「セコンドアウト」が場内に告げられた。慶子は手にしていたエメラルドグリーンのマウスピースを恵美子の口に捩じ込み、恵美子の腋に手を差し入れて、膝に力の入らない恵美子の腰を立たせた。そして、恵美子の背後に回り、背中をドンと押した。エメラルドグリーンのトランクスからぽたぽたと水を滴らせていた恵美子は、リングの真ん中に向かって、よたよたと進んでいった。




Scene. 26


 由佳梨は黒いロープを跨いで、リングの中に身体を滑り込ませると、赤いコーナーマットを背にして、リングの中央に身体を向けた。青コーナーには、三週間ほど前に見た小麦色の肌の娘が、そのときと同じ、シルバーのビキニボトムとシューズを履いて、少し緊張した面持ちで由佳梨を見つめていた。由佳梨はその娘と同じように少し胸を張り、上段ロープに両腕を伸ばした。由佳梨の表情は、リングを取り囲むパトロンたちに乳房を晒すことの恥ずかしさと、初めて地下のリングに立つことの緊張感に、少しこわばっていた。

 地下のリングデビューにと慶子から手渡されたプレゼントの中身を見たとき、由佳梨の心に激しい悔しさが湧き上がってきた。白いリングシューズと一緒に入っていた派手なピンク色のビキニボトムは、由佳梨が『GGR』にデビューし、三十秒足らずで失神させられてしまったときのものと寸分違わない色のものだった。その場で捨ててしまおうかとも思ったが、この日、由佳梨は慶子に贈られたリングコスチュームを身につけていた。過去の苦い経験を忘れないように、…… 由佳梨は、あえてそのビキニボトムを穿いて地下のリングに立つことに決めた。

 やがて試合開始のゴングが鳴り、二人の娘はコーナーを離れ、リングの真ん中で組み合った。お互いに相手の身体を強く引き寄せ、相手がどのくらいの力があるのかを感じ取ったとき、由佳梨は直感的に、自分の考えが間違いではなかったと思った。

「この娘なら勝てる。……」

 慶子に連れられて地下のリングを初めて見たとき、由佳梨は今リングで相対している娘の闘いぶりを目にしていた。慶子が後に、「ここには素人に毛の生えたような程度の娘も多い」と言っていたように、その娘の力量は、とてもプロのレベルではなかった。そのとき由佳梨は、「こんな娘たちが、負けたら丸裸にされて、勝った娘の辱めを受けなければならないような状況で闘っているのか」と、深く心を痛めた。

 小麦色肌の娘は必死に頑張ったが、所詮、二年に渡って真剣に身体を苛めてきた由佳梨の相手ではなかった。組み合ってからそれほど時間の経たないうちに、由佳梨は小麦色肌の娘の背後に回り込んで娘をうつ伏せに組み敷き、娘のアゴと左腕を後ろに捻り上げていた。小麦色肌の娘は、間もなくギブアップの意思表示をした。

 由佳梨が娘を開放して、娘の身体から離れると、娘は立ち上がってキッと由佳梨を睨み、再び由佳梨に向かってきた。もちろん娘には、由佳梨を致命的な状況に追い込むことはできなかった。数分の後には由佳梨にスリーパーに極められ、娘は首に巻きつけられた由佳梨の腕をタップしていた。そしてその十数分ほどの後、試合開始から七度目のギブアップをした娘は、由佳梨の白いシューズにしがみつき、目に涙を浮かべて、由佳梨のシューズを舐めていた。

 試合終了のゴングが鳴り、レフェリーはキャンバスに横たわる小麦色肌の娘を呆然と見つめている由佳梨に近づき、由佳梨の右手を掴んで高く掲げた。はっと我に返った由佳梨は、少し恥ずかしげに左手も上げて、憧れていた勝者のポーズを取った。相手の娘の力量を考えると手放しで喜ぶと言うわけにはいかなかったが、それでも由佳梨は、パトロンたちから送られる喝采に応え、リングの上で勝者となることの余韻に浸った。

 しかしその後は、敗者がそうであるように、勝者である由佳梨も地下のリングの掟に従わなければならなかった。覚悟を決めた由佳梨が娘に視線を向けると、敗者になってしまった娘は、相変わらず目に涙を浮かべ、恨めしそうに由佳梨を見つめて、「儀式」が始まるのを待っていた。

 由佳梨は娘のそばにひざまずき、心の中で娘に「ごめんなさい」と侘びて、娘のシルバーのビキニボトムを毟り取った。そして、せめて気持ち良く感じて欲しいと願いながら、娘の下半身に指を差し入れ、乳房の大きさに比べると少し小ぶりな娘の乳首を口に含んで、舌先で転がした。




Scene. 27


「慶子さん、…… あなた、最近激しいわね。」

 東京事業所兼個人オフィスからそれほど遠くないところにある、自宅マンションの大きなベッドの上で、麻耶は天井を見上げて、そう呟いた。一糸纏わぬ麻耶のすぐそばには、同じように裸身を天井に向けた慶子の姿があった。

「そうですか。…… あたし、こうしてオーナーと一緒にいると、いろんなことを忘れることができるんです。…… トレーニングを続けていても、あたしにはアクションスターとしてデビューさせてもらえるだけの魅力がないんじゃないか。無駄な努力なんじゃないかって思えることがあるんです。そう考えてしまうと、身体を苛めるのが辛くなる。でも、オーナーと一緒に時間を過ごしている間は、そんな苦しみから開放されるんです。……」

「慶子さん、あなたは充分魅力的だわ。もしそうじゃなかったら、私はあなたを、私のリングに上げることなどしない。…… 今、あなたとこうして一緒に居るのも、あなたにそれだけの魅力があるからよ。」

 麻耶がそう言って慶子の身体を手元に引き寄せると、慶子も少しだけ表情を崩して、麻耶に擦り寄った。

「慶子さん、明日は恵美子さんと試合でしょ? …… こんなことしてて、大丈夫なの?」

「オーナーは、あたしが恵美子先生に負けるとでも思っていらっしゃるんですか?」

「確かにそうね。よほどのことがない限り、あなたは恵美子さんから女王の座を奪い取る。…… そう思ってるわ。」

「ありがとうございます。…… パトロンの皆様にも満足していただけるように、精一杯頑張ります。……」

 麻耶は慶子の頭を撫でた。この娘は常に自分を磨く努力を怠らないし、いろんな意味でプロ意識の塊だ。いつかこの娘が望むように、アクションスターとしてデビューする日が来るに違いない。その日まではこの娘を可愛がってあげよう、と麻耶は思った。

