Prologue




 私は負けない。




 私は、誇り高きブラック・リリー。

 同じ相手に二度続けて負けることなど、絶対に許されない。



 黒いグローブと黒いトランクスを身につけた娘が、うつ伏せに倒れていた。

 動かない身体と黒いキャンバスの間に挟まれ、歪んだ大きな乳房の横には、娘の左手が、掌側を上にして、力なく伸ばされていた。もう片方の腕と両脚も、だらしなくキャンバスの上に投げ出されていた。


 娘の顔も、べったりと右の頬に押し付けられた黒いキャンバスによって、歪んでいた。

 娘の右目は、盛り上がった頬の肉によって閉じられ、残された左目も、大きく腫れ上がった瞼によって、塞がりつつあった。

 娘に残されたわずかな視界、そこには、ほんの今しがたまで、娘の口の中に収められていた、黒いマウスピースが映っていた。


 娘の視界に、二つの手が入り込んできた。片手の五指が開かれ、もう片方の手は、人差し指だけが伸ばされて、立てられた指の数が、娘に「6」を示していた。

 二つの手は、一度娘の視界から消え、再び現われた。人差し指だけが伸ばされていた方の手は、新たに中指が伸ばされて、また一秒、娘に残された時間が失われたことを告げていた。


    ……………… 立たなくちゃ。……………………


 娘の想いとは裏腹に、娘の身体は動かなかった。

 腕、脚はおろか、グローブの中に収められている指の一本すら、娘には動かすことができなかった。

 それでも娘は、かすかに残っている意識の中で、自らを奮い立たせていた。


 私は、誇り高きブラック・リリー。………

 私は負けない。………















女園四峰シリーズ 第五話


Dreams come true






 潤子と百合、二人の関係は、『裏のリング』での試合以来、日を追うごとに深いものになっていった。

 通っている園が違うこともあって、顔を合わせて話をする機会はほとんどなかったが、時折電話で交わす会話からは、百合のお嬢様のような口調は消え、二十歳の学生同士の、本当に普通の言葉で潤子と話し合えるようになった。


 二人が固い絆で結ばれてから、ひと月半がたった。

 この日は、二週間後に行われる学年末対抗戦のプログラムが届けられることになっていた。潤子は、凛花ボクシング部の練習場で、十数人の部員と一緒にプログラムの到着を心待ちにしていた。

 潤子は、百合と対抗戦のリングの上で闘えることを、密かに願っていた。

 早く対戦スケジュールが見たい。…… 自分の名前の横に、百合の名前が書いてありますように。

「プログラム届きました。」

 潤子の同級生で、同じボクシング部員の久美子が、藁色の紙に包まれた学年末対抗戦のプログラムを携えて、練習場の中に入ってきた。部員達は、練習の手を休めて、久美子が持ち込んだ紙包みの回りに集まってきた。包み紙を破った三年生部員からプログラムを手渡されると、潤子はすぐに対戦スケジュールのページをめくっていった。

 六日間の日程の五日目に、潤子の試合は組まれていた。同じページに百合の名前も見つかったが、潤子と百合の名前は、同じ行には書かれていなかった。

 潤子は、深い溜め息をついた。




 「黒川さんと闘いたかったみたいね、潤子。」

 潤子が自分に掛けられた声の方を見遣ると、潤子の手に持っているプログラムを覗き込んでいた玲奈が、潤子の顔に視線を向けた。潤子は玲奈の問いかけに、素直に答えた。

「はい。その通りです。……… 残念ですけど、しかたないですね。」

 潤子は、『裏のリング』で百合と闘ったあと、百合との間に深い友情関係が結ばれたことを、玲奈に話していた。それ以来、玲奈は、潤子と百合との関係が日に日に深まっていくことを、潤子との会話の中に感じ取っていた。

 対抗戦を通じて、ボクシングを通じて、真の友人に巡り会う。……… もうすぐ卒園を迎える玲奈は、遥との出会いに思いを馳せた。

 対抗戦のデビュー戦でグローブを交え、自分のパンチを受けて、リングの上で失神してしまった遥。…… ボクシングの恐さと、素晴らしさを教えてくれた遥。…… 遥と出会えたことで、どれだけ学園生活が楽しかったことか。…… 今、潤子と百合もそんな関係になろうとしている。いや、自分と遥以上に、潤子と百合は強く結ばれつつある。……

 それは、後輩を思う玲奈にとって、大きな喜びであり、少しだけ羨ましくもあった。

「本当の友達に巡り会えたんだね。」

「はい。そう思います。」

 潤子の瞳は輝いていた。百合のことを、本当の友達だと呼べる自分が、とても誇らしかった。







 対抗戦で百合との対戦が叶わないことを知った潤子は、その日の練習を終え、寮の自室に戻った。

 そろそろ床に入ろうかと、ベッドの上に仰向けになった潤子の頭に、百合の顔が浮かんできた。

 百合と試合がしたい。………

 潤子は、ベッドから降りて、電話の受話器を手にした。


 四度のコール音のあと、受話器の向こうから百合の声が聞こえてきた。百合は、潤子からの電話であるとわかると、嬉しそうに声を弾ませた。

 少しの間、百合と他愛のないおしゃべりを続けたあと、潤子は対抗戦の組み合わせのことに話題を変えた。

「私、百合ちゃんと試合できるんじゃないかと思ってたのに。……」

「ああ、私もプログラム見たよ。…… 私も潤子と試合がしたかった。…… 残念だね。」

「…… うん。……」

 百合の声を聞いていると、百合と試合がしたいという感情が、さらに大きく潤子の中に膨れ上がった。対抗戦で初めて百合とグローブを交えたときのシーンが、潤子の頭の中に浮かんだ。それは、今まで潤子が闘ってきた、他の相手とはまったく別の世界。やるかやられるかが紙一重の、今思い出してもぞくぞくするような、素晴らしいファイトだった。

