「亜希ちゃん、本当にプロになる気はないのかい? 充分いけると思うんだけどなぁ。うちのジムには、女子の試合を組めるほどの力はないけど、その気があるなら、もっと大きなジムを紹介してあげるよ。」
「…… ええ。学生の間だけ、って決めてましたから。…… プロになること、少しだけ考えましたけど、第一、私のこの体格じゃ、相手の娘を探すのだって大変でしょ。」
「確かにそうだなぁ。…… 亜希ちゃん、身長百七十はあるよねぇ。もうずいぶん筋肉付いちゃってるし、どんなに絞っても、百二十ポンドが限界だろうな。」
「でしょう。…… 私、大学を卒業したら、普通に就職するつもりです。そうなったら、趣味のボクササイズ程度になっちゃうでしょうね。ですから、本当にボクシングを楽しめるのは、あと半年とちょっとですね。」
「もったいないなぁ。スパーリングだって、男子が相手でも全然問題ないぐらいなのに。」
「私もここに通い始めて、もう六年ですからね。少しぐらいは上達しないと変でしょ、会長。」
「まあ、そりゃそうだけど。………… で、妹さんの所へ行くのは明日だったよね。」
「はい。明日の朝、こちらを発ちます。…… 次にジムに顔を出せるのは二ヵ月後ですね。」
「そうだったね。…… ふた月も亜希ちゃんの顔を拝めないのか。うちの連中は、みんな亜希ちゃんのこと大好きだから、寂しがるだろうなぁ。」
「照れちゃうなぁ。…… 帰ってきたら、すぐにここに寄ります。おみやげ、たくさん買ってきますからね。」
「あいよ。気をつけて行っておいで。東京で変な遊びを覚えるんじゃないよ、亜希ちゃん。」
「わかりました、会長。…… じゃ、失礼します。」
小さな地方都市にある、小さなボクシングジム。
女子大四年生、早坂亜希は、会長と呼ぶにはちょっと頼りない、ジムのオーナーと短い会話を交わしたあと、両親の待つ家路についた。
亜希は小さい頃から格闘技、とりわけボクシングに大きな興味を抱いていた。高校に進学したことをきっかけに、亜希は、たまたま近所にあった小さなボクシングジムに通うようになった。親は猛反対したが、亜希は、身体を鍛えるためだけ、他人と殴りあうようなことは絶対にしない、と親を説き伏せた。
事実、亜希も選手になろうとは思っていなかったし、ジムに通い始めのころは、基礎体力をつけるためのトレーニングをしながら、その合間に他の練習生がスパーリングをしている姿を眺めているだけで充分だった。それでも、二年、三年とジム通いを続けるうちに、試合とまでは行かなくても、スパーリングぐらいはしてみたい、と亜希は思うようになっていた。
実家から通える女子大へと進学してからも、亜希は学業に励む傍ら、ジム通いを疎むことはなかった。男子の練習生の中に一人だけ混じって、亜希はさまざまな想いをサンドバッグに叩き付けていた。
亜希が二十歳の誕生日を迎えた数日後、ふとしたことから、亜希に男子の練習生のスパーリングパートナーを務める機会が訪れた。相手は、亜希より十五ポンド近く軽い、ボクシング経験一年の選手だった。ジムの会長は相手の練習生に、絶対に亜希の胸を攻撃しないことを言い含め、二人をリングに上がらせた。
初めて訪れた実戦の場で、亜希は堂々と相手を迎え撃った。リングの外から他の練習生がスパーリングをしている姿を四年半に渡って見てきた亜希の身体は、驚くほど自然に動いた。殴られることの恐怖感もあるにはあったが、実際に経験してみるとそれほどでもなかった。
予定の三分は、あっという間に過ぎていった。終了のゴングを聞いたあと、大きなヘッドギアを脱ぎ去った亜希の表情には、恍惚感すら窺い見ることができた。
その後も、亜希はしばしば男子の練習生を相手にスパーリングを経験するようになった。胸への攻撃だけは制限してもらったものの、相手の格を少し上げても、亜希はまったく怯むことなく男子の練習生と打ち合った。ときおり痛打を浴びてダウンしてしまうこともあったが、それでも生身の相手と向かい合ってのスパーリングは、亜希にとって楽しみな、充実した時間だった。
亜希は、両親との約束を破って、男性を相手にスパーリングを行っていることを、両親にはもちろん、一番心を通い合わせている妹の真希にも内緒にしていた。ジムメートの練習生全員にも、亜希がスパーリングをしていることを他言しないようにと、会長からの緘口令が出ていた。
ようやく梅雨が明けて、日中の日差しは夏本番の到来を告げていた。
次の年の春に卒業を控えていた亜希は、親元を離れて一人暮らしをしながら東京の大学に通っている二つ年下の妹、真希の住まいであるワンルームマンションへとやって来た。亜希は、夏休みの二ヶ月近くを妹の部屋に居候させてもらい、就職を考えているいくつかの企業を訪ねてみようと考えていた。
亜希が東京にやってきた次の日、亜希は就職先の第一希望と考えている、「氷川麻耶・レディース・スポーツ・ジム」の本館を訪れていた。
妹の真希がジムの学生会員になっているということで、亜希は真希に案内を頼み、「ビジター入館証」と書かれたタグを首に掛けて、八階建てのビルのあちらこちらをくまなく見て回った。亜希は、ときおり溜息をつきながら、整然と並んでいる何十台もの最高級トレーニングマシンにうっとりとした視線を向けていた。
「お姉ちゃん。……… お姉ちゃんってば。………… いつまで眺めてるの?」
「ごめん、真希。…… でも、見たことないようなマシンばっかりなんだもん。………
はあぁ、…… いいなあ。…… こんなジムでお仕事することができたらなぁ。………」
「この上の階に、新しくできたボクササイズ用のエリアがあるよ。どうせ、お姉ちゃんのお目当てはそっちでしょう?」
「えっ? ボクササイズ?」
「あれ、まだ言ってなかったっけ?」
「聞いてない! うわぁ、楽しみだなぁ。ね、ね、早く行こう、真希。」
亜希が見学ルートの最後となる七階に上がると、目の前に広がったスペースの一角に、少しばかり見慣れた用具類が並べられているエリアが見つかった。四本のロープに囲まれた本格的なボクシング用のリング。それと、天井から吊るされたサンドバッグが六つ。壁際に置かれた棚には、数こそ少ないものの、ボクシンググローブ、ヘッドギア、パンチングミットなどが並べられていた。ただ、亜希が通っている地元のジムで見慣れた風景とはまるで違い、男臭さや、汗臭さをまったく感じさせない、いかにも「女性を対象にしたボクササイズ専用スペース」という雰囲気が漂っていた。
「うわぁ。すごい。真希の通ってるジムにも、こんなところがあったんだ。」
「ここはね、ついこの間改装が終わって、できたばっかりなの。だから、まだ利用してる人は少ないわね。」
下の階や同じ階の他のスペースに比べると、真希の言葉通り、ボクシング用のスペースには人影は多くなかった。六つあるサンドバッグも、そのうちの五つは空いていた。
亜希の視線は、ただ一人、黙々とサンドバッグに向かってパンチを繰り出している女性に向けられていた。長めの髪をポニーテイルに纏め、エメラルドグリーンのスポーツブラとスパッツを身に付けているその姿からは、非常に健康的な肉体のバランスをイメージできた。年齢は二十台の半ばぐらいだろうか。身の丈は、背の高い亜希よりも数センチ上かも知れない。
亜希の見たところ、その女性はまだそれほどボクシングに馴染んでいる様子ではなく、繰り出すパンチもまだまだ素人の域を脱していないように見えた。ただ、身体の方はしっかりと鍛え上げられているのが、容易に見て取れた。
しばらくして、亜希がその女性から真希へと視線を移すと、真希も同じ女性を見つめていた。亜希には、気のせいか、真希の表情が悲しみを帯びているように見えた。
「どうしたの? 真希。」
「えっ? あ、何でもないよ、お姉ちゃん。」
「…… あそこでサンドバッグを叩いている女性、知ってる人なの?」
「うん。…… このジムでエアロビクスのインストラクターをしている青木恵美子先生。」
「あれ? 真希はエアロビやってるんじゃなかったよねぇ。何でその先生のこと知ってるの?」
「ちょっとワケアリで。…… ごめん、お姉ちゃん。この件は、これ以上突っ込まないで。」
二人がそんな会話をしていると、サンドバッグを叩く手を休めた女性は二人の方に目を遣り、そのうちの一人が顔見知りであることに気付くと二人の方に近づいてきた。真希はその女性と目が合うと、小さく一礼した。亜希もそれに倣って、目の前の女性に深く頭を下げた。
「こんにちは、恵美子先生。」
「こんにちは。…… えーと、…… 早坂真希さん、…… だったわね。」
「はい。…… あ、こっちは、私の姉です。」
「早坂亜希です。初めまして。妹がお世話になってるみたいですね。今後とも、よろしくお願いします。」
「初めまして。青木恵美子です。ここでエアロビクスのインストラクターをさせていただいてます。……
あら、これはビジター入館証ね。…… と言うことは、亜希さんはまだここの会員じゃないのね。」
「はい、私は実家の近くにある女子大に通ってます。今、四年生で、来年の春に卒業して就職するのですが、実はこのジムが第一希望なんです。大学の方が夏休みに入ったので、昨日東京に出て来て、しばらく妹の住まいに居候させてもらおうと思ってます。今日は真希に案内役を頼んで、館内をいろいろと見せていただいているんです。」
「そう。…… あなたのような素敵なお嬢さんがうちのスタッフに加わっていただけるかも知れないと思うと、とても楽しみです。……
じゃ、ゆっくりして行ってくださいね。私はこの後すぐに仕事がありますので、申しわけありませんが、これで失礼させていただきます。では。」
恵美子が立ち去った後、真希の表情には暗い影が落とされていた。亜希が真希の異変に気付き、何か気になることでもあるのかと真希を問い詰めても、真希は「何でもない。」と言い張るばかりで、その陰鬱な表情の理由を口にしようとはしなかった。
恵美子はスタッフルームに入ると、電話の受話器を手に取り、オーナー執務室の内線番号をダイヤルした。
「あ、オーナー、ご在室でしたか。青木です。お忙しいところ申しわけありません。今、よろしいですか?」
「ああ、恵美子さん。…… 大丈夫よ。…… どうしたの? なにか用事?」
「ええ。ちょっとお知らせしておきたいことがありまして。…… オーナーは、学生会員の早坂真希さんのこと、ご存知ですよね。」
「早坂真希。……… ああ、例の学生さんのことね。…… で、彼女がどうかしたの?」
「実は、たった今、早坂さんのお姉様に会いました。…… 少しだけ立ち話をしたのですが、今、女子大の四年生で、うちのジムへ就職を希望しているそうです。ビジター入館証をしていましたから、今のところ、うちのジムとはまだ繋がりがないみたいですね。」
「それで?」
「…… 背は私と同じぐらい。顔もスタイルも、なかなか素敵な方でしたよ。……
それで、妹さんと同じように、あちらの方にお誘いしてみてはいかがかな、と思いまして。」
「…… なるほど、ご馳走を見つけた、ってことね。恵美子さん。」
「そういう風に聞こえますか。……… まあ、その通りです。……」
「よっぽど気に入ったみたいね。あなたが言うのだから、間違いはないでしょう。……
でも、その方は、早坂さんのお姉様と言うこと以外には、うちのジムとは繋がりがないのよね。……
さすがに妹さんに頼むというわけにはいかないでしょうし。…… うちのジムに就職を希望されているのであれば、そのうちにお会いする機会もあるでしょう。もし近いうちに、来館する機会があったら、実際にお会いして、それとなくお話してみる。……
それでいいかしら。」
「ええ。よろしくお願いいたします。…… では、失礼いたします。」
麻耶は、受話器を元に戻し、オーナー執務室の豪華な椅子に凭れ掛かった。
まったく食欲旺盛な女王様だ、と麻耶は思った。それでも、選手の候補が増えることはいいことだ。それに、恵美子が出会った直後に話を持って来るぐらいなのだから、かなり期待していいのだろう。早いうちに直接会って、品定めをしてみたいものだ、と麻耶は考えていた。
しばらく物思いに耽っていた麻耶は、再び電話の受話器を手に取り、内線を通じて、早坂真希の姉が一人で来館したら、すぐに自分に連絡をするようにと、何人かのスタッフに言い含めた。
翌日、亜希は、都内のいろいろな場所を訪れ、夜遅く真希の部屋に戻ってきた。軽いおしゃべりの後、二人は家庭用のテレビゲームに興じた。亜希は、もう少し真希と話をしていたかったが、真希が「どうしてもお姉ちゃんと勝負したい」と言い出し、亜希はしぶしぶそれに従う形になった。亜希には、真希が自分と話をするのを嫌がっているではないか、何か触れられたくない話題があるのではないか、とも感じられた。
それでも、マシンの電源が入ると、すぐに亜希はゲームに心を奪われた。久しぶりの妹との対戦は堪らなく面白く、コントローラを操作する手が汗ばむほどだった。二人は、夜中までテレビの前に座り込んで、肩を並べてテレビゲームに没頭した。
その次の日、亜希が目覚めると、もう時計の針は午前十時を回っていた。この日も、いくつかの訪問先を回る予定だった亜希は、まだ寝息を立てている真希を起こし、急いでシャワーを浴びて、外出用の服を身に纏った。
亜希が玄関で靴を履いていると、少し寝ぼけ眼の真希が声を掛け、持っていた鍵を亜希に手渡した。
「これ、玄関の鍵。コピーしておいたから使ってね。それと、今日の夕方、用事があって出かけるの。帰るのはかなり遅くなると思うから、先に休んでて。」
「うん、わかった。」
「お姉ちゃん、今日はどこへ行くの?」
「だいたい昨日と同じ。…… 就職先に考えている会社をいくつか回ったり、調べ物をしたり、いろいろね。……
あと、帰りに、おととい行った、あなたの通っているジムに寄ろうかと思ってるの。夕方から夜にかけて、どんな感じなのか少し見ておきたくて。」
「えっ?…… うん、わかった。…… じゃ、いってらっしゃい。」
ジムに立ち寄る、と亜希が言ったとき、真希が動揺したことを、亜希は見逃さなかった。ジムで、恵美子というエアロビのインストラクターと話をしたときもそうだった。やっぱり真希は、何かを隠している。でも、ここで真希を問い詰めても、真希は何も答えないだろう。
亜希は、真希の表情の変化に気付かなかった風を装い、真希に向かって小さく手を振り、玄関のドアを閉めた。亜希は、近くの駅に向かう途中、妹が間違いなく抱えているであろう悩みの種について、もう少し時間を掛けて、何とか聞き出す必要がある、と考えていた。
夜更かしが祟って、出発が遅れたせいで、亜希のこの日の計画は大幅に狂い、亜希がジムに着いたときには、午後八時半を少し過ぎていた。それでも人気のスポーツジムのロビーは、多くの女性でにぎわっていた。
亜希は、その様子を横目で見ながら、フロントにいる三人の従業員の中で一人だけジムのロゴの入ったTシャツを身に着けている女性に声を掛けてみた。
「…… あのぅ、…… 私、早坂亜希と申します。…… こちらの会員になっている妹のことで、少しお聞きしたいことがあるのですが。……」
「早坂亜希さん。………… 早坂真希さんのお姉様ですね。…… 申し訳ありません。少しだけ、ここでお待ちいただけますか。」
亜希は、自分が名乗ったときに、応対した従業員から笑顔が消えたような気がした。それに、一学生会員に過ぎない真希と、門外漢である自分の名前を、その女性はすでに知っている様子だった。おかしい。どう考えても不自然だ。やっぱり、このジムには何かある。と、亜希は思った。
亜希に応対した女性は、フロントの裏手にあるドアから従業員専用のスペースに入ると、すぐにオーナー執務室に内線電話を掛けた。
「あ、オーナーですね。エクササイズ課の佐藤晴子です。今、フロントのヘルプに来ているんですが、おとといお話のあった、早坂真希さんのお姉様が、フロントにお見えになっています。」
「あら、ずいぶんなタイミングね。…… 応対をしたのは、晴子さんご自身ですか?」
「はい。来館されてから、私に一番に声をかけられたのだと思います。」
「…… それと、お一人の様子ですか?」
「ええ。…… 妹さんのことで聞きたいことがあるそうです。いかがいたしましょう。」
「そうですか。…… わかりました。私が直接お話しますので、八階へお通ししてください。晴子さんも、フロントはもういいから、一緒に上がってらっしゃい。人手が足りないようなら、誰か他の人に代わってもらってください。」
「はい。今のところは、私が抜けても大丈夫のようですので、ご本人の了承が取れたら、すぐに執務室の方へお連れします。……
では、失礼いたします。」
晴子は、内線電話を切ると、すぐにフロントへ戻り、カウンターを抜けてロビー側へと出てきた。そして、亜希を人気のないロビーの隅へといざなうと、小さな声で亜希に話しかけた。
「早坂さん。今、お時間に余裕がありますか?」
「はい。特にこのあと予定もありませんし。……」
「…… 実は、オーナーが早坂さんと直接お話ししたいそうです。今、八階のオーナー執務室へお連れするよう指示を受けました。」
「えーっ。…… オーナーって、氷川麻耶さん本人ですよね。」
「その通りです。…… それと、お尋ねのあった妹さんのことについても、ご説明できると思います。」
亜希には、晴子の言葉が信じられなかった。選手を志していなかったとは言え、六年もの間ボクシングに手を染めていた亜希にとって、麻耶は神様のような存在だった。亜希が麻耶のジムに就職を希望している背景にも、それは少なからず影響を与えていた。その麻耶が、自分に直接会うという。それに、真希のことも何か知っているようだ。何がどうなっているのか。まるでわからない。
晴子に付き添われ、エレベーターを待っている亜希の頭はめまぐるしく回り続けた。しかしもちろん、まともな答えは出てこなかった。
この部屋の主であり、「氷川麻耶・レディース・スポーツ・ジム」の総帥である麻耶は、豪華な椅子に凭れ掛かって、亜希の全身に舐めるような視線を這わせたあと、最後にじっくりと亜希の顔を見つめ、うっとりとした表情を浮かべた。確かに恵美子が言っていた通り、この娘はかなりの上物だ、と麻耶は思った。
亜希は少し俯き、肩をすぼめて、麻耶の視線を恥ずかしそうに受け止めていた。やがて麻耶は、亜希に向かって、口を開いた。
「早坂亜希さん。…… でしたわね。お会いできて、本当に嬉しいわ。」
「あっ、いえ、とんでもないです。私のような小娘に会っていただけるなんて、……
身に余る光栄です。」
「そんなに畏まらなくても結構ですよ。どうぞ、気をお楽にしてくださいな。」
「…… はい。…… ありがとうございます。」
「…… では、本題に入りましょう。…… その前に、あなたは口が堅い方かしら?」
「…… あのぅ、…… どういうことでしょうか?………」
「ここで見聞きしたことを、絶対に他の方に洩らさない。それをこの場で約束していただけるか、と言うことです。……
実は、あなたの妹さんのことについても関係があります。おわかりになりますね。」
真希のことを切り出されると、亜希の表情はすぐに真剣なものへ変わった。いきなり守秘義務を課せられる。それほど事は重大だということなのだろう。ならば、なおさら知っておかなければならない、と亜希は思った。亜希は唾を飲み込み、まっすぐな視線を麻耶の目に向け、黙って頷いた。
了解の意を表した亜希の仕草を確認すると、麻耶は凭れていた椅子から、目の前のデスクの上に身を乗り出した。
「…… 単刀直入に言いましょう。…… 私、あなたに興味があるの。…… どう?