「それはそうと、あの元グラビアアイドルの娘さん、ちょっと可哀相ね。試合に勝っても、負けた娘への辱めをしているときに、ずいぶん辛そうにしていらっしゃるし。その初々しさがいいとおっしゃるパトロンの方もいらっしゃるようだけど。」

「オーナー、由佳梨を甘やかす必要なんてないです。由佳梨だって、そのことは充分わかった上で、地下のリングに足を踏み入れたはずですから。…… あの娘には、まだプロ意識というものが足りないんです。…… あの娘を引っ張ってきたのはあたしですから、その辺はあたしが何とかします。……」

「恵美子さんに勝って女王の座を手に入れたら、由佳梨さんを対戦相手に指名して、パトロンの皆さんの目の前できっちり教育してさしあげる。…… 私には、そんな風に聞こえるんだけど、…… 気のせいかしら?」

「ご想像にお任せします。…… オーナー、そんなことより、もっと楽しみましょうよ。」

「うふふ、いいわよ。」

 麻耶の返事を待たずに、慶子は麻耶の身体に覆い被さり、荒々しく麻耶の唇を貪り始めた。麻耶もそれに応えるように慶子の唇を求め返し、慶子の身体の敏感な部分へと指を這わせた。




Scene. 28


 黒いキャンバスの真ん中で、恵美子はお腹を押さえてうずくまっていた。

 三ヶ月前に行われたボクシング初試合での壮絶な敗北は、恵美子が三年に渡って君臨してきた女王の座に、事実上の終止符を打っていた。勝者となった早坂亜希が地下のリングを離れたため、女王の肩書きは辛うじて恵美子に残されたが、それももはや風前の灯火になってしまっていた。


 恵美子は女ボクサーに地獄を見せられた試合の後遺症からなかなか立ち直ることが出来ず、試合から遠ざかってしまった。そして、早坂亜希がプロボクサーとしてデビューするために地下のリングを離れていったことで、地下のリングの『女王』は、実質空位の状態が続いていた。

 この状況を打開するため、地下のリングのオーナーであり、絶対権力者である麻耶は、恵美子に女王の座を賭けて慶子と試合を行うことを強いた。

 恵美子を打ち負かして、次の女王になるのは慶子、…… 亜希が目の前に現れる前には、麻耶はそう考えていた。亜希は表の世界へ旅立ってしまった。それなら、慶子に女王の座を継いでもらうのが一番だろう。…… それに、恵美子が亜希にリング上で粉砕され、輝きを失っている今が、世代交代をするには丁度いいタイミングなのではないか。……


 一年と少し前、慶子が上京し、地下のリングに身を投じて間もない頃、慶子は恵美子の指名を受けて試合をしたことがあった。最終的には恵美子の前に屈してしまったものの、その試合で慶子は一度だけ、一瞬の隙を突いて恵美子の背後に回り込んでスリーパーホールドに極め、恵美子からギブアップを奪っていた。それは、これまでに地下のリングで恵美子が発した、たった一度きりのギブアップだった。

 一度は恵美子に負けてしまったものの、地下のリングで試合に勝利し続け、経験を積み重ねていくに連れ、慶子は「今なら恵美子と闘っても勝てる」と思うようになっていた。が、恵美子は、慶子に辛勝してから一年近く経っても、慶子を試合の相手に指名することは一度もなかった。

 麻耶から恵美子との対戦の話を受けたとき、慶子は喜んでそれに応じた。…… もう恵美子など何の問題にもならない。女ボクサーに先を越されたことは少し残念だが、これで私は、晴れてと女王として地下のリングに君臨できるんだ。…… 慶子はそう確信した。


 女王の座を賭けた試合は、麻耶が思っていた以上に一方的なものだった。今だ敗戦の後遺症を引きずっているのか、恵美子の動きには精彩が感じらなかった。恵美子は試合開始から劣勢に回ることを余儀なくされ、ほぼ攻勢に転じることなく、何度も慶子にギブアップを奪われた。リングの上でギブアップと声にするたびに、ますます恵美子の動きは鈍っていった。やがて、リングの真ん中で逆エビに極められ、六度目のギブアップを喫した恵美子は、慶子が技を外してもほとんど動くことができなくなってしまうほどに衰弱してしまっていた。

 お気に入りの黒のコスチュームを身につけていた慶子は、黒いキャンバスの上に横たわっている恵美子の腕を掴んで身体を起こし、腹に強烈な膝蹴りを見舞った。だらしのない呻き声を洩らし、恵美子はお腹を抱えてその場にうずくまった。

 慶子は、女王の座を追われようとしている恵美子の髪を掴み上げ、小さな泣き声を上げて、ぼろぼろと涙を流している恵美子の顔を自分の顔に近づけた。慶子の呼吸は荒らいでいたが、その瞳は妖しく輝いていた。

「もう降参かしら、女王様。…… 降参するのなら、早く私の靴を舐めなさい。女王の肩書きは、私がちゃぁんと引き継いであげるわ。…… それとも、まだ女王の座に縋りたいのかしら? あなたがまだ闘いたいのなら、いくらでもお相手をしてさしあげますわ、女王様。うふふふ。」

 もちろん恵美子には、それ以上試合を続ける意思などひとかけらも残っていなかった。慶子が恵美子の髪を掴んでいた手を離すと、その場に崩れ落ちた恵美子は、慶子の黒いリングシューズに縋りつき、それまでに何人もの選手が味わった屈辱的な姿と同じ格好で、泣きながら慶子のシューズに舌先を這わせ始めた。




Scene. 29


 敗者となり、女王の座を追われた恵美子は、勝者である慶子の容赦のない責めに晒され、リングの上で剥き出しの股間からとろとろと熱い蜜を垂らしたまま全身を痙攣させ、すでに意識を失っていた。

「由佳梨!」

 リングから少し離れたところで、リングに背を向けてパトロンたちの相手をしていた由佳梨に、慶子の声が飛んだ。由佳梨がリングの方に振り返ると、上段ロープに身体を凭れかけた慶子が、由佳梨を睨みつけていた。

「あたしはたった今、ここの女王になった。自由に相手を指名する権利を手に入れた、ってことだよ。…… 由佳梨、さっそくあなたを次の試合の相手に指名させてもらうよ。…… あなた、リングの上で負けた娘をどう扱ったらいいのか、まだ苦労してるみたいだねぇ。どうすればいいのか、たっぷり教えてあげる。…… 感謝しな。」

 由佳梨はそれまでに地下のリングで五試合を行い、いずれも危なげなく勝利を収めていた。ただ、勝利を手にした後の「儀式」については、「相手を気持ち良くイかせてあげる」ことしか、由佳梨にはできていなかった。

