女園四峰シリーズ 第四話


潤子vs百合/裏





Prologue


 秋季対抗戦最終日、凛花女子学園ボクシング部二年の三崎潤子(みさき・じゅんこ)は、雅ヶ丘女学園の代表で、潤子と同じ二年生の黒川百合(くろかわ・ゆり)との階級代表トーナメントフェザー級決勝に臨んだ。

 そして、一ポイントのビハインドを挽回するために、最終の第六ラウンドで無理なラッシュに出た結果、ついに力尽き、百合の反撃の前にキャンバスに崩れ落ちて、テンカウントを聞いた。


 試合後、会場を離れる前に、潤子は、医務室に詰めているドクターに挨拶をしてくると言い残し、凛花の選手に割り当てられた控室を離れていた。




Scene. 1


 潤子は、無言のまま、凛花の控室のドアを開けた。

 凛花のボクシング部長で四年生の安達玲奈(あだち・れいな)は、控室のドアが開く音を聞いた。そこには、瞳に闘志を宿しながらも、表情に暗い影を落としている潤子の姿があった。

 潤子が凛花の控室を出て行ったとき、玲奈の目には、潤子が敗戦の後遺症から完全に立ち直り、普段の明るい潤子に戻っているように映っていた。しかし、控室に戻ってきた潤子の様子は、控室を出て行く前とは明らかに違っていた。

 潤子が控室を離れている間に、何かがあった。原因が百合であることは、まず間違いないだろう。百合は、潤子の不在の間に凛花の控室を訪れ、潤子がいないことがわかると控室を出て行った。潤子が控室の外で百合と会い、そこで潤子の心境を大きく変えるできごとがあったに違いない、と玲奈は思った。

「どうしたの? 黒川さんと会ったんでしょう? 何があったの?」

 玲奈は、そう言って潤子の顔を覗き込んだ。同席していた、凛花の卒園生で、玲奈の前に凛花ボクシング部の部長を務めていた西園寺紘美(さいおんじ・ひろみ)も、当然潤子の変化に気付いた。紘美の顔からは微笑が消えていた。

 やがて、潤子は重い口を開いた。

「…… 黒川さんと、会いました。…… 私は、黒川さんと、再戦を約束しました。………」

 潤子の言葉だけを捉えれば、潤子がライバルと巡り会い、もう一度リングの上で闘うことを約束した、とも受け取れる。しかし、潤子の表情は、そんな青春ドラマの一ページのような状況ではないことを、はっきりと物語っていた。

 玲奈は、潤子の言葉を待っていた。百合との再戦の約束、それと潤子の表情。二つを繋ぐには、まだ潤子の言葉は不十分だった。

 潤子は、しばらくの間、黙ったまま俯いていた。そして、小さな声で、言った。

「…… 一ヵ月後、……… 『裏のリング』の上で。……………」



Scene. 2


 潤子の下に向けた視線の中に、玲奈の姿が入り込んできた。玲奈が、潤子の『裏のリング』という言葉を聞いて、その場に座り込んでしまったからだ。潤子は、しまった、と思った。

 玲奈の寮の部屋で、初めて『裏のリング』の話を聞いたとき、玲奈は、「私には、三崎さんの裸を晒す話についていくことができない。何も見なかった、何も聞かなかったことにしたい。」 と洩らし、泣き出してしまっていた。潤子はそれ以来、玲奈の前では、『裏のリング』のことを口に出さないように心掛けていた。しかし、この日は、あまりにも強烈な百合との会話のあとだっただけに、そのことまで頭が回らなかった。

 紘美は、玲奈を見つめたまま、立ち尽くしている潤子に、手招きするような仕草を向けた。

「三崎さん。…… ちょっと、……」

 紘美は、その場に座り込んだままの玲奈を残し、潤子を控室の外に連れ出した。そして、医務室に挨拶に行くといって控室を離れている間に何があったのか、詳しい話をしてくれるよう、潤子に頼んだ。

 潤子は、控室の中にいる玲奈に聞こえないように、小さな声で答えた。

「ドクターに挨拶を終えて、医務室の外に出ると、黒川さんが立っていました。黒川さんは、私に勝ったとは思っていない、近いうちに再戦をしたい、『裏のリング』の上でも構わない、と言いました。…… そして、夏の対抗戦で試合をした玲奈先輩を、私の目の前で愚弄しました。…… 私は、黒川さんが許せませんでした。……」

 紘美は、少し表情を険しくして、潤子の話を聞いていた。

「黒川さんは、自分は『裏のリング』では名の知れたレスラーだ、と言ってました。…… 黒川さんは、私が『裏のリング』で紘美先輩に負けた夜、私たちの試合の前に、レスリングの試合に出ていたのです。黒川さんは、私が紘美先輩に負けたときのことを、…… 私がリングの上で失禁してしまったことまで、全部知っていました。……… 私と黒川さんの名前を出すことで、たくさんのお客様に『裏のリング』に来ていただき、そこで私を散々に打ちのめす、…… 黒川さんは、そう言っていました。……」

 紘美は大きく溜め息をつくと、しばらくの間沈黙し、やがて口を開いた。

「そうだったの。…… わかった。できるだけ、あなたの力になってあげる。」



Scene. 3


 二人が控室の中に戻ると、玲奈はベッドの上に腰を掛け、俯いていた。

 玲奈が『裏のリング』にどんな想いを抱いているのか、紘美には何となくわかっていた。紘美は、玲奈の正面で片膝を立て、玲奈に声を掛けた。

「玲奈。このことは、もう忘れても構わないわ。私、三崎さんと、もう少しだけお話をしたいから、あなたはもうお家へ帰りなさい。」

 玲奈は、しばらくの間、俯いたままじっとしていた。そして、首を横に振った。

「私は、もう逃げたくありません。今年の春、初めて『裏のリング』の話があったとき、私は、三崎さんの身に降りかかろうとしている現実から、顔を背けてしまいました。私は、そのことを後悔しています。今度こそ、私も何かお手伝いをしてあげたい、何でもいい、私がお役に立てることがあったら、と思います。…… でも、……」

 玲奈の声は、だんだん涙声になってきていた。

「でも、私ができることを、私には見つけることができません。三崎さんのボクシングのレベルは、もう私の手の届かないところまで行ってしまっているんです。私には、三崎さんのスパーリングパートナーすら、もうまともに務めることができないんです。………」

 これだけ言うと、玲奈は洟をすすり上げ、黙ってしまった。

 紘美には、玲奈の心情が痛いほどわかった。紘美は、玲奈の肩を両手で強く掴んだ。玲奈は顔を上げ、紘美の目を見つめた。

「何言ってるの、玲奈。あなたはちゃんと、三崎さんの心の支えになってるじゃないの。あなたが、どれだけ三崎さんのことを大事に思っているのか、私には良くわかる。三崎さんにだって、ちゃんと伝わってるはずよ。今日の試合だって、三崎さんは、あなたがセコンドにつくことを望んでいたんでしょう? それが、何よりの証拠じゃないの。」

「紘美先輩、……」

「それと、私には、三崎さんの心の支えということ以外にも、あなたの力が必要になるような気がするの。ただ、ちゃんとした覚悟が必要よ。あなたがそれでもいいと言うのなら、話に加わっていただくわ。」