私のリングで闘ってみる気はない?」
「えっ?…… オーナーのリング、…… ですか?……」
「…… そう、私のリング。…… このビルの地下にある、特別なお客様だけに提供している、秘密のリング。……
あなたの妹さんにも、参加していただいてるわ。」
「真希が? 真希がこのビルの地下で闘ってるとおっしゃるんですか?」
「その通りよ。…… それと、あなたの妹さん、真希さんは、今日行われる試合に出場します。……
あなたが私のリングで闘うことに興味があるのなら、今からあなたを私のリングに連れていって差し上げます。……
ただし、ここで行われる試合に出場するには、かなりの勇気と覚悟が必要になりますよ。……
なぜ、地下で、世間から隠れて行っているのか。実際に見ていただければ、すぐにわかります。……
あなたには、妹さんの試合を見る勇気があるかしら?」
亜希は、その場に固まったまま、動けなくなってしまった。麻耶に向けられていた視線も、自分の足元へと落ちてしまっていた。
一階のロビーで、麻耶が直接自分に会うことを告げられたときには、まったく状況がわからなかった。でも今は、たくさんの手がかりがある。亜希の思考回路は、再び高速で回転し始めた。
真希は、自分と同じで、身長百七十センチ近い立派な身体をしているが、高校まではずっと水泳の選手で、大学に入ってからはそれもやめてしまっている。確かに基礎体力は普通の女性よりはあるだろうが、自分の知りうる限り、格闘技の経験などないはずだ。仮に、親元を離れてから始めたのだとしても、まだ一年そこそこ。リングの上で試合をこなせる力量だとは、とても思えない。
亜希の不安を増幅させる手がかりは、それだけではなかった。今、麻耶が亜希に告げた、「なぜ、地下で、世間から隠れて」という言葉。それは、格闘家であることよりも、女性であることを選手に要求しているようにも受け取れる。それと、一緒にジムに訪れたときに見せた、真希の不安そうな表情。今朝、真希の部屋を出るときもそうだった。「今日は遅くまで部屋に帰らない」とも、真希は言っていた。
今夜、格闘技経験のない真希が、このジムの地下にあるリングで闘うということ。そして、それを自分に知られたくないということ。なぜ知られたくないのか。それは世間の目に晒すことができないような、凄惨なものだから。……
言いようもない大きな不安が、亜希の心の中に広がっていった。考えがまとまると、亜希は懇願するような視線を麻耶に向けた。
「私を、オーナーのリングに連れて行ってください。お願いします。」
亜希がそう答えて、真剣な眼差しで麻耶を見つめると、麻耶は椅子から立ち上がり、亜希のそばへ近づいた。
「覚悟ができたようね。…… もう一度だけ言っておくわ。…… 私のリング、一度足を踏み入れたら、後戻りはできないわ。それでもいいのね。」
「…… はい、大丈夫です。もう覚悟はできてます。」
「わかりました。…… 晴子さん、こちらにいらっしゃい。」
麻耶は、亜希から、オーナー執務室のドアのところに控えていた晴子に視線を移した。晴子は、麻耶の指示に「はい」と返事をして、二人に近づいてきた。
「晴子さん、あなたの勤務予定は、このあとどうなっていますか?」
「はい。フロントのヘルプが九時まで。そのあとは、特別待機、…… つまり、地下付けになります。」
「そう。ちょうど良かったわ。…… じゃ、今夜はこのお嬢さんの案内役を、あなたにお任せすることにします。」
「わかりました。」
「まず、うちのトレーニングウエアに着替えていただいた方がいいわね。このお衣装では目立ってしまうから、研修中のスタッフにでも見えるようにしてあげてくださいね。スタッフ用のロッカーを使っていただいても構わないわ。……
あなた、今夜はパトロンの皆様のお世話はいいから、試合中も一緒に居てあげて、地下のリングのことをいろいろ教えてさしあげてください。」
「はい。」
「私は、この後すぐに降りて、パトロンの皆様のお相手をします。…… 準備ができたら、亜希さんを連れて、地下へ降りてください。……
それと、今夜の対戦予定は確認していますね、晴子さん。…… じゃ、あとはお任せします。よろしく頼みますよ。」
「…… わかりました。」
麻耶は、晴子に指示を与え終わると、執務室の奥にあるドアの向こうへと姿を消した。麻耶の後姿が見えなくなるまで、ドアに向かって礼をしていた晴子は、やがて亜希に精一杯の笑顔を向けた。
「じゃ、私たちも準備しましょう。こちらへどうぞ。」
「あ、…… はい、…… よろしくお願いいたします。」
晴子とまったく同じ、ジムのロゴが入ったTシャツ、ジャージータイプのパンツ、ハイカットのスポーツシューズに着替えた亜希は、晴子に連れられて、暗証番号の入力が必要なドアを二回通り抜け、その奥にある細い階段を、ゆっくり降りていった。
もうこれ以上、下には階段がないというところまで降りると、そこには鉄製のドアがあった。晴子がドアを押し開けると、その先は一本の通路になっていた。亜希には、その通路がビジネスホテルの廊下のように見えた。片側が壁になっている通路の反対側には、幾つかのドアが並んでおり、通路の正面にもドアが見えていた。
「ここには、試合に出場する選手の控室が並んでいます。『1A』と表示のあるドアの向こうは、ひと試合目の赤コーナーに当たる選手の部屋です。……」
二人が正面に見えるドアの方へと進んでいく途中で、辺りを見回しながら自分の後について歩いている亜希に、晴子はこのフロアがどういう構造になっているのかを説明していった。通路の突き当たりにあるドアの前まで来ると、そこは行き止まりではなく、さらに右側に通路が続いていた。
「このドアはスタッフ用の出入口です。この先に、リングと観客席があります。この通路の先、あちらの方にも同じように入り口があります。あっちは、選手専用の入場ゲートになります。」
亜希が、晴子の指差した先を横目で見ながら目の前のドアを抜けると、そこには、立派な『サロン』が広がっていた。
フロアの中央には、ロープに囲まれた漆黒のリングが照明に浮かび上がっていた。その周りを取り囲んでいるのは、いかにも高級そうなスーツに身を包み、座り心地の良さそうな椅子に腰を下ろして、楽しそうに話し合っているパトロンたち。少し派手なドレスに着替えた麻耶は、その間を縫うように、パトロンたちに笑顔を振りまいていた。
しばらくすると、映画の放映開始を告げるようなベルが鳴り、パトロンたちの話し声も止んだ。そして、選手専用のゲートに照明が当てられると、そこに、上半身には何も身につけず、ピンクのビキニボトムに、白いシューズを履いた女性が現れた。
彼女は、入場ゲートからリングまでの短い距離を、亜希と晴子が立っているニュートラルコーナーの近くまで歩き、二人のそばを通り過ぎていった。そして、リングの外側を回って青いシートが張られたコーナーマットのところまで来ると、黒いロープを跨いでリングの中へと身体を滑り込ませた。
亜希の目の前を通ってリングに上がった女性は、年は亜希と同じぐらいだろうか。大きな乳房、引き締まった身体をしているが、身長も身体の線も普通の成人女性と変わらない。亜希には、彼女がレスラーの体格に見えなかった。
また一人、同じような体格の女性がゲートの下に現れ、同じように亜希と晴子のそばを通り抜けて、赤コーナーに向かい、リングに上がった。こちらの女性は、ヒョウ柄のビキニボトムに黒のシューズ。精悍な顔立ちは、青コーナーに控えている、どちらかと言うと可愛い顔立ちの女性とは対照的だった。
最後に、亜希たちが居る反対側のニュートラルコーナーから、亜希たちと同じコスチュームを身につけた背の高い女性がリングに上がり、リングの中央へと進んで、それぞれのコーナーに控えている二人を呼び寄せた。レスラーと呼ぶにはかなり華奢な二人の女性は、しばらくレフェリーの話に聞き入っていたあと、再びコーナーへと戻ると、おもむろにゴングが鳴った。
二人はリングの中央で立ち止まり、腰を落として身構えると、同時に相手に向かって突進し、組み合った。
お互いに技をかけたりかけられたりしながら、二人はレベル的にはそれほど高くない闘いを繰り広げた。しばらくは互角の闘いを続けていた二人だったが、五分もすると、ヒョウ柄のボトムの女性の方がはっきりと優勢になった。ピンクのボトムの女性は、一方的に相手の技を受けるようになり、そのたびに身体をロープ際へとにじり寄らせて、ロープを掴んで、レフェリーのブレイクの合図をもらって、相手の技から逃れた。
ロープブレイクが、五、六回続いたあと、ピンクボトムの女性は、リングのほぼ中央で相手に背中を取られ、裸締めに極められてしまった。彼女は首の周りに回された相手の腕の下に指を入れたり、必死に身体をバタつかせたりして抵抗していたが、やがて泣き顔になり、ついには相手の腕をタップした。
ヒョウ柄ボトムの女性は満足そうに笑顔を覗かせると、すぐに相手に掛けていた腕をほどいた。
ずいぶんとあっけない幕切れだな、と亜希は思った。が、しばらく息苦しそうにはあはあと呼吸と続けていたピンクボトムの女性は、相手を泣き顔で睨みながら立ち上がると、再び闘う構えを取り、ヒョウ柄ボトムの女性に向かっていった。
亜希は、傍らでリングの方を見つめている晴子に向き直り、自分が抱いた疑問を投げかけてみた。
「晴子さん、ピンクのコスチュームの人は、今、ギブアップしましたよね。……
でも、まだ試合は続いているようです。どうしてですか?」
「そうです。確かに彼女はギブアップしました。…… でも、それだけでは、試合は終わらないんです。」
「……… どういうことですか?……」
「ギブアップは、ロープブレイクに逃げることができない選手に残された、相手の技を外してもらうための手段に過ぎないんです。自分の負けを認め、試合を終わらせるためには、屈辱に満ちた、ある儀式をしなければなりません。……」
「…………」
「しばらく見ていれば、わかると思います。…… 試合を終わらせてもらうためには、どうしなければならないのか。……
そしてそのあと、負けた選手がどうなってしまうのかも。……」
ギブアップしたあとも、ピンクボトムの女性は必死に闘ったが、ヒョウ柄ボトムの女性の前に、次々に致命的な技に極められ、何度もギブアップを繰り返した。
やがてピンクボトムの女性は、ギブアップのあと、キャンバスの上に倒れたまま構えを取れなくなった。それでもヒョウ柄ボトムの女性は、ほぼ無抵抗になってしまっている相手に襲い掛かり、彼女を攻め続けた。亜希には、いつになったら、どうしたらこの試合が終わるのか、まるで見当がつかなかった。その横で、晴子が、「そろそろですね。」と呟いた。
キャメルクラッチに極められて、数秒しか持たずにギブアップしてしまったピンクボトムの女性を解放すると、ヒョウ柄ボトムの女性は、腰を押さえながらうつ伏せに倒れているピンクボトムの女性の顔の前に立ち、嘲るような視線を彼女に浴びせ、腰に両手を当てた。
相手が目の前に立っていることに気付くと、ピンクボトムの女性は、涙を流しながら相手を見上げた。そして再び俯いて泣き声を上げると、相手の黒いシューズにしがみつき、それを舐め始めた。
一人の勝者と一人の敗者が決まり、ゴングが乱打された。
呆気に取られたように、リングの上の光景に見入っている亜希に、晴子が声を掛けた。
「負けを認め、試合を終わらせてもらうには、相手のリングシューズを舐めなければなりません。……
ここでは、そうすることでしか、試合を終わらせてもらうことができないんです。」
「………………」
「でも、それですべてが終わったわけではありません。…… 負けてしまった選手には、このあと、さらなる辱めが待っています。………
敗者は勝者に絶対服従。それがこのリングの掟です。…… ピンクのボトムの女性、……
もう、そう呼ぶこともできなくなってしまうでしょうが、…… 彼女は、試合に勝った選手に何をされても、それに甘んじなければなりません。……」
まだ終わらないのか。…… まだ続きがあるというのか。…… 亜希は、そう言いたげに、哀しそうな表情で晴子の顔を見つめたあと、再びリングの上に視線を戻した。
試合が終わったあと、リングの上では、闘いから凌辱へとシーンが移り変わっていた。
ヒョウ柄ボトムの女性は、キャンバスの上にうつ伏せに倒れている女性の髪を左手で掴み、意地の悪そうな笑みを浮かべて、相手の泣き顔を眺めながら、彼女を口汚く罵った。さらに勝者の右手が敗者の乳首に伸び、それを捻り上げるように引っ張ると、ピンクボトムの女性は、顔を歪ませて激しく泣き声を上げた。
しばらくすると、ヒョウ柄ボトムの女性は、相手の髪と乳首から手を離し、相手の下半身の方へと移動した。そして、おもむろに相手のピンク色のボトムに手を掛け、それを無造作に引き剥がした。亜希は、その光景を見るに耐え切れず、リングの上から視線を逸らした。
「負けてしまえば、コスチュームを身につけていることなど許されません。敗者が十人居れば、その十人とも、間違いなく全裸にされてしまいます。……
でも、それはまだ始まりに過ぎません。……」
晴子の呟きが亜希の耳に届くと、亜希は、哀しげな表情をリングの方へ向けた晴子の顔を見つめた。そして再び、視線をリングへと移した。
ヒョウ柄ボトムの女性の右手が、全裸にされてしまった女性の股間へと伸び、それはフサフサと生い茂った陰毛の奥にある、女性自身の中へと入り込んでいった。亜希の居る場所からは、ヒョウ柄ボトムの女性の陰に隠れて、彼女の右手は見えなかった。が、それがどうなっているのかは、あまりにも容易に推測できた。
「ほうら、入っちゃったよぉ。」
「…… いやぁ!…… やめてぇ!……」
「アンタはアタシに負けたんだ。…… おとなしく、もっと股を開きな。」
「…… いや!……… いやぁぁ!………」
「口ではそう言っても、こっちはもうびちゃびちゃじゃないか。…… ここをいじって欲しいんだろう?……
素直にそうだって言いなよ。」
「ああ、…… ああぁん、……… や、やめてぇ………」
「あははは。やっぱり、いいんじゃないか。…… いかせてあげるよ。…… 大勢のお客さんに、アンタがいくところをとっくり見てもらいな。」
「…… ああああ、…… いやあぁぁ、…… あぃああぁぁ、……」
勝者の指を受け入れていた敗者の喘ぎは、やがて震えたようになり、最後には叫び声となって一旦止んだ。そして、それはすすり泣きの声へと変わっていった。
ヒョウ柄ボトムの女性は、敗者の蜜で濡れそぼった指を秘唇から引き抜くと、満足したような表情を浮かべてそれを眺めた。そして、彼女は立ち上がり、敗者の顔に唾を吐きかけ、それをリングシューズの裏で擦りつけた。
「…… アタシの指が恋しくなったら、慰めてあげるからいつでも言いな。……
それとも、またリングの上で、大勢のお客さんの前でされた方がいいのかな?」
全裸の敗者は、辱めの言葉に、再び大きな声を上げて泣きじゃくり始めた。その彼女を尻目に、ヒョウ柄ボトムの勝者は、キャンバスの上に落ちていたピンクの布切れを拾い上げ、それを指先に引っ掛けてぐるぐると回しながら、「じゃあね、スケベ女さん。」と言い捨てて、パトロンたちから送られる拍手と喝采の中を、嬉しそうにリングを降りていった。
「酷い…」という声が、リングの上に残された全裸の女性に目を向けている亜希の口から洩れた。そんな亜希の心情を否定するように、晴子が言葉を繋いだ。
「ここでは、当たり前の光景です。でも、まだ彼女の受けた辱めは、ゆるい方でしょうね。指でいかされて、唾を吐きかけられた程度ですから。……」
亜希は、ジムのスタッフに付き添われてリングを降りて行く敗者の姿を見つめていた。亜希の瞳は、うっすらと涙で光っていた。
勝者はすでにリングを去り、今、敗者が惨めな姿でリングから去ってゆく。これでやっと一つの試合に幕が下ろされることを、亜希は理解した。
「次の試合が、今夜のメインイベントです。あなたの妹さん、…… 真希ちゃんが、もうすぐリングに上がります。」
晴子の言葉に、目の前で繰り広げられた負の余韻に浸っていた亜希は、はっと我に返った。
「真希は、…… 真希も、負けたらあんな風にされてしまうんですか?」
亜希は、晴子の両腕を掴んだ。晴子は、これ以上は亜希の目を見て話すことができない、と言いたげに俯き、亜希の問いに答えた。
「ええ。…… とても言いにくいのですが、心の準備が要ると思いますのでお話しておきます。……
今夜の試合、真希ちゃんには、万に一つも勝てる望みはありません。…… 真希ちゃんは
試合に負け、リングの上で辱められることになります。残念ですが、間違いありません。……」
「…… どうして、…… どうしてですか?」
「今夜の真希ちゃんの試合、形の上では試合ということになっていますが、実のところは、真希ちゃんを痛めつけ、辱めるためのショーに過ぎないんです。……
今夜の真希ちゃんの相手は、『クイーン・恵美子』。このリングの女王です。……
とても真希ちゃんが勝てる相手ではありません。」
聞き覚えのある名前に、亜希は記憶を遡り、その人物に思い当たった。おととい見かけた、サンドバッグを叩いていた大柄な女性。……
彼女を見つめている真希の表情は、とても哀しげに見えた。…… そういうことだったのか。……
「『クイーン・恵美子』。…… このジムのインストラクターをしている方ですね。……」
「恵美子先生のこと、ご存知のようですね。…… 今日の試合は、女王である恵美子先生からの指名なんです。女王の指名はすべてに優先します。このリングに登録されている選手である以上、彼女の指名を受けたら、絶対に逃げることはできません。」
「……… そんな、………」
「彼女は、指名した選手をやすやすと打ち破り、相手を好きなようにできる権利を手にすると、相手の女性の身体をリングの上で貪ります。……
自分の好みの女性を対戦相手に指名して、大勢のお客様の前で、その肉体をじっくりと味わう。……
それが恵美子先生の、大のお気に入りなんです。…… 真希ちゃんは今夜、わがままで欲深い女王様の生贄に選ばれてしまったんです。……」
晴子の説明は、あまりにも非情な響きに満ちていた。亜希は両手で顔を覆い、妹の身に降りかかった災難を呪った。
亜希は、できることならその場から逃げ出したかった。しかし、晴子の言葉が正しければ、真希は恵美子に痛めつけられ、身体を貪られて、リングの上に放置されることになる。………
それまでの時間をこの場で過ごすのは耐え難い苦しみに違いはないだろうが、自分以上に真希は生き地獄を体験をすることになるだろう。そのとき、真希のそばにいてやりたい。真希のそばに居て、身も心も傷ついた真希を抱きしめてあげたい、と亜希は思った。亜希は、折れてしまいそうな心を奮い立たせて、現実に立ち向かう覚悟を決めた。
試合の間のインターバルは十五分ほどだったが、亜希には何時間にも感じられた。その間に、リングの上では、赤コーナーのコーナーマットの上から、金色に光るシートが被せられた。「あれは、女王だけに用意される金色のコーナーです。」と、晴子が亜希に告げた。
やがて、場内に今夜二度目のベルが鳴り響き、選手の入場ゲートに照明が当てられた。亜希がこわごわと視線を向けると、そこにオレンジ色のビキニボトムに白のシューズを身につけた、まだあどけない顔立ちの若い女性が現れた。
それは、亜希にとって一番近い存在、妹の真希に間違いなかった。
真希は、入場ゲートから一番近い位置にある、亜希と晴子がいるニュートラルコーナーへ向かって歩いてきた。亜希には、すでに精気を失ったように蒼ざめ、このあとに待ち構えている苦難に怯えている、真希の表情を読み取ることができた。はっきりと俯き加減に歩を進める真希には、周囲の状況を眺める余裕はなく、亜希のすぐそばを通り過ぎても、姉の存在に気付くこともなかった。
真希は、更にリングの脇を青コーナーの下まで歩き、そこからリングに上がると、大きな乳房を晒して、青コーナーのマットに凭れ掛かった。そして、上段ロープに両腕を伸ばして、少し哀しげに対角線上にある金色のコーナーマットをじっと見つめ、女王の入場を待った。
再び入場ゲートに照明が当てられ、再びそこに一人の女性が現れた。女王、恵美子の登場だ。パトロンたちから歓声が沸き上がった。エメラルドグリーンに輝くボトムウエアと、同じエメラルドグリーンのシューズを履いた恵美子は、入場ゲートから一歩入ったところで足を止め、歓声に応えるように両手を高々と上げた。
恵美子は、たわわに実った大きな乳房を見せつけるように、しっかりと胸を張り、リングへの道のりを悠然と歩いた。恵美子は、スタッフの衣装をつけた亜希たちには目もくれず、不敵に微笑み、一歩ごとに大きな乳房を揺らして、パトロンたちの顔を眺めながら歩いていた。それまでの選手と違い、ニュートラルコーナーのところからリングのエプロンへと飛び乗った恵美子は、そこからロープを跨いで身体をリングの中へと入れた。そして、リングの中央に進むと、再び両手を高く上げて、周囲のパトロンたちに向かってその姿を誇示した。