 敗者をどう扱ったらいいのか教えてあげる、…… 慶子はまたしても、由佳梨が一番気にしているところを突いてきた。由佳梨は少しの間、悔しげな表情を慶子に向け、返事をせずにパトロンへの応対に戻った。



 二週間後の水曜の夜、由佳梨はいつものように派手なピンク色のビキニボトムを穿いて、青いコーナーマットを背にし、初めて金色のコーナーを使って試合に臨む慶子の入場を待った。やがて、黒のビキニボトム、黒のシューズを身につけた慶子がロープを跨ぎ、リングの中に身体を差し入れた。まもなくジムのロゴ入りTシャツを着たレフェリーの女性もリングに上がり、リングの中央に進み出て、二人を呼び寄せた。

 二人はリングの真ん中で対峙し、試合前のレフェリーの注意に耳を傾けていた。レフェリーの言葉が終わりかけたとき、慶子は右腕をすっと伸ばし、由佳梨の乳首を掴んで軽くこねた。由佳梨は慌てて慶子の指を振り切り、一歩下がって胸を両手で覆って、それまで以上に険しい表情で慶子を睨んだ。慶子は小さな声を上げて笑った。

「うふふっ。相変わらず立派なおっぱいだねぇ。たあんと可愛がってあげるよ。」

 由佳梨は恨めし気に慶子を見つめた。慶子はそんな由佳梨の仕草に、もう一度笑い声を上げた。


 レフェリーに促されて、二人がそれぞれのコーナーに戻ると、世間から切り離された、美しい競技者とそれを取り巻くパトロンたちのみが共有する閉じた空間に、試合開始のゴングの音が鳴り響いた。

 由佳梨は大きな乳房をわずかに揺らしながら青コーナーを離れ、ゆっくりとリングの中央へ進んだ。慶子も薄笑いを浮かべながら、悠然と金色のコーナーを後にした。




Scene. 30


 黒いキャンバスが敷かれたリングの真ん中で、二人はがっちりと組み合った。その瞬間、由佳梨は、地下のリングで今までに対戦したどの娘よりも、慶子の実力が数段上であることを感じ取った。…… 少しでも油断したら、間違いなくやられる。…… 由佳梨は身を引き締めた。

 慶子が由佳梨に足を絡めて体重を掛けてきたので、由佳梨はキャンバスに倒されてしまった。上になった慶子は、すぐに由佳梨のバックを狙ってきたが、由佳梨は慶子にぴったりと身体を密着させ、不利な体勢に持ち込まれるのを防ぎ、素早く身体を移動して、黒いロープに足を掛けた。レフェリーがブレイクを命じると、慶子はすっと由佳梨の身体を離れて立ち上がり、由佳梨を見下ろして冷たい笑みを浮かべた。由佳梨も慶子の顔を睨みつけながら、ゆっくりと立ち上がった。

 次の組み合いでは、由佳梨が慶子を押し倒した。由佳梨はうまく慶子のバックに回り、スリーパーホールドを仕掛けていったが、慶子もうまくこれを防御し、素早くロープに逃げた。レフェリーのブレイクを受けて、由佳梨が慶子の身体から離れると、慶子はキャンバスに腰を下ろしたまま、口元を引き上げて小さな笑い声を洩らしたあと、ゆっくりとキャンバスから腰を上げた。

 この後も、お互いに相手に大きな技を掛けられないまま、時間が流れていった。ただ、由佳梨の呼吸が徐々に乱れてきたのに対し、慶子はあまり疲れてきたという雰囲気ではなかった。やがてその違いは試合の流れにも表れ始めた。

 由佳梨がロープブレイクに何度も逃げる一方で、由佳梨はなかなか攻勢に転じることができなくなってきた。そして、試合が始まってから十五分ぐらいが経過したとき、ついに由佳梨は、リングの真ん中で完全に慶子にバックを取られ、スリーパーホールドに極められてしまった。

 身体をロープににじり寄らせていこうと努力をしたものの、がっちりと慶子の両脚でホールドされ、由佳梨は思うように身体を移動することができなかった。由佳梨の首に強く巻きついた慶子の腕は、やがて由佳梨を致命的な状況に追い込んでいった。由佳梨は少しだけ意識が遠のいていくのを感じた。

  ……… 締め落とされる。………

 由佳梨はそれを自覚することができたが、由佳梨のプライドと込み上げてくる悔しさは、由佳梨にギブアップの意思表示をさせなかった。…… 慶子にギブアップするくらいなら、このまま気を失ってしまう方がいい。…… リングの上で三度目の失神を経験する覚悟を決め、由佳梨は遠のく意識の中で、ロープに向かって身体を移動させる努力を続けた。

 が、由佳梨の意識の糸が切れる前に、慶子は由佳梨の締め上げていた腕を解き、由佳梨を開放した。慶子は中途半端な表情の由佳梨の顔を何度か軽く平手で叩き、由佳梨の表情が戻るのを確認すると、嘲笑を浮かべて由佳梨に言い放った。

「馬鹿ねぇ。失神なんかさせるわけないじゃないの。私はプロ。パトロンの皆様がどんな試合を望んでいるのか、あたしにはわかってるつもりよ。…… まあ、どうしてもギブアップしたくないなら、それでもいいわ。…… そう言えば、あなた、リングの上でギブアップしたこと一度もなかったわね。それじゃ、今日はあなたの口から、何度も『ギブアップ』、って言わせてあげましょう。ギブアップの一言を口にするときにどんな気持ちになるのか、たっぷり味わうがいいわ。」




Scene. 31


 失神寸前にまで追い込まれた由佳梨は、大きく体力をロスし、はっきりと動きが鈍ってきた。由佳梨は自分から何度か攻撃を仕掛けてみたが、慶子はまったく隙を見せなかった。試合のペースは完全に慶子に握られ、由佳梨は完全に防戦一方になってしまった。

 慶子はロープまであと少しのところで由佳梨に技を仕掛けるようになり、由佳梨はそのたびに必死にロープに向かって身体を動かした。由佳梨は、慶子が意図的に自分をロープブレイクに逃がしていることを感じ取っていた。ただただ慶子の技から脱出することしかできなくなっている自分に、由佳梨は激しい悔しさを感じた。しかし由佳梨には、それ以外の選択肢は残されていなかった。

 またもやロープまであと少しのところで慶子にバックを取られ、首に腕を回された由佳梨は、何とか身体をにじり寄らせ、左手でロープを掴んだ。レフェリーがブレイクを命じる前に、慶子はあっさりと由佳梨を開放したが、由佳梨は肩で息をしながらロープを掴んだまま、しばらく立ち上がることができなかった。