 紘美の言葉が終わったあと、玲奈はしばらく黙りこくっていたが、やがて、決心がついた、というように、玲奈は紘美の目を見つめて、口を開いた。

「わかりました。約束します。私にできることなら、何でもします。……… もう、どんなことがあっても、絶対に逃げません。」



Scene. 4


 三人は、紘美が携帯電話で呼んだタクシーに乗り込み、凛花の寮へ向かった。

 移動中に、玲奈は潤子を気遣い、当たり障りのない話題を選んで潤子に話しかけてみたが、潤子の反応は鈍かった。玲奈は潤子の心情を察知し、「今日はもう、ゆっくり休んでね。」という言葉を最後に、潤子に声をかけるのをやめた。運転手の横の席に座っていた紘美は、そんな二人のやりとりを聞きながら、潤子が『裏のリング』で百合と闘うに当たって、何をしておかなければならないか、を考えていた。

 車が寮に到着すると、潤子は自分の部屋に戻った。

 少しだけ元気を取り戻したように見える潤子を部屋まで見送ったあと、玲奈と紘美は、玲奈の部屋に入っていった。玲奈が、対抗戦の会場に持ち込んでいた荷物を片付け終わり、紘美のそばに戻ると、紘美は口を開いた。

「玲奈。あなた、『裏のリング』のこと、三崎さんから、何か聞いている?」

「いえ、何も。…… ただ、三崎さんが試合をしたことだけは、わかりました。あのお話があったときから、一週間ぐらいたった頃だと思うのですが、三崎さんの顔に、明らかに殴られた痕がありましたから。…… それ以外は、…… 裸で闘わなければならないということ以外は、何もわかりません。……」

「わかった。じゃ、『裏のリング』のこと、話しておくわ。『裏のリング』の試合は、どんなものなのか。三崎さんが、『裏のリング』で経験したことも。」

 紘美は、『裏のリング』で潤子が経験したことを、玲奈に語り始めた。

 相手が紘美自身だったこと。潤子が、ほとんど何もできないまま、紘美に負けたこと。胸が赤く腫れ上がるまで、潤子を嬲ったこと。潤子がリングの上で失神したこと。失神した潤子を踏みつけるようにして、勝者のポーズを取ったこと、…… そして、百合がその前に行われた試合に出ていて、潤子がリングの上で崩壊していくさまを、百合が見ていたこと。

 紘美は、少し迷ったが、真実を玲奈に伝えておいた方が良いと考え、潤子が失禁してしまったことも、すべて玲奈に聞かせた。

 玲奈は俯いたまま、目を閉じて、紘美の話を聞いていた。聞いているのが辛くてたまらない。そんな表情が、はっきりと玲奈の顔に表れていた。玲奈には、紘美の話が終わったときに、「そうでしたか。」 と言うのが精一杯だった。

 しばらくの間、重い沈黙が二人を包んだ。そして再び、紘美が口を開いた。

「今度の試合は、私と試合したときのようなわけにはいかないわ。もし負けてしまったら、肉体的にも、精神的にも、三崎さんはズタズタにされてしまうでしょう。三崎さんの、ボクサーとしてのキャリアが終わってしまう可能性だってある。だから、できるだけの準備をしておく必要があるわね。」

 玲奈は、悲しげな表情のまま、紘美の言葉に頷いた。

「『裏のリング』では、胸への打撃を認めている。だから、対抗戦のときとは違って、胸を自分で守らなければならないの。三崎さんは、今度の試合までに、その技術を身に付けておく必要がある。…… 玲奈、あなたに、その練習に一役買ってもらいたいの。」

「…………… はい。…… で、どうすればいいんですか? ……」

「三崎さんは、今日KOで負けたから、二週間後の最終検診が終わるまで、スパーリング禁止よね。今日の様子なら、禁止期間が延長になることはないと思うけど。でね、まず、それまでの間に、今度の黒川さんとの試合で、どうやって自分の胸をガードするのか、ちゃんと頭の中でイメージを作っておいてもらう。検診でOKが出たらリハーサルよ。玲奈、あなたにスパーリングパートナーをしてもらうわ。…… 三崎さんとのスパーリングで、あなたに、三崎さんの胸を狙い打ってもらう。……」



Scene. 5


 紘美の言葉に、玲奈は激しく動揺した。

「…… そ、…… そんな、………」

「これは、『裏のリング』のボクサーにとっては、避けて通れない道なの。あなたが手を抜くと、それだけ上達が遅れて、三崎さんが危険な目に晒される。だから、心を鬼にして、本気でやらないと意味がないわよ。」

「………… でも、………」

「本当は、私が相手を務められればいいんだけど、私、仕事で、明日から三週間近く、日本を離れなければならないの。その間だけ、あなたに、三崎さんの練習に付き合ってあげてもらいたい。私が日本に帰ってくるまでに、基本的な動きができるようにしておいてもらいたいの。…… どう? 玲奈。あなたにそれができる?」

 本気で潤子の胸を殴る。そんなことが私にできるだろうか。でも、私はどんなことがあっても逃げないと、紘美先輩に約束した。潤子を助けるため、でも、……

 玲奈の脳裏に、百合にコーナーに追い詰められ、剥き出しの乳房を何度も殴られて、悶絶する潤子の姿が浮かんできた。

 そして、少し前に紘美が語った、潤子の、『裏のリング』での壮絶な敗戦のシーンに、百合の姿がかぶった。敗者となり、惨めな姿になってリングに横たわる潤子を踏みつけ、高々と拳を上げて、勝利をアピールする百合の姿。……
 
 だめ。…… それだけは、……… 絶対に、そんなことにだけはなって欲しくない。

 玲奈は両手で顔を覆い、しばらく動かなかった。やがて、玲奈は両手を顔から離し、涙声で紘美に言った。

「…… わかりました。………… 私、…… やります。……」

「あなたが辛いのは、良くわかるわ。私が日本に帰ってくるまで、三崎さんをお願いね。」

 紘美が玲奈の頭を優しく抱え込むと、玲奈は、紘美をきつく抱きしめた。これでこの件は何とかなる、と紘美は思った。


 紘美には、それとは別に一つだけ、とても気がかりなことがあった。それは、対抗戦などの競技であれば、まったく問題にならないことなのだが、『裏のリング』で闘うに当たっては、致命的な弱点になりかねない。

 それだけは、どうしても玲奈に任せることができない。紘美はそれを、自分が日本に戻ってきてから、試合の前にどうしても確かめておく必要があると感じていた。



Scene. 6


 次の日、潤子は、荻野鞠子(おぎの・まりこ)に連絡を取った。

 前日、百合と再戦の約束をしたときに、それを知った玲奈の落ち込みようを見た潤子の心は、少し澱んでいた。

 まもなく、受話器から、鞠子の声が聞こえてきた。

「潤子さんね。身体の方は、もう大丈夫?」

「あ、はい。…… 決勝で負けちゃったの、ご存知でしたか。ご心配いただいて、ありがとうございます。」

「その様子だったら、大丈夫のようですね。安心しました。…… で、今日のお話は、やっぱり百合さんとの試合の件、ですね。」

 百合との試合の件、その言葉を聞いて、潤子の心に闘志が湧き上がってきた。落ち込んではいられない。百合を、…… 自分を小馬鹿にした百合を、そして、目の前で玲奈を愚弄した百合を、必ず倒す。

「はい。その通りです。」

「百合さんからは、昨日のうちに連絡が入っています。一ヵ月後、『裏のリング』で、あなたと試合をする。お互いの名前を公表すれば、たくさんのお客様が集まるだろうから、早めに会場を手配してもらいたい、とのことでした。」