 潤子が、百合との試合へと想いを募らせているところへ、百合の声が入り込んできた。

「…… 私、やっぱり潤子と試合がしたい。…… 『裏のリング』でも構わないんだけどな。」

 そうだ。そんな手があったんだ。…… 百合と試合ができるのなら、それでもいい。

 胸をはだけることの恥ずかしさは、不思議と湧いてこなかった。むしろ、百合と闘うのならば、それが自然な姿なのではないか、とさえ潤子は思った。

「…… そうだね。…… それでもいいかな。じゃ、そうしようか?」

「えっ、いいの? 潤子は、本当にそれでいいの?」

 百合は、潤子があっさりと『裏のリング』で闘うことを肯定したことに、少し狼狽した。前の『裏のリング』の試合では、潤子はまったく上半身を晒すことを恥ずかしがる素振りを見せなかったが、それは、自分に対する憎しみが一時的にそうさせていただけで、そうでなければ潤子は絶対に否定するか、少なくとも躊躇はするはずだと、百合は考えていた。

「うん。百合ちゃんと試合ができるんだったら、私はそれでもいいよ。」

「…… 裸になるの、辛くない? …… 私はそれほどでもないんだけど …… 本当に、…… 本当に潤子もそれでいいの?」

「…… うん。」

「…… わかった。…… ありがとう。」

「…… 私、鞠子さんに相談してみるよ。もう百合ちゃんとは、あんまりドロドロした試合はしたくないから、ルールの契約のこととか、いろいろ訊いてみる。それでどうかな。」

「………… そう。…… じゃあ、お願いしちゃおうかな。詳しいことがわかったら、また連絡ちょうだいね。」

「うん。できるだけ早く連絡する。…… じゃあね。おやすみ、百合ちゃん。」







 翌日の夜、潤子は鞠子の電話番号をコールした。鞠子は、潤子からの電話であることを知ると、少し驚いた。

「…… 私、百合ちゃん …… 黒川さんと試合がしたいんです。…… もしかしたら、対抗戦でまた試合ができるんじゃないかと思ってました。昨日プログラムが届いたんですけど、違う人が相手でした。…… そのあと電話で百合ちゃんと話しました。…… 百合ちゃんも、私と試合がしたい、って言ってました。…… それで、鞠子さんに相談してみよう、っていうことになって、……」

 鞠子は、潤子と百合の間に、友情関係が芽生えていることを知っていた。それが、対抗戦での試合が叶わなかったことをお互いに残念がるほどまでになっていたのかと思うと、とても嬉しい気分になった。

「わかりました。できるだけのことはして差し上げたいのですが。…… でも、わたしがお手伝いすることになると、『裏のリング』で、ということになってしまいます。お話を聞く限り、お二人の試合の場としては、少しばかり不釣合いのような気もするのですが、それでもよろしいのでしょうか?」

「ええ。初めからそのつもりです。百合ちゃんと話しているときに思ったんですけど、百合ちゃんと試合ができるなら、肌を晒しても構わない、むしろその方が自然なのかな、って。…… ただ、それ以外は、できるだけ対抗戦に近い形で試合がしたい。…… いかがでしょう。何かお考えがあったら、教えていたいただきたいのですが。……」

 鞠子は、少しの間、考えを巡らせた。そして、「最終的な契約条件というわけにはいきませんが」と前置きした上で、考えうる契約オプションの中で、潤子と百合の闘いに最もふさわしいと思われるモデルを、潤子に提示した。


 コスチュームやグローブの大きさは、『裏のリング』の基準をそのまま適用する。

 どちらかがリングの上でテンカウントを聞くまでの完全KO決着。

 その他の試合環境は、基本的に対抗戦のルールと同じ。

 一ラウンド三分のインターバル一分。ただし、ラウンド数は無制限。

 レフェリーとセコンド一名を『裏のリング』が手配する。

 敗者のトランクス剥奪は行わない。

 試合の時期は、学年末の対抗戦から三週間ほどたったあとの、三月の終わりごろ。

 もし対抗戦でどちらかが試合に支障が出るようなダメージを負った場合は中止。


 鞠子が提示した試合の契約条件には、どちらかが立てなくなるまで闘い続けること、敗者に対する凌辱的な演出が取り除かれていることなど、潤子があらかじめイメージしていたものとほとんど同じ内容が盛り込まれていたので、潤子はとても満足した。同時に、これなら百合も納得できるはずだ、と潤子は思った。

 潤子は、鞠子に礼を言って電話を切り、すぐに百合と連絡を取った。潤子が思った通り、百合もこの試合条件を快諾した。

 電話を切る直前の、「試合が中止にならないように、対抗戦はお互い頑張ろうね。」 という百合の声は、嬉しさを隠し切れないとでもいうように、潤子には聞こえた。


 潤子と百合は、次に待っている試合に対する熱い想いを胸に抱いて対抗戦のリングに上がり、二人ともほとんどダメージを受けないまま、それぞれ早いラウンドでKO勝ちを収めた。

 百合よりも先に試合を終えて、観客席から百合の勝利を見届けた潤子は、「これで心置きなく百合ちゃんと闘える。」 と、素直に百合の勝利を喜んだ。







「…… 赤コーナー、三崎潤子!」

 先にコールを受けていた百合のときと同じように、大きな拍手がパーティールームの中に湧き起こった。

 潤子は、コールを受けると、四方の観客席に向かって頭を下げた。そして、この試合のセコンドを務める鞠子の方に身体を向けると、鞠子は、潤子が羽織っている白いローブのベルトに手を掛けた。

 百合は、青コーナーに佇み、黒いローブを脱ぎ終えようとしていた。


 潤子と百合の、『裏のリング』での二度目の対戦。

 この日も、前の試合のときと同じホテルのパーティールームが会場に充てられていた。黒いキャンバス、黒いロープはそのままだったが、いつもは金銀が使われているコーナーマットには、赤と青のカバーがかけられていた。「対抗戦に近い形で、試合を行いたい。」 という、二人の想いに対する配慮だった。

 二人が『裏のリング』で初めて闘ったときに世話人を務めていた女性が、この試合のレフェリーに指名されていた。彼女は、コールのあと、ローブを脱ぎ、ボクサーの姿になった二人をリングの中央に呼び寄せた。

「私は、この試合のレフェリングができることを、心から嬉しく想います。リングの上でレフェリングをするのは本当に久しぶりですが、精一杯務めさせていただきますので、よろしくお願いいたします。…… お二人が友情で強く結ばれたことは、聞いていますよ。どうぞこのリングの上で、お互いの想いを、力一杯相手にぶつけてくださいね。」