簡単なコールのあと、リングの中央に居るレフェリーの目の前で、真希と恵美子は向かい合った。恵美子は、両手を腰に遣り、胸を張って、満面に淫猥な笑みを浮かべながら、真希の身体中に舐めるような視線を這わせていた。真希も同じように腰に手を当てていたが、恵美子の顔を恨めしそうな眼差しで見つめ、固く唇を結んだその表情には、恵美子とは対照的に、まったく余裕が感じられなかった。
二人が一度それぞれのコーナーに戻ると、試合開始のゴングが鳴った。恵美子は悠然と、真希は少し怯えるように、リングの中央へと歩み寄っていった。
亜希が覚悟していたように、それは試合と呼べるものではなく、始めから虐めに近いものだった。真希は必死に恵美子に食い下がっていったが、実力の差は如何ともしがたく、恵美子の繰り出す技に簡単に極められては、苦しみの表情を顔一杯にして、何度もギブアップを繰り返した。格闘技の経験がほとんどない真希には、ロープブレイクに逃げることすら、一度もできなかった。
試合が始まってから二十分近くたつと、真希の動きは止まり、ほぼ無抵抗になってしまっていた。恵美子がリングの中央で真希を裸締めに極めると、もう真希は、ギブアップの意思表示すらできないほどに衰弱してしまっていた。
気を失う寸前で真希を解放した恵美子は、その場に力なく崩れ落ちる真希から視線を離して立ち上がり、両手を掲げて、リングの周りを取り囲んでいるパトロンたちを見渡した。
恵美子は、ジムのスタッフの衣装を身につけ、ニュートラルコーナーのすぐ横に立って悲しそうな視線を真希に向けている亜希のところで視線を止めた。恵美子には、スタッフ用の衣装と亜希の顔がすぐには結びつかなかったため、視線の先にいる女性が誰なのかを理解するには少しの時間がかかった。が、彼女が、自分が目をつけていた真希の姉であることがわかると、恵美子は口元を引き上げ、ニヤリと笑った。
恵美子は、真希の腕を掴んで無理矢理立たせると、亜希がすぐそばに立っているコーナーへと、真希の身体をスイングした。たたらを踏み、そのままニュートラルコーナーのマットに身体をぶつけた真希は、その場に仰向けに倒れた。
わずかばかりの呻き声を上げ、苦しそうに蠢いている真希を目の前にした亜希は、矢も楯も堪らずに、真希に向かってロープ越しに叫んだ。
「真希!」
「…… お姉ちゃん ……」
自分の名前を呼びかけた声の主に目を遣った真希の声は、消え入るような、小さなものだった。
力なく姉から視線を逸らした真希に恵美子が近づき、髪を掴んだ。そして、悔しそうに身体を震わせて、自分を睨んでいる亜希に向かって、恵美子は口を開いた。
「またお会いできて、本当に嬉しいわ。あなたも、このリングがお気に召したみたいね。……
今夜は、私がこの仔猫ちゃんを可愛がってあげる様子を、たっぷりと見ていってね。」
恵美子は、亜希に向かって冷たく微笑んだあと、真希の髪を引き摺って、リングの中央へと連れて行った。そして、真希の両腋に腕を回して立ち上がらせると、真希の腹を膝で蹴り上げた。
真希の呻き声が場内に響き渡った。その場にへたり込もうとする真希をがっちりと抱え、恵美子は次々と真希の腹に膝を入れた。やがて、悲鳴を上げることすらできなくなった真希は、恵美子に腕を外されると、その場に倒れこみ、涙と涎を流しながらヒクヒクと身体を痙攣させた。
「そろそろ降参させてあげてもいいわよ。仔猫ちゃん。…… ここのルールはわかってるわよね。負けを認めるなら、私の靴を舐めるのよ。……
それとも、もっと虐めて貰いたいかしら?」
恵美子の言葉に、真希は、目の前にある恵美子のシューズに手を伸ばした。恵美子はその手を振り切り、一歩後退して、真希がキャンバスの上を這って、自分のシューズに追い縋る姿を楽しそうに眺めていた。何とか恵美子のエメラルドグリーンに輝くシューズにしがみついた真希は、ぼろぼろと涙を流しながら、恵美子のシューズを舐め始めた。
真希が恵美子に絶対服従を誓い、試合終了のゴングが鳴った。
もう亜希には、一秒たりとも我慢ができなかった。真希のそばに近寄り、試合とは名ばかりの虐めに会い、リングの真ん中で無様な姿を晒している妹の真希を、しっかりと抱きしめてやりたかった。
ロープを跨ごうとする亜希の身体を、晴子が引き止めた。さらにフロアの奥に控えていたスタッフが二人、晴子に加勢し、亜希の身体は、再びリングの外へと引き戻された。晴子は、亜希の胴に両腕を回して、亜希の身体をその場に押さえ込み、涙声で叫んだ。
「亜希さん、駄目です。お願いですから耐えてください!…… リングは神聖なもの。勝者がリングを去るまでは、敗者には救いの手を差し伸べることはできないんです!」
亜希は、髪を振り乱し、言葉にならない叫び声を上げて盛んに暴れたが、三人の女性に両腕と胴とを掴まれて、その場に押さえ付けられてしまった。やがて少し興奮が収まった亜希は、大粒の涙を目に溜め、唇を噛みしめて、恵美子の顔を睨みつけた。
恵美子はレフェリーに勝ち名乗りを受けたあと、にやにやと笑いながらニュートラルコーナーでの騒ぎを眺めていたが、それが収拾の方向に向かうと、リングの真ん中でぐったりとしている真希の髪を掴んで、亜希の方へと近づいてきた。そして、真希の髪を引っ張り上げて、真希の顔を亜希に向けさせた。
「今夜は、素敵なお客さんが来てるみたいよ、仔猫ちゃん。今日はこのお客さんにも、仔猫ちゃんのエッチな姿をよく見てもらいましょうね。」
恵美子は、そう言うと、再びキャンバスに身を横たえた真希の大事な部分を覆っていたオレンジ色のボトムをひん剥き、傍らに置いた。そして、仰向けにした真希の身体の上にのしかかり、右手の指を真希の秘唇の中へと深く差し込み、動かし始めた。
右手で真希の下半身を激しく刺激しながら、恵美子は、真希の身体のあらゆる部分に左手と舌を這わせ始めた。真希の身体が反応を示すと、その部分を集中的に責めた。
小さな泣き声と呻き声を洩らしていた真希は、恵美子の身体の下で喘ぎ出し、やがて激しく身を捩り始めた。そして、頂点に達してしまったことを示すように、叫び声を上げて身を震わせると、ぐったりと全身の力を抜いた。
それでも恵美子の責めは終わらなかった。恵美子は真希の大事な部分から指を引き抜くと、それを舐め尽くした。そして、恵美子の右手は、再び掌まで真希の中へ入り込んでいった。もう真希には、自分の意思通りに身体を操ることができなかった。
亜希の身体を、再び怒りと悲しみが襲った。亜希は、身体をその場に押さえ付けられたまま、狂ったように妹の名前を叫び続けた。
「真希!! 真希ぃ!!」
「…… お姉ちゃん、…… 見ないで!……… お願い、私を見ないで!!………」
「真希ぃ!!!…… 真希ぃぃぃ!!!」
真希には、自分の惨めで淫らな姿を、姉に見ないように懇願することしかできなかった。しかしその声も、襲い来る快感にかき消されてしまった。そのあとも、真希は、身体の一番敏感な部分を恵美子に抉られ、続けざまに絶頂を味わった。
妹の名前を呼び続けていた亜希の声が絶え絶えになり、あまりの快感に真希の意識が混濁しかけた頃、恵美子は、真希の中から蜜にまみれた右手を引き抜いた。はあはあと息を弾ませながら、リングに落とされた照明にきらきらと光る右手全体をうっとりした表情で眺めていた恵美子は、それを自分の口へと運び、貪るように舌を這わせた。
真希の身体からは完全に力が抜け、呻き声すら発することができなくなってしまっていた。恵美子は一度真希の身体から離れ、真希の足を掴んだ。そして、お尻が上を向くように真希の身体を丸め込むと、拡げた太腿で真希の両足をがっちりと押さえ込み、真希の股間へと顔を埋め、真希の秘唇にむしゃぶりついて、じゅるじゅると音を立ててながら、真希の身体から滴っている蜜を吸い取り始めた。
やがて、真希の股間から顔を離した恵美子は、自分の唇に舌を這わすと、お尻の穴を天井に向けて身体を丸めたまま動かなくなっている真希の傍らで立ち上がった。
「とっても素敵なお味だったわ、仔猫ちゃん。あなたみたいにおいしい仔猫ちゃんを味わったのは、本当に久しぶりよ。……
あなたの身体、何度でもしゃぶりたいわ。…… また、ご馳走してくださいね。」
恵美子は、そう言うと、心から満足したようにうっとりと微笑み、真希の身を覆っていたオレンジ色の布切れを拾い上げて、リングを降りた。
亜希は、リングを去っていく恵美子に、真っ赤に泣き腫らした瞳を向けていた。押さえ付ける力に対して激しく抵抗したものの、それが無駄に終わってしまったことで、亜希の身体からは力が抜けてしまっていた。しかし、妹に降りかかった災難を目の当たりにして、何もすることができなかった自分に対する怒りは、恵美子への恨みとなって、亜希の中で赤々と燃え続けていた。
「絶対に許さない。…… 私は、あの女を、…… 恵美子を絶対に許さない。……」
恵美子の姿が入場ゲートへと消えると、亜希は視線を目の前の床へと落とし、声を上げて泣き始めた。亜希の身体を押さえ付けていた三人のスタッフが亜希の身体から離れても、亜希は、両手で絨毯の毛先を握り締めて、流れ落ちる涙を拭おうともせず、ただひたすらに泣いた。
晴子は亜希のそばを離れ、リングに上がり、相変わらず両腕と両脚をだらしなく開き、身体を丸めてお尻の穴を天井に向けたままピクリとも動かない真希に駆け寄った。そして、真希の身体を仰向けにして、真希の身体と頭に腕を回し、真希に顔を近づけた。
「真希ちゃん! 真希ちゃん!…… 私よ! 晴子よ! 私のことがわかる?!」
晴子の呼びかけに、真希は半開きの目を晴子に向けたが、「… ぁ … ぅ …」と小さな呻き声を上げるだけで、まともに返事もできなかった。真希の精神的なショックは限界を遥かに超えていた。晴子は、真希の頭を頬に摺り寄せ、涙声を押し出した。
「…… こんなになっちゃって。…… 苦しかったよね。…… 辛かったんだよね。……」
リングの上に、今しがたまで亜希の身体を押さえ付けていた二人のスタッフが上がってきた。晴子が亜希へと視線を移すと、亜希は床に両手をついたまま呻きに近い泣き声を洩らしていた。晴子が、真希のそばを離れて再びリングを降り、亜希に歩み寄って、「さ、真希ちゃんと一緒に、控室に戻りましょ。…
ね。」と優しく声を掛けると、亜希は晴子に抱きついてきた。
自分の力ではまったく動くことができなくなってしまった真希は、二人のスタッフに抱えられてリングから下ろされ、そのまま控室へと向かった。亜希も、晴子に抱きついて泣いたまま、真希を抱えたスタッフの後について、リングを離れていった。
リングの裏手にある、従業員専用スペースの通路に面している通路に出て、『2B』の表示のある部屋に入ると、真希を抱えていたスタッフは、部屋の中にある小さなベッドに真希を寝かせ、大きなタオルを真希の身体の上にかけた。亜希と晴子が控室の中に入ると、二人のスタッフは亜希に一礼して、控え室を後にした。
亜希は、部屋の中に一つだけあるストゥールをベッドの脇に引き寄せて、それに腰を下ろし、ベッドの上に横たわっている真希を見つめた。
その横で、晴子は壁に掛けてあった内線電話の受話器を掴んで、その先の相手と会話を交わしていた。やがて、その会話が終わったらしく、晴子は受話器を戻し、亜希の方に向き直った。
「車両使用の許可をいただきましたので、私がお二人を、車で家までお送りします。……
今から亜希さんの荷物を取ってきますので、それまで少しだけ、この部屋で待っていてください。」
晴子の申し出に亜希が礼を言うと、晴子は、「では、一旦失礼します。」と言い残して、部屋を後にした。
狭い控室の中に、闘いに敗れて身も心も深く傷ついた妹と、妹を守ることができずにこちらも心に大きな痛手を負った姉の二人が残された。
しばらくすると、真希の顔に表情が戻り、涙を流しながら自分を見つめている姉に向かって、「お姉ちゃん……」と呟いた。亜希は、少しだけ真希の顔に手を当てた。姉の手から伝わってくる温かみを感じた真希の目に、涙が溢れた。そして、亜希が真希の頭を強く抱きしめ、頬を押し当てると、真希は声を上げで泣き始めた。嗚咽し、途切れ途切れに、真希はリングを降りてから初めて言葉を口にした。
「…… お姉ちゃん。…… お姉ちゃん。…………」
「… 真希、…… ごめんね。……… お姉ちゃん、何もしてあげられなかった。……」
「……… お姉ちゃん、ごめんなさい。……… 私、お金が欲しかった。………」
「… いいのよ、真希。…… 今は、何も言わなくていいの。……」
真希の頭を抱いている亜希の目からも、涙がとめどなくこぼれ落ちていた。
やがて、部屋のドアをノックする音が聞こえた。亜希は、あわてて涙を拭い、身体を起こして、「はい。」と返事をすると、ジムのロゴの入った大きなスポーツバッグと、薄いピンク色のタオル地のローブを携えた晴子が、部屋の中へ入ってきた。
「お待たせしました。亜希さんの荷物は、全部この中に入っています。今お召しになっているウエアと靴はそのままで結構です。……
真希ちゃん、大丈夫? 私とお姉様がついているから、お家へ帰りましょ。… ね。」
晴子の問いかけに、真希は泣きながら頷いた。
「真希ちゃん、大丈夫みたいですから、すぐにここを出ましょう。もう車の準備もできています。……
それと、真希ちゃんは、まだ着替えは無理でしょうから、これを羽織らせることにしましょう。」
「あ、はい。…… 申し訳ありません。晴子さん。」
晴子は、亜希の助けを借りて真希の身体を起こし、背の高い真希でも膝まですっぽり隠れる丈の長いローブに真希の腕を通すと、腰のベルトを結んだ。その間に、亜希は控室の中を見回し、真希のバッグと靴以外に真希の荷物がないかどうかを確認した。
亜希と晴子は、二人分の荷物を手分けして持ち、真希の両腕を肩に回して真希を立たせると、まだ泣き止まない真希を支えたまま、控室のドアを抜けて、晴子の案内でジムの駐車場へと向かった。
二人がTシャツにスウェットパンツ、残りの一人は薄桃色のタオル地のローブという格好で乗り込むにはかなり不釣合いなジム所有の高級車を、晴子は比較的慣れた手捌きで操った。車での移動中、真希は顔を両手で覆い、すすり泣きを続けていた。ときおり晴子がバックミラーを覗くと、亜希が真希に寄り添い、頭を包み込むように腕を回している様子が映っていた。
真希のワンルームマンションに到着すると、亜希と晴子は再び真希の両腕を肩に回して、真希を部屋の中へ運び込み、ベッドに横たわらせた。
普段使っているベッドに戻っても、真希は少し身体を丸め、亜希と晴子に背を向け、壁の方を向いて泣き続けた。亜希が、しばらくの間、やるせない表情で真希のそばに佇んでいると、泣き声に混じって、真希の言葉が聞こえてきた。
「……… お姉ちゃん、………」
「…… なぁに、真希?……」
「…… 少しの間だけでいいから、一人にして。……… 私、一人で泣きたい。……
お姉ちゃん、お願い。…… 私を一人にして。………」
真希はいわゆる「お姉ちゃんっ子」で、小さい頃から苦しいときや悲しいときには、姉である亜希にそばに居てくれるように頼むことがあった。その真希が一人にしてくれと乞うている。悲しみにうちひしがれる妹のそばに居てやることすら拒否されてしまった亜希の目頭に、再び涙が滲み出てきた。晴子が亜希の肩にそっと手を遣ると、亜希は力なく頷いて、真希に背を向けた。
亜希がワンルームマンションの玄関のところまでやってくると、背中から真希の嗚咽が聞こえてきた。亜希は居たたまれず、晴子に副われたまま玄関のドアを通り抜けた。
亜希はドアの外の地面に座り込み、膝を抱えて泣いた。亜希の傍らに腰を下ろした晴子は、亜希の頭を優しく抱いた。
やがて、泣き止んだ亜希は、腕を解いた晴子に向かって小さく頭を下げた。
「ありがとうございます、晴子さん。…… 真希にも私にも、優しくしていただいて。……」
晴子は、「いえ…」とだけ答え、亜希と同じように膝を抱えて、目の前の地面に視線を落とした。亜希は、晴子がまだ何か言うのではないかと思い、晴子の横顔を見つめながら言葉を待っていた。
やがて晴子は、少し哀しげな視線を地面に落としたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。
「真希ちゃんの気持ち、私には良くわかります。…… 私も地下のリングで闘っているレスラーですから。……
あまり強くはありませんけれど。……」
何となく予感はしていたものの、どちらかというと優しい顔立ちの晴子の口から、自分がレスラーであることを告げられた亜希の顔には、少しだけ驚きの表情が浮かんだ。相変わらず亜希に横顔を向けたまま、晴子は言葉を続けた。
「…… 私は、真希ちゃんが通っている女子大を今年卒業しました。ですから、私は真希ちゃんの三年先輩に当たる、ということになります。……
学生の頃は、真希ちゃんとはほとんど面識がありませんでした。…… 私が卒業して、今のジムにお世話になってすぐに、学生会員になっていた真希ちゃんとお話する機会があって、そのときに先輩後輩の間柄であることがわかりました。それ以来、ジムの中だけのお付き合いですが、真希ちゃんとは仲良くさせていただいています。……」
「…… そうでしたか。それで晴子さんは、真希のことを、『真希ちゃん』と呼んでいたのですね。」
「ええ。…… 真希ちゃんは、私と知り合う前から、地下のリングに誘われていたようです。私と知り合って間もないころ、真希ちゃんは私に、地下のリングで闘うことについて相談を持ちかけてきました。……
相談を受けたとき、私は自分も地下のリングのレスラーであることを真希ちゃんに告げ、地下のリングで真希ちゃんが闘うことについて、否定的な返事をしたように思います。……
でも真希ちゃんは、先輩である私がレスラーであることに安心してしまい、地下のリングに足を踏み入れてしまったようなんです。……」
そこまで言うと、晴子は急に言葉を切った。一瞬だけ亜希の方へ顔を向けた晴子の目からは、涙がこぼれ落ちていた。晴子はがっくりと落とした肩を少し震わせ、声を荒らげた。
「申し訳ありません、亜希さん。私がいけなかったんです。…… 私が真希ちゃんに、『地下のリングには近づいてはいけない』と、もっとはっきり言っておけば、こんなことにはならなかったのに。……」
下を向いたまま何度も涙を拭う晴子の姿から、真希が地下のリングに上がることを止められなかったことを悔いている様子が、亜希に痛いほど伝わってきた。亜希には、晴子に対する憎しみはまったく湧いて来なかった。
「いいんです。…… 顔を上げてください、晴子さん。…… もう済んでしまったことですから。……
ところで、地下のリングではボクシングの試合は行われているのですか?」
「いいえ。今のところはレスリング形式の試合だけです。…… なぜそう思われたのですか?」
「…… 先日、初めて恵美子さんにお会いしたとき、彼女はジムの七階のフロアで一心不乱にサンドバッグを叩いていましたので、もしかしたら、と思ったんです。…………
私、高校生の頃から地元のボクシングジムに通っています。真希から聞いていませんか?」
「いや、知りませんでした。…… 亜希さんがボクシングを。……」
「恵美子さんのサンドバッグに向かっている姿を見る限り、彼女とボクシングで試合をすれば、間違いなく勝てると思います。……
自分の得意な種目で試合をするのは、少し卑怯なやりかたのような気がします。でも、それでも私は恵美子さんに復讐がしたい。真希の仇を取ってやりたいんです。もし地下のリングでボクシングの試合が行われているのであれば、そのチャンスがあるかも知れないと思ったのですが。……」
「それでしたら、チャンスはあるかも知れません。」
「何か思い当たることがあるのですか?」
「ええ。実は、オーナーと地下のリングのことでお話をする機会が今までに何度かあったのですが、オーナーは地下のリングでボクシングの試合を始めたいと考えているようです。ボクササイズのエリアが新設されることを知ったパトロンの方から要望が上がってたみたいなんですね。」
「…………」
「恵美子先生は、その話に興味を示したらしく、ボクササイズエリアの工事が終わるとすぐに練習を始めたんです。それで、練習を続けていくうちに、どうやら殴ることの魅力に取り憑かれてしまったようです。仕事の合間にちょっとした時間を見つけては、七階に上がってサンドバッグを叩いていますから。……
地下のリングの試合では、拳で相手を殴るのは禁止されているのですが、恵美子先生は、地下のリングでボクシングの試合が始まるようになったら、試合の形で相手の娘さんを殴り倒し、その上でその娘さんの身体を自分のものにしたいと考えている、そんな気がします。……
それと、…… もし、亜希さんが恵美子先生に復讐したいと思っていらっしゃるのなら、私にはその手助けができるかも知れません。」
降って湧いたような話だ、と亜希は思った。もしかすると、恵美子をボクシングのリングに引き摺り出すことができるかも知れない。しかし、晴子が地下のリングの内情を詳しく亜希に語り、さらに同じジムで働いている恵美子をあえて陥れるような話に晴子が加勢しようとするのか、亜希には少し不思議に思えた。
「それはありがたいのですが。…… でも、晴子さんは、なぜ私たちにそれほど良くしてくださるのですか?