「そうでしたか。」

「潤子さんのお名前を出す、…… 本当によろしいのですか? 異例のことではありますが、お二方からの希望であれば、そのように取り計らいますが。……」

 名前の公表は、別に潤子が望んでいるわけではない。ただ、百合がそれを望んでいる以上、自分の方だけそれはやめてくれ、というのは癪だ。どうせなら、堂々と『裏のリング』の試合に臨み、そこで百合を倒すことができるのであれば、それでも構わない、と潤子は思った。

「…… ええ。黒川さんが望んでいるのであれば、そうしていただいて結構です。」

「そうですか。ではそのように。…… それと、この試合については、百合さんから、特別な試合契約を結びたいとの希望が出ています。『裏のリング』には、いくつか試合契約のバリエーションがあって、対戦者の希望などにより、いろいろ選択できるようになっているのですが、百合さんは、敗者に対して一番厳しい試合条件での決着を望む、とのことでしたので、それに沿った条件を提示させていただきました。すでに、百合さんからは了承をいただいてあります。」

「あの人と闘えるのであれば、どんな条件でも構いません。」

「お気持ちは良くわかるのですが。…… とりあえず説明をしておきます。まず、ファイトマネーですが、敗者には支払われません。敗者に支払われる分のファイトマネーは、勝者に渡されます。」

「はい。それで結構です。」

「あと、もう一点。敗者は、リングの上で、トランクスと一緒にアンダーウエアも奪われます。つまり、負けると、丸裸にされてからリングを降りなければなりません。この条項だけは必ず盛り込むようにと、黒川さんから強い希望がありました。敗者は惨めな姿をさらけ出すのが当たり前、百合さんは、そう言っておられました。」

 痛いところをついてくる、と潤子は思った。潤子が、初めて『裏のリング』に上がることを決めたとき、もっとも強く抵抗感を感じたのは、もちろん上半身裸で闘わなければならないことだった。今度は、負けてしまうと、リングの上で全裸にされる。…… それだけは避けたい。…… でも、百合が望むなら、…… 敗者に対する厳しさを、百合が望むなら、自分の方から嫌とは言いたくない。……

 潤子は激しい葛藤を感じたあと、答えた。

「…… それは、…… いえ、構いません。…… 黒川さんがそれを望むなら、お受けいたします。」



Scene. 7


 潤子の耳に、鞠子の溜め息が聞こえた。まったく、この娘たちは、…… そんな鞠子の心理状態が伝わってくるようだった。

「…… わかりました。では、そのように取り計らいます。…… 正直に申し上げると、お二人の試合は、間違いなく、たいへんな人気を集めるものと思います。試合の直前になってからの公表ですと、収拾がつかなくなってしまうほど、お席の予約の希望が殺到するのではないか、私にはそんな気がするのです。早いうちに、お二人から試合の了承が取れることを、たいへん感謝します。…… では、試合の日程ですが、クリスマスの翌日の夜、今のところ、その日の会場を、潤子さんが以前試合を行ったのと同じホテルを仮押さえしてあります。もともとこの夜に何試合かを組む予定だったのですが、差し支えなければ、この夜に決めさせていただきたいと思います。いかがでしょうか?」

「結構です。…… それと、一つだけお願いがあるのですが。……」

「…… はい、どういったことでしょう?」

 潤子は前日、百合と再戦を約束して部屋に帰ったあと、あることを決めていた。

 それは、あの夜のことを忘れないため。……

「私は、あの夜、…… 紘美先輩に惨敗した、『裏のリング』のデビュー戦と同じリングコスチュームを身につけたいのです。デザインが気に入っているということもあるのですが、私はあの試合を忘れたくない、あの試合を、私のボクサーとしての糧とするために、いつも引き摺っていたい、と考えているのです。あの白いトランクスは、私のデビュー戦のために誂えていただいたものだと伺いました。できれば、この先も、あのトランクスを身につけて闘いたいのです。差し出がましいお願いですが、もう一度、あれと同じものを用意していただけないでしょうか?」

 鞠子は、少しの間、答えを躊躇した。白いリングコスチュームは、デビュー戦を迎える選手にとっての着用義務ではあるが、特権ではない。前例はないといっても良いぐらいだが、潤子が望むのであれば、問題はないだろう。百合が黒の衣装を身につけてリングに上がるのは、まず間違いないので、「コントラストを明瞭にするため、対戦者の衣装は同系色を避けること」という内規もクリアできる。それならば、こちらからもオファーをしても良いかも知れない、と鞠子は考えた。

「…… わかりました。お望みのものを用意させていただきます。それと、よろしければ、グローブについても、あの夜と同じものを用意させていただくことができると思います。いかがですか?」

「はい、たいへん嬉く思います。ぜひ、そうしてください。」


 潤子と百合の対戦が告知されると、鞠子の予想通り、いや、鞠子の予想以上に、『裏のリング』の事務セクションは大混乱に陥った。

 主催者は、この対戦が、『裏のリング』始まって以来の、最高のカードであることを想定し、この夜の試合を潤子と百合の対戦一試合のみとすることを決め、通常の十倍を超える入場料を提示したが、集客には何の影響も与えなかった。黒川百合の名前を公表した無敵の「ブラック・リリー」と、『裏のリング』のデビュー戦で壮絶な敗戦を喫したものの、対抗戦では百合をKO寸前にまで追い込んだ潤子との対戦。容姿ランクは二人とも最上級、現役の園生同士、そして、壮絶を極めた対抗戦代表トーナメント決勝の再現となるこの試合の人気は、主催者の想定を遥かに超えてしまっていた。

 主だったゲストで、来場を見送る者は誰一人としていなかった。また、全員が良い席を確保するために、部屋の予約を希望した。結局、ホテル側もこの事態を収拾するために、それまでに受けていた、『裏のリング』とは無関係の来客の予約を、すべて近隣の関連系列のホテルに振り替え、この夜を『裏のリング』のために貸切とすることにした。

 主催者は、二人の人気に驚き、勝者に対して特別ボーナスを提供すること、そして、ホテルの最上階に二部屋あるスイートルームを、それぞれの控室に充てることを決めた。



Scene. 8


 紘美が日本を離れ、潤子の『特訓』が玲奈に託された。玲奈は、胸を守ることの重要性を、紘美に教えられた通りに、潤子に説いた。潤子はそれを受けて、対抗戦後の最終検診までに、自分でポーズを取るなりして、イメージトレーニングを行っていた。

 潤子は最終検診を無事にパスし、スパーリング開始の許可をもらった。そしてそれは、玲奈にとって、茨の道の始まりでもあった。

 玲奈は、凛花ボクシング部の部員が練習を終えて、潤子を除く全員が練習場を離れたあと、潤子と二人だけで練習場に残った。そして、紘美が課した『特訓』が始まった。

 二人は、ヘッドギアを装着し、『裏のリング』で使用しているものと同じ、十二オンスのグローブを身に付けてリングに上がった。真剣味を高めるために、潤子は、玲奈の反対を押し切って、試合やスパーリングの際に身に付ける胸用の防具を外した。リングに上がった潤子の上半身を覆っているタンクトップの上から、大きな胸のふくらみの頂きの部分に、乳首が浮き上がっているのが、玲奈にはっきり見て取れた。

 潤子と玲奈では、もうボクシングのレベルがまるで違う。しかし、この日は様子が違っていた。

 胸を守る。潤子の頭の中には具体的なイメージができ上がっていたが、いざ相手とグローブを交えるとなると話は別だった。明らかに動きが不自然になり、もはや格下になってしまった玲奈の目にも、潤子の様子は隙だらけに見えた。