 潤子は、パールホワイトのグローブを胸の前に並べて、母親のような微笑を満面に浮かべているレフェリーの言葉を聞いていた。百合は黒いグローブをお臍のあたりに組んで、潤子と同じように、穏やかな表情を浮かべていた。

「では、ルールの確認をしましょう。この試合は、対抗戦と同じで、胸への攻撃、ベルトラインから下への攻撃は禁止です。それと、危険と判断した場合は途中で試合を止めますが、それ以外は、どちらかがテンカウントを聞くまで試合は続きます。ラウンド数の制限はありません。…… 素晴らしいファイトを期待しますよ。では、始めましょう。コーナーに戻ってください。」

 潤子と百合は、レフェリーに向かって小さく礼をしたあと、お互いの顔を見つめた。そして、にっこりと微笑んで頷き、それぞれのコーナーに向かって歩き始めた。

 首に大きな白いタオルを掛け、白のポロシャツと、裾広のスウェットパンツを身に付けた鞠子は、コーナーに戻った潤子を出迎え、声を掛けた。

「頑張りましょうね。私も、セコンドとして、できるだけのことをさせていただきますよ。」

「はい。頑張ります。よろしくお願いします。」

 潤子は元気良く答え、鞠子に礼をした。

 鞠子は微笑み、パールホワイトのマウスピースを差し出した。潤子は口を開いて、マウスピースを咥え込むと、百合の居る青コーナーに目を遣った。百合も、すでにマウスピースを受け取り、潤子の方に向き直っていた。

 『ラウンド・ワン』のアナウンスが流れると、再び大きな拍手が湧き上がった。その音を切り裂くように、心地良い金属音がパーティールームに鳴り響いた。

 二人は、瞳を輝かせてリングの中央に歩み寄り、左手のグローブを相手に向かって差し出した。パールホワイトと黒のグローブが軽く触れ合うと、二人は一歩ずつ後ろに下がり、ファイティングポーズを取った。そして、一瞬にして、眼光鋭いボクサーへと、その表情を変えた。







 ラウンド無制限であることを意識してか、前回の対戦と同様に、二人はお互いの動きを牽制するように、ジャブを放ちながら、足を使って試合を進めていった。

 しかし、ラウンドを重ねるに連れて、試合は徐々に激しさを増していった。ジャブのあとにストレートが放たれるようになり、接近してボディから顔面へのコンビネーションブロー、極めて高度な、そしてクリンチの少ないクリーンなファイトが展開された。観客席からは、ラウンドが終わるたびに、コーナーへ戻る二人に惜しみない拍手が送られた。

 試合の均衡は六ラウンドほど続いたが、そのあと、少しずつ潤子が押し始めた。ラウンドの数が両手の指で数え切れない頃になると、ダウンこそしないものの、百合の足は止まり、ロープに詰まることが多くなった。

 迎えた第十四ラウンド、極度に手数が落ちてしまった百合は、ロープを背にして、潤子のラッシュを受けた。ボディへ、ガードの落ちかけている顔面へ、潤子のパンチが容赦なく打ち込まれた。そして、テンプルに痛打を食らい、よろけた百合のアゴに、潤子の右フックが飛んだ。百合は耐え切れずにキャンバスに両手をついた。

 立ち上がった百合に、潤子は再びラッシュを掛けた。十発ほどの連打を百合が浴びたとき、ゴングが鳴った。百合は、セコンドに抱きかかえられるまで、その場から歩き出すことができなかった。潤子もラッシュを掛けたことで激しく消耗し、鞠子に抱きかかえられて赤コーナーへ戻っていった。

 第十五ラウンド開始のゴングが鳴っても、二人はすぐにコーナーを離れることができなくなるほどにまで衰弱していた。それでも潤子には、百合に向かって歩み寄る余裕があった。百合は、数歩前に歩き出したが、潤子との距離が詰まると、ガードを中途半端な位置に上げ、後退を始めた。

 すぐにロープに詰まってしまった百合のボディに、潤子のフックがめり込んだ。百合の口から、「ぁう」という声が洩れた。限界に近づいている百合には、ガードを上げたままボディブローに耐えることができなかった。百合は少し身体を丸めて、グローブを顔の位置まで戻そうとしたが、それより先に潤子のフックが百合の顔面を捉えた。

 百合の動きが完全に止まった。潤子のパンチも、極度の疲れから、鋭さのないものになっていたが、棒立ちになってしまった百合を捕らえるにはそれでも充分だった。ガードを戻せない百合の顔に、潤子のパンチがヒットし続けた。

 膝を折り、背にしたロープからずり落ちるように、百合は再び、キャンバスに腰を落とした。







「ダウン。…… ワン、…… トゥー、…… スリー、……」

 二度目のダウン。…… 左手の黒いグローブでロープを掴み、百合は必死に膝を伸ばした。

「…… セブン、…… エイト、……」

 百合の闘争心は、キャンバスに身を横たえる誘惑に、何とか打ち克った。

 百合は、両手を胸の前に構え、レフェリーの顔を見つめた。

 カウントをナインで止めたレフェリーの女性は、百合の表情が失われていないことを確認すると、小さく頷き、ニュートラルコーナーで気だるそうに上段ロープに腕を伸ばしている潤子にも目を遣り、「ボックス」を宣言した。


 潤子のパールホワイトのグローブが、また百合に向かって放たれた。百合には、そのパンチが、自分に向かってゆっくり近づいてくるように思えた。しかし、百合には、身体を屈めることも、腕を上げることもできなかった。