 由佳梨がキャンバスに視線を落としていると、その視界に慶子の足が入り込んできた。由佳梨はロープを掴んだまま、慶子を見上げた。

「あなたには勝ち目がないこと、良くわかったでしょ? かわいそうだから、降参させてあげてもいいわよ。…… どう? あたしのリングシューズ、舐める気になった?」

 もう自分には勝ち目がない。…… それは由佳梨にもはっきり認識できた。このまま試合を続けても、じわじわと痛めつけ続けられるだけ。…… それでももちろん由佳梨には、こんなところで慶子に屈服してしまう気は爪の先ほどもなかった。

「由佳梨、わかってるわよね。このリングでは、試合を終わらせる権利があるのは勝者だけ。私があなたにリングシューズを差し出し、あなたがそれを舐めることができない限り、あなたには試合を終わらせることはできないのよ。」

 そう念を押す慶子を睨みつけて、由佳梨はゆっくりと立ち上がった。唇を噛んだ由佳梨の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。肩で激しく息をし、それでも必死に自分を睨みつけてくる由佳梨を見て、慶子は嬉しそうに妖しく微笑んだ。

「うふふふ。まだ苛めて欲しいみたいね。…… それじゃ、お望みどおり試合を続けることにしましょう。今、降参しなかったことを、嫌と言うほど後悔させてあげる。覚悟はいいわね。」


 由佳梨がロープから手を離すと、慶子は左手で由佳梨の腕を掴み、右足を由佳梨の股の間に差し込んで、由佳梨の体重を腰で跳ね上げて綺麗に投げ飛ばした。疲労からまともに受身を取れなくなってしまっていた由佳梨は、したたかに腰をキャンバスに打ちつけ、リングの真ん中で腰を押さえて横たわったまま、しばらく動くことができなかった。そして、ロープに逃げられない位置にいるということに由佳梨が気付いた瞬間、慶子は由佳梨をうつ伏せに押し潰し、両足を腋に抱え込んだ。

 由佳梨を跨いだ慶子が両膝を曲げ、ぐっと腰を落とすと、由佳梨の身体が大きく弓なりに反った。完璧に決まった逆エビ固めに、由佳梨は思わず悲鳴を上げた。




Scene. 32


 由佳梨は必死に腕を手繰り寄せ、少しずつ少しずつ正面に見える黒いロープに身体をにじり寄らせていった。一メートル半ほどの距離を長い時間をかけて移動し、手を伸ばせばあと二十センチほどでロープに手が届くところまでいったとき、慶子は腰を伸ばした。そして、由佳梨の両足を腋に抱えたまま、最初に逆エビ固めをかけた位置まで由佳梨の身体を引きずり戻し、再びぐっと腰を落とした。

 もうロープに逃げさせてもらえない。…… そんな想いが、由佳梨の心を満たした。それでも由佳梨は、慶子にギブアップとだけは言いたくなかった。由佳梨にできることはたった一つだけ、また同じ場所へ引き戻されるのを覚悟の上で、ロープに向かって身体を運ぶことだけだった。

 体力が底を尽きかけている由佳梨の歩みは、一度目の前進よりもさらに遅かった。そして再びロープまであと少しのところまでやってくると、慶子は同じように由佳梨の身体をリングの真ん中へと引きずり戻した。あまりの悔しさと悲しさに、由佳梨の目からは涙が溢れてきた。

 悲鳴にも似た由佳梨の泣き声を耳にした慶子は、小さく鼻で笑い、それまでと同じように、由佳梨の身体を跨いで両脚を脇に挟み、腰を落とした。

「いつまで我慢できるのかしらね、お嬢ちゃん。…… ギブアップ、って、一言言うだけで、この苦しみから解放されるのに。…… じゃ、もうちょっとだけ痛い目を見せてあげましょうか。」

 慶子がその言葉通り、由佳梨の足を抱えている腕に力を込め、今まで以上に腰をぐっと落とすと、比べ物にならないほどの激痛が由佳梨の腰に走った。

「ぎゃああああっ!!」

 それだけでは物足りないと言わんばかりに、慶子は由佳梨の足を絞り上げたまま、リズミカルに腰を上下させた。慶子の腰が落ちるたびに、由佳梨の口から叫び声が洩れた。由佳梨は顔を上げ、前を見てみたが、自力でブレイクを手に入れるために辿り着かねばならない黒いロープまでは、まだ絶望的な距離が残されていた。少しでもロープににじり寄ろうとしても、腕の力を使い果たし、完全に慶子の支配下に置かれた由佳梨の身体は、もう一ミリたりとも前へ移動しなかった。

   …… もうだめ。……… もう耐えられない。………

   ………… 悔しいけど、…… もう限界。…………

 そう感じた瞬間、由佳梨を支えていた何かが、音を立ててポキリと折れた。そして、絶対に口にしないと密かに誓っていた一言が、ついに由佳梨の口から洩れた。

「………………… ギ、…… ギブ。………… ギブアップ。………」

 その声を聞くと、慶子は由佳梨の足を抱えていた腕をほどいて腰を浮かし、満足そうに大きく息を吐いた。慶子の足元では、由佳梨が左手で激しく痛む腰を押さえ、黒いキャンバスの上にぐったりと身体を横たえていた。由佳梨の口からは、相変わらず小さな泣き声が洩れていた。




Scene. 33


「いつまでそんな格好をしてるの? まだ試合は始まったばかりよ。」

 背後から慶子の罵声が飛んでも、あまりの腰の痛みに、由佳梨はキャンバスから腰を上げることができなかった。由佳梨の様子を窺っていた慶子は、由佳梨が立ち上がろうとしないのを確認すると、由佳梨の腋を抱えて身体を起こし、由佳梨の背後でキャンバスに腰を下ろした。

「お嬢ちゃん、もう疲れちゃったのかな?」

 そう口にすると、由佳梨の両脚を爪先に引っ掛けて大きく開かせた。そして両腕を由佳梨を抱え込むように回し、由佳梨の大きな乳房を荒々しく揉み始めた。由佳梨は「いやぁっ!」と叫び、乳房に掛けられている慶子の腕を振り解いた。

「あっはっは。元気になったみたいね。…… それじゃ、試合を続けましょう。」

 慶子は由佳梨の左腕を掴んで立ち上がり、綺麗な腰投げで、由佳梨を再びキャンバスに叩きつけた。


 肉体的にも精神的にも深いダメージを負ってしまった由佳梨は、自分から攻撃を仕掛けるどころか、慶子の攻撃に抵抗することさえできなくなってきた。そんな由佳梨を嬲るように、慶子は何度も何度も由佳梨を投げ飛ばし、ほとんど動かなくなった由佳梨を締め技や極め技に固め、悠々と由佳梨からギブアップを奪い続けた。