 玲奈が、肩を使って、少しだけフェイントをかけても、潤子は過剰に反応し、胸の前で両腕を固く閉ざした。そのせいで、両手のグローブで守らねばならないテンプルのあたりは、完全にがら空きの状態になってしまっていた。何度かその部分に痛打を浴びると、潤子は混乱をきたしたようだった。

 潤子の動きはますます不自然になり、自分からまったく手が出なくなった。胸を殴られることが前提になっていると、こんなにも違うものなのか、と玲奈は思った。

 切なそうな表情を覗かせながら、じりじりと後退する潤子を攻撃しなければならないのは、玲奈にとっては本当に辛かった。これなら、まだ殴られていた方がいい。でも、これを克服しないまま『裏のリング』に上がることは極めて危険なことだ。玲奈は、紘美が心配していた状況を目の当たりにし、心を鬼にする決心を固めた。

 しばらくすると、潤子も覚悟を決めたらしく、自分からパンチを出すようになった。しかし、相変わらす動きは不自然なままで、至るところにガードの甘さが目立つ。玲奈がガードの上から潤子の胸に何発かパンチを打ち込むと、潤子のボクシングはさらにバランスを失った。

 ついに、玲奈のパンチが、潤子の胸を捕らえた。玲奈のグローブが、潤子の胸のふくらみの中にめり込んだ。そして、その一撃を受けただけで、潤子は悲鳴を上げ、胸を両腕で抱え込んだまま、その場に座り込んでしまった。

 強烈な罪悪感が玲奈を襲った。潤子は、胸の痛みと、自分のあまりのふがいなさに、目に涙を溜めている。玲奈は、潤子の前にひざまずき、両腕で潤子の頭を抱えた。

「…… ごめんね、潤子。………… ごめんね。…………」

玲奈の目からも大粒の涙が溢れ出し、頬を伝った。



Scene. 9


 『特訓』の初日、潤子は、まったくと言っていいほど、イメージしていた動きができなかった。初めて玲奈のパンチを乳房に受け、キャンバスに座り込んでしまったあと、潤子は防具を装着し直し、スパーリングを続けたが、そのあとも、何回か玲奈のパンチを胸に受けるシーンが続いた。

 それでも日を追うごとに、潤子の動きは自然になっていった。肘からグローブの先までを巧みに使って、確実に胸をガードした上で、顔への攻撃にも対処できるようになった。

 紘美が日本へ帰ってくる日、潤子は再び防具を外して、玲奈とのスパーリングに臨んだ。玲奈は、極めて実戦に近いスタイルで手を出し、隙があれば潤子の胸に一撃を加えようと、全力で潤子にぶつかっていったが、潤子は完全に胸を守り切った。最後には、潤子のコンビネーションブローを食らって、玲奈がキャンバスに崩れ落ちた。

 玲奈は、キャンバスの上に、仰向けに倒れたまま、満足そうな表情を浮かべていた。自分に与えられた使命は果たした。これで胸を張って、潤子を紘美に託すことができる、玲奈は、そんな思いを抱いていた。


 次の日。

 帰国した紘美は、凛花ボクシング部の練習場に赴いた。前日までと同じように、玲奈が、潤子と玲奈を除く他の部員をすべて帰し終わったあと、紘美は練習場に姿を現わした。

 潤子は紘美を笑顔で迎え、二言、三言、挨拶を交わしたが、すぐに真剣な表情に戻った。紘美も、そんな潤子を真剣な表情で見つめた。

「今日は、私がスパーリングパートナーを務めます。そして、あなたがどれだけ成長したのかを見せていただきます。三崎さん、さっそく準備をしてください。今日は、『裏のリング』と同じ格好でリングに上がるのよ。」

「え? 『裏のリング』と同じ、ってことは、裸で、ということですか?」

「その通りよ。わたしも同じ格好でリングに上がります。今、ここにいるのは、玲奈と私だけ。できるわね。」

「…………… はい。………」

「それと、ヘッドギアだけはつけておいた方がいいわね。玲奈、準備してくれる? グローブは、十二オンスのものがいいわ。」

 紘美はそう言うと、呆然としている玲奈の目の前で、服を脱ぎ出した。上下セパレートの下着だけの姿になった紘美は、持参したバッグの中からトランクスとシューズを取り出し、トランクスを穿き、シューズを履いて、ストラップを通し始めた。潤子は、そんな紘美の様子を見ていたが、やがて、覚悟を決めたように、身に付けているタンクトップを脱いだ。

 紘美が胸につけていた下着を外したあと、グローブの装着を手伝っていた玲奈は、上半身をあらわにしている二人を見て、軽い嫉妬を覚えた。

 まったく、紘美先輩といい、潤子といい、なんて素敵な、魅力的な身体をしているんだろう。私だって、自分の身体に自信がないわけじゃない。でも、この二人は別格だ。顔だって、私とは比べ物にならないぐらいの美人だし。…… 何でこんな人たちがボクシングをしてるんだろう。…… それに二人とも、対抗戦の代表戦を堂々と闘えるぐらいの実力者だし。……

 ほどなく、紘美と潤子、二人ともグローブとヘッドギアの装着が終わった。潤子は、両手を胸の前で交差させた格好で、紘美はまったくそんな素振りを見せずに、張りのある、大きな乳房を玲奈の目に晒したまま、リングに上がった。

「じゃ、始めましょう。」

 紘美が合図を送ると、潤子は両腕の交差を解き、ファイティングポーズを取った。



Scene. 10


 潤子と紘美のスパーリング、玲奈は、潤子が対抗戦に出る前に、それを何度も目にしていた。が、この日のスパーリングは、まるで雰囲気が違っていた。玲奈の目の前には、仮想の『裏のリング』の光景が広がっていた。胸をはだけて、高いレベルの攻防を繰り広げる、二人の女ボクサー。玲奈は、恥ずかしさに少し頬を紅らめて、その様子に見入っていた。

 紘美は、『特訓』の成果を確かめるように、何度か潤子の胸に向かってパンチを出したが、潤子は、巧く紘美の攻撃に対応していた。『特訓』を始めた頃の不自然さは完全に消え去り、胸への攻撃を認めるということを、まったく感じさせないほど、潤子の動きはなめらかだった。

 紘美は、「ここまでは合格点ね。」と、心の中でつぶやき、この日、潤子とのスパーリングでこなさなければならないと考えていた、「辛い作業」に取り掛かった。


 紘美は、潤子に近づき、潤子のガードの上から、左のショートフックを当てたあと、両腕を潤子の腋の下に入れ、身体を潤子に密着させた。潤子の、形のいい、柔らかい大きな乳房が、紘美の張りのある乳房に押し付けられ、歪んだ。潤子は、紘美のわき腹を何度か叩くなどして、クリンチを外すタイミングを計っているようだった。

 紘美は、両腕に力を入れて、潤子の身体をぐいと引き寄せると、上半身全体を小さく動かし、狙っているスポットに到達するのを待った。そして、紘美の身体は、それに辿り着いた。

 紘美の乳首と、潤子の乳首が擦れ合ったとき、潤子は、声には出なかったものの、切ない吐息を洩らした。

「やっぱり、……」

 紘美は心の中でつぶやいた。

 紘美の予想、…… できることなら外れて欲しいと願っていた予想は、的中してしまっていた。



Scene. 11


 潤子は、紘美の両腕を振りほどき、ファイティングポーズを取った。潤子には、紘美が、なぜ上半身裸でスパーリングをすると言い出したのか、まだわかっていなかった。玲奈の目にも、普段のスパーリングとはかなり雰囲気は違うが、目の前で高度なファイトが展開されている、その程度の認識しかなかった。

