氷川麻耶。
彼女は、伝説のレスラー。
いや、女子レスリング界、女子ボクシング界にとって、
彼女は「神」だった。
高校時代から、彼女は女子アマチュアレスリング界の至宝として崇められていた。
日本人離れした百八十センチに近い体躯は、肉体派女優と見紛わんばかりのメリハリに満ち、映画スターとしても充分通用するような美貌は、多くのファンの心を強く掴んで離さなかった。
それに何より、彼女は強かった。
国内はもとより、世界レベルに於いても、彼女は一度たりとも負けなかった。日本代表選手として出場した女子アマチュアレスリング世界選手権でも、参加したすべての大会で、彼女は相手を一人残らずフォールし、黄金色のメダルを日本に持ち帰った。
二十四歳の時にプロレスラーへと転身して世間をあっと驚かせた彼女は、プロのリングにあっても一切の反則技を使わず、自分より遥かに身体の大きい選手をことごとく打ち破っていった。三年間のプロレスラー生活を終える頃には、彼女は考えうるすべてのチャンピオンベルトを手にしていた。
彼女がプロレスラーとしての引退を間近に控えた頃、ある事件が起こった。彼女の所属している団体が異種格闘技戦を企画したとき、彼女は「世界レベルのボクサーと、ボクシングで真剣勝負がしたい。」と申し出た。国内には麻耶と同じ重量クラスの選手が見つからなかったため、プロモーターは、彼女と同じ重量クラスの、一人の世界ランカーを選んだ。
日本の報道メディアの関係者すべてが、この試合を「無謀な挑戦」であると見ていた。しかし、純粋なボクシングルールで行われた試合であったにもかかわらず、彼女は周囲の認識をあっさりと覆し、一方的に相手の世界ランカーを打ちまくり、五ラウンドの後にキャンバスに沈めてしまった。
相手の世界ランカーは、試合後のインタビューにこう答えている。
「私は今日の試合に向けて真剣に調整を続けてきた。麻耶のトレーニングしている映像を見てみたが、一目で観光気分で闘える相手ではないとわかったからだ。もちろん、私は今日の試合で一切の手抜きを行っていない。私は今日、自分の持てる力をすべて使い切って麻耶と闘い、そして屠られた。麻耶が今の時点で世界チャンピオンに挑戦する資質を充分に持っていることを、私は確信する。」
この日、氷川麻耶は、「史上最強のレスラー」から、「闘いの女神」へと昇華した。
麻耶は齢四十を迎えてもなお、現役選手の頃とまったく変わらない、美しく磨かれ、鍛えられた肉体を保っていた。美貌の方は、僅かに色褪せた感は否めないものの、常ににこやかな笑顔を湛えた麻耶の顔つきは、二十代であると言っても何ら不自然さを感じさせないほど、若々しさに満ちていた。
麻耶の肩書きは、「氷川麻耶・レディース・スポーツ・ジム」のオーナーとなっていた。
麻耶の発案により、インストラクター、メディカルスタッフ、事務スタッフに至るまで、一人残らず女性のみによる運営を経営戦略として掲げた麻耶のジムは、世の多くの女性から支持を集めた。
麻耶のビジネスは当初から軌道に乗り、あっという間に国内最大級の会員制スポーツジムチェーンへと成長していった。体力維持、体力アップを目的に通っている女性から、国内トップレベルの女性アスリートの育成までをも対象とした、女性限定の総合スポーツジム。それが麻耶がオーナーを務める、「氷川麻耶・レディース・スポーツ・ジム」だった。
都内某所にある八階建ての洒落たビルが、麻耶のビジネスの「本丸」になっていた。地下一階のスイミングプールから、八階にある麻耶の個人オフィス兼オーナー執務室まで、麻耶のジムがこのビル全体を占有していた。フランチャイズの中でも、もっとも充実した設備を誇るこのジムには、午前七時のオープンと共に連日多くの女性会員が訪れ、皆が心地良い汗を流していた。
麻耶の心の中に潜む、邪な嗜好に気付く者は少ない。そして、このビルの地下にあるプールの、さらに下の階層に、通常のルートでは辿り着くことができない、特別なスペースがあることを知る人物も、それほど多くない。
一般の会員から完全に切り離されたスペースであるとは到底思えない豪華な設備。床にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、座り心地の良さそうな椅子が数多く並べられていた。そして、ホテルのパーティールームにも見える、そのスペースの中央には、三本の黒いロープに囲まれた、漆黒のリングが鎮座していた。
氷川麻耶・ファイトクラブ。
週に一度、『パトロン』と呼ばれる限られた招待客と、厳選された美しい競技者たちだけが共有する、閉じた空間。
そのリングの上で、美しい競技者たちは、勝者と敗者の二つに分かれる。
勝者には、心ゆくまで敗者を責める権利が与えられる。
敗者には、勝者に絶対服従を誓い、勝者の責めに悶え苦しむ義務が課せられる。
延々と続く勝者の責めに、震え、泣き、喘ぐ敗者。
そして、勝者と敗者の構図に酔いしれるパトロンたち。
それが、氷川麻耶・ファイトクラブなのだ。