 慶子は、由佳梨からギブアップを奪い取るときに、由佳梨が慶子の身体をタップしてギブアップの意思を伝えることができないような技だけを選んでいた。そのたびごとに、泣き声に混じった由佳梨の「ギブアップ」という悲鳴が、黒いリングを取り囲むパトロンたちの耳に届けられた。


 由佳梨が最初のギブアップを宣言してから三十分近くが経ったとき、由佳梨の身体は、高々と宙に固定されていた。吊り天井に極められた由佳梨には、消え入るような小さな声で「ギブアップ」と言うことしかできなかった。薄笑いを浮かべたままの慶子が由佳梨の腕を離すと、由佳梨の身体は、前へと回転しながらキャンバスに落下し、小さく弾んだ。

 慶子は、うつ伏せに倒れたまままったく動かない由佳梨に近づき、由佳梨の身体を仰向けにして、由佳梨を跨いでお腹の辺りに腰を下ろした。そして、桃色の乳首を指で挟んで、由佳梨の大きな乳房を何度もこね回した。それまでは、乳房を責められると少しでも嫌がる素振りを見せていた由佳梨だったが、体力を使い果たした由佳梨には、もうそれすらもできなかった。




Scene. 34


 乳房を責めても反応しなくなった由佳梨に、慶子は由佳梨の乳首を強く掴んで弄り回し始めた。すると、それまで小さな泣き声を上げていた由佳梨の口が開いた。

「……… 私の負けです。……… 慶子さん、……… お願い、もう許して。………」

 由佳梨が涙声でそう言うと、慶子は由佳梨の乳首を弄んでいた手を離し、すっと立ち上がった。由佳梨は一瞬だけ安堵の表情を浮かべたが、自分を睨みつけている慶子の眦が上がっていることに気付くと、由佳梨は怯えるように慶子から視線を逸らした。そして慶子は間髪を入れずに由佳梨の顔を右足で踏みつけ、踵の部分を由佳梨の頬にぐいぐいと押し付けた。

「言葉遣いがなってないわね、お嬢ちゃん。…… あたしに負けると言うことは、あたしがリングを降りるまで、あなたはあたしの奴隷なのよ。…… 奴隷のあなたは、あたしのことを何と呼ぶべきかしら?」

 慶子が由佳梨の顔からシューズを外すと、由佳梨はわずかに慶子の方に顔を向け、呟くように声を出した。

「……… け、……… 慶子さま、…………」

「あっはっはっは。良くできたわね。それじゃ、可哀想だから許してあげようか。…… でも、敗者の務めは果たしてもらうよ。あたしの命令には絶対服従。わかってるね。」

 由佳梨はしばらくの間、慶子の問いかけに答えられずにいた。すると、慶子はその場にしゃがみこんで、由佳梨の顔をアゴの辺りで掴み上げ、自分の顔を近づけて、「返事は?」 と詰め寄ってきた。

「…… はい、…… 慶子様。……」

 由佳梨が力なくそう答えると、慶子は満足そうに微笑み、由佳梨の顔から手を離し、再び立ち上がった。そして、その妖しい微笑みをたたえた顔を由佳梨に向け、両手を腰に当てて、由佳梨の顔のすぐ横に右足を差し出した。

 由佳梨はぼんやりとした表情で差し出された慶子の黒いリングシューズを眺めていたが、やがてわずかに開かれた口から小さく舌を出し、試合を終わらせるために由佳梨が縋れるたった一つのものに口を近づけ、それを舐め始めた。

 ほどなく、試合終了のゴングが鳴った。差し出した足を引っ込めた慶子は、足元に横たわっている由佳梨の大きな乳房を踏みつけ、両手を上げて勝者のポーズを取り、パトロンたちから送られる喝采に応えていた。




Scene. 35


 由佳梨は相変わらず仰向けになって四肢をキャンバスに投げ出したまま、動けずにいた。やがて、由佳梨は、涙を拭うために右腕を動かしたが、由佳梨の手が顔に触れる前に、慶子は爪先で由佳梨の腕を払った。再び大の字になった由佳梨は、小さな泣き声を上げたまま、また動かなくなった。

 しばらく由佳梨を眺めていた慶子は、由佳梨の下半身の方へ移動してしゃがみこみ、由佳梨が地下のリングにデビューするときに贈った派手なピンク色のビキニボトムを、由佳梨の股間から毟り取った。剥き出しの女性自身を初めて人前に晒した由佳梨だったが、それを隠そうとする肉体的な力も精神的な力も、由佳梨には残っていなかった。

 全裸にされた由佳梨に、慶子の嘲りの言葉が飛んだ。

「これで良くわかったでしょ? 素人さんが相手ならまだしも、あたしみたいにちょっと身体を鍛えてる相手には、あなたの実力なんて通じないのよ。…… あなたは、ただおっぱいが大きいだけで、他に何も取り柄のない娘。…… せめて、今までパトロンの皆様にご満足いただけなかった分の借りを、ちゃあんとお返しして差し上げなさい。…… あなたの、…… この立派な身体でね。」

 それだけ言うと、慶子は、由佳梨が最初にギブアップした直後のように、由佳梨の上半身を起こして、その背後に腰を下ろし、由佳梨の乳房に手を掛けた。そしてそこから、あらわになった由佳梨の女性自身へと右手を滑らせ、桜色の花びらの奥へと指を差し入れた。

 由佳梨は下を向いてすすり泣きの声を洩らし、だらりと両腕を体側に下ろしたまま、慶子の指を受け入れた。しばらくすると、慶子に身体の敏感な部分を弄られていた由佳梨の口から、泣き声に混じって熱い吐息が洩れるようになってきた。由佳梨の乳首はしこり始め、由佳梨の中で踊る慶子の指にも、由佳梨の蜜が絡み始めた。

 慶子が由佳梨の髪を掻き上げて、耳たぶを口に含んで舐め上げると、由佳梨は思わず「ああん…」と声を上げた。由佳梨の身体が昂ぶってきたことを感じ取った慶子は、由佳梨の身体を責めている指の動きを緩め、近くのパトロンにも聞こえるような声で言い放った。

「それじゃ、あとは、あなた一人で上り詰めてもらいましょうか。…… 元グラビアアイドル、『YUKARI』の、オナニーショウの始まりよ。しっかり股を広げて、パトロンの皆様に、あなたの大事なところをちゃあんと見ていただきなさい。いいわね。」