真希の先輩であるということ以外にも、何か事情があるのではありませんか?」
亜希の問いかけに、晴子はすぐに答えようとはしなかった。しばらく沈黙し、一度口を開きかけた晴子は、とても辛そうに言葉を呑み込んだ。亜希が晴子の顔を覗き込んだが、晴子は乾いたような、より一層哀し気な横顔を亜希に向けたままだった。亜希は晴子からの返答を諦め、別の話題を探し始めようとした、まさにそのとき、晴子は再び重い口を開いた。
「………… 私も、…… 地下のリングの上で、恵美子先生に身体を貪られました。……
三週間ほど前、私も恵美子先生の指名でリングに上がり、今夜の真希ちゃんのように、試合の名の下に、恵美子先生に身体を弄ばれました。……」
晴子の告白に、亜希は、「そんな…」と言ったきり絶句してしまった。亜希の頭の中に、恵美子に痛めつけられ、踏みにじられ、コスチュームを剥ぎ取られて、いいように身体を貪られる晴子の様子が次々と浮かんできた。
「私も恵美子先生が憎いのです。できることならリングの上で散々な目に逢わせてやりたい。……
でも、私にはそれを実現できる力がありません。私のほかにも、そう思っている人は多いと思います。……
恵美子先生は、伊達に女王の座に就いているわけではありません。誰も敵う相手が居ないから、勝手気ままに振舞える女王で居られるのです。……でも、もし亜希さんが私の想いを叶えてくれるのなら、私はできるだけのお力添えをしたいと思います。」
「そうだったんですか。…… でも、まだボクシングを始めたばかりの恵美子さんが、経験者である私を相手に、果たして地下のリングに上がるでしょうか。」
「恵美子先生が亜希さんの実力を知っているならば、恵美子先生は亜希さんを相手にボクシングの試合をするような愚を冒すことはないでしょう。……
ただ、真希ちゃんも恵美子先生とは地下のリング以外に接点はありませんし、私が知らなかったぐらいですから、今の時点では、恵美子先生は亜希さんがボクシングの経験者であることを知らないと思います。」
亜希は、恵美子と出会ったときのやりとりを思い返してみた。確かに恵美子は自分のことについて知っている様子ではなかった。それに、自分の方からもボクシングの経験者であることは話していない。
「おととい恵美子さんに初めてお会いしたときの様子では、確かにそのようですね。……
私が今夜の試合の前に恵美子さんにあったのはそのとき一度きりですし、そのときには、恵美子さんは私のことについては何も知っていなかったように記憶しています。」
「それなら望みはありますね。…… それと、もしボクシングの試合で、という形に持って行きたいのであれば、早いうちにオーナーに話を通しておく方がいい結果が得られるような気がします。オーナーがその気にならなければ、実現させるのは難しいでしょうから。……
もし機会があったら、私の方からオーナーに話を持ちかけてみたいと思いますが、それでよろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします。…… あ、携帯電話の番号をお知らせしておいた方がいいですね。何かありましたら、ここへ連絡をください。」
晴子は、ポケットから携帯電話を取り出し、亜希が口頭で伝えた番号をそれに記憶させた。
「わかりました。お話に進展がありましたらお伝えします。…… では、今夜はこれで失礼いたします。……
真希ちゃんのこと、よろしくお願いします。」
亜希ができるだけの笑顔を繕って頷くと、晴子は立ち上がって、亜希に小さく一礼したあと、近くに停めてあった車の方へと歩き出した。
車が動き出し、亜希の視界から見えなくなると、亜希は真希の居る部屋のドアを少しの間見つめたあと、そのドアを通って部屋の中へと戻って行った。
翌日、遅番シフトの晴子がジムに出勤すると、デスク上に「出勤したらオーナーに内線を入れてください」と書かれたの伝達メモが貼られていた。前日のことを知りたいのだな、と感じた晴子は、周りのスタッフが自分に注目していないことを確認したあと、電話の受話器を取って、オーナー執務室の内線番号をダイヤルした。
晴子が予想したとおり、麻耶は晴子が早坂姉妹を家まで送ったことの確認を取り、そのときの二人の様子について訊ねてきた。晴子は、真希が試合のショックから立ち直ることができず、自宅に着いてからも泣き通しであったことと、亜希も精神的にかなりの痛手を受けたようだが、何とか平静を取り戻したようだと麻耶に告げた。報告を受けている麻耶の様子から、亜希の素性を麻耶に話しておいても大丈夫なのではないかと感じた晴子は、報告が一段落した頃合を見計らって、亜希についての話を切り出した。
「オーナーは、早坂真希さんのお姉様、亜希さんについてどれだけご存知ですか?」
「執務室で直接お会いしたとき、あなたは同席されていましたね。今のところ、あのときのことだけが、彼女について私の知りうるすべてです。」
「では、亜希さんがボクシングの経験者であることは、ご存知ないのですね。」
ボクシングの経験者、その言葉に麻耶は椅子から身を乗り出した。
麻耶は、執務室で初めて亜希と対面したときのことを思い出していた。頼りなさそうに目の前に佇んでいた娘。顔立ちも身体も極めて魅力的だったあの娘。……
そして、地下のリングへと降り、リングの傍らで妹の惨めな姿を目の当たりにして、怒りと悲しみに身体を震わせていたあの娘が、ボクシングの経験者。……
それならなおのこと、手に入れなければ。……
麻耶は晴子に興奮を悟られないよう、声の調子に気をつけて、晴子との会話を続けた。
「初耳ね。…… でも、とても興味をそそられるお話だわ。…… 晴子さんは、亜希さんについてどのぐらい知っていますか?
特にボクシングとどれだけ関わっているのか、あなたが知っていることを教えていただけないかしら?」
「はい。…… 亜希さんは、高校時代から地元のボクシングジムに通っているとのことです。あまり詳しい事情はわかりませんが、ただ単に身体を鍛えるためという理由でジム通いをしているわけではなさそうですね。」
「そう。…… もう一度会いたいわねぇ。…… うーん、連絡が取れないかしら。……」
「あ、それでしたら、昨夜家までお送りした際に、亜希さんご自身の携帯電話の番号を教えていただきました。」
「あら、そうだったのね。じゃ、教えて頂戴。…… それと、彼女が実際にどれだけの実力があるのか、是非知りたいわ。あの背格好だったら大丈夫そうだから、私とスパーリングしてもらおうかしら。……
でも、できれば他の人には内緒にしたいわね。…… 晴子さん、ボクササイズエリアの営業は何時までかわかりますか?」
「わかると思います。…… 少しお待ちください。…………… えーと、七階はしばらくの間、午後十時に完全クローズになるようですね。」
麻耶は晴子に礼を言い、晴子のこのあと数日の勤務予定を確認すると、受話器を下ろした。そして、椅子に凭れ掛かり、目を閉じて亜希の姿を思い返してみた。
地下のリングでボクシングの試合をスタートさせるに当たって、あの娘は非常に得がたい、魅力的な存在だ。何としてでも手に入れたい。……
あの娘が、うちのジムに就職を希望しているのは極めて好都合だ。それなりの見返りを用意して、舞台を整えてやれば、地下のリングに上がるかも知れない。……
今のあの娘にとっての、最高の見返り。…… まあ、普通に考えれば、……
悪夢のような敗戦の翌日、深く傷ついた真希の心はまだ癒えていなかった。ベッドの上に横になったきりの真希は、亜希が枕元に置いたペットボトルの水以外は何も口にしようとはぜず、時折、すすり泣きの声を上げた。亜希は、真希の部屋を離れず、じっと真希の心が回復するのを待った。亜希が真希を何とかテレビゲームの席に連れ出すことに成功した頃には、もう完全に陽は落ちていた。
夜九時近くになって、一旦テレビゲームのコントローラをテーブルの上に置いた真希は、穏やかな表情に戻り、「お姉ちゃん、私、お腹が空いた。」と亜希に告げた。亜希は、真希が空腹を訴えたことに一安心し、真希から近くにあるコンビニエンスストアの場所を聞き出すと、「じゃあ、お姉ちゃんが買ってきてあげる。」と言い残し、真希の部屋を出た。
亜希が買い物を終え、真希の好物が入った袋を携えて真希の部屋へ戻る途中、亜希の携帯電話に着信があった。
「はい。早坂です。」
「こんばんは。氷川です。…… 今、よろしいかしら?」
亜希は、真希の部屋のすぐ手前まで来ていたが、麻耶本人から直接電話が掛かってきたことに少し驚き、その場に立ち止まって、「はい。大丈夫です。」と答えた。麻耶は真希への気遣いの言葉をいくつか述べたあと、本題に入った。
「晴子さんに聞きましたよ。…… 亜希さん、あなた、ボクシングの経験がおありのようね。」
「あ、はい。…… 地元のボクシングジムに六年以上通っています。」
「そうらしいわね。…… それで、実戦の経験はあるの?」
「いえ、試合はまだ、…… ただ、男性のパートナーとスパーリングはこなしています。私が通っているジムには、女性は私だけしか居ませんので。……」
「そう。…… あなたの実力がどれほどのものか、ぜひ試させていただきたいわ。……
時間が取れるようでしたら、明日の夜十時に、私のオフィスにいらっしゃい。」
早くも自分が試される機会がやってきた、と亜希は思った。
麻耶は晴子から話を聞いた、と言った。晴子がどれだけの事情を麻耶に打ち明けたのかはわからないが、これだけ早く、しかも麻耶本人から返事があったということは、悪い話ではないのだろう。それに、麻耶の口振りは、自分を好意的に受け止めているように聞こえる。
もう後戻りはできない。自分のボクシングが試されると言うのなら、たとえ罠でも構わない。……
亜希は一つ深呼吸をしたあと、受話器の向こうに居る麻耶に、はっきりと答えた。
「はい。…… 明日の午後十時、必ずお伺いいたします。」
「…… うふふ。ボクシングの経験があるお嬢さんに出会えるなんて、とても嬉しいわ。楽しみにさせていただきます。……
もしあなたに相応の実力があるとわかったら、私とスパーリングをしていただくことになると思います。その準備をしてきてください。よろしいですね。……
では、明日の夜、お会いしましょう。」
亜希が持ち帰ったいくつかの食べ物の中から大好物のタマゴサンドを選んで、少しずつではあったが、真希はそれをおいしそうに食べた。一緒に買ってきた小さいパック入りの牛乳も飲み干した真希は、「ありがとう、お姉ちゃん。おいしかった。」と小さな声で亜希に話しかけた。これで最悪の状態からは抜け出せたようだ、と感じた亜希に、安堵の笑みがこぼれた。
次の日も、亜希は真希と一緒にテレビゲームに興じた。ゲームの結果に一喜一憂する真希の姿から、亜希には真希がずいぶん元気を取り戻したように見えたが、まだ少しだけ不安が残っていたので、亜希はできるだけ真希のそばに居てやりたかった。
そうしているうちに、麻耶との約束の時間が近づいてきた。亜希は、「今日はこれで終わりね。」と真希に告げて、ゲームのコントローラをテーブルの上に置き、二日前に晴子が残していったジムのロゴ入りのスポーツバッグに、借りっ放しになっていたローブやTシャツなどを詰め込んでいった。亜希は、スパーリングをする準備して来なさいと言う麻耶の言葉を思い出し、男性のジムメイトとスパーリングをするようになってから肌身離さずに持ち歩いている白いマウスピースをバッグの中に忍ばせた。
「お姉ちゃん、これからジムへ行くのね。……」
背後から起こった真希の声に、亜希は「うん。」と答えて、真希に優しい表情を向けた。荷造りを終えた亜希は、テーブルのそばに座り込んでいる真希の傍らに膝をついて、真希の両手を握って、真希の目をまっすぐに見据えた。
「真希、…… 正直に話すから、ちゃんと聞いてね。…… これからお姉ちゃんはオーナーに会いに行くの。オーナーに会って、私のボクシングを見てもらう。……
私、地下のリングに立つことになると思うの。…… お姉ちゃん、どうしても真希の仇が討ちたい。恵美子先生を、私の手であなたと同じ目に遭わせてやりたいの。……
真希、お願い。…… お姉ちゃんを止めないで。……」
亜希の言葉を聞いている真希の表情には、はっきりと翳りが見えた。最後には下を向いてしまった真希を、亜希は懇願するような眼差しで見つめ、掴んでいた真希の両手を強く握り締めた。しばらく俯いていた真希は、顔を上げ、笑顔を取り繕って、口を開いた。
「うん、わかった。…… 私は何も言わないから、お姉ちゃんのしたいようにして。……
行ってらっしゃい、お姉ちゃん。」
せっかく立ち直りかけた真希に、地下のリングのことを思い出させるようで、亜希には、自分がこれから何をしようとしているのかを真希に告げるのは、とても辛かった。それでも、自分に精一杯に向けられた真希の笑顔は、亜希に大きな勇気を与えた。
恵美子を復讐のリングに引き摺り出せるかどうかはわからない。仮にそれが実現できるのだとしても、それまでに辛い思いや、恥ずかしい思いを、何度もしなければならないだろう。
それでもいい。
今はオーナーである麻耶に、自分の存在を認めてもらうしかない。
スポーツバッグを肩に掛け、真希の部屋を後にした亜希は、駅へ向かう道をしっかりした足取りで歩きながら、己の決意を深く胸に刻み込んだ。
晴子は、ジムの一階にあるフロントのヘルプをしながら、『特別なゲスト』の到着を待っていた。午後十時の約束になっているある女性が来訪されたら、フロント係から抜けて、七階へ案内するようにと、晴子は麻耶から直接指示を受けていた。
亜希は約束の時間の五分前にジムへ到着し、入り口の自動ドアを抜けてロビーへ入っていった。晴子は亜希の姿を見つけると、洒落たコスチュームを身につけた正規のフロント係の女性に、「じゃ、あとはよろしくお願いします。」と声を掛け、カウンターからロビーの方へと出てきた。
「亜希さん。お待ちしてました。」
「あ、晴子さん。…… 先日はどうもありがとうございました。ええと、まずこれ、お返しします。」
亜希がジムのロゴ入りバッグを肩から下ろし、それを晴子に返そうとすると、晴子はそれを受け取る前に、ロビーの端の方にある品のいい長椅子へと亜希を誘い、そこに腰を下ろした。
「オーナーから、十時を少し過ぎるまで待っていていただくように言われています。申し訳ありませんが、あと少しだけ、ここでお待ちいただけますか?」
「はい。…… あのぅ、昨日オーナーから直接私の携帯に連絡がありました。そのときにオーナーは晴子さんから私のことを聞いたとおっしゃっていましたが、……」
「ええ。お二人を家までお送りした翌日、オーナーが、あのあとお二人はどんな様子だったかと訊ねてきましたので、正直にお答えしました。そのときに、亜希さんがボクシングジムに通われていることを話しても大丈夫そうな雰囲気だったので、そのこともお話ししておきました。」
「そうでしたか。…… それから、今日のお約束はずいぶん遅い時間ですが、何か理由が?……」
「オーナーは亜希さんとスパーリングをするという話をされましたか?」
「はい。確か、私に相応の力があるとわかったらそうするとおっしゃっていました。」
「どうやら、オーナーは亜希さんがボクシングの経験者であるということを内密にしておきたいようです。ボクササイズエリアのある七階は、午後十時に営業を終えてクローズするのですが、それを待ってから亜希さんを七階へお連れするように言われています。七階に上がったら、そこで着替えをして、待っているようにと。」
「内密に、ですか。……」
「ええ。でも、今のところ亜希さんがボクシングの経験者であることは、まだ他の人に知られない方が好都合ではありませんか?」
「確かにおっしゃる通りかも知れませんね。」
「お二人の様子をオーナーにお話ししたとき、オーナーは随分亜希さんのことを気にされていたようでした。……
いや、気に入って、と表現した方が正しいでしょう。……… 亜希さん、…… オーナーに亜希さんのボクシングを披露するということは、恐らくそのまま地下のリングと繋がるということになってしまうと思います。……
もう心の準備をされているのですね。……」
晴子の言葉に俯いた亜希の頭に、地下のリングで見た光景が次々と浮かんできた。
上半身をさらけ出したレスラー。相手のリングシューズを舐めるまで負けを認めてもらえない敗者。その敗者に待ち受けている、残酷とも受け取れる勝者の責め、……
何もさせてもらえず一方的に痛めつけられ、身体を貪られた真希、……… そして、恵美子の勝ち誇った表情、……
もう後戻りはしない。……
「………… はい。…… 恵美子さんを地下のリングの上で打ちのめすチャンスが生まれるのなら、苦しさにも恥ずかしさにも耐える。……
そう覚悟しています。」
「…… わかりました。…… 私も、できるだけのことをさせていただきます。」
亜希の思いつめたような表情を受け、晴子も身を引き締めた。晴子は腕時計にちらっと視線を遣ったあと、「少しだけ、ここで待っていてください。」と亜希に告げ、フロントのカウンターの中へ戻った。
晴子は、まず七階のフロアに通じる内線電話をダイヤルし、相応の時間、応答がないことを確かめた。そして、すぐにオーナー執務室にも連絡を入れ、電話に出た麻耶に、「七階が空いたようですので、今から亜希さんをお連れいたします。」と告げた。
晴子はカウンターから出て再び亜希に近づき、真剣な眼差しで亜希を見つめた。