 しばらくの間、再び玲奈の目の前で、紘美と潤子の攻防が続いた。玲奈には、何となく、潤子の攻撃に積極性が感じられなくなったような気がしていた。

 前に出るのをためらっているように見える潤子に、紘美のジャブが飛んだ。潤子は、身体を振りながらこれを避け、一歩踏み込んで、右のフックを振った。紘美はこれをダッキングでかわすと、再び潤子に抱きついた。

 玲奈は、紘美の動きに不自然さを感じた。いつもの紘美と違う。玲奈は、その理由に思い当たった。紘美はスパーリングや試合で、玲奈が知りうる限り、自分からクリンチをすることがほとんどなかった。その珍しい光景が、この、潤子とのスパーリングで二度続いた。…… なぜだろう。……

 二度目のクリンチでは、紘美はすぐにそのスポットを探り当てた。潤子を両腕でがっちりとホールドし、紘美は何度も潤子の乳首を責めた。

 潤子には、紘美の意図がはっきりわかった。

 乳首が勃ち始めている。…… そして、身体から力が抜けていく。…… それでも、潤子には、どうすることもできなかった。必死に紘美の腕を振りほどくまで、乳首が擦れ合うたびに、声を上げるのを我慢するのが精一杯だった。

 二度目のクリンチのあと、玲奈の目には、潤子の出すパンチが、紘美との距離を保つために出されるジャブだけになってしまった様子が、はっきりと映っていた。潤子は、紘美に距離を詰められるのを明らかに嫌がっていた。ヘッドギアの奥に見える潤子の顔が、その恥ずかしさからか、赤くなっているのが見えていた。

 それでも紘美は容赦しなかった。後退を続ける潤子を、コーナーに追い込むと、潤子のガードの上から強烈な左右のフックを放ち、身体全体を使って潤子をコーナーマットに押し込むと、紘美は、左の腕を潤子の腋の捩じ入れてきた。潤子は、紘美の身体とコーナーマットに上半身を挟みつけられ、ただもがくだけになってしまっていた。紘美は、右腕で潤子の左腕を覆い込むようにホールドし、少しだけ腰を落として、その腰を潤子の方に向かって突き上げた。

 潤子の桃色の乳首が、紘美の乳首に触れた。そのとき、潤子の口から、「ぁはあぁぁ ……」 と洩れた喘ぎ声は、玲奈の耳にもはっきりと聞こえた。

 紘美の責めに、殴ることではなく、若い女性の身体そのものに対してなされた責めに対して、明らかに反応してしまった潤子を見て、理由はわからないが、玲奈は、紘美がこのスパーリングで何をしたかったのか、なぜ上半身に何も身につけなかったのかを、はっきりと認識した。玲奈には、その光景は受け入れ難かった。

 それでも、玲奈の目の前で、紘美は潤子の乳房を責め続けていた。紘美が、二度、三度と上半身を動かすと、そのたびに潤子の口から喘ぎ声が洩れた。

 なぜ、こんなむごい仕打ちを、リングの上で、紘美が潤子に仕掛けているのか。玲奈には、紘美の意図がわからなかった。しかし、その答えは、ほどなく玲奈の目の前に明らかになった。

 紘美は、身体を潤子から放し、潤子の左腕を覆っていた右腕を引き寄せると、肘を体側から離さないまま、素早く身体を捻った。潤子は、その動きにまったく反応できなかった。

 潤子のヘッドギアの頬の部分に、紘美の強烈な右ショートフックが突き刺さった。

 潤子の顔が捻じ曲がり、次の瞬間には、潤子の両膝があっさりと折れた。そのまま潤子は、キャンバスにお尻を落とした。



Scene. 12


「潤子!!」

 玲奈は、すぐにロープを跨ぎ、リングの上になだれ込んだ。そして、紘美と潤子の間に、割り込むように身体を入れると、コーナーマットを背にして、キャンバスの上で座り込んでいる潤子の前に両膝をついた。

「…… 酷い。…… 紘美先輩、…………… 酷いよ。……」

 玲奈は、瞳を涙で潤ませ、潤子の顔を見つめたまま、そうつぶやいた。

 玲奈は、潤子の口からマウスピースを抜き取った。玲奈の目に映っている潤子の顔からは、肉体的に大きなダメージを受けたのではないことが読み取れた。目の焦点もぼやけていない。しかし、その表情には、紘美と玲奈の目の前で浮き彫りになってしまった、『裏のリング』で闘うボクサーとしての大きな欠陥に気付き、それを受け入れることの悔しさに必死に耐えている、潤子の心理状態がはっきりと表れていた。

 玲奈は、潤子の顔に視線を向けたまま、潤子の、剥き出しの乳房の前に右手を伸ばした。潤子の瞳は、怯えるように、玲奈の手に向けられていた。

 玲奈は、右手を潤子の乳房に近づけ、指先で触れてみた。潤子は目を閉じ、顔を背けた。そして、潤子の乳房の上を這っていた玲奈の指が潤子の乳首に触れた瞬間、潤子は「ひっ」と声を上げ、身体を硬直させた。潤子の乳首は、かちかちに勃起してしまっていた。

 もう間違いの余地はなかった。

「潤子、……」

 玲奈の瞳からは、もう大粒の涙が流れ落ちていた。玲奈は、潤子の乳房から右手を離し、両腕で、ヘッドギアをつけている潤子の頭を抱え込んだ。そして、嗚咽交じりに、声を絞り出した。

「こんなの、ボクシングじゃない。…… こんなの、ボクシングじゃないよ。…………」

 紘美は、黙って二人の様子を見ていたが、やがて、グローブをつけたままの両手で、自分のヘッドギアを脱いだあと、重い口を開いた。

「…… 悲しいけれど、これが現実なの。…… 『裏のリング』の攻撃パターンとしては、それほど珍しいことじゃない。…… 私も辛い。…… でも、三崎さんが『裏のリング』に上がる前に、どうしても知っておきたかった。…… 三崎さんの身体は敏感すぎる。…… 残念だけど、私の思った通りだったわ。……」

 玲奈は、潤子の頭から腕を外し、両手をキャンバスについて、声を上げて激しく泣き始めた。キャンバスの上に流れ落ちていく涙を、玲奈は拭おうともしなかった。

「黒川さんは、『裏のリング』を何度も経験しているようだし、恐らく、今日私がしたように、三崎さんの身体を確かめるでしょう。そして、今そうであったように、三崎さんが身体の昂ぶりを感じているところを、三崎さんがまったく無防備になってしまう瞬間を、狙ってくる可能性がある。…… でも、三崎さんの身体のことは、多分、もうどうにもならない。今はただ、気をつけなさい、と言っておくしかないわね。」

 紘美は、そう言うと、玲奈の傍らに膝をつき、わんわんと泣き声を上げている玲奈に語りかけた。

「ありがとう、玲奈。悲しかったでしょう。辛かったでしょう。私たちの仕事は、ここまでで終わりよ。三崎さんの試合まであと一週間、ここから先は、三崎さんの力に賭けるしかないの。」