 由佳梨はわずかに後ろに向けていた顔を前向きに戻し、少しだけ躊躇したあと、小さく頷いた。すると、背後から慶子が由佳梨に問い質してきた。

「ちゃんとお口で答えてちょうだい。返事は?」

「…… はい。…… 慶子様。……」

 由佳梨の素直な反応に、慶子は楽しそうに小さな笑い声を洩らした。

 慶子が、蜜に光る指を由佳梨の中から引き抜くと、それを追って震える由佳梨の指が桜色の襞の口へと伸びてきた。慶子は由佳梨の手を掴んで、指先が奥まで届くように押し込み、由佳梨の耳元で囁いた。

「 じゃ、頑張ってね。あたしも特等席で見物させてもらうわ。うふふ。」

「はい。慶子様。」

 自分から離れていく慶子を少しだけ目で追った由佳梨は、慶子が近くのコーナーマットを背中を凭れかけるのを見届けると、正面に顔を戻して目を閉じた。そして、主人である慶子の命令に従って、由佳梨は自らの敏感な部分を無心に刺激していった。

 自分の中に入り込んでいる指を潤みを感じ、もう片方の手で固くなっていく乳首を弄っていくと、由佳梨の口から洩れるものは、すすり泣きの声から荒い呼吸へ、そして、初々しい喘ぎ声へと変わっていった。

「……… ああん、……… あぁああん、………」

 由佳梨の中に残っていた羞恥心は、もはや主人である慶子への忠誠心へと変わりつつあった。慶子の僕として、パトロンたちに淫らな自分を晒し、満足していただく。…… 湧き上がってくる快感の中で、そんな感情が由佳梨を支配するようになっていた。由佳梨は小さく腰を浮かし、本能のままに声を洩らしながら、自分の中に入っている指で、敏感な部分を激しく苛め続けた。

 やがて、ひときわ大きな声を上げた由佳梨は、びくんびくんと不規則に身体を痙攣させた。由佳梨の中から抜け落ちた指は、べっとりと由佳梨の蜜に濡れ、輝いていた。




Scene. 36


「由佳梨。」

 何とか痙攣は収まったものの、まだはあはあと荒い呼吸を繰り返している由佳梨に、慶子の声が飛んだ。

「何をぼやぼやしてるの? …… まだ終わりじゃないわよ。こちら側のパトロンの皆様にも、ちゃんと見ていただかなきゃ駄目でしょ。身体の向きを変えて、さっさと次のステージを始めなさい。」

「…… あ、…… はい。 慶子様。……」

 由佳梨は何の羞恥心も感じず、慶子に命じられるまま、下半身を反対側のパトロンたちに向けて大きく股を開き、再び自らを昂ぶらせ始めた。


 二度のステージを終え、キャンバスの上でぐったりとなっている由佳梨に、慶子は四つん這いになるように命じた。そして、由佳梨の髪を束ねて掴み、ロープ際を歩かせた。

 少しでも腰が落ちたり、股が閉じ加減になると、慶子は由佳梨の腹や尻を蹴り、注意を促した。由佳梨はそのたびごとに、「はい。申し訳ありません、慶子様。」と答え、慶子に命じられるまま、蜜にまみれた女性自身をパトロンたちの目の前へと大きく差し出した。

 由佳梨を連れてロープの近くを一周し終わると、慶子はリングの真ん中に由佳梨を引きずり出した。慶子の従順な奴隷と成り果てた由佳梨は、四つん這いになったまま、少し悲しげな目で、髪から手を離した主人の慶子を見上げていた。

「あなたにしては良く頑張ったわね、由佳梨。…… それじゃ、ご褒美をあげる。あなたの一番感じるところを、めちゃくちゃにしてあげるわ。…… あなたが一番感じるところはどこかしら? さぁ、あたしに見せてちょうだい。」

「はい。慶子様。」

 慶子の言葉に素直に返事をした由佳梨は、ほんの少しだけ嬉しそうな表情を覗かせ、身体の向きを変えて、突き出した秘所を慶子の顔の方に突き上げた。何のためらいもなく剥き出しの女性自身を差し出す由佳梨を見て、慶子の顔に浮かんでいた薄笑いは、穏やかなものへとわずかに変化した。

 慶子は由佳梨の腰の近くに片膝をつくと、差し出された由佳梨の秘所へと、右手を奥まで捩じ込んだ。そして、熟れ具合を確かめるようにゆっくりと腕を動かしたあと、徐々に腕の動きを早め、最後には荒々しく由佳梨の下半身を抉った。

 自分の身体の奥深くで暴れ続ける、容赦のない主人の責めに、由佳梨は、そのあどけない外見からは想像もつかないほどの、淫らな喘ぎ声を上げた。開きっぱなしになった由佳梨の口からは泡交じりの涎がこぼれ、半開きの瞳は、焦点を失ったまま中空に向けられていた。

 やがて、またしても由佳梨は激しい頂点へと上り詰めた。慶子が由佳梨の身体の中から手首まで埋もれていた右手を引き抜くと、その場に崩れ落ちた由佳梨は、不自然に身体を硬直させたまま、激しい痙攣に全身を震わせた。

 あられもない格好でキャンバスに横たわる由佳梨を尻目に、慶子は、そばに落ちていた派手なピンク色の小さな布切れを拾い上げて立ち上がった。そして、試合が終わったあと、いつもそうしているように、その布切れをパトロンたちの席へと放り投げ、喝采を送り続けるパトロンたちに深く頭を下げて、静かにリングを去っていった。


 リングの上に放置された由佳梨には、試合に負けたことの悔しさや悲しみは、ひとかけらも感じられなかった。…… 敗者として、勝者となった慶子の僕として、できる限りの務めを果たした。…… そんな満足感にも似た感情が、真っ白になった由佳梨の意識を包み込んでいた。

「……… ありがとうございました、………… 慶子様。……………」

 由佳梨の口がそう動いたが、声にはならなかった。そして、すでにその場を去った主人に感謝の意を表し終えた由佳梨は、意識を解き放ち、まだ残っている快楽の余韻の中へと、静かに堕ちていった。






Scene. 37


 由佳梨の顔面に、また容赦のないパンチが飛んだ。数秒の間をおいて、さらにもう一発。それでも、大きなヘッドギアをつけた由佳梨は、睨みつけた相手から視線を離さず、目を瞑ることもなかった。

「今日はこれぐらいにしようか。」

「………… はい。……… ありがとうございました。……」

 相手の言葉にそう答えると、由佳梨は険しくしていた表情を緩め、コーナーマットを抱えるように後ろに回していた腕を解いて、今しがたまで自分の顔に向かって放たれていた十六オンスのグローブを、相手の腕から脱がせ始めた。それが終わると、由佳梨は自分の頭を覆っているヘッドギアにも手を掛けた。