「準備が整ったようです。…… では、行きましょう。」
晴子に連れられて七階に上がった亜希は、さっそく着替えを始めた。亜希が、スポーツブラの上に灰色のタンクトップ、濃紺の膝丈ジャージーを身につけ終わったとき、ジムエリアのドアが開き、麻耶が姿を現した。
亜希は、麻耶の姿に釘付けになった。パールホワイトのトリムが入った真紅のトランクス。同じ真紅のトップスとシューズ。写真でしか見たことはないが、亜希の脳裏に深く焼きついている、あのリングコスチューム。………
グローブこそつけていないが、初めてのボクシングスタイルの試合で世界ランカーをキャンバスに沈めたときとまったく同じコスチュームに、麻耶は身を包んでいた。
「またお会いすることができて、とても嬉しいわ。…… この歳になって赤っていうのはちょっと気が引けたけど、せっかくボクシングに興味を持っている娘さんに逢えるのだから、久しぶりに使ってみたの。……
どう? まだ結構いけるでしょ? 現役は退きましたが、それでもトレーニングは毎日しているんですよ。……」
腰に手を当てて胸を張った麻耶を、亜希は唖然とした表情で見つめた。四十歳とはとても思えない、引き締まった身体。トップスとトランクスの間に見えているお腹回りにも、まったく贅肉がついていない。
亜希は思わず、「すごい。……」と洩らした。亜希の言葉に、いたずらっぽく微笑んだ麻耶は、手にしていた小さな鞄からバンデージとテープを取り出した。
「これを使ってください。もうだいぶ遅い時間ですから、さっそく始めましょう。」
麻耶の言葉に我に返った亜希は、麻耶からバンデージを受け取ると、「はい。」と元気良く返事をして、慣れた手つきで自分の拳にバンデージを巻きつけていった。用具類の並んだ棚から黒いパンチンググローブを取り出した麻耶は、亜希がバンデージを巻いている姿を見つめ、その手際に確かな手応えを感じていた。これだけ慣れているのなら、伊達に六年もジム通いをしていたわけではないだろう。かなり期待しても良さそうだ、と麻耶は思った。
晴子に最後のテーピングを手伝ってもらい、麻耶からパンチンググローブを手渡された亜希は、麻耶の指示に従って、サンドバッグを叩き始めた。亜希は、恵美子の姿を思い浮かべながら、軽快にステップを踏み、次々と拳をサンドバッグに叩きつけていった。麻耶は大きく突き出した胸の膨らみのすぐ下で腕を組み、亜希の様子を満足げに眺めていた。
亜希がサンドバッグに向かってから二分ほどすると、麻耶は腕を組んだまま、口を開いた。
「もういいでしょう。…… なかなかの腕前のようね。合格よ。…… グローブとヘッドギアをつけてリングに上がりなさい。……
約束通り、今度は私が相手をしてあげる。」
亜希は慣れ親しんだマウスピースを咥え、大きなヘッドギアと十六オンスのグローブをつけて、青いコーナーマットの近くで小さく身体を動かしながら、麻耶が晴子の手を借りてスパーリングの身支度をしている様子を眺めていた。亜希の心臓は、早鐘を打つように鼓動していた。もうすぐ、「神様」が自分と同じリングに上がる。そして、自分とスパーリングをしてくれる。亜希は興奮を抑え切れないでいた。
まもなく、麻耶の準備が終わり、亜希と同じ、ヘッドギアと十六オンスのグローブを身につけた麻耶は、赤いコーナーマットの近くからロープをくぐり、リングの上へと足を踏み入れた。
「一ラウンドだけで充分でしょう。遠慮しないで、全力でぶつかっていらっしゃい。……
それと、せっかくだから、ちょっとそれっぽい雰囲気を出しましょうか。……
晴子さん、タイマーの使い方、わかりますか?…… 三分にセットしてください。……
亜希さん、準備はいい? じゃ、始めるわよ。」
晴子がリングから離れたところに設置されているタイマーを三分にセットし、『ゴング』の表示のあるボタンを押すと、本物とほとんど変わらない合成音声の鐘の音が鳴り響いた。亜希にとって、初めての女性とのスパーリング、初試合で世界ランカーをKOに屠った伝説の闘神、氷川麻耶とのスパーリングが始まった。
スパーリングが始まって一分ほどの間は、麻耶は自分からあまりパンチを打たず、亜希の攻撃を受けていた。もちろん、現役を離れて十年以上たっているとは言え、体格的に亜希よりも数段大柄である麻耶は、所詮亜希が敵う相手ではない。麻耶は亜希にまず攻撃させることで、亜希の実力を推し量ろうとしていた。その意思は間もなく亜希に伝わり、亜希は力一杯麻耶を攻めた。
麻耶はまだ少しだけ亜希の実力を掴めずにいたが、共にリングに上がり、実際に動きを見ながら亜希のパンチを受けてみると、麻耶の亜希に対する評価は大幅に上がった。この娘は器量が良いだけじゃない。ボクサーとしても素晴らしいものを持っている。こんな娘が地方のジムに埋もれていたなんてとても信じられない、と麻耶は思った。麻耶は一度亜希から離れると、「ここからは私も攻めるわよ」と合図するように右手の拳を小さく掲げた。亜希は瞳を輝かせて、頷いた。
麻耶は全力を出し始めたわけではなかったが、麻耶が攻撃を始めるとたちまち亜希は劣勢になった。亜希の顔面へ、ボディへ、麻耶の重いパンチが何度となく飛んだ。それでも、神様だと思っていた麻耶と直にグローブを交えることは、亜希にとって最高の喜びだった。打たれ続けても一歩も後ろに下がらず、亜希は田舎の小さなジムで六年間培ってきた持てる限りの力と技術を、全力で麻耶にぶつけた。
再び合成音声によるゴングの音が鳴り、亜希にとって夢のような三分が終わった。リングの上に駆け上がった晴子は、青コーナーに背中を凭れ掛けている亜希の口からマウスピースを抜き取り、ヘッドギアを脱がせ、グローブのストラップを外し始めた。息を荒らげながら、しばらくその様子を眺めていた亜希に、マウスピースを自分のグローブの中に落としただけの麻耶が近づいてきた。
「オーナー、ありがとうございます。…… 私、今日のこと、一生忘れません。」
「そう言っていただけると、本当に嬉しいわ。私もあなたとスパーリングできたこと、忘れないわ。」
晴子は亜希のグローブを外し終わると、麻耶からも同じようにヘッドギアを外し、グローブのストラップに手を掛け始めていた。ヘッドギアを脱いだ麻耶は、髪を整える仕草をしたあと、やわらかい笑みを亜希に向けていたが、やがて妖しく瞳を輝かせ、亜希に向かって口を開いた。
「…… で、私のリングに上がること、考えていただけたかしら?」
麻耶の言葉に、亜希は現実に引き戻された。
そうなんだ。今夜、ここへ来たのは、麻耶にボクシングを披露するためだけじゃない。地下のリングで闘う意思があることを、麻耶に告げるつもりだったんだ。
亜希は、まっすぐに麻耶を見つめた。
「はい。…… もう決めて来ました。…… 私、…… 闘います。」
亜希の返事を聞いて、満足げにうっとりした笑みを浮かべた麻耶の瞳は、一層妖しく光った。
「そう。…… じゃ、あなたの身体、私に見せてくださるかしら?」
亜希には、麻耶の言葉が何を意味しているのか、理解ができなかった。傍らでは、晴子が心配そうな表情を顔一杯に浮かべて、二人の様子を見守っていた。麻耶は戸惑っている亜希に一歩近づき、さらに言葉を続けた。
「私のリングには、厳選された美しい女性しか立つことを許していないの。あなたが私のリングに立つ資格があるのかどうか、確かめたい。……
私のリングのコスチューム、覚えているわね。」
亜希が小さく頷くと、麻耶は自分の大きな乳房を覆い隠している赤いトップスの下端に指を掛け、何のためらいもなく上に引き上げた。「あっ」と小さな声を上げた亜希の目の前に、麻耶の立派な乳房がさらけ出された。
上半身裸になった麻耶は、剥ぎ取ったトップスを近くのロープに掛け、指で髪を梳き上げ、呆気に取られている亜希に一瞥をくれたあと、赤いトランクスにも両手の指を掛けて、引き下ろした。麻耶の指は、トランクスの下に隠れていたショーツにも掛けられていた。麻耶がそのまま身を屈めると、亜希の目に、剥き出しになった麻耶の女性器までもが、あらわになった。
麻耶が七階に姿を現したとき、亜希は麻耶の肉体美に見惚れてしまったが、今、亜希の目の前にある麻耶の裸体は、それにも増して、あまりにも魅力的に映った。
うっすらと汗で光っている肌の艶、つんと上を向いた綺麗な乳首を頂に抱えている乳房の張り、トランクスで隠れていた太腿の筋肉の付き具合、どれを取っても、巷で見かける自分と同じ年代の女性など問題にならないほど美しい、と亜希は思った。これで四十歳。自分が生まれる前に、もう世界選手権で金メダルを手にしているほどのアマチュアレスラーであったということが、亜希には到底信じられなかった。
バンデージと赤いシューズ以外のものを全て脱ぎ去った麻耶は、両目を見開き、開いた口を両手で覆って、自分の身体に見入っている亜希に声を掛けた。
「これが私の身体よ。…… 私、こういう姿のあなたを見てみたいの。…… 今ここにいるのは、私と晴子さんとあなただけ。恥ずかしがることはないわ。……
さあ、私にもあなたの身体を見せて頂戴。」
我に返った亜希は、上目遣いに麻耶の目を見つめてゆっくり頷くと、一度唾を呑み込んで、自分の身体を覆っている服を脱ぎ始めた。麻耶と同じように、亜希はバンデージとシューズ以外の衣服を脱ぎ去ると、少し震えながら肩から両腕を垂らし、再び目の前に立っている麻耶の目を見つめた。
麻耶は妖しげな笑みを浮かべ、視線と両手の掌を亜希の身体に這わせ始めた。太腿、尻、腹、胸、肩、腕、……
麻耶は、亜希の身体がどれだけ鍛えられているのかをひとつひとつ確認するように、じっくりと時間をかけて亜希の身体を調べていった。
ひと通り筋肉の付き加減を調べ尽くした麻耶は、亜希の大きな乳房を掌で撫で上げ、「素晴らしいわ。……
本当に素晴らしい。……」と洩らした。
最後に麻耶は、女子大生にしては少しばかり鍛え込まれた感じのする亜希の拳を手に取り、何度も撫でたあと、自分の身体を這い続ける麻耶の掌を苦しそうに見つめている亜希に、声を掛けた。
「亜希さん。…… あなた、…… 妹さんの仇が討ちたい。…… 恵美子先生の身体に、この拳を嫌と言うほど叩き込んでやりたい。……
そのチャンスが欲しいから、私のリングに上がることを決めた。…… そうなんでしょう?」
いきなり核心を突かれ、亜希は言葉を失った。苦しみや、恥ずかしさに耐えてでも、成し遂げたいと思っていた恵美子への復讐。麻耶があっさりとそれに触れたことで、亜希は狼狽した。あらぬ方向に視線を泳がせ、動揺を隠し切れない亜希の顔色を窺っていた麻耶は、クスリと笑った。
「図星のようね。…………… いいわ。…… その望み、叶えてあげる。」
「オーナー、…… 今、何とおっしゃったのですか?……」
「あなたの望みを叶えてあげる。…… そう言ったのよ。」
目を丸くして麻耶の顔を見つめる亜希の問いに、少し腰をかがめて亜希に顔を近づけていた麻耶はそう答え、口元に邪な笑みを浮かべた。
亜希には、麻耶の言葉が信じられなかった。自分の思い描いていた状況に、こうもあっさりと、麻耶から許しが出るとは。……
呆然とその場に佇む亜希に、麻耶は言葉を続けた。
「私、地下のリングでボクシングの試合を始めたいと思っているの。恵美子先生はボクシングでも女王の座を守れると思っているみたいだけど、まだ役不足ね。……
恵美子先生は、少しボクシングを甘く見ているようだわ。それを思い知ってもらうには、いいチャンスじゃないかしら。恵美子先生がボロボロになるところを一度見てみたい、というパトロンの方も多いようだし。……
それに、このところ、恵美子先生はちょっとおいたが過ぎるようね。そろそろお灸を据えてやらないといけないかな、って思ってたの。」
「……………」
「…… でも、それだけじゃないわ。…… 私、あなたを売り出したいの。……
あなたはスターになれる。無敵の女王を破って、華々しくデビューする、氷川麻耶・ファイトクラブの新しいスター。……」
麻耶は腰を伸ばして亜希から顔を離すと、バンデージを巻いた右手の掌で亜希の頬を撫で始め、恍惚とした表情を浮かべた。亜希は気恥ずかしさに少し頬を染め、少し俯いて上目遣いに麻耶の表情を見つめていた。やがて、麻耶は亜希から手を離し、表情を少しだけ真剣なものに変えた。
「やるからには徹底的にやっていただきたいわね。殴られるということがどういうことなのか、恵美子先生には、それを存分に味わってもらわなくては。……
もちろん、試合が終わったあとに受ける辱めも、生温いものであっては駄目よ。パトロンの皆様に充分ご満足いただかないといけませんからね。……
亜希さん、あなたにそれができる?」
もちろん、亜希に依存はなかった。恵美子に、痛みと苦しみと屈辱感を嫌というほど味わわせる。そして、パトロンたちの目の前で、恵美子にこれ以上ないほどの恥辱を受けさせてやる。……
麻耶が口にした試合の図は、そのまま亜希の願望だった。亜希は真剣な眼差しで麻耶を見据え、無言のままコクリと頷くと、麻耶の顔に、再び妖しい笑みが浮かんだ。
「じゃ、お願いするわ。…… 私が恵美子先生に試合を強制することもできるけど、それじゃつまらないわね。恵美子先生も馬鹿じゃないから、亜希さんにこれほどの実力があると知ったら、喜んで試合に応じることはないでしょうし。……
せっかくだから、恵美子先生には、リングに上がるときまでは女王様の気分で居ていただきましょうか。できれば恵美子先生が試合を望むように、恵美子先生があなたを試合の相手に指名するように仕向けたいわね。……
誘き出すには少し細工が要るかしら。亜希さん、あなたには一芝居打ってもらうことにするわ。……
いいわね。」
亜希と麻耶のスパーリングが行われた三日後の月曜日、恵美子はオーナーである麻耶から執務室に呼び出され、地下のリングでボクシングの試合を始めることについて、簡単な打ち合わせを行った。そのあと、ボクササイズエリアの設備について少し意見を聞きたいと麻耶に言われ、恵美子は麻耶と一緒に七階に降りた。
「あら?…… あの娘は、……」
平日の昼下がりと言うこともあり、ほとんど人気のないボクササイズエリアの中に、恵美子は、長袖のシャツを着込み、サンドバッグを叩いている亜希の姿に目を留めた。亜希は不自然なステップを踏み、サンドバッグに向かって、途切れ途切れに右腕を振るっていた。
亜希から少し離れたところで足を止めた恵美子は、麻耶の顔を覗き込んだ。
「オーナー、もしかすると、あの娘はもうあちらの方に登録されたのですか?」
「ああ、あなたにはまだお話していませんでしたね。最初にあなたからあの娘さんのことを教えていただいたのに、お知らせするのを忘れていたわ。ごめんなさいね。……
あの娘、確か早坂亜希さん、だったわね。彼女には何日か前に直接お会いして、地下のリングに上がるという意思を確認してあります。……
ですから、彼女には仮会員資格を差し上げました。ボクシングに興味をお持ちのようでしたので、いつ来館して練習しても構いませんよ、と伝えてあります。」
「そうでしたか。……」
恵美子はしばらくの間、亜希の姿に見入っていた。身体のラインが見えてしまうと、ボクシングで鍛え上げられていることがわかってしまうかも知れないので、亜希は長袖のシャツと脚が完全に隠れるスウェットパンツを身に付けていた。そして、サンドバッグにパンチを打ち込む亜希の、いかにも初心者然とした動きが、麻耶の演技指導の賜物であることを、恵美子が知る由もなかった。それでも、ステップを踏むたびにはっきりと大きな乳房を揺らす亜希の姿は、恵美子をわずかに欲情させた。
恵美子の顔に、思わず妖しい笑みがこぼれた。こんなに早くあの娘の身体を堪能するチャンスが訪れるとは、と恵美子は思った。恵美子は小さく唾を呑み込み、再び傍らにいる麻耶に顔を向けた。
「…… オーナー。申し訳ありませんが、少しあの娘と話をしてもよろしいですか?」
「あんまりがっつくとみっともないですよ、恵美子さん。…… それでもまあ、私も興味がないわけじゃないし、私もちょっとだけお付き合いさせていただこうかしら。」
恵美子は、もう一度亜希に目を遣ると、亜希に向かって胸を張ってゆっくりと歩き始めた。恵美子の後姿を眺めながら、麻耶も亜希に近づいていった。
麻耶は、声を立てないように、クスリと笑った。
「あらあら、もう食いついちゃったわ。…… 反応しないようだったらちょっとくすぐってあげようと思ったけど、必要なかったみたいね。本当に食欲旺盛な女王様だこと。……
でも、さすがに猛毒のご馳走だとは気付かないようね。……」
恵美子が亜希のそばまでやって来ると、亜希はサンドバッグを打つ手を止め、少し顔を斜にして恨めしそうな視線を恵美子に向けた。恵美子は己の欲情を隠そうとせず、亜希に向かって淫猥な笑顔を向け、口を開いた。
「あなたも、地下のリングに上がることを決めたみたいね、早坂亜希さん。……
それに、私と同様、ボクシングにも興味がおありのようだし、またお会いできて、とても嬉しいわ。いずれお手合わせ願いたいものね。……
それと、隠してもしょうがないから正直にお話ししてしまいましょうか。……
あなたの妹さん、とても美味しかったわ。」
亜希は、もう我慢がならないという表情を作り、恵美子が簡単に避けられるように大きく右手を振りかぶって恵美子に殴り掛かった。亜希の思った通りに難なくこれをかわした恵美子は、嬉しそうにニヤリと笑った。
「あら、もう私と殴り合いたいようね。…… それじゃ、すぐに試合をしましょうか。二日後に地下のリングが開かれるのはご存知かしら?