 百合の頬が押し潰され、視界が歪んだ。

 後ろに傾いた百合の身体は、ロープに跳ね返り、再びゆっくりと潤子の方に動いた。

 百合の目に、またパールホワイトのグローブが近づいてくるのが見えた。そして、何分の一秒かの後、それは再び百合の頬にめり込んだ。

 百合の膝が折れ、百合は、みたびキャンバスへと崩れ落ちていった。

 百合の頭が、キャンバスで小さく弾むと、百合の口から黒いマウスピースがこぼれ落ち、目の前に転がった。

 百合は、黒いキャンバスの上に、うつ伏せにその身を横たえた。

 意識のかけらが、キャンバスに寝転がっている無様な自分の有様を百合に伝えていた。

 立ち上がろうとしても、百合には、もう指の先さえ動かすことができなかった。…… それでも百合は、薄れていく意識の中で、自らに言い聞かせていた。


 私は、誇り高きブラック・リリー。………

 私は、負けない。………


 試合終了のゴングが乱打されたが、百合の耳には届かなかった。

 キャンバスに崩れ落ちたそのままの格好で、敗戦に至るカウントを二つ残したまま、百合は気を失ってしまっていた。







 試合終了のゴングが鳴ったと同時に、ニュートラルコーナーに控えていた潤子も、その場にへたり込んでしまった。試合の緊張感が、極度に疲労していた潤子の身体を支え、動かしていたものの、試合が終わったという事実がその緊張感を奪うと、潤子は、立っていることさえできなくなった。

 鞠子は、潤子に駆け寄り、気だるそうに口を開けた潤子からマウスピースを抜き取り、肩に掛けた大きな白いタオルを、潤子の上半身が隠れるように置いた。

 潤子の視線の先では、百合が仰向けにされて、リングドクターのチェックを受けていた。潤子の心の中には、百合の身体を案じる気持ちがいっぱいに広がっていたが、潤子は疲れ切った身体を、ニュートラルコーナーから動かすことができなかった。

 まもなく、百合は担架に乗せられ、黒いリングを後にした。リングを去る百合には、あたたかい拍手が送られた。キャンバスに腰を下ろしていた潤子には、心配そうな表情を向けて、百合を見送ることしかできなかった。

 しばらくたって、潤子は鞠子に抱きかかえられ、やっと立ち上がった。そして、四方の観客に頭を下げると、試合前に纏っていたローブの袖に両腕を通し、再び鞠子に抱えられるようにしてリングを降りた。

 百合と同様に、リングを降りていく潤子にも、いつまでも惜しみない拍手が送られていた。



 この日の控室は、前の試合のときのような豪華な部屋ではなく、ごくごく一般的な、普通の客室だった。対抗戦の気分で闘いたいので、むしろ質素な部屋の方がいい、と、潤子も百合もあらかじめ願い出ていた。

 何とか控室に辿り着いた潤子は、鞠子の手で、ベッドの上に横たえられた。疲れ切った潤子を気遣っているのか、鞠子は穏やかな表情をたたえたまま、潤子に何も話し掛けることなく、潤子のシューズを脱がし、グローブを外し、バンデージに鋏を入れていった。

 ほどなく、部屋のドアをノックする音が聞こえ、白衣を纏ったリングドクターの女性が部屋に通された。彼女は、ベッドに横たわっている潤子の身体の状態を、手際よくチェックしていった。

「うん、潤子さんも大丈夫ですね。」

 チェックを終えたリングドクターの言葉に、潤子は反応した。彼女は、「潤子さん、も、」と言った。

 潤子は、リングを降りてから、初めて口を開いた。

「先生、百合ちゃんは、…… 百合ちゃんは大丈夫なんですね。」

「ええ、大丈夫ですよ。安心してくださいね。リングの上で失神してしまったほどですから、明日、念のためにもう一度様子を見に行きますが、今のところは大きなケガはしていないと思います。」

 リングドクターが、にっこりと微笑んでそう言うと、潤子は、「良かった。」 と呟き、安堵の溜め息を洩らした。


 リングドクターの女性が退室したあと、潤子はベッドの上で目を閉じ、疲れ切った身体を休めていた。

 少しだけ眠くなってきた、と感じたとき、潤子は、自分のそばで小さな物音がすることに気付いた。潤子がその音の方に視線を向けると、鞠子が潤子の荷物をまとめている様子が目に入った。

 潤子が鞠子に礼を言おうとすると、荷造りを終えた鞠子は、潤子に笑顔を向けた。

「さ、百合さんの部屋へ行きましょ。百合さんの部屋に、もう一つベッドを用意しておきましたよ。私たちが、あなたがたにしてあげられるのはこのくらいなの。今夜は百合さんのそばでお休みなさい。ね。」


 眠気も、疲れも、一瞬で吹き飛んだ。

 百合に会いたい。…… 早く、百合に会いたい。







 潤子が使っていた部屋の、はす向かいにある部屋のドアを、鞠子が小さくノックすると、三十年配の女性が静かにドアを開けた。潤子と百合が初めて『裏のリング』で闘ったときに、百合のお付きを務めていた女性、そしてこの夜は、百合のセコンドについていた女性だった。

 彼女は、鞠子の後ろに佇んでいる潤子の姿を目にすると、にっこりと微笑み、小さな声で潤子に話し掛けた。

「さ、お部屋の中へどうそ。簡単なベッドですが、お使いくださいね。…… 百合さんは、もうお休みになっています。ですから、お話できるのは、明日の朝になってしまいますね。…… 私と鞠子さんは、あなたが使っていたお部屋で待機しています。何かありましたら、内線電話でも、直接でもいいですから、お知らせください。…… では、私はこれで。」

 百合のお付きの女性は、潤子を部屋の中へ招き入れると、潤子の横をすり抜けて、部屋の外でドアを閉めた。潤子はドアに向かって小さく一礼すると、部屋の方に向き直った。

 仄暗い明かりの中に、潤子に背を向けてベッドに横たわる百合の姿が、潤子の目に入った。

 潤子が百合に近づくと、百合の小さな寝息が聞こえた。潤子は、少しの間、百合の姿を見つめていたが、やがて、自分のために用意された移動式のベッドに身を横たえた。

 目を閉じると、心地良い眠気がやってきた。潤子は、「おやすみ。百合ちゃん。」 とつぶやき、そのまま深い眠りに落ちていった。



 潤子が目覚めると、昨夜と同じリングドクターが、潤子に背を向けて立ち、百合の身体をチェックしていた。潤子が、ベッドから身を起こして、その様子を眺めていると、やがて、リングドクターは百合のそばを離れ、二人の顔が見える位置へと移動して、にっこりと微笑んだ。