 由佳梨の顔からヘッドギアがすっぽりと抜けると、相手の娘は表情を変えずに、由佳梨に声をかけてきた。

「だいぶ慣れたようだね。面構えもずいぶん良くなってきたし。…… もう大丈夫だろうから、今日で終わりにするよ。いいね。」

 由佳梨は、少しだけ驚いたような表情でしばし相手の顔を見つめたあと、このひと月、自分の顔を殴り続けてきた相手に向かって、深く頭を下げた。

「…………… はい。……… 慶子さん、つまらないことに付き合っていただいて、本当にありがとうございました。」

 慶子の顔に、ほんの少しだけ、苦笑いとも照れ笑いともつかない微笑みが浮かんだ。


 地下のリングで慶子に負けたあと、気持ちの整理をしているうちに、由佳梨の心に、もう一度『GGR』のリングに戻りたいという欲望が湧いてきた。そして、顔への打撃を克服するために、由佳梨は慶子に、特訓の相手をしてもらえないか、と話を持ちかけた。何度か断っても執拗に食い下がってくる由佳梨に、「それほど言うなら受けてあげてもいいけど、容赦はしないよ。」と念を押して、慶子は由佳梨の特訓に付き合うことを承諾した。

 その翌日から、由佳梨は激しいトレーニングの合間に、慶子の出勤日に合わせて麻耶のジムを訪れ、慶子の勤務が終わるのを待ってボクササイズエリアに足を運んだ。そして由佳梨は、大きなヘッドギアを被ってコーナーマットを背にし、後ろに回した手をテープでがっちりと縛り付けて、慶子のパンチを顔に受け続けた。約束の言葉通りに、最初の一週間で由佳梨が二度も失神してしまうほど、慶子は容赦をしなかった。

 そんな日が三週間ほど続いたあと、由佳梨は手のテーピングを止め、コーナーマットの後ろに回すだけになっていた。テーピングをやめた最初の二日はわずかに腕が顔を庇うように動いたが、やがてそれもなくなった。

 由佳梨には、この無謀とも思える「特訓」の相手を務めてくれるのは、慶子以外には考えられなかった。何の気遣いもなく自分を苛めてくれるのは、容赦なく自分を殴ってくれるのは慶子だけ。…… 断り続けられても、由佳梨は慶子をパートナーすることにこだわった。


「…… 慶子さんは、『GGR』にも出たぐらいですから、顔を殴られることなんて全然怖くないんですよね。……」

 珍しくすぐにリングを降りようとしない慶子に、由佳梨は何となく訊いてみた。すると、慶子は少しだけ由佳梨の顔に目を向け、すぐに視線を逸らして呟いた。

「怖かったよ。……」

 意外な答えが帰ってきたので、驚いた由佳梨は、じっと慶子の顔を見つめた。慶子は由佳梨の顔に視線を戻さずに言葉を続けた。

「すごく怖かった。…… 多分、あなたとは意味が違うけどね。」

「………… 意味が、……… 違う、……」

「…… あたしはまだ、アクションスターになる夢を捨ててないんだ。…… そのあたしにとっては、顔は命より大切なもの。…… 顔を殴られて、腫れたりするぐらいならまだいいけど、万が一にも顔に大きな傷ができたり、鼻とか顎とかの骨を折っちゃったら、多分その時点で私の夢は潰えてしまう。…… だからすごく怖かった。……」

「…… それなら、どうして、……」

「前にも言ったろう? あたし、ケガをして試合に出られなくなった人には、こっちに来てからずいぶん世話になったし、いっぱい借りがあったんだ。…… あたしは他人に借りを作りたくない。だから、怖かったけど、『GGR』の代役の話を買って出たんだ。あたしにできる恩返しなんて、それぐらいしかなかったからね。……」

 由佳梨は、相変わらず自分と視線を合わせようとせず、訥々と語り続ける慶子の横顔を見つめてながら、慶子の言葉に耳を傾けていた。由佳梨は、慶子の魅力をはっきりと垣間見た気がした。慶子がいつも口にしていた「プロ意識」や、それに向かって一切の手抜きをしない慶子の姿勢、また、夢を棒に振ることを厭わずに行動を起こす慶子の義理堅さは、とても自分に真似のできるものではない、と由佳梨は思った。これほどまでに自分に厳しくできる人間を、由佳梨は慶子以外に思い当たらなかった。




Last Scene


 苦痛に顔を歪めている真っ赤なリングコスチュームの娘が、首の周りに回されている由佳梨の腕を軽く二度タップしたが、攻めることに全神経を集中していた由佳梨はそれに気付かなかった。相手の娘に食らったパンチで、由佳梨は鼻からわずかに出血していたが、由佳梨はそれにも気付いていなかった。

 尚も渾身の力で相手の娘を締め上げる由佳梨の肩の辺りを、濃い水色のシャツを身につけたレフェリーの女性が慌てて二度三度と叩き、相手の娘がギブアップしたことを由佳梨に伝えた。

 由佳梨はハッとして腕の力を緩め、レフェリーの顔を見つめた。

「私の勝ち? ………」

 由佳梨がその事実を理解するまでには、少しの時間がかかった。



 控室に入ってきた所長の顔を見た瞬間、由佳梨は所長に抱きつき、ぼろぼろと涙を流し始めた。

「…… 所長、…… 私、…… 勝ちました。………」

 『GGR』のリングにデビューして以来、三試合目にして初めて掴んだ勝利。由佳梨は所長の腕の中で声を上げて泣き、その喜びに浸った。所長も由佳梨の顔を抱きしめて、嬉し涙を流した。


 半年以上音信不通になっていた由佳梨から所長に連絡があったのは、二ヶ月ほど前のことで、その頃には、所長はもう、由佳梨のことも慶子のことも、すっかり諦めていた。由佳梨が何の前触れもなく、「『GGR』で闘う準備ができました。また事務所の所属選手として闘わせてください」といきなり電話で切り出してきたとき、所長はとても驚いた。そして、その数日後に、由佳梨と事務所で直に顔を合わせた所長は、由佳梨が精神的にずいぶん逞しくなったと感じていた。


 由佳梨が泣き止んでも、所長は由佳梨を抱いている腕の力をなかなか緩めようとしなかった。ようやく由佳梨の様子に気付いた所長は、由佳梨の頭から腕を解き、少し照れくさそうに笑った。由佳梨も所長の仕草を見て、落ち着きのある微笑を浮かべた。