あなたも興味があるようだから、その夜、ボクシングであなたのお相手をして差し上げます。……
いや、選手に登録したばかりで申し訳ないけど、あなたを私の相手に指名させていただくわ。私、地下のリングの女王ですの。私に指名されたら、試合から逃げることはできないのよ。……
あなたの妹さんと同じように、リングの上であなたを打ち負かし、あなたの身体をいただくわ。……
オーナー、それでよろしいですね。」
勝ち誇ったような表情を見せている恵美子に向かって、麻耶は大きな溜息をついて見せたあと、「いいでしょう。」と呟いた。そして、視線を亜希の方へ向け、口を開いた。
「…… 亜希さん、あなたには、あさっての水曜日、次に地下のリングが開催される夜に、恵美子先生とボクシングの試合をしていただきます。恵美子先生も話していたように、これは女王である恵美子先生の指名です。あなたには拒否する権利はないのですよ。……
それと、先週あなたが見たように、負けてしまった者は、勝者の責めに甘んじなければなりません。いいですね。」
「これで決まりね。…… 試合までもう日がないから無駄かも知れないけど、せいぜい練習することね。リングの上では、少しは私を楽しませて頂戴。……
じゃ、あさっての夜、またお会いしましょう。ごきげんよう。」
悔しそうな表情を顔一杯に浮かべている亜希の目の前で、恵美子は踵を返した。恵美子の背後で、亜希は両手の拳を握り締めて俯き、身体を震わせながら「ちくしょう。」と呟いた。その声に振り向いた恵美子は、亜希の姿に視線を遣って、嘲るような笑い声を洩らしたあと、再び亜希に背を向けた。
恵美子と一緒に亜希の許を離れた麻耶は、恵美子を七階のフロアに連れ込んだ偽りの理由を正当化するために、恵美子にボクササイズエリアの設備について、いくつかの質問をした。そのあと麻耶は、初心者の振りをして再びサンドバッグを叩き始めた亜希を横目に見ていた。あの娘もなかなかの役者ね、と麻耶は思った。
麻耶が質問を早々に切り上げて、恵美子を連れてジムエリアのドアの向こうに消えると、亜希は再びサンドバッグを打つ手を休めて、麻耶と恵美子が通り抜けていったばかりの、閉じられたドアを見つめていた。そして亜希は、右の拳を強く握り締め、心の中で「掛かった。」と呟き、会心の笑みを浮かべた。
その日の勤務を終えて、一人住まいをしている自宅のマンションに戻り、ベッドの上で横になった恵美子は、亜希との試合が決まったときのことを思い出していた。
もうすぐ、あの娘が自分のものになる。一体どんな味がするのだろう。……
そうそう、失神させてしまってはつまらないわ。やっぱり苦痛と恥ずかしさに泣き叫ぶ娘の味はまた格別だし。……
恵美子は、自分のパンチが亜希の身体に食い込む感触を想像していた。そして、亜希がボクシンググローブとシューズだけの姿になってリングに横たわり、涙を流したまま自分の指を受け入れる姿も思い浮かべた。亜希の秘唇から滴り落ちる蜜の味に想いを馳せると、恵美子の身体は激しく疼いた。欲求の膨らみを我慢することができなくなった恵美子は、やがて自分の身体の敏感な部分に指を這わせ始めた。
恵美子が火照る身体を慰めている、ちょうどその頃、小さな寝息を立てる真希の傍らで、亜希も興奮を抑え切れないでいた。
あと二日。…… あと二日で、恵美子に復讐できる。
もちろん、失神などさせはしない。ボクシングで一番辛い、ボディブローを受ける苦しみを、恵美子に死ぬほど味わわせてやる。
それと、テンカウントを聞かせたあと、恵美子をどうしてやろうか。…… オーナーは生温い辱めでは駄目だ、と言った。……
それなら、……
パトロンたちが楽しみにしている、水曜日の夜がやってきた。
亜希と恵美子の試合が開催日の直前に組まれたことで、二試合予定されていたレスリングの試合が一つキャンセルされ、氷川麻耶ファイトクラブに於いて初めてとなるのボクシングの試合は、もちろん二試合の後の方、メインイベントとして扱われることになった。
この日、多忙を極めるパトロンのうちの何名かはその日の来場を見合わせるつもりでいたが、女王である恵美子がボクシングの試合に出ると言う話を聞きつけた途端、全員がそれまで優先と考えていた他の予定を放り出して、地下のリングへ来場の意思を示した。そして、この日の第一試合が始まる午後九時半には、招待者リストに載っているパトロンの全員が、黒いリングを取り囲む居心地のいい椅子に納まっていた。
一週間前に真希が使用していたものと同じ、ドアに「2B」の表示のある控室の中で、亜希はストゥールに腰を下ろし、この日亜希のセコンドを務める晴子に向かって左手を差し出していた。晴子がグローブを固定するためのテーピングを終えると、亜希は両の拳を覆っている黒いグローブを見つめた。初めて身につけた、八オンスの試合用グローブは、普段スパーリングのときに使っている十六オンスのものに比べると、遥かに小さく、軽かった。
六年間のジム通いの末に迎えた初めての試合が、こんな形で訪れるとは。……
亜希の心の中に、やるせない気持ちがわだかまっていた。
亜希が目を閉じると、その日、部屋を出る前に見た真希の様子が思い出された。「行ってらっしゃい。気をつけてね、お姉ちゃん。」と言って、手を振って亜希を送り出した真希の笑顔は、心から湧き上がってくるものではなく、努力して繕っているように感じられた。
あの夜以来、この地下のリングの話になると、抜け殻のようになってしまう真希。
そうだ。今夜は真希の仇討ちなんだ。
真希を壊してしまった恵美子を、私は許さない。……
亜希の身体に力が漲ってきた。亜希は、閉じていた目を開き、グローブの装着をするために床に膝をついたまま亜希を見つめている晴子に向かって声を掛けた。
「ありがとうございます。晴子さん。…… 晴子さんのお力添えがなかったら、私は今夜、リングに立つことはできなかったでしょう。……」
「いえ。亜希さんと恵美子さんの試合を決めたのはオーナーですし、私は何も。……
こんな言い方しかできないですが、…… 頑張ってくださいね、亜希さん。私もセコンドとして、できるだけのことをさせていただきます。」
「とんでもないです、晴子さん。本当にありがとうございます。…… それから、試合を決めたら使いますから、必ず『アレ』を持ってきてくださいね。……」
晴子は頷いたあと、亜希が持ち込んだ小さなバッグの中にある、亜希が『アレ』と表現したものに視線を落とした。
それは、比較的穏やかな亜希の人柄からは想像もつかないようなものだった。こんなものを用意するほどまでに、亜希さんは恵美子先生をズタズタに引き裂いてしまいたいのか。………
晴子の背筋に、少しだけ冷たいものが走った。
亜希はストゥールから立ち上がり、試合用グローブの感触を確かめるように、何度か自分の身体のあちこちを叩いたあと、少しずつ身体全体を動かし始めた。既にシルバーのトリムが入った黒いショートトランクスと黒いシューズというシンプルなリングコスチュームだけになっていた亜希は、剥き出しの形のいい大きな乳房を揺らしながら、徐々に動きを増していき、最後にはファイティングポーズを取って、シャドーボクシングを始めた。
晴子は亜希の姿に見とれていた。麻耶とのスパーリングに立ち会ったときに、ボクサーとしての亜希の動きを見ていたし、麻耶に指示されてコスチュームを脱ぎ去った亜希の裸体も目にしていた。それでも、目の前に居る亜希が、見えない相手に向かって鋭いパンチを放っている様子は、晴子の目に、限りなく凛々しく、美しく映った。
亜希の身体がうっすらと汗で光り始めた頃、控室の中にある内線電話の呼出音が鳴った。晴子が受話器を取り、相手と短い会話を交わしたあと受話器を置くと、晴子は亜希に身体を向き直り、無言で頷いた亜希には、それだけで晴子の意図が伝わった。
控室を出て、リングに向かう。…… 亜希も晴子に向かって、無言で頷いた。
晴子が控室のドアを開けると、その後ろで亜希は一旦立ち止まり、控室の中を真剣な眼差しで見回した。亜希は、控室の真ん中に置かれたストゥールの辺りで視線を止め、心の中で真希に向かって語りかけていた。
「真希、…… お姉ちゃん、行ってくるよ。……」
控室を出て、スタッフ専用のドアを横目に通路を曲がり、入場ゲートの手前まで来た亜希は、そこで一旦足を止めた。亜希は目を閉じ、一週間前に見た、真希の表情と動きを思い出していた。
恵美子により一層の屈辱感を味わわせるため、『その瞬間』までは、女王に指名された哀れな生贄を演じる、と亜希は心に決めていた。
初のボクシング形式ということで、この試合のレフェリーを務めるために、胸にフリルのついた白い詰襟のシャツと黒のパンツスーツ、黒い蝶ネクタイという衣装を身につけてパトロンの一人と談笑していた麻耶は、息苦しそうに俯きながらリングサイドを歩く亜希の姿に目を遣った。
「あら、あの娘。…… さすがにこれだけのお客様の前で裸になるのは、ちょっと辛いのかしら。……
いや、違うわね。きっちり覚悟を決めているはずだし、勝てる試合だとわかっているのだから、あんなに辛そうにするのはむしろ不自然だわ。……
だとすると、まだ何かやらかすつもりでいるようね。…… ほんとに演技がお上手だこと。」
亜希がリングに上がり、一週間前の真希と同じように、青いコーナーマットを背に上段ロープに腕を伸ばし、対角線上の金色に光るコーナーマットに哀しげな視線を向けていると、恵美子が入場ゲートに姿を現した。
恵美子も一週間前と同じように、入場ゲートを出たばかりのところで一旦立ち止まり、周囲のパトロンたちに向かって両手を高く上げた。恵美子は両拳を赤いグローブで覆い、ゴールドのトリムが入ったエメラルドグリーンのショートトランクスを穿いていた。そして、一週間前とまったく同じように、パトロンたちの歓声に応えていた。
セコンドがついているということで、金色のコーナーまでリングサイドを歩き、セコンドの女性によって広げられたロープの隙間からリングの中に足を踏み入れた恵美子は、青コーナーに控えている亜希の姿を見て、顔色を変えた。
予想していたよりも数段引き締まった身体。特に腹回りの鍛えられ方が、想像していたものとまったく違う。……
これは注意が必要だ。今までに苛めてきた相手とは全然違うかも知れない、と恵美子は思った。
試合前のルール説明をするために、レフェリーの麻耶が亜希と恵美子をリングの中央に呼び寄せると、恵美子に対峙した亜希は、両腕を曲げ、黒いグローブをアゴの下にぴったりとつけて、怯えたような視線を恵美子に向けた。
恵美子は亜希の表情を眺めているうちに警戒心を解き、余裕たっぷりに胸を張り、亜希の腕の間から覗いている大きな乳房や、黒いトランクスの下に隠れている亜希の股間の辺りに、ねっとりとした視線を這わせ始めた。
「一ラウンド三分でラウンド数は無制限。私が試合を止めない限り、どちらかがテンカウントを聞くまで闘っていただきます。……
それと、勝負がついた後は、このリングの掟に従っていただくわ。敗者は勝者に絶対服従。負けた者は勝った者の辱めに甘んじること、……
いいわね。」
麻耶は説明の終わりの部分を二人に聞かせているとき、顔を亜希の方に向けていたが、それが本当は恵美子に向けて伝えられたものであることを知らなかったのは、リングの中央に集まっている三人の中で、恵美子本人だけだった。
亜希の表情を見つめている麻耶は、大笑いしたい気分だった。
「やっぱりこの娘は何か企んでる。…… どうやら、まだしばらくは、哀れな仔猫ちゃんを演じ続けるようね。哀れな仔猫ちゃんが獰猛な虎に変身して牙を剥く瞬間、本当に楽しみだわ。だったら私もお手伝いさせてもらおうかしら。……
それに、この調子なら、試合が終わった後も、パトロンの皆さんを充分満足させてあげられそうね。……」
麻耶がルール説明を終えると、金のコーナーに戻った恵美子は、コーナーマットに向かって上段ロープに両手のグローブを掛け、剥き出しの大きな乳房をぶるんぶるん揺らしながら、膝の屈伸運動を始めた。青コーナーでコーナーマットを背にしていた亜希は、胸に秘めた思いを噛み締めながら、取り繕った不安そうな表情を変えずに、試合開始のゴングが鳴るのを待っていた。
やがて麻耶が、リングの外に控えているスタッフに向かって、人差し指を伸ばした右腕を振り下ろすと、場内に心地良い金属音が鳴り響いた。
亜希の復讐劇の幕は、切って落とされた。
恵美子がニヤニヤと笑いながらリングの中央へと進んでいくと、亜希もたどたどしい足取りで恵美子に近づいていった。亜希は意識的に腰の引けた構えを取り、明らかにパンチが届かない距離から、二度三度と左のジャブを伸ばした。
恵美子はこれを避けるように少しだけ身体を後ろに反らしたあと、一歩だけ亜希に近づき、左ジャブを打ってみた。恵美子の赤いグローブは亜希の左目の辺りにヒットし、亜希の顔がわずかに撥ね上がった。
亜希は、試合前のルール説明のときよりもさらに泣き顔に近い表情を作り、後退を始めた。恵美子はゆっくりと亜希を追い、さらに何度か左のジャブを放つと、その度に、亜希の顔は小さく揺れた。サンドバッグでもパンチングボールでもない、人間の顔に自分の拳がヒットする快感に、恵美子は酔った。
背中にロープが近づいてくると、二日前と同じように、亜希は、恵美子が簡単に避けられるように、大きなモーションをつけ、恵美子の顔めがけて右、左と腕をスイングした。恵美子は二歩三歩とバックステップを踏み、亜希の意図通りにこれを避けた。
亜希はこの後も何度か意識的に空振りをして見せた。亜希のパンチが容易にかわせることを感じ取った恵美子の顔に、余裕の表情が浮かんだ。
恵美子が再び亜希の顔に左ジャブを見舞い始めると、亜希はそれを受けた顔を揺らしながら、まっすぐ後ろへと下がり、ロープを背負った。もう後ろに下がれないところまで後退した亜希は、身体を丸めて、両手の黒いグローブで顔を覆った。パンチを打つ気配が消えた亜希に向かって、亜希のガードの上から、恵美子は力任せに赤いグローブを叩きつけた。
更に恵美子が亜希に近づき、肘の下にわずかに見えている亜希の腹にパンチを打ち込むと、亜希は呻き声を洩らして、身体を沈み込ませた。恵美子の身体に、ジャブで顔を弾くのとは別の快感が走った。
恵美子は続けざまに、右アッパー、左アッパーを、亜希の腹に力一杯打ち込んだ。亜希は膝を折り、その場にしゃがみこんで、両手のグローブを黒いキャンバスについた。恍惚とした表情の恵美子の目の前に、レフェリーの麻耶が割り込み、恵美子にニュートラルコーナーを指し示した。
恵美子がニュートラルコーナーに着いて上段ロープに腕を伸ばすと、亜希が右のグローブを上段ロープに掛け、左の腕をお腹に当てて立ち上がり、ダウンカウントを聞いている様子が目に入った。苦しそうにダウンカウントを聞く女ボクサーの姿を、ニュートラルコーナーで相手から離れた位置から眺めるのも、恵美子にはまた格別だった。
立ち上がった亜希は、できる限りの泣き顔を作り、少し離れた位置から恵美子の顔に向かって何度も腕を振り回した。亜希には、まだ恵美子の身体をヒットする意思はなかったが、それに気付いていない恵美子は、笑いながらバックステップを踏んで、亜希のグローブが目の前を次々と通り過ぎるさまを楽しんでいた。
「そうそう、もっと踊りなさい、仔猫ちゃん。…… あなたの泣き顔、すごく素敵よ。……」
やがて亜希は腕を振るのをやめ、両手のグローブを中途半端な位置に上げたまま、恵美子の前で立ち止まった。亜希の顔に、恵美子がジャブを飛ばすと、亜希は後退を始めた。再びロープに詰まり、両腕でガードを固めているだけの亜希に、恵美子のパンチが浴びせられた。
長い間ボクシングに勤しんできた亜希には、身体のどの部分を打たれてはいけないのかがわかっていた。亜希は、うまく身体を少しだけずらしたり、グローブの先から肘の先までを巧みに使ったりしながら、急所に当たる部分だけには絶対にパンチをもらわないように、力任せに腕を振り続ける恵美子のパンチを受け止めていた。
レフェリーの麻耶には、亜希がほとんどダメージを負っていないことがわかっていた。
「これなら安心して見ていられるわね。さっきダウンしたときだって、ずいぶん苦しそうな顔をしていたけど、どうせ少しも効いていなかったんだろうし。……
本当にこの娘は役者だわ。…… 亜希さんが反撃を始めたら、恵美子さんはさぞかし驚くでしょうね。」
ほくそ笑む麻耶のすぐ目の前で、恵美子は、ロープを背にしている亜希に向かって、力一杯赤いグローブを叩きつけ続けた。恵美子の瞳は、生身の人間を殴ることの快感に、妖しく輝いていた。
「……スリー、………フォー、………ファイブ、……」
麻耶は、ガードを固めた体勢のままキャンバスにうずくまっている亜希に向かって腕と指を伸ばし、ゆっくりとダウンカウントを進めていた。亜希の足許には、吐き出されたマウスピースが転がっていた。恵美子は、ニュートラルコーナーで上段ロープに両手を掛けて、亜希を見つめていた。