「少しだけ心配しましたが、もう大丈夫。疲れが癒えたら元通りの身体に戻りますよ。…… 本当に素晴らしい試合でした。リングドクターを務めさせていただいたこと、とても光栄に思います。お二人の試合は、これからも対抗戦のリングの上で、何度か目にすることができるでしょう。そのときに、またリングドクターとして立ち会えることを、私は切に望みます。…… では、今日はこれで失礼いたします。ゆっくりお休みになってくださいね。」

 潤子は、気恥ずかしさに少しだけ頬を染めて、リングドクターに一礼した。百合もベッドに横たわったままであったが、彼女に対する感謝の意を込めて、頷いた。


 リングドクターが部屋を離れ、再び潤子と百合、二人だけが部屋に残された。

 潤子はベッドから抜け出して、部屋の中にあった椅子を百合のベッドのすぐ横に置いた。百合は、潤子が椅子に腰を下ろすと、潤子の目を見つめ、口を開いた。

「また負けちゃった。…… 潤子、強いんだね。」

「ううん、昨日は少しだけ私の方が運が良かっただけ。…… 百合ちゃんも強かったよ。」

「そんなことない。今の私じゃ、潤子には敵わないんだ。…… 私、頑張るよ。今度は潤子に負けないように、一生懸命練習する。…… また試合しようね。」

「うん。私も百合ちゃんに負けないように、頑張るよ。」

 潤子が小指だけを伸ばした右手を百合の顔の前に差し出すと、微笑んだ百合は、潤子の小指に自分の右手の小指を絡めてきた。

 再戦の約束。また一つ、潤子と百合の絆が紡がれた。



 春休みが終わり、初めて三年生として登園した日、百合は、レスリング部長に宛てて退部届を提出した。


 それは、レスリングとの訣別。

 一度たりとも負けを経験することのなかった、レスリングとの永遠の別れ。


 百合は、残りの人生すべてを、ボクシングだけに捧げることを決めていた。







 もともと、類稀なる運動能力を秘めていた百合は、ボクシングに専念することにより、どんどん実力をつけていった。そして、少しずつ潤子の能力を凌駕し始めた。

 潤子と百合は、三年の夏の対抗戦で顔を合わせた。このときは規定の六ラウンドを闘っても、どちらもダウンを奪うことができず、試合は引き分けに終わったが、過去三回の試合とは違って、どちらかというと百合の方が試合を押し気味に進めていた。


 続く秋季対抗戦、二人はそれぞれフェザー級の階級代表として出場し、一年前と同様、二人とも決勝に勝ち残った。

 この試合も百合が押し気味に試合を進めていたが、互いにダウンを奪うことができず、両者ゼロポイントのまま延長戦に突入した。しかし第十ラウンドが終わる頃には完全に一方的な展開になり、潤子はほとんど手を出せなくなってしまっていた。迎えた第十一ラウンド、コーナーに追い詰められた潤子は、百合の連打を浴びた。

 ガードが落ち、百合の連打を四発続けて顔に受けた潤子の前に、レフェリーが百合のパンチを遮るようにして割って入り、その場で試合を止めた。


 対抗戦のリングの上でグローブを交えることで、潤子と百合の絆は、より固く結ばれるようになった。お互いを良きライバルとして認め合うと同時に、普段は、同い年の娘として、相手をいつも思いやり、信頼し合う、無二の親友同士の関係になっていた。しかし、ひとたびリングに上がれば、いつでも持てるすべての力を相手にぶつけ、どんなことがあっても絶対に手を抜かない。それが親友であることの証であり、礼儀だった。


 潤子と百合の闘いは、その高度な技術と、激しさ、クリーンさで、見る者の心を打ち続けた。

 三年の学年末、四年の夏季対抗戦と、幹事園の担当者は、潤子と百合の試合をスケジュールに組み入れた。それは、二人にとって、願ってもないことだった。対抗戦のプログラムができ上がり、お互いの名前を自分の名前のすぐ横に見つけると、潤子も百合も、とても嬉しい気分になった。


 潤子と百合の実力差は、次第に開きつつあった。

 三年学年末の対抗戦、第五ラウンド、そして最終の第六ラウンドで、潤子は百合のラッシュを浴び、何度もダウン寸前にまで追い込まれた。何とかダウンをせずに耐え凌いで、引き分けに持ち込むのが精一杯だった。

 四年の夏季対抗戦では、ついに潤子は立ったまま試合終了のゴングを聞くことができなかった。四ラウンドまでは必死に踏ん張ったが、第五ラウンドに入ると、百合に一方的に打ちのめされ、キャンバスに這ったままテンカウントを聞いた。


 潤子は、百合との闘いを通して、百合が自分の手の届かない高みに上っていくことを感じ取っていた。しかし、それは潤子にとって、少しも落胆に値するものではなく、むしろ大きな喜びだった。

 百合のように強くなりたい。百合と対抗戦でいい試合がしたい。…… 凛花ボクシング部の練習場で日々汗を流す潤子の目の前には、いつでも百合の後ろ姿があった。それを追いかけることで、練習にも一層身が入り、潤子は充実した時間を送ることができた。







 そして迎えた、秋季対抗戦の最終日。

 リングの上には、三年連続で同じ顔合わせとなった、階級別代表トーナメントのフェザー級決勝に臨む、潤子と百合の姿があった。

 これが、園生としての、最後の試合になる。二人は、熱い想いを胸に、リングに上がった。


 潤子はこの日に備えて、激しい練習をこなしてきた。


 実力では、もう敵わない。それはわかっている。

 それでも、自分の力を、すべて百合にぶつけたい。

 力一杯闘って、百合に自分の存在を受け止めてもらいたい。


 夏休みのあと、そんな想いを込めて、潤子はサンドバッグを叩き続けてきた。


 潤子の想いは、積極性となって、試合に現われた。

 第一ラウンドから、激しくジャブをつつきながら、鋭いストレート、キレのいいフックを織り交ぜて、まったく臆することなく、潤子は百合に立ち向かった。百合も、そんな潤子の想いを受け止めるように、全力で応戦した。