「由佳梨ちゃん、おめでとう。すごく素敵だったわよ。…… もう、私、なんて言ったらいいのか。…… 由佳梨ちゃんが戻ってきてくれただけで、涙が出るほど嬉しかったのに、……」

 涙ながらにそう語る所長の顔を見つめ、由佳梨は、事務所に戻ってから誰にも話さなかったことについて、所長に語り始めた。

「実は、…… 事務所に籍を戻しなさい、って言ったのは、慶子さんなんです。」

「えっ、慶ちゃんが? ……」

 由佳梨の口から慶子の名前が出たことで、所長は驚きを隠せなかった。由佳梨は一段表情を崩し、小さく頷いた。

「ええ。…… 私、この半年、慶子さんととても近いところにいました。慶子さんには、顔への打撃を克服するための訓練をお手伝いしていただきましたし、慶子さんと接することで、いろんなことを学ぶことができました。…… 慶子さんには、ずいぶんお世話になりました。こうして、『GGR』のリングに戻れたのもすべて慶子さんのお陰、…… そう思ってます。」

「慶ちゃんは、……… 慶ちゃんも事務所に戻ってきてくれないの? …… 由佳梨ちゃん、慶ちゃん何か言ってなかった?」

「あたしは事務所に借りはない。だから、事務所には戻らない。でも、あなたには、所長に借りがあるはず。事務所に籍を戻して、事務所所属のモデルとして『GGR』に出て、試合に勝つことで、所長に借りを返していらっしゃい。…… 慶子さんは、そう言ってました。……」

 由佳梨の説明を聞き終わると、所長も穏やかな笑顔に戻った。本当に慶子らしいものの考え方だ、と彼女は思った。…… もう慶子は戻ってこない。それならば、慶子が自分の元に帰してくれた由佳梨に、精一杯愛情を注ぎ込もう。……

 慶子の顔を思い浮かべながら、所長は由佳梨をもう一度ぎゅっと抱きしめた。そして、由佳梨が戻ってきたことの喜びを噛みしめながら、彼女は心の中で慶子に感謝の言葉を送った。

「慶ちゃん、…… ありがとう。………」

 由佳梨も慶子の顔を思い浮かべていた。この、少し涙もろい所長の腕の中に帰ってこれたのも、みんな慶子のお陰。…… 由佳梨も心の中で、「ありがとう、慶子さん」と呟き、もう一度所長の身体を強く抱きしめ、その胸の中に顔を埋めた。




Epilogue


 由佳梨は『GGR』で初勝利を収めたあとも、モデル事務所所属の選手として『GGR』への参戦を続けていた。戦績は完璧というわけにはいかず、勝ったり負けたりではあったが、だんだんメインに近いところで試合を組んでもらえるようになってきていた。

 モデル事務所にやってくる仕事の質も変わってきた。比較的大きな格闘技イベントのゲストに招かれるようになったし、グラビアアイドルから格闘家へ変身していく娘として、ドキュメンタリー番組でテレビの取材を受けたこともあった。全国規模の仕事依頼を受けるたびに、由佳梨は事務所に大きな利益をもたらした。由佳梨には、闘う元グラビアアイドルという魅力的なセールスポイントに目をつけた大手の芸能プロダクションから何度か移籍の話もあったが、由佳梨はそれらを断り、最後まで事務所を移ろうとはしなかった。

 その一方で、頻度こそ数ヶ月に一回になってしまったものの、由佳梨は地下のリングにも上がり続けた。そして、慶子に無残な敗北を喫してから二年ほどが経ったとき、由佳梨は女王の座を守り続けていた慶子と地下のリングで再び闘い、見事に勝利した。由佳梨は試合後のリングの上で、それまでの感謝の意を込めて慶子を何度も頂点に導いた。そして、その試合を最後に、慶子から奪い取った女王の座を放棄して、由佳梨は地下のリングに別れを告げた。

 慶子には、由佳梨との再戦の前に、ほんのチョイ役ではあるが、何度か映画出演の話がきていた。その中の一つに、主人公の敵役に殺される女スパイの役が回ってきたことがあった。スクリーンに映ったのはほんの数分だけだったが、これがとある映画監督の目に留まり、慶子はこの監督の次期作品で、比較的大きな役を与えられることになった。ちょうどこの次期が由佳梨との敗戦に重なったので、女王の座を失ったことを機会に、慶子も地下のリングから姿を消した。

 地下のリングを去っていく由佳梨と慶子に、麻耶は、「地下のリングで闘っていたことは、絶対に世間に洩れないから、安心してお仕事に励みなさい」と言い含め、それぞれの道へと、二人を快く送り出した。


 慶子が初めて映画に出演したあと、由佳梨は慶子のメールアドレスを調べて、一度だけ慶子にお祝いのメールを打ってみた。ひと月近く経ってから返ってきたほんの数行の返信の最後に、慶子は「どんな形でもいいから、もっと学歴を積んでおきなさい」と記した。由佳梨は慶子の気遣いに深く感謝し、慶子の教え通りに大学を受験することに決めた。

 事務所の仕事や試合、トレーニングに受験勉強、由佳梨は忙しい毎日を送っていた。そんな一日一日が、由佳梨とってはとても充実した、楽しい日々だった。




 とある晴れた日の昼下がり、由佳梨は、地元の映画館のあまり目立たない位置にある席に腰を下ろし、前方のスクリーンを眺めていた。

 由佳梨は慶子が少しでも出演している作品が上映されるたびに、自ら映画館に足を運んた。そして、慶子に与えられる役がだんだん重要なものに変わっていくことを実感していた。

 由佳梨が慶子に勝った地下のリングでの試合のあと、由佳梨と慶子はメールのやり取りを一度ずつしたきりで、手紙やメールを交換したり、実際に顔を合わせたりすることはなかった。由佳梨は何度か慶子に会いたいという衝動に駆られたが、由佳梨はその想いを胸にしまいこみ、アクション女優・神崎慶子の一ファンとして、慶子の活躍を静かに見守っていくことにした。




 やがてお目当ての作品の上映が終わり、スクリーンにスタッフロールが流れた。その中で「神崎慶子」の名前がどのぐらいの順番に配置されているのかを確認すると、由佳梨はシートから腰を上げ、出口に向かって流れていく人ごみの中に身を移した。

 由佳梨がしっかりと両腕に抱えているプログラムの表紙には、小さめではあるものの、慶子が相手を睨みつけてハイキックを放っている写真が印刷されていた。今度プログラムを買うときには、もう少し大きな写真で慶子が写っているといいな、と由佳梨は思った。



「由佳梨の戦譜」 了

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