「これで三度目のダウンね。四度目だったかしら。…… 思ったより締まった身体をしていたから、ひょっとしたら、って思ったけど、取り越し苦労だったようね。まるで手も足も出ないじゃないの。本当に見掛け倒しだわ。……
KOしたら、たっぷり可愛がってあげるわ。楽しみに待っていてね、可愛い仔猫ちゃん。……」
亜希が、見るからに苦しそうな表情を麻耶に向け、カウントエイトでファイティングポーズを取ると、麻耶は恵美子がニュートラルコーナーに待機していることを確認して、「ボックス」を宣言した。
恵美子が亜希に近づくと、亜希は、ロープ際から一歩も動かないまま、胸から上をガードするポジションに腕を固め、顔全体をグローブで覆った。まったくパンチを打つ気配を見せない亜希に向かって、恵美子は亜希のガードの上から、力一杯パンチを打ち込んだ。少しだけ疲れを感じた恵美子が連打の手を休めると、亜希は恵美子に身体を預けてガードを解き、恵美子の腋に腕を差し入れてきた。
クリンチに逃げる亜希を受け止めると、恵美子の胸に、亜希の乳房が触れた。恵美子が亜希に身体を密着させて、そのまま亜希をロープに押し込み、上体を軽く捻ると、乳首同士が擦れ合い、亜希は「んぁあぁ…」と、だらしのない喘ぎ声を上げた。
「おっぱいも申し分ないようだわ。もう少しボクシングを楽しもうと思ったけど、妹以上に美味しそうな身体だし、さっさとKOして、その分はたっぷり身体で返してもらうことにしようかしら。……
そうしたら、意識が吹き飛ぶまで何度も絶頂を味わわせ続けてあげるわ。だから、最後の一滴まで蜜を吸い取らせて頂戴ね、仔猫ちゃん。」
麻耶がブレイクを命じるために二人に近づいたとき、恵美子は余裕の表情を浮かべ、そんな考えを頭の中に巡らせていた。
クリンチをしていることで安心し、少しの間、淫靡な妄想に気を取られていた恵美子が我に返ると、亜希の荒い息遣いが止まっているように感じられた。不思議に思った恵美子は、聞こえてくる音に神経を集中させた。そんな恵美子の耳元で、亜希が囁いた。
「楽しんでいただけましたよね、恵美子先生。…… じゃ、今度は私にも楽しませてくださいね。」
レフェリーの麻耶が、二人の間に割って入り、ブレイクを命じたが、恵美子は麻耶の声が耳に入らないほどの、えもいわれぬ恐怖感に包み込まれていた。それまで恵美子の耳に聞こえていた、はあはあという亜希の荒い呼吸音は、今まで一方的に殴られ続けていたのが信じられないような、ごくごく自然なものに変わっていた。
今までのことは、すべて演技だったって言うの?……… そんな馬鹿な。……
二人が麻耶の手によって引き離されると、その場に立ちすくんだ恵美子の横をすり抜けて、亜希はやすやすとコーナーから脱出した。同時に、第一ラウンド終了のゴングが鳴った。
亜希は、見下したような視線を恵美子に向け、唇の端をわずかに持ち上げて軽く息を吐き出したあと、ゆっくりと青コーナーに向き直って、歩き始めた。
「どうやら哀れな仔猫ちゃんは、借り物の毛皮を脱ぎ去って、牙を剥いたようね。……
次のラウンド、本当に楽しみだわ。」
麻耶は、胸を張って青コーナーに戻っていく亜希の後ろ姿を眺めながら、心の中でそう呟いた。
まだ一発もまともなパンチをもらったわけでもないし、亜希が虚勢を張っているだけなのかも知れない。……
恵美子はそう思いたかった。しかし、あれだけ一方的に亜希を打ちまくり、何度もダウンを奪ったはずなのに、ラウンドの終わりに見せた亜希の表情からは、まったく効いている素振りが感じられない。……
自分専用の、金色のコーナーに置かれたストゥールに腰を下ろして、次のラウンドを待っている恵美子の心中は複雑だった。
一分間のインターバルが終わり、第二ラウンド開始のゴングが鳴った。亜希は、相変らず薄笑いを浮かべて、恵美子は不安に表情を曇らせて、リングの中央へと歩み寄っていった。
二人の間隔が詰まると、恵美子がパンチを出す前に、亜希の鋭い左ジャブが恵美子の顔に飛んだ。そして亜希は、左肩をやや前に出して、両腕を下ろした。
恵美子は、恐怖感に苛まれながら、がら空きに見える亜希の顔めがけて、何度も大きなパンチを振ったが、亜希は軽やかなフットワークとウィービングで、恵美子のパンチをすべて紙一重でかわし、隙を見て左ジャブを恵美子の顔面に飛ばした。
恵美子のパンチが十五回ほど空を切り、それと同じぐらいの数のジャブが恵美子の顔面に突き刺されたあと、亜希は少しだけ後ろに下がって、ニヤリと笑うと、口に近づけたグローブの中へとマウスピースを落とし、それをセコンドの晴子が控えている青コーナーの方へ放り投げた。
亜希は、蔑むような視線を恵美子に投げ、口を開いた。
「私の実力、わかっていただけましたよね、恵美子先生。…… もう先生のパンチは、一発も私の顔には当たりませんよ。ですから、私にはマウスピースは不要です。……
私、先生と、もっとおしゃべりしたいんです。最後までお付き合いしてくださいね。」
亜希の口から出た言葉は、恵美子には耐え難い屈辱だった。恵美子は悔しさを顔一杯に表して亜希に襲い掛かっていったが、結果は変わらなかった。恵美子のパンチは難なくかわされ、見返りに鋭く重いジャブの連打が、恵美子の顔面に叩き込まれた。
恵美子の表情は、徐々に泣き顔へと変わっていった。自分と亜希の、あまりにも歴然とした実力の差。振り出したパンチが空を切り、見返りのジャブを顔に受けるごとに、それは大きな屈辱感となって、鋭い刃物のように、容赦なく恵美子の心を切り裂いていった。
三十回、四十回と、力一杯振ったパンチが空振りに終わった頃には、恵美子の息は完全に上がってしまっていた。やがて亜希は、恵美子をロープ際に誘うように二歩、三歩と後退し、両腕で鼻の下から胸までを完全に覆い隠してロープに身を預けた。恵美子の目の前には、亜希の引き締まったお腹が、これ見よがしに差し出されていた。
恵美子は、半泣きの表情で、五発、六発と、亜希にボディブローを打ち込んだ。しかし、亜希は少しだけ腹筋に力を入れただけで、身体を丸めるでもなく、まったく表情を変えることもなかった。疲れ切った恵美子が手を休めると、亜希は両腕で恵美子の身体を押し戻した。
「恵美子先生のボディブロー、まったく効きませんね。…… せっかくですから教えてあげます。ボディブローって言うのは、こうやって打つんですよ。」
攻撃の意思を見せた亜希の言葉に、恵美子は、恐怖感から反射的に顔をグローブで覆った。そんな恵美子のガードの隙間をめがけて、亜希は鋭く腕を振った。
亜希のボディアッパーは、恵美子のリバーを正確に射抜いていた。
「ぐふぅっ…」という呻き声と共に、恵美子の顔に苦悶の表情が広がった。
恵美子はよたよたと後退を始めた。慌てて距離を詰めるでもなく、亜希は恵美子を追った。
遠い位置から放たれる鋭いジャブが、続けざまに恵美子の顔面に飛んだ。たった一撃のボディブローで顔のガードが崩壊し始めてしまった恵美子には、亜希のジャブに顔を揺らしながら後ろに下がり続けるしなかった。そして、恵美子がロープ際に追い込まれるまでには、それほど時間はかからなかった。
恵美子のボディに再び亜希のパンチがめり込んだ。耐え切れずに腕を下ろしてしまった恵美子の視界に、亜希が次のパンチを自分の顔めがけて振り出しているのが見えた。
もう腕を上げることも、身をかわすこともできない。……… 恵美子は、何分の一秒かの後に、亜希のパンチが自分の顔に叩き込まれることを覚悟した。
しかし、恵美子の考えた通りにはならなかった。
亜希の黒いグローブは、恵美子の顔の、ほんの数センチ手前で、ぴたりと止まった。
その場に立ちすくんだ恵美子の目の前で、亜希は次々とパンチを披露して見せた。テンプルへ、頬へ、アゴへ、そしてそのすべてが、恵美子の顔の数センチ手前で止められた。恵美子には、棒立ちのまま中途半端な位置まで腕を上げて、力のない悲鳴を上げることしかできなかった。
亜希は、手を休め、不敵な笑みを浮かべた。
「先生をキャンバスの上で眠らせてあげるのは簡単なんです。でも、それじゃつまらないですからね。試合を見にいらしてるお客様にも、もっと楽しんでもらわなくちゃ。もうしばらく、私と遊んでくださいね、恵美子先生。」
亜希が少しだけ後ろに下がると、恵美子は逃げるようにロープ際から離れた。亜希は、ジャブを放ちながら、恵美子をゆっくりと追った。
恵美子の逃走も、長くは続かなかった。数十秒の後には、恵美子は金色のコーナーマットを背にしてしまっていた。恵美子は身体を丸めて、頭全体をグローブをした両腕で抱え込むように身を固めた。初めの一撃で呻き声まで洩らしてしまったリバーも、肘の先で何とかカバーしていた。
パンチを振り出す気配が消え去り、亀のように身を固めただけになってしまった恵美子に向かって、亜希は冷たく言い放った。
「やっぱり恵美子先生は、あまりボクシングのことをご存知でないようですね。それで身を固めたつもりなのかも知れませんが、人間の身体って不思議なもので、急所はいろんなところにあるんですよ。……
例えば、こんなところとかね。」
恵美子のわき腹に、強烈な亜希のフックがめり込んだ。そして反対側のわき腹にも。
その一発ごとに、恵美子は呻き声を洩らした。恵美子の口からは、マウスピースが顔を覗かせていた。
強固に見えていた恵美子のガードも、わき腹への、二発のボディブローであっさりと崩れていた。肘が開き、顔からグローブが離れてしまっていた。そして、腹回りにも隙ができてしまった恵美子のみぞおちに、亜希の強烈なボディアッパーがめり込んだ。「ぐ…ぅ…」と呻き声を洩らした恵美子の口から、ついにエメラルドグリーンのマウスピースが吐き出された。
膝を伸ばしているだけの気力を失った恵美子がその場にしゃがみこもうとすると、亜希は、恵美子の腋の下に腕を差し込み、恵美子の身体を支えた。
「じゃ、またあとで。…… 一分間だけですけど、ゆっくり休んでくださいね。」
亜希の台詞が終ったのと同時に、第二ラウンド終了のゴングが鳴った。
恵美子のセコンドが、恵美子の足許に素早くストゥールを用意すると、亜希は恵美子をその上に座らせるように置いた。そして、恵美子に背を向け、青コーナーへと歩き始めた。
あらかじめ麻耶に因果を含められていた恵美子のセコンドは、肩を落として次のラウンドを待っている恵美子を、爪の先ほども救おうとはしなかった。彼女は、恵美子がストゥールに腰を落とすと、大量の水を恵美子の頭の上から掛けた。そして、その水を身体のいたるところから滴らせ、がっくりとうなだれている恵美子に声を掛けることすらせず、キャンバスの上に転がっていたマウスピースを拾っただけで、恵美子を放置した。
セコンドアウトのコールがあっても、恵美子はストゥールから腰を上げることも、マウスピースを受け取るために口を開けることもできないでいた。
そして、第三ラウンド開始のゴングが鳴らされた。恵美子のセコンドは、嘲笑を浮かべながら、恵美子の口の中にマウスピースを捩じ込むと、恵美子の腋に手を掛けて腰を立たせ、恵美子の背中をドンと押した。恵美子は、リングの中央に向かって、よろめくように足を運んだ。
亜希が恵美子に近づいていくと、恵美子は観念したようにファイティングポーズを取った。恵美子は何度か亜希に向かってパンチを振り出したものの、それはあっけなく空を切った。そして、亜希の鋭いジャブが、恵美子の顔面を揺らした。恵美子のガードはもはや隙だらけになってしまっていた。
三発、四発と、亜希の重いジャブを顔に受けた恵美子は、その場にへたり込んでしまった。今まで経験したことのない屈辱感に、恵美子は押し潰されてしまっていた。キャンバスに落としている自分の赤いグローブが恵美子の視界に映ると、恵美子の目には、涙が溢れてきた。
恵美子の戦意は、すでに完全に失せてしまっていた。
「…… もう私の負けでいい。…… 試合のあと、どれだけの辱めを受けてもいいから、早くこの試合を終わらせたい。……
リングの上から逃げ出したい。…… 私には、もう耐えられない。……」
恵美子は、目に涙を浮かべ、キャンバスに両手の赤いグローブをついて、敗戦に至るテンカウントが自分に向けて投げつけられるのを待った。
レフェリーを務めている麻耶は、恵美子のそばに立ったが、ダウンカウントを始めようとしなかった。恵美子の視界には麻耶の足が入り込んでいたが、恵美子は、いつまで待ってもダウンカウントが始まらないことに気付いた。恵美子は麻耶の立っている方へと顔を上げて、涙を溜めた瞳を麻耶の顔に向けた。
麻耶は射るような視線で、恵美子の顔をじっと見つめ、口を開いた。
「恵美子さん、このリングのことは、あなたが一番良くわかっているはずです。このリングでは、敗退行為は厳禁です。試合を放棄するなんて、私は許しませんよ。……
さあ、立ちなさい、恵美子さん。立って、ファイティングポーズを取りなさい。」
麻耶の、最後通告にも似た命令が恵美子に与えた精神的なダメージの大きさは、計り知れないものだった。オーナーであり、絶対権力である麻耶の命令に逆らうことは、何をおいても許されない。
もはや、恵美子に救いの手を伸べるものは誰もいない。そして、試合を降りることもできない。………
がっくりとうなだれ、絶望に打ちひしがれている恵美子の目から、キャンバスに涙がこぼれ落ちた。
やがて、恵美子は膝を立てて立ち上がり、力のないファイティングポーズをレフェリーの麻耶に向けた。麻耶は、それでいいのよ、と言いたげに、絶対権力者であることを誇示するような視線で、恵美子を見つめた。
「もう二度と馬鹿な真似をするんじゃありませんよ、恵美子さん。…… 力尽きるまで闘う。このリングでそれができない者には、私は容赦なく仕置きを行ないます。いいですね。」
恵美子は、グローブで流れ落ちる涙を拭い、麻耶の言葉に小さく頷いた。それを見届けた麻耶は、ニュートラルコーナーに控えている亜希に視線を遣り、「ボックス」を宣言した。
亜希は、満面に冷たい笑みを浮かべて、恵美子に近づいていった。
亜希は両腕を下ろし、挑発するように恵美子の前に顔を差し出し、恵美子に詰め寄っていった。それでも恵美子には、もう自ら腕を振る気力は残っていなかった。恵美子は、腕を中途半端に上げたまま、恐怖に顔を引きつらせて、後退を続けた。
亜希はジャブを振りながら、簡単に恵美子を青コーナーに追い詰めた。そして、恵美子の両のわき腹にフックを見舞うと、膝を折りかけた恵美子の腹に、渾身のボディアッパーをめり込ませた。身体が浮き上がるほどの強烈なボディアッパーをまともに食らってしまった恵美子は、あっさりとマウスピースを吐き出した。あまりの苦しさに膝が伸び、のめるように前に倒れようとする恵美子を、亜希は両腕でしっかりと支えた。
「あたしのボディブローのお味はいかがですか、恵美子先生。とぉ〜っても素敵な気分でしょう?……
まだ倒れちゃダメですよ。もっともっと素敵な気分にさせてあげますからね。」
亜希は、そう言うと、恵美子の股間に左脚を差し込み、両腕と大腿に力を入れて、恵美子の身体をわずかに持ち上げた。そして、直角に曲げた左ひざの近くに恵美子を乗せ、コーナーポストのすぐ左側の下段ロープに左足の裏を乗せた。
「これで立っていられますよね。恵美子先生。…… じゃ、もっともっと私のボディブローの味を堪能してくださいね。」
亜希の言葉通り、恵美子の腹に、亜希の黒いグローブが次々と叩き込まれた。恵美子はまったく身を守ることができずに、亜希のボディブローを受ける度に、だらしのない呻き声を上げ続けた。
「…… ぁぶ …… ぐ …… ぅぶ …… ぁぶうぅ ……」
串刺しの状態で亜希のボディブローを受け続ける恵美子の動きは、完全に止まってしまっていた。恵美子の腕はわずかに曲がったまま、肩から垂れ下がっているだけだった。
やがて、恵美子の身体が、一瞬だけ震えた。そして、恵美子の口から、それまでのものとは少し違った、喘ぎにも似た呻き声が洩れた。
恵美子の股間に差し込まれていた亜希の太股に、不自然なほどの温もりが伝わった。そして、恵美子のエメラルドグリーンのトランクスを伝って、黄金色の液体がキャンバスに滴り落ちた。
恵美子のそれとはまったく対照的に、亜希の顔に、満足そうな、勝ち誇った表情が浮かんだ。
「あっはっはっは。おもらししちゃいましたか。はしたないですねぇ、恵美子先生。生徒さんたちにも、そんな風に教えてるんですかぁ?」
恵美子には、自分が失禁したことを認識できたが、どうすることもできなかった。恵美子の瞼は重く瞳の上に垂れ、中途半端に開かれた口からは、胃液の混じった涎が糸を引いてキャンバスに流れ落ちていた。
背中が丸まり、亜希に凭れ掛かるように崩れ落ちる恵美子の上半身を、亜希はグローブや肩を使って起こし、真っ赤になっている恵美子の腹に、何度も黒いグローブをめり込ませた。
やがて、亜希が手を休めると、恵美子はゆっくりと亜希の方に倒れ、顔を亜希の大きな乳房の上に横たえた。
パトロンの皆さん。今夜のハンティング、お気に召していただけましたか?