 第三ラウンドの終盤、試合開始からアクセルを全開にして飛ばしてきた潤子に、そのツケが回ってきた。百合にもらったパンチのダメージに疲労が重なり、動きが鈍ってきた潤子のアゴに、百合の右フックが飛んだ。潤子は、堪らずにキャンバスに両手をついた。

 そのラウンドの残り時間を乗り切ったものの、もう潤子には、劣勢を挽回する力は残っていなかった。続く第四ラウンド、潤子は百合の連打を浴びてダウン。何とか立ち上がったが、再び襲い掛かった百合のラッシュに耐え切れず、顔面に強烈な連打を食らった潤子は、キャンバスへと崩れ落ちた。

 そして、背中をキャンバスにべったりとつけて、手足を投げ出したまま、潤子はテンカウントを聞いた。



 試合終了のゴングが鳴ってから、五分ほどが経過した。

 百合は、青コーナーに戻ってストゥールに腰を下ろしている潤子に歩み寄り、潤子を強く抱きしめた。

 潤子も、百合の首の回りに腕を巻きつけ、百合の頭を強く抱いた。

 二人は、対抗戦のリングへの別れを惜しむように、長い間、抱擁を続けた。







 対抗戦の決勝戦から一週間がたった。

 潤子と百合は、潤子の寮の部屋の中で、熱い紅茶の入った白いティーカップを手にして、穏やかな表情で向かい合っていた。


「…… ねえ、潤子はどうするの。卒園した後の進路、もう決めてる?」

「うーん。いろいろ考えたんだけど、選手としてリングに上がるのは、もうやめようと思うの。お姉ちゃん、ずいぶん良くなったけど、また病気が悪くなるかもしれない。まだ心配なんだ。…… 私がボクサーを続けることで、あまりお姉ちゃんに心配掛けたくないし、私の身体にもしものことがあるといけないから、現役の選手を続けるのは無理ね。」

「そうかぁ。…… ちょっと残念だなぁ。」

「…… でね、遥さんのところで、お世話になろうかと思って。」

「ああ、盛華館に通ってた人ね。確か、隣りの市のボクシングジムで、女子選手のトレーナーをしてるんだよね。」

「うん。まだ有望な選手は少ないけど、プロになりたいと思っている人が何人か入ってきたんで、手伝ってくれないか、って誘われたんだ。私、ボクシング好きだよ。選手は続けられないけど、卒園してからも、ボクシングに関係した仕事がしたかったんだ。遥さんには本当にお世話になったし、恩返しができればいいな。」

「そう、良かったじゃない。」

「うん。…… で、百合ちゃんはどうするの?」

「私? …… 私はね、……」

 百合は、そこで言葉を切った。手にしていたティーカップを受け皿の上に置き、百合は、視線を潤子から中空に移した。

 百合の瞳は、希望に満ち、輝いていた。

「…… アメリカに行く。…… アメリカに行ってプロボクサーになる。もう決めたんだ。…… アメリカに行って、プロになって、…… 世界チャンピオンを目指す。」

 百合の言葉に、潤子はにっこりと微笑んだ。

 潤子は、大きな夢を抱いている百合の姿を見て、心からの大きな喜びと、ほんの少しばかりの羨望に包まれていた。

「そうかぁ。…… 大丈夫。百合ちゃんなら、きっとチャンピオンになれるよ。タイトルマッチの時には、絶対に応援に行くからね。」

「うん。頑張るよ。潤子の目の前でチャンピオンベルトを腰に巻いて見せる。約束するよ。」







 アメリカに渡った百合は、園生の頃より一階級下に当たるバンタム級まで身体を絞り込み、デビュー戦を鮮やかな一ラウンドKOで飾った。持ち前の美貌と、女性としての美しさをまったく失わないまま鍛え上げられた身体、そして極めてクリーンなファイトで、百合はすぐに多くのファンを集めた。

 試合の話も、次から次へと舞い込んだ。その中には、「オリエンタル・ビューティ」のニックネームがついた百合のキャラクターに目を付けたと見られる、格上の選手が相手のマッチメイクの話も多かった。そんな状況にあっても、百合は、まったく臆することなく試合に臨み、周囲の予想を裏切って、次々と対戦相手をキャンバスに沈めていった。



 百合が日本を離れてから、二年半の月日が流れた。

 アメリカ国内のとある都市で、「レディース・ファイト・ナイト」と銘打たれた興行が行われた。メインイベントに、女子ボクシングの世界規模の団体であるWLBFの世界タイトルマッチが組まれたこの日のセミファイナル、百合は、いつものように、漆黒のリングコスチュームに身を包み、リングに上がった。

 この日の相手は、WLBFバンタム級一位の元王者。彼女は現チャンピオンにその座を奪われたあと、二度のKO勝利を収め、王座への返り咲きを狙っていた。対する百合も、プロボクサーとしてこなしてきた八試合すべてをKOで勝ち、この日までに、WLBF同級三位までランキングを上げていた。

 そして、この日の勝者には、世界タイトルへの指名挑戦権が与えられることになっていた。


 夢への階段を駆け上がっていく百合にとって、落日に向かっていく感のある元王者は、すでに何の障害にもならなかった。百合は、元チャンピオンを、試合開始直後から圧倒した。

 そして第三ラウンド、百合の連打の前に、元チャンピオンはキャンバスに長々と横たわった。


 ついに百合は、世界タイトルに挑戦する権利を掴み取った。

 夢の実現まで、あと一歩。………







 ついに、その日はやってきた。

 WLBF世界バンタム級タイトルマッチ。この試合は、女子ボクシングの世界タイトル戦としては珍しく、アメリカ東部のとあるカジノのホールで行われた。

 百合より二つ年上のチャンピオンの戦績は十七戦全勝で、このクラスの選手としては驚異的な、九割に近いKO率を誇っていた。チャンピオンベルトを四度に渡って防衛しているチャンピオンは、世界タイトルを手にした試合を含め、ここ七試合、いずれも相手を寄せ付けずにKOで下してきていて、美貌と強さを兼ね備えた最強のチャンピオンとして、人気の高い選手だった。対する百合も、ここまで九戦九勝九KOの完璧な戦績を残し、ランキング一位の、最強の挑戦者として、このタイトルマッチに臨んだ。