 玲奈は、紘美の言葉に向き直ると、紘美に抱きついた。そして、あらわになっている紘美の乳房の少し上あたりに顔を押し付けると、さらに大きな声を上げて泣きじゃくった。

 潤子が紘美の顔の方に目を遣ると、紘美も潤子に優しげな視線を向けていた。

「必ず勝ちなさい。これ以上、玲奈を悲しませちゃだめよ。」

 潤子には、紘美がそんな風に語りかけているように思えた。

 潤子は、小さな子供のように、ただ泣くばかりになっている玲奈に目を落とした。

「ありがとうございます、玲奈先輩。このご恩は、一生忘れません。…… 必ず、…… 必ず勝ちます。」

 潤子は、固く心に誓った。



Scene. 13


 再戦の夜がやってきた。

 鞠子の運転する黒いセダンで、潤子は会場のホテルに着いた。

 鞠子は、ホテルのエレベーターに向かう途中、この夜の控室は最上階のスイートルームであることを潤子に告げた。二人がエレベーターを降り、鞠子の手で部屋のドアが開けられると、潤子の目の前に、豪華な家具に囲まれ、ふかふかの絨毯が敷き詰められた、寮の部屋と比べると別世界のような、最上級の部屋が広がった。

 潤子は、鞠子が部屋から出て行くと、大きなベッドの上に少しだけ横たわったあと、すぐに着替えを始めた。あの夜とまったく同じ、白のシューズ、そして、支給された白のアンダーウエアと、パールホワイトのラインが入った純白のトランクスを身に付け終わると、潤子は、完全に全身が映る大きな鏡の前に立ち、ファイティングポーズを取って、何回か腕を振ってみた。それが終わると、潤子は両腕を下ろし、表情を険しくして、鏡に映っている自分を見つめ、「必ず勝って、この部屋に戻ってくる」、と自分に言い聞かせた。

 着替えが終わったことを、鞠子に内線電話で伝えると、鞠子は、再び潤子の部屋を訪れ、潤子の拳にバンデージを巻き始めた。

 拳に巻かれていくバンデージを見つめながら、潤子は、このときまでに立てていた、百合との闘いの戦術について、自分の考えを再確認していた。


 対抗戦で百合と当たったときには、潤子と百合の力量にそれほど差はなかった。であれば、対抗戦と『裏のリング』のルールの違いをしっかり把握し、それなりの戦術を以って試合に臨むべきではないか、と潤子は考えていた。

 それは何だろう。胸への打撃が認められているということもそうなのだが、一番違うのはインターバルがないことなのではないか。一分間の休息があるのとないのでは、疲れや、ダメージの回復度合いがまったく違う。これを最大限に生かすには、どうしたら良いのか。……

 ボディブローを多く打つ。それが、潤子の出した結論だった。

 いきなり激しい打ち合いになるとは、潤子には思えなかった。インターバルがないことが前提であれば、どうしてもお互いに相手を牽制しながら、疲労とダメージの回復を図りながら、試合は進むだろう。

 ボディブローは、効くのは遅いが、ダメージが抜けるのも遅い。加えて、戦意を毟り取るには一番の効果が見込める。早い段階での打ち合いを避け、じっくりと試合を進め、百合に致命的なパンチをもらわないように気をつけて、できるだけ多くのパンチを百合のボディに叩き込む。長期戦に持ち込んで、先に百合の体力を奪い尽くす。

 潤子の腹は決まっていた。

 今日は、急ぐ必要はない。百合のボディを打ち続けて、どれだけ時間をかけてでも、少しずつ、少しずつ、百合の体力を削り取っていく。……

 そして必ず、百合をキャンバスに這わせて見せる。



Scene. 14


 潤子は、『裏のリング』の会場となるホテルの最上階にあるスイートルームの中で、軽めのシャドーボクシングをしながら、身体を動かしていた。もう、あと少しで会場に入る時間になる。すでにリングコスチュームも、パールホワイトのグローブをも身に付け、紘美に敗れた夜と同じ、白のローブを纏った潤子は、鞠子のそばで、近づきつつある百合との闘いに向けて、少しずつ気持ちを高ぶらせていた。

 「そろそろ会場に下りましょうか」、と鞠子が潤子に声を掛けたのとほとんど同時に、部屋のドアをノックする音が聞こえた。二人がドアに近づき、鞠子がドアを開けると、そこには、三十年配の女性を伴った百合の姿があった。

 潤子は、鞠子を横に追いやり、百合の目の前に立った。百合は、腰丈の黒のローブを纏っていた。トランクス、シューズ、グローブ、潤子の目には、百合がすべて黒に統一されたリングコスチュームを身に付けているのが見て取れた。そして、対抗戦で試合をするときとは違って、百合は赤い口紅をつけていた。唇に紅を引いたことによって、百合の顔立ちは一層引き締まったように見えた。

 黒ずくめの衣装に、血のような真っ赤な口紅。その姿は、妖艶、そんな言葉がぴったりだった。

 百合は、潤子の全身に視線を這わせたあと、口を開いた。

「またお会いできて、たいへん嬉しいですわ。怖気づいて、逃げ出してしまうのではないかと心配しましたが、杞憂だったようですわね。…… あらあら、この間と同じお衣装のようですわね。また、キャンバスの上で、おもらしをなさりたいのかしら。うふふ。ほんとうに楽しみですわ。…… では、お先に。今夜、会場にいらしていただいているお客様は、一刻も早く、わたくしの姿を目にしたいと思っていらっしゃるでしょうからね。先にリングに上がって、待つことにいたしますわ。…… 白い衣装に身を包んだ、今夜の生贄をね。」

 百合は、そう言うと、紅を引いた唇に右手の黒いグローブを近づけ、潤子に向かって投げキッスをする仕草を見せ、にやりと笑った。



Scene. 15


 潤子は、百合が立ち去った少し後に、控室のスイートルームを後にした。鞠子に付き添われ、試合会場となるパーティールームの前まで来ると、鞠子は大きな扉を開き、潤子を招き入れた。

 鞠子は、外側の扉を閉じると、潤子に目を遣った。潤子は鞠子の目を見つめ、小さく頷き、鞠子の方に一歩近づいた。

 鞠子が潤子のローブのベルトをほどいている間、潤子は腕を下ろしたままだった。ローブの前がはだけると、潤子はそのまま後ろを向いた。ローブの袖が潤子のパールホワイトのグローブを通り抜け、潤子が鞠子の方に再び向き直っても、潤子は腕を下ろしたままだった。初めて『裏のリング』に上がる前にそうであったように、腕を交差させて、胸を隠すような素振りは、一切見せなかった。

「ありがとうございます。では、行ってまいります。」

 潤子は、白いローブを折りたたんでいる鞠子と目が合うと、試合前の最後の挨拶を鞠子に向けた。鞠子は、ニッコリと微笑んで頷き、内扉の方に向き直った潤子の前に立って、扉を開いた。

 潤子は、鞠子に頷き返すと、会場のパーティールームへ歩を進め始めた。


 潤子は、初めて『裏のリング』に上がるときとはまったく違って、胸を張り、小さく腕を振って、百合の待つ黒いリングに向かって、堂々と歩いた。そして、ステップを駆け上がると、ロープを跨いで、黒いキャンバスが敷かれたリングの中へと、身体を滑り込ませた。

 百合は、金色のカバーがかけられたコーナーマットを背にして、余裕を見せつけるように、パンと張った、形のいい大きな乳房を晒し、両手を上段ロープに掛け、冷たい笑みを浮かべていた。潤子も、まったく臆することなく、銀色のコーナーマットを背にして、百合とまったく同じポーズを取り、百合を睨みつけた。