亜希は、両手のグローブを高く掲げ、そう問いかけるように、リングを取り囲んでいるパトロンたちの顔を見回した。亜希の乳房は、恵美子の口から流れ出る涎で、キラキラと光っていた。
亜希は、目の前で無様な姿を晒している恵美子に語りかけた。
「なかなか素敵な格好ですよ、恵美子先生。…… もう終わりみたいですね。もっと遊んで欲しかったのに。残念です。……
じゃ、最後にテンカウントを聞いてください。」
亜希が、お小水だらけになった恵美子の股間から左脚を抜くと、立っている支えを失った恵美子は、そのままその場に崩れ落ちた。
恵美子のすぐ横では、麻耶と亜希が一瞬だけ目を合わせ、お互いに小さく頷いていた。そして麻耶は、恵美子に向かって腕を伸ばし、ダウンカウントを取り始めた。
「ダウン。……… ワン、……… トゥー、……… スリー、……」
恵美子は、キャンバスに崩れ落ちた格好のまま、あまりの苦痛に、芋虫のように蠢いていた。恵美子には、痛む腹を腕で抱え込む力さえ残っていなかった。
恵美子が立ち上がることができないことは、誰の目にも明らかだった。それでも麻耶は、恵美子をカウントアウトすることが楽しくて堪らないとでも言うように、もったいぶったテンポでカウントを進めていった。
それでも、恵美子がキャンバスに這ってから二十秒近くたったころには、そのゆっくりしたカウントも終わろうとしていた。できることならこのまま気を失ってしまいたい、と恵美子は感じていたが、それすらも叶わなかった。麻耶がカウントを進めていく声は、恵美子の脳裏に一つ一つ焼き付いていった。そして、それが終わったとき、麻耶の発したKO負けの宣告も、恵美子の耳に、はっきりと届けられた。
「……… ナイン、………… テン。…… ユー・アー・アウト!」
麻耶がそう叫んでダウンカウントを終了させると、亜希が勝者の権利を獲得したことを告げるゴングが打ち鳴らされた。麻耶はリングの中央へと歩を進めた亜希の右手の黒いグローブを掴み、高く掲げた。亜希は空いている左手も右手と同じように掲げて、パトロンたちからの喝采に応えていた。
勝者決定のセレモニーが終わると、亜希は自分の、そして敗者の恵美子が身を横たえている青コーナーへと歩み寄って来た。
亜希は、楽しそうな表情を浮かべ、シューズの先で恵美子の身体を操った。横を向いて倒れている恵美子を仰向けにし、股を大きく開かせた。そして、エメラルドグリーンのトランクスの上から恵美子の大事な部分を爪先で小突き、シューズの裏を恵美子の乳房に擦り付けた。
亜希は、しばらくの間、そうして恵美子を弄んだあと、恵美子の顔を右足で踏み付け、そのままの格好で青いコーナーマットのすぐ後ろに立っていた晴子に向かってロープ越しに両腕を差し出すと、晴子は亜希の両拳を覆っていた黒いグローブを引き剥がし、バンデージにも鋏を入れた。
グローブを脱ぎ去り、自由になった両手を眺めていた亜希は、恵美子の顔を踏みつけていたシューズを退け、恵美子の傍らにしゃがみこんで、たわわに実っている恵美子の乳房を、掌で何度も軽く叩いた。そして親指の先で恵美子の乳首をこねたあと、恵美子に処刑宣言を投げつけた。
「あたしの勝ちですね、恵美子先生。…… もちろん、ここでのお約束はご存知ですよね。……
敗者は勝者に絶対服従。よろしいですね。」
この頃には、恵美子の肉体はわずかに回復し、恵美子の顔には表情が戻っていた。しかし、恵美子を待っていたのは、敗者として亜希の凌辱に甘んじなければならない立場という絶望的な現実だった。
目の前で妹を嬲られる姿に泣き叫んだ姉の責めが生易しいものでないことは、絶対に間違いない。……
恵美子は、恐怖と悲しみの入り混じった表情を顔一杯に浮かべ、ぼろぼろと涙を流した。
亜希は、嬉しそうに微笑んで、言葉を続けた。
「大丈夫。あたしは優しいですから、無理なことは言いませんよ。…… 先生には、女になっていただく。それだけです。……
たぁ〜っぷり可愛がってあげますから、感謝してくださいね、恵美子先生。」
亜希は恵美子の足元へと移動すると、嬉しそうな表情を変えないまま、ぴったりと恵美子の下半身に貼り付いていたエメラルドグリーンのトランクスを引き剥がした。
ボクシング用のコスチューム、トランクスの下に、恵美子が身に着けていた物に、亜希は見覚えがあった。それは、亜希の復讐劇の引き鉄となった試合、恵美子に妹の真希が敗れ、辱めを受けた試合に、恵美子が身に付けていたリングコスチュームとまったく同じものだった。
亜希の表情は、徐々に真剣なものに変わり、亜希の目頭には、熱いものがこみ上げてきた。
「真希、…… お姉ちゃんは、真希の仇を討ったよ。……」
妹への想いを噛みしめ、恵美子の肉体を覆っている最後の一枚のコスチュームを、……汗と、セコンドにかけられた水と、そして、亜希のボディブローを受けて垂れ流してしまったお小水でぴったりと身体に貼り付いている恵美子のエメラルドグリーンのボトムを、亜希はゆっくりと剥ぎ取っていった。
凌辱者に涙は似合わない。……… 亜希は、涙を堪え、口元を引き上げて、冷たい笑顔を作った。
再び無慈悲な凌辱者に戻った亜希は、薄い陰毛の奥に見える恵美子の秘唇の中に、無造作に指を捻じ込んだ。亜希の手は、掌が隠れてしまうほど、奥深くまで恵美子の中に埋まり、恵美子の中で激しく暴れた。
強いられた快感と、悲しさ、恥ずかしさに泣き叫ぶ恵美子の表情をじっくりと堪能したあと、亜希は恵美子の中から手を引き抜いた。亜希は、ぬめりの混じった雫にまみれた指を、うっとりとした表情で眺めた。
「もうぐちょぐちょですね、恵美子先生。本当に淫らな牝犬ですこと。あとで、たっぷりとエサをあげますからね。……
その前に、少しお散歩しましょうか。牝犬なんですから、四本の足で歩くんですよ、恵美子先生。早く四つん這いになってくださいね。」
恵美子は、亜希の命令に従って、のろのろと身体を動かし、四つん這いになった。亜希は、うなだれている恵美子の髪を束ねて捻り上げ、右手で掴んだ。
「じゃ、行きましょうか、牝犬さん。…… リングの周りを一周したら、エサの時間ですよ。」
亜希の言葉に促されるように、恵美子は四つん這いのまま、ロープ際を這い始めた。が、青コーナーとニュートラルコーナーの間まで来ると、あまりの恥辱に耐え切れず、恵美子は大きな泣き声を洩らして、肘をキャンバスに落とし、その場に止まってしまった。亜希は恵美子の髪を左手に持ち替えると、身体を丸めている恵美子の尻の穴に指を突っ込み、力任せに引き上げた。恵美子は「ひぃっ」と声を上げ、腰を伸ばした。
「ほらほら、ちゃんとお尻を上げて。それと、もっと股を開いてもらいましょうか。パトロンの皆さんに、涎だらけの下のお口も、素敵なお尻の穴も、ちゃ〜んと見ていただかなくちゃ。」
亜希が恵美子の髪を前方に引っ張ると、恵美子は再び進み始めた。
恵美子は、パトロンたちの視線が剥き出しの下半身に向けられているのを、嫌というほど感じていた。その恥ずかしさに耐え切れず、恵美子の四足歩行が止まりかけると、亜希は、恵美子の腹を爪先で軽く蹴り、歩行を促した。恵美子の腰が落ちかけると、亜希は、恵美子の尻を掌で叩いた。
何とか恵美子がリングの周りを一周し、青コーナーの下に戻ってくると、亜希は、掴んでいた恵美子の髪を強く引っ張り、中段ロープに結び付けた。
「素敵なお散歩でしたね。…… お腹が空いたでしょう、牝犬さん。今エサの用意をしてあげますから、しばらくそのままで待っていてくださいね。」
そう言うと、亜希は自分の腰に手を遣り、腰をリズミカルに振りながら、黒いトランクスを引き下ろしていき、最後には完全に脱ぎ去った。晴子は、その様子に見入っていたが、はっと我に返ると、リングサイドに持ち込んだバッグの中から、試合前に亜希が『アレ』と表現したものを取り出した。亜希は晴子からそれを受け取り、同じように腰を振りながら、黒いアンダーウエアの上に装着していった。
亜希の次のステージ衣装の股間からは、赤ん坊の腕の先ほどもありそうな、太く長い、黒光りするディルドゥが突き出していた。
恵美子は、赤いグローブと両膝をキャンバスについたまま、しばらく横目で亜希の行動を見ていたが、亜希の新しい衣装が何を意味するのかをすぐに悟ると、ガックリとキャンバスに視線を落とした。相変わらず恵美子の目からは、とめどなく涙が流れ落ちていた。
短い着替えショーを終えた亜希は、ロープに繋いでいた恵美子の髪をほどき、再び恵美子の髪を掴んで青コーナーを離れていった。リングの中央まで恵美子を連れて行くと、亜希は掴んでいた恵美子の髪を離し、シューズの裏で恵美子の腰を蹴った。恵美子はキャンバスの上に仰向けに倒れた。
亜希は恵美子の身体を跨ぎ、両膝と爪先をキャンバスにつけて、脛の部分で恵美子の腕を押さえ付けた。亜希が恵美子の頭を少し持ち上げると、恵美子の目の前に、亜希の股間から生えている黒いディルドゥが迫った。
「お待ちかねの、エサの時間ですよ、牝犬さん。…… さあ、お口を開けてくださいね。」
もちろん恵美子には、その屈辱的なエサを拒否する権利はなかった。恵美子が震える口をわずかに開くと、亜希は恵美子の頭をぐいと持ち上げて支え、血の通わない肉棒をもう一方の手で掴んで、恵美子の口の中へと捩じ込んだ。
恵美子が口を一杯に開いてやっと咥え込むことができるほどの太いディルドゥを、亜希は力任せに恵美子の口の奥へ奥へ押し込み、恵美子の頭を前後に揺さぶると、恵美子は唇と黒いディルドゥのわずかな隙間から泡交じりの涎を溢れさせ、苦しそうに呻き声を垂れ流した。
口の中に異物を押し込まれた恵美子が、必死に耐えていた吐き気を我慢できなくなりそうになったとき、亜希は恵美子の口からディルドゥを引き抜いた。長い間口を開き続けていた恵美子は、顎の力を失って口を閉じることができず、しばらくの間、涎まみれの口をだらしなく開けたままだった。
亜希は恵美子の上から身体を起こすと、恵美子の体側に立ち、恵美子の腰の下にシューズの先を差し込んで持ち上げ、恵美子の身体を裏返した。うつ伏せになった恵美子は、相変わらずだらしなく口を開き、はあはあと荒い息を繰り返していた。
亜希は、恵美子の尻の上に右足の黒いシューズを乗せ、楽しそうに言った。
「さあ、今度はどのお口にエサを恵んでもらいたいですか? スケベな牝犬さん。」
恵美子が亜希の問いに答えられないでいると、亜希は恵美子の腹の辺りをシューズの先で突つきだした。
恵美子には、亜希が何をしたがっているのかがはっきりとわかっていた。泣いても叫んでも許してもらえない。抵抗すれば、更に酷い辱めを受けるかも知れない。……
恵美子は、腰を浮かせて四つん這いになり、亜希の方へ尻を大きく突き出し、持ち上げた。
自ら秘所を差し出す恵美子の惨めな姿に、亜希はとても満足したが、亜希は恵美子への責めを緩めようとはしなかった。亜希は、これ見よがしに恵美子の下半身を覗き込み、びっくりしたような声を上げた。
「あらあら、エサを咥え込みたそうなお口が、二つもあるわ。…… どっちのお口がいいですか、牝犬さん。お尻の穴かしら、それともこっちかしらねぇ。」
亜希は恵美子の秘唇の中に指を差し込み、それをくりくりといじり回しながら、恵美子に訊ねた。
恵美子の身体を再び大きな恐怖が貫いた。女性器であるならまだいい。でも、あんな太いディルドゥを尻の穴の中へ入れられたら。…………
だめ。…… それだけは、絶対に、……
「…… お、…… お尻はやめて、……」
「そう。…… じゃ、もう一つのお口にしましょうね、スケベな牝犬さん。……
ここのお口は何て言うのかしら?」
「……………… お …… まん …… こ …………」
恵美子はやっと搾り出すような小さな声で答えた。亜希は、恵美子の口から洩れた卑猥な言葉に酔った。
亜希は再び恵美子の髪をまとめて捻り上げ、左手で恵美子の髪を強く引っ張り、力なく置かれたグローブの横に隠れている恵美子の顔を引き摺り上げた。そして、再び右手の指を恵美子の秘唇の中へ戻し、恵美子の耳元で囁いた。
「ん? 良く聞こえなかったわね。もう一度言ってくださるかしら? ここのお口は何て言うの?」
「…… おまん …… こ ……」
「…… おかしいわ。やっぱり聞こえないわね。…… 本当はこっちじゃなくて、お尻の方にエサを恵んでもらいたいんじゃありません?
牝犬さん。」
恵美子は、再び耳にした、お尻の穴という言葉に反応した。…… それだけは、……
それだけは許して。……
恵美子は、涙でぐちゃくちゃになった顔を更に苦しそうに歪め、必死に懇願した。
「…… い、ぃやぁ、…… お尻は、…… お尻の穴だけは許してください。……」
「あら、やっぱり違うのね。…… じゃ、大きな声で答えて頂戴。スケベな牝犬さんは、この大きなエサの塊をどこへ入れてもらいたいのかしら?」
「…… おまんこぉ!…… おまんこですぅ!…… お願いです、おまんこに入れてくださいぃぃ!……」
「わかったわ。じゃ、お望み通り、そっちのお口に入れてあげる。…… いっぱいあげるから感謝するのよ、スケベな牝犬さん。」
亜希はそう言って、左手で捻った恵美子の髪を掴んだまま、股間に手を遣り、黒いディルドゥの根元の部分に宛がうと、その先を恵美子の秘唇の中に差し込み、ぐっと腰を前に出した。自分の中にとてつもなく大きな異物が挿入される感覚に、恵美子はわずかに身体を丸め、力のない悲鳴を上げた。
亜希が、妖しく瞳を輝かせて、腰を前後に揺らすと、強いられた快感が恵美子の身体を昂ぶらせ始めた。恵美子の悲鳴は徐々に喘ぎ声に変わり、黒く光るディルドゥを伝って、恵美子の蜜の雫がキャンバスの上に滴り落ち始めた。
やがて絶叫に近い声を上げた恵美子の動きは一瞬だけ止まったが、すぐに恵美子は全身を震わせ始めた。
「あっはっは。いっちゃったのね。…… おいしかったでしょ? じゃ、おかわりをどうぞ。遠慮なく召し上がってね。スケベな牝犬さん。」
少しの間だけ腰の動きを止めていた亜希は、そう言うと再び激しく腰を動かし始めた。
恵美子が股間にエサを咥え込んだまま、三度目の絶頂を迎えようとしている頃には、恵美子の理性は完全に吹き飛び、恵美子は涎を垂れ流したままよがり声を洩らし続けるだけになってしまっていた。恵美子の腰に両手を掛けて、亜希は大きなストロークで、恵美子の秘口にディルドゥをめり込ませ続けると、やがて恵美子は獣のような叫び声を上げた。
亜希が腰を大きく後ろに引くと、恵美子の中を暴れ狂った太く長いディルドゥが、じゅぷっという小さな音と共に恵美子の身体から引き抜かれた。それは恵美子の蜜にまみれ、カクテルライトを浴びてキラキラと光っていた。
余りに屈辱的な敗北、そして勝者となった亜希の情け容赦のない責めによって極度に疲弊していた恵美子の精神は、三度目の絶頂に於いて完全に崩壊してしまっていた。
恵美子は薄目を開けたまま気を失い、激しく痙攣し始めた。
小一時間前まで女王として君臨していたとは思えないほど、無様な姿でリングに横たわる恵美子の横で、亜希は立ち上がった。亜希はしばらくの間、痙攣する恵美子の姿を眺めていたが、恵美子がすでに失神していることが分かると、亜希は使用済みのステージ衣装を脱ぎ、恵美子の蜜に濡れそぼっているディルドゥを恵美子の口の中に捩じ込んだあと、青コーナーへと歩み寄り、キャンバスの上に落ちていたエメラルドグリーンのトランクスとビキニボトムを拾い上げ、パトロンたちの席へと放り投げた。
そして、ロープの反対側に佇んでいる晴子に向かって少し元気のない微笑を向けたあと、亜希はロープをくぐり、無言のままリングを降りていった。
恵美子への復讐を遂げた亜希は、東京に残っている間、頻繁に麻耶のジムを訪れ、ボクササイズエリアの真新しいサンドバッグに拳をぶつけていた。
そんな亜希の姿を何度か目にした麻耶は、空いた時間を見つけては亜希に技術的なアドバイスを与え、さらに何度かスパーリングパートナーを務めた。格闘家として女性の身体を知り尽くした麻耶の手ほどきを受け、ボクサーとしての亜希の実力は短期間の間に飛躍的に伸びた。
麻耶と親交を深め、ボクシングへの情熱をより一層募らせていった亜希の心に、「プロボクサーとしてリングに立ちたい。プロになって、自分の力を試してみたい。」という感情が湧き上がってきた。
そんな亜希を後押しするように、麻耶は亜希に、スポーツジムの従業員として働く一方でプロ選手としてデビューしてみないか、もしそのつもりがあるのであれば、今以上に設備を充実させ、プロ志向の女性のためのボクシングジムを新しい部門として設けても良い、是非その第一号の選手としてあなたを迎え入れたい、と亜希に持ちかけた。亜希はしばらく悩んだ末に、プロボクサーになる意思を固めた。
夏休みが終わりに近づき、一旦地元に帰った亜希は、六年以上に渡って通い詰めてきた小さなボクシングジムを訪れ、自分の意思をジムの会長に打ち明けた。亜希の意思を聞き届けたジムの会長は、「プロになる亜希ちゃんの面倒を、伝説の闘神であり、国内最大のスポーツ・ジム・チェーンのオーナーでもある氷川麻耶が見てくれると言うのなら、私にはまったく依存はない。試合だってちゃんと組んでもらえるだろうし、むしろこちらからお願いしたいぐらいだ。」と快く亜希を送り出すことを確約した。
女子大を卒業し、再び上京した亜希は、晴れて麻耶のボクシングジムに身を投じることになった。
何の問題もなくプロテストをパスした亜希は、間もなく麻耶のプロデュースした女子ボクシングのイベントに出場して、デビュー戦を鮮やかな一ラウンドKOで飾った。万が一であっても、姉が殴り倒される姿を絶対に見たくないと思っていた真希は、「学校の用事でどうしても抜けられない」ことを口実に、亜希の試合会場に行くことを拒んでいたが、亜希が試合後にほぼ無傷でKO勝ちしたことを直接携帯電話で真希に告げると、真希は素直に喜び、亜希を祝福した。
試合が終わってジムに戻り、ボクササイズエリアのリングのすぐそばで行われた、身内だけの簡単な祝勝会を終えた後も、亜希は、プロボクサーとしてリングに上がり、完全勝利したことの余韻に興奮を抑え切れなかった。麻耶もまた、己の見出した、美貌と才能に満ち溢れた娘がスポットライトの下で躍動するさまを目にすることで、身体に疼きを覚えるほどの感覚に囚われたままだった。
麻耶の音頭で祝勝会はお開きとなり、麻耶は亜希を自宅に送り届けるために、晴子に車を用意するように頼んだ。晴子が祝勝会の席を離れてからしばらくすると、後片付けを始めた数人のスタッフを残し、麻耶は亜希を連れ立ってジムの駐車場へと向かった。
晴子が用意したジム所有の高級車が動き出すと、後部座席に麻耶と並んで座った亜希に、麻耶は優しい声を掛けた。
「亜希さん、今日の試合、本当に素晴らしかったわ。…… 私、少し興奮しちゃった。」
「ありがとうございます、オーナー。これもみんなオーナーのお陰です。」
「そんなことないわ。あなたの持って生まれた才能と、高校時代から続けてきた努力が今日実を結んだのよ。……
あなたはもっと自分の才能に自身を持つべきよ。あなたなら日本タイトル、いや世界だって夢じゃない。……
私がもっともっと鍛えてあげる。…… 世界の頂点に立つ、その日まで、私と一緒に頑張りましょう。ね、亜希さん。」
麻耶がそう言い終わると、それまで麻耶の顔を見つめていた亜希は、少しの間うっとりとした表情を作り、やがてコクリと頷いた。
麻耶も亜希の顔を見つめていた。この娘は私の宝、麻耶にはそう思えた。
麻耶に返事をしたあと、亜希は少しぼんやりとした視線を麻耶に向けていたが、亜希のその表情は、麻耶の本能を刺激した。麻耶は亜希を軽く抱き寄せ、亜希の唇へと顔を近づけていった。亜希には、麻耶のそんな気配が感じられたが、不思議とそれを拒む気持ちは湧いてこなかった。試合が終わったあとの興奮と心地良い疲れは、既に亜希の自制心を溶かし始めていた。
亜希は、更に陶酔したような表情になり、やがて顎をわずかに上げ、近づいてくる麻耶の顔に、半開きになった口を向けた。そして、麻耶は静かに、亜希の唇に自分の唇を重ね合わせた。
後部座席の二人の様子をバックミラー越しに眺め見ていた晴子は、クスリと笑い、やがて口を開いた。
「オーナー、今夜は亜希さんと一緒に過ごされますか? でしたら、オーナーのマンションに直接向かいますが。」
「それもいいわね。じゃ、そうしようかしら。…… 亜希さん、そうなさる?」
神として尊敬していた麻耶とのくちづけの余韻に酔いしれていた亜希は、もう身体の芯まで麻耶の魅力に堕ちてしまっていた。麻耶の問いかけに答えることもできずにいた亜希は、麻耶との一夜をねだるように、脱力した身体を麻耶に摺り寄せた。
晴子は再びクスリと笑い、直進する予定だった十字路の手前で走行車線を左に変え、ウインカーを点滅させた。
「女王と仔猫」 了