 無敗のチャンピオンに、これも無敗の、「オリエンタル・ビューティ」が挑む。男子のタイトル戦に比べると格段に人気が劣る女子の世界タイトルマッチが、この日のメインイベントであったにもかかわらず、会場には多くの観衆が詰めかけ、この試合がいかに注目を集めているのかを、如実に物語っていた。また、有料放映の対象にもなっていたこの試合は、女子の試合としては、過去最高の視聴者を集めた。

 この試合まで、百合は黒一色のリングコスチュームでリングに上がっていたが、世界タイトル初挑戦となるこの日、百合は新しいデザインのトランクスを身に付けていた。トップスとシューズは今までと同じ黒一色のものだったが、トランクスには、黒地にパールホワイトのベルトラインとサイドラインが入っていた。

 潤子と一緒にこの一戦を闘う。パールホワイトのラインには、そんな百合の想いが込められていた。



 八ラウンド制で行われたタイトルマッチは、序盤から百合のペースで進んだ。

 第四ラウンド、チャンピオンの顔に、百合の強烈な右フックがヒットし、チャンピオンはキャンバスに両手をついた。チャンピオンはすぐに立ち上がったが、このパンチで鼻の中を切り、大きな痛手を負った。ザ・ゴージャスというニックネームの通り、チャンピオンは、全身ゴールドの派手なリングコスチュームを身に付けていたが、その金色のトップスは、徐々に赤く染まり始めた。

 続く第五ラウンド、次の第六ラウンド、チャンピオンの動きは精彩を欠き、ロープに詰まるシーンや、クリンチに逃げるシーンが多くなってきた。そして第六ラウンドの終盤、チャンピオンは、百合のコンビネーションブローを浴びて、この試合二度目となるダウンを喫した。

 立ち上がったチャンピオンに、百合は再び連打を浴びせた。防戦一方になってしまったチャンピオンのガードの隙間を縫って、チャンピオンのアゴに、百合の右フックが炸裂した。チャンピオンは、みだびキャンバスに崩れ落ちた。

 立ち上がろうとするチャンピオンの様子は、前の二度のダウンとは、明らかに違っていた。ロープにグローブを掛けて、ようやくキャンバスから腰を上げた。カウントエイトでファイティングポーズを取ったチャンピオンの両膝は、内側を向いてがくがくと震えていた。口から半分はみ出したマウスピースの位置を直す余裕すらなかった。何とか精気を保っている瞳をレフェリーに向け、それを見たレフェリーが「ボックス」を宣言するのと同時に、第六ラウンド終了のゴングが鳴った。

 百合は、ゴングに救われ、セコンドに抱きかかえられて赤コーナーに戻っていくチャンピオンの後姿を、少しの間眺めたあと、青コーナーに向かって歩き出した。

 百合の目の前には、黒地の開襟シャツを身に付け、ロープを跨いで百合を出迎える、潤子の姿があった。







 百合は、この世界タイトルマッチを、どうしても潤子と一緒に闘いたかった。百合は、この試合が決まったあと、チーフセコンドを務めてもらっている女性に、ある依頼を持ちかけた。

「今度の世界タイトル戦で、日本にいる友人を、是非セコンドにつけてもらいたい。私が学生だった頃、この女性に負けたことで、今の私がある。彼女のそばで、彼女と一緒に、世界タイトルに挑みたい。」

 チーフセコンドの女性は、「心の支えになる人物がセコンドにつくことは、選手にとって大きなプラス」と考えていた。彼女は、百合の願いをその場で快諾し、潤子を三人目のセコンドとして迎えることを決めた。



 第七ラウンド開始のゴングが鳴り、百合は、チャンピオンに向かって、歩を進めた。

 インターバルが終わっても、チャンピオンが前のラウンドのダメージから回復できていないのは、誰の目にも明らかだった。ゴングが鳴ったあと、しぶしぶストゥールから腰を上げたようにすら見えるチャンピオンのファイティングポーズには、まったく迫力が感じられなかった。

 それでも百合は、憎らしいほど冷静に、チャンピオンに襲い掛かった。身体を振りながら近づいてきた百合に対して、チャンピオンは、最後の力を振り絞るように、何度かパンチを振ってきたが、百合は難なくこれをかわし、カウンター気味に、左フックをチャンピオンのアゴに見舞った。チャンピオンは、あっさりと腰から崩れ落ちた。

 チャンピオンは、その手からすり抜けようとしているチャンピオンベルトにすがるかのように、必死に立ち上がってきた。しかし、カウントナインで何とかファイティングポーズを取ったものの、膝を震わせながら、濁った瞳をレフェリーに向けるのが精一杯だった。

 もう、ラウンド終了のゴングに救われることもない。

 チャンピオンの世界タイトルは、もはや風前の灯となった。

 チャンピオンがレフェリーの言葉に頷くと、レフェリーは、百合がニュートラルコーナーで待機していることを確認し、「ボックス」を宣言した。

 そして、陥落寸前のチャンピオンに、百合は最後の攻撃を仕掛けた。


 ここまで来ても、百合は細心の注意を払っていた。百合は、まったくパンチを打つ気配が感じられないチャンピオンに近づくと、右肩を振ってフェイントをかけ、鈍く反応したチャンピオンのがら空きのボディに左フックを叩き込んだ。

 一瞬にしてチャンピオンのガードが顔から引き剥がされた。百合がチャンピオンの頬に左フックを打ち込むと、チャンピオンの顔が大きく捻じ曲がった。そして、体勢を崩したチャンピオンのアゴを百合の右アッパーが貫き、すべてが終わった。

 チャンピオンの口から弾き飛ばされたマウスピースが宙に舞い、チャンピオンの、まったくコントロールを失った身体が、キャンバスで弾んだ。

 レフェリーは、ロープの外に上半身をはみださせ、両手と両足を大きく広げて、仰向けに伸びているチャンピオンに向けて、カウントを始めることなく、即座に試合終了を宣言した。