 やがて、世話人の女性がリングに上がり、潤子と百合はお互いのコーナーを離れ、リングの中央に歩み寄っていった。二人は世話人の前で立ち止まると、お互いの目を見据えた。世話人から試合の留意事項について短い話があったが、その間、二人は、相手から視線を逸らそうとはしなかった。

 白いコスチュームの潤子と、黒一色の百合。まるで、このあと天使と悪魔がグローブを交えると言わんばかりの、強烈な白と黒のコントラストが、リングの中央で対峙していた。

 百合は、紅を引いた下唇の上に舌を這わせたあと、クスリと笑った。そして、潤子から視線を外すことなく、世話人に向かって口を開き、黒いマウスピースを咥え込んだ。潤子も、睨みつけた視線を百合から一瞬たりとも逸らさずに、パールホワイトのマウスピースを咥え込み、噛みしめた。

 百合は、もう一度、ニヤリと口元に笑みを浮かべると、ゆっくりと金色のコーナーへ向き直り、歩を進め始めた。潤子は、百合が背中を向けても、少しの間だけ百合を睨んでいたが、ぷいと百合から視線を外して、銀のコーナーに向かって歩き始めた。

 二人がそれぞれのコーナーへ戻ると、場内にアナウンスが流れた。



Scene. 16


「ご来場のゲストの皆様。今宵、ゲストの皆様にご覧いただくこの試合は、当リングが開場されて以来の、至上のマッチアップであると、主催者は確信するものであります。今宵、このリングの上でグローブを交えることとなる二人のお嬢様は、現在当リングに登録をなされているお嬢様方の中でも、最上級の実力と美貌を兼ね備えております。極めて異例のことではございますが、お二方からのお許しをいただいておりますので、試合に先立ち、少しばかりご紹介をさせていただきます。

「まず、漆黒のリングコスチュームを身に付けておられます、金のコーナーのお嬢様は、黒川百合様であります。当リングに彗星のように現われ、無敵を誇っていらっしゃいます黒いお衣装のレスラーをご存知の方も、多々いらっしゃることでしょう。百合様がその人であり、今宵、百合様は、ボクサーとして、初めてそのお顔を当リングの上で皆様の前にお見せになります。皆様ご存知の通り、百合様は先ごろ行われました四園対抗戦にて、見事階級チャンピオンの栄誉に輝いておられ、すでに、レスリングのみならず、ボクサーとしても最高の技量を備えていることを示しておられます。

「続いて、まことに美しい、白のコスチュームを身に付けておられます、銀のコーナーのお嬢様は、三崎潤子様であります。潤子様は、今宵が当リングにおいての二試合目でございます。デビューの夜は、残念ながら敗北を喫してしまいましたが、四園対抗戦の代表決勝戦で、本日のお相手、黒川百合様に敗れはしたものの、非常に苦しい闘いを強いたほどの、実力の持ち主でございます。尚、白のお衣装は、本来であればデビュー戦の象徴となっておりますが、今宵は、潤子様が強くご希望になりましたので、デビューの夜とまったく同じコスチュームをご用意させていただきました。

「そして、ゲストの皆様に、もう一つお知らせがございます。これも極めて異例のことではございますが、この試合は、特別な契約が結ばれております。それは、敗者にとって屈辱に満ちた結末を約束するもの、具体的に申し上げますと、敗者となってしまったお嬢様は、恒例通りのトランクスのみならず、リングの上で下穿までをも失う、ということにございます。これはとりもなおさず、お互いに負けることができないという、激しい気概の表われでございましょう。

「今宵、会場であります当ホテルは、当リングのために貸切となっております。これは、当リング始まって以来、初めてのことでございます。これも偏に、当リングの上で、今まさにグローブを交えんとしておられますお嬢様方の、人気の表れでございます。

「前置きが長くなってしまいました。では、本年の当リング最後の試合、当リング開場以来の至上のマッチアップを、心ゆくまでご堪能くださいませ。まもなく、試合を開始いたします。」


 アナウンスが終わると、大きな拍手が巻き起こった。

 そして、拍手の音が静まろうとしたそのとき、乾いた金属音が、高らかに鳴り響いた。

 二人は、再びコーナーを離れ、リングの中央に向かって進み始めた。


 潤子と百合、因縁の再戦。

 『裏』の、黒いリングの上で、その幕は、切って落とされた。



Scene. 17


 試合が始まって何十秒かたっても、潤子が思っていた通り、百合は大きなパンチを振ることがなかった。お互いに、必要であるだけ足を使い、必要最小限のジャブを振りながら、相手の様子を窺っていた。潤子は、ときおり百合から離れて、百合の表情を見てみたが、百合は、対抗戦で闘ったときとは違って、相変らず冷たい笑みを浮かべたままの表情を変えていなかった。

 しばらくたって、潤子が一歩踏み込んで、ストレート気味のジャブを伸ばすと、百合は身体を振ってこれをかわし、右フックを打ってきた。潤子はこれをダッキングし、さらに踏み込んで、百合のボディに一発、右フックを叩き込んだ。

 百合は、ボディブローを一発受けたあと、潤子に身体を預け、腕を潤子の腋に入れて、潤子に身体を密着させてきた。

 百合の乳房が自分の乳房に押し付けられたとき、潤子の脳裏を、紘美との最後のスパーリングの光景がよぎり、大きな不安感が潤子を襲った。そして、紘美が怖れていた通り、百合は、苦もなく潤子の乳首を探し当ててしまった。

 百合は、二人の乳房の頂きにある桃色の突起同士を何度も擦り合わせた。そのたびに、潤子は顔をしかめた。潤子は、声を洩らさないように務めたが、吐息を洩らすことだけは我慢できなかった。

 百合は、潤子のそんな仕草を横目で眺めながら、呟いた。

「思っていた通り、本当に素敵なおっぱいですこと。…… 心配なさらなくても大丈夫。これからたっぷりと時間をかけて、もみくちゃにして差し上げますわ。感じていらっしゃるんでしょう? 隠さなくてもいいんですのよ。」

 潤子は、何とか百合の腕を振り解いたが、気になっていた弱点を、早くも百合に悟られてしまったという負い目が、はっきりと潤子の行動に表われた。接近して、ボディを打つという戦略を立てていたにもかかわらず、潤子は百合に、自分から近づくことをためらい始めた。

 もちろん百合は、潤子を追ってきた。潤子に近づき、潤子のガードの上から何発かパンチを放ったあと、潤子の腋の下に腕を捩じ込んでは、潤子に抱きつき、乳房を押し付けてきた。百合の責めは、激しく、巧みだった。潤子は、ときおり小さな喘ぎ声を洩らした。そして、それを嫌がるように、クリンチからできるだけ早く逃れようとしていた。

 もう何度か同じような光景が繰り返されたあと、クリンチからの離れ際に、潤子は、自分の意思に反して、徐々に勃ってきてしまっている自分の乳首に気を取られ、無意識に、胸だけを覆うような形にガードを下げ、百合から視線を離してしまった。潤子が再び百合に視線を向けると、潤子の顔をめがけて右手を振り出そうとしている百合の姿が目に入った。

 「しまった。」 と思ったが、間に合わなかった。潤子は素早く身体を丸め、左のグローブで頭をガードしようとしたが、それより早く、百合の右フックが、潤子のテンプルにめり込んだ。潤子の顔が、一瞬、大きく右に傾き、潤子は身体のバランスを失なった。右膝が折れ、そのまま潤子は腰をキャンバスに落とした。