 新しい世界チャンピオンの誕生を告げるゴングが打ち鳴らされた。

 その瞬間、真剣だった百合の表情が、試合が始まってから、初めて大きく緩んだ。

 百合は、リングの中に飛び込んできた潤子の姿を見つけると、潤子に抱きついた。

「潤子、やったよ! 私、チャンピオンになったよ!!」

「やったね、百合ちゃん!! おめでとう!!」

 潤子も百合を抱きしめた。潤子の瞳は、涙で潤んでいた。

 百合の目からも、涙がこぼれ落ちていた。





 Dreams come true …… 夢は実現する。

 卒園し、日本を離れる百合に、潤子はこの言葉を送った。

 アメリカに行って、世界チャンピオンを目指す。……… 大きな夢を抱いて海を渡った百合は、潤子の目の前で、それを実現させた。



























「明日は、玲奈も顔を出すって。ホントはどうしても今日ここへ来て、鞠子さんと会いたかったみたいだけどね。」

「下のお子さんの、幼稚園の入園式と重なっちゃったんじゃ、しょうがないわよね。…… 私たちはこれで失礼するわ。あとは二人だけで、ゆっくりお話ししてね。じゃ、また明日。」


 丸山遥、西園寺紘美、荻野鞠子の三人は、まだ木の匂いが残る、真新しいボクシングジムの練習場を後にした。

 練習場の中には、潤子と百合だけが残された。

 黒川百合レディースボクシングジムは、開場式を翌日に控えていた。



 百合は、世界タイトルを手に入れたあと、リターンマッチで前チャンピオンを五ラウンドで粉砕した。その後も、百合は、潤子との友情の証であるパールホワイトのラインが入った黒いトランクスを身に付け、挑戦者をことごとくキャンバスに沈めていった。計八回に渡る防衛戦をすべてKOで勝ち、十八戦十八勝十八KOの完璧なキャリアを残して、百合は無敗のまま、現役を退いた。

 現役引退を発表した百合には、多くの報道メディアや芸能プロダクションなどから、破格の待遇で声が掛かったが、百合はそれらをすべて断り、母園の市の近くにある、一回り大きい都市に、女性だけを対象にしたボクシングジムを開くことを決めた。

 潤子は、百合のジムに、チーフトレーナーとして迎えられていた。




 安達玲奈は、卒園後すぐに生涯の伴侶となる男性と出会い、結婚。すでに、女の子と男の子、二人の子宝に恵まれ、幸せな家庭を築いていた。上の女の子は、身体の丈夫な、健康な娘に育て上げて見せる、そして必ず、凛花に入園させる、と玲奈は心に誓っていた。

 紘美はトレーナーを兼任しながら、ジム全体のマネージメントを受け持つ形で、百合のジムの一員となることになった。遥も、トレーナーだけでなく、選手の安全管理、用具管理のスペシャリストとして、ジムの運営に参加することが決まっていた。

 百合は、鞠子にも、ジムのスタッフに参加してもらえるよう、強く希望したが、鞠子は、自分の素性が明るみに出て、ジムの名前に傷がつくことを危惧し、参加を固辞した。が、非公式な形で、アドバイザー的な役割をすることで、ジムの運営に協力することは快く承諾した。

 百合のジムは、潤子と遥が所属していたボクシングジムと提携し、女子部門をそっくりそのまま譲り受ける形でスタートすることになっていた。潤子と遥がすでに育て上げていた、国内ランキングトップテンに入っている二人の選手も、看板選手として、そのまま百合のジムに加わった。さらに、百合の、無敗のまま引退した元世界チャンピオンの肩書きを頼んで、多くの有望な新人選手が転籍してくることも決まっていた。






「こんな風に、第二の人生をスタートできるのも、みんな潤子のおかげよ。…… ありがとう。」

「そんなことないよ。私だって、百合ちゃんのおかげで、これからも、ボクシングのそばで生きていける。」

 二人は、黒い四本のロープに囲まれ、純白のキャンバスが敷かれたリングに向かって、練習場の床に並んで腰を下ろしていた。これまでに経験した、いろいろなことを思い出している、そんな表情が二人の顔に宿っていた。

「明日から、また忙しくなるわね。」

「うん。そうだね。」

「…… 潤子、…… 私と、スパーリングしてくれない?」

「えっ? 今から?」

「うん。…… これから先、もう潤子とは、スパーリングという形でさえ、グローブを交えることはできないと思うの。…… 多分、これが最後。…… 私、引退を決めたときから、最後にスパーリングをする相手は、潤子にするって決めていたの。潤子と最後にグローブを交えることで、現役のボクサーをやめて、ジムのオーナーとして生きていくことの、区切りをつけたいの。」

「百合ちゃん、……」

 潤子は、百合の顔を見つめた。百合も、潤子の瞳を見つめ返した。

 潤子の頭に、『裏のリング』で百合と対戦したあと、百合に、友達になってもらえないか、と言われたときのことが浮かんだ。……… あなたと良いお付き合いをすることで、わたくしは生まれ変わることができる。わたくしには、そんな気がするのです。……… 百合の言葉が思い出された。

 自分が、百合にどれだけの影響を与えたのかは、潤子にはわからなかった。ただ、自分と出会い、それをきっかけにして、ボクシングだけに精進することにより、百合は、世界チャンピオンになるという、大きな夢を実現させた。


 今、自分の大好きなボクシングが、周りにある。

 新しいジム。遥さん。紘美先輩。…… そして、百合。

 百合と友達になれて、本当に良かった、と潤子は思った。


「…… うん。そうしよう。…… 手加減はしないわよ、チャンピオン。」

「あはは、わかった。お手柔らかにお願いします。…… じゃ、準備しよっか。」



 練習場の隅には、チャンピオンベルトを腰に巻き、ファイティングポーズを取っている、百合の写真が飾られていた。写真の下の方には、百合のサインと、百合の直筆による、『Dreams come true』の文字が書き込まれていた。
















 四月。


 真新しいボクシングジムのリングの上で、二人の女性が、ヘッドギアと十六オンスのボクシンググローブを身につけて向かい合い、心地良い汗を流していた。




 空には、綺麗な三日月が浮かんでいた。


 ジムの目の前にある桜並木は、淡い月の光を浴びて、潤子と百合の新しい門出を祝うように、今まさに、満開の花を咲かせようとしていた。





「 Dreams come true 」  了








女園四峰シリーズは、これでひとまず完結です。

ご愛読、ありがとうございました。




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