 腰を上げ、両手のグローブと両膝をキャンバスにつけたまま、潤子は少しの間、キャンバスに目を落としていた。そして、視線を、百合の方に移した。百合は、黒いグローブを腰に当て、左足に体重を掛けて、横に腰を突き出し、嘲うような視線を潤子に向けていた。

 百合の口から、嘲りの言葉が飛び出してきた。

「そんな敏感なおっぱいで、『裏のリング』でわたくしに勝てるとでも思っていらっしゃったのかしら。とんだお笑い種ですわ。本当は、わたくしに、いかせてもらいたいのではありませんこと? うふふ。そう言っていただければ、望みを叶えて差し上げても構いませんのよ。」


 潤子は百合を睨みつけ、あらん限りの力で、マウスピースを噛んだ。

 悔しい。

 紘美先輩に、気をつけなさい、と言われていたのに、あんな単純なパンチを、簡単にもらってしまうなんて。……

 乳房を責めるなら、いくらでも責めさせてやる。

 もうどんなことがあっても、私は絶対に気を抜かない。

 潤子は、悔しさを叩きつけるように、両手をキャンバスに力一杯打ち付けると、百合を見据えたまま立ち上がり、ファイティングポーズを取った。



Scene. 18


 百合は、そのあともクリンチを仕掛けてきた。が、潤子は、乳房の押し付け合いに、ひるむことなく応じていった。少しだけ、顔をしかめることはあったが、声を洩らすようなことはなくなった。潤子のダウンから三度目のクリンチでは、逆に百合の方が小さな声を洩らし、自分からクリンチを解いた。それ以降、百合は必要以上にクリンチをすることはなくなった。

 試合展開も、潤子が積極的に前に出るようなものに、徐々に変わってきた。百合は、ジャブ、ストレートを主体に潤子を迎え撃ったが、潤子は百合の牽制をかいくぐって、何度となく、ボディブローを百合のわき腹に打ち込んでいた。

 百合のパンチは、何度か潤子の胸に向かって飛んだが、練習の成果が実を結び、潤子はそれに完全に対応していた。潤子も、数は百合よりも少ないものの、何度か百合の胸を狙ってみたが、百合も隙を見せなかった。


 その後、時間はゆっくりと流れていった。手数こそ少ないものの、二人は時に激しく打ち合い、時には緊張をほぐすように相手から遠ざかるなどして、二人とも冷静に試合を進めていた。

 試合が始まってから二十分が経過しようとしていた。二人は、実に七ラウンド分近くを、休むことなく闘ってきた。

 対抗戦の時に比べると、潤子も、百合も、体力の温存を考えて、無理に攻めることを控えていたが、それでもこの頃になると、動きは鈍り始めていた。特に、ボディに潤子のパンチを多く受け、体力を消耗していた百合は、かなり押され気味になってきていた。

 潤子との距離を置こうとして下がり気味に動く百合を、潤子は追い続けた。そして、百合をロープに追い詰め、左のフックを百合のボディに叩き込もうとした瞬間、開いてしまったアゴに、百合の鋭いショートフックが炸裂した。潤子は大きく腰を落とし、百合に縋ろうとしたが、百合の腿のあたりに腕を回すことしかできず、そのままのめるように、キャンバスに両膝をついてしまった。

 二度目のダウン。潤子は、少しだけ、意識がぼんやりするのを感じた。



Scene. 19


 四つん這いになっていた潤子は、頭を何度か振った。

 潤子は、立ち上がろうとしたが、少しだけ足が思うように動かず、再びキャンバスに腰を落としてしまった。

 「まずい。」 潤子は顔をしかめた。

 潤子がキャンバスに落としていた視線を少しだけ横にずらすと、百合の黒いシューズが目に入った。潤子が、百合の方を見遣ると、そこには、潤子から最初のダウンを奪ったときとは、明らかに違う百合の姿があった。

 見下すような視線を潤子に落としているものの、落とし気味の肩から両腕を垂らし、はあはあと荒い呼吸を繰り返している。心なしか、顔色も蒼ざめているように見える。その表情には、とても潤子を挑発する言葉を口に出す余裕など感じられなかった。

 あと少し、…… あと少しで、百合を倒すことができるのかも知れない。

 今、ダウンから立ち上がったようにすら見える百合の姿は、潤子に大きな気力を呼びおこした。潤子は、身体に力が漲るのを感じ、キャンバスから腰を上げた。少しの間、自由を失っていた足も、思うように動いた。

 潤子の表情にも、闘志が甦った。潤子は立ち上がり、射るような視線を百合に向けた。

 潤子はゆっくりと百合に近づいていくと、百合はジャブを打って、潤子と距離を保とうとしたが、それはすでに鋭さを失っていた。踵を浮かしておくことができなくなり、足の動きも重くなっていた。百合は、活力を取り戻した潤子の侵入を、簡単に許した。

 潤子は、右手のグローブでしっかりとテンプルをガードし、百合のわき腹に、力一杯左のボディフックを打った。それをまともにもらってしまった百合は、「うぐっ」と呻き、必死に潤子から離れていった。

 百合の足運びから、横へというベクトルが消えた。百合は、苦しさに顔を歪ませ、ずるずると後退した。潤子が近づいていくと、百合は後退を続け、あっさりとロープに詰まった。潤子はさらに百合に近づき、両手でアゴをガードしている百合のボディを打った。

 さらにもう一発。潤子の渾身のフックが、百合のボディを抉った。そして、もう一発。

 百合は、必死に耐えていたが、少しずつ身体が丸まり、さらにガードが顔から離れ始めた。百合の顔には、激しい苦悶の表情が浮かび上がっていた。

 潤子は、素早く身体を起こし、百合のアゴめがけて、力一杯、右フックを振った。

 百合は、反応できなかった。

 潤子の、パールホワイトのグローブが、百合の顔の下半分を捉えた。百合の顔が、ぎゅっと回転し、百合は腰を落とした。一瞬だけ踏ん張る仕草を見せた百合だったが、蓄積されたダメージは、立ったまま膝を伸ばすことを許さなかった。


 百合、初めてのダウン。

 無敵を誇っていた、『ブラック・リリー』が、黒いリングの上で、ついに墜ちた。



Scene. 20


 百合は、長い間キャンバスに両手のグローブを落として、大きな呼吸を繰り返していた。やがて、百合は、目の前にある潤子の白いシューズに目を遣り、ゆっくりと立ち上がった。

 潤子は、百合がファイティングポーズを完全に取るまで待つと、百合に襲い掛かろうとした。が、百合は、何とか両腕を潤子の腋の下に捩じ込み、力任せに身体を入れ替えた。

 百合は、試合が始まったばかりのときのように、潤子に乳房を押し付けてきた。こんな形でしか、形勢を立て直すきっかけが作れなくなるほどまでに、百合は追い込まれていた。

 しかし、乳首が擦れ合った瞬間に、「ぁはぁ…」と声を洩らしたのは、百合の方だった。百合の衰弱した身体は、もうわずかな刺激にも耐えられなかった。百合は、潤子の腋から腕を抜くと、よたよたと後退した。

 潤子は、リングの中央に向かって百合を追った。潤子のパンチが届く範囲まで近づいても、百合には、中途半端なガードの位置までしか、腕を上げることができなかった。潤子が百合のボディに左ストレートを伸ばすと、百合のガードはあっさりと落ち、足が止まった。大きく身体を前傾させている百合のがら空きのアゴに、潤子の右アッパーが飛んだ。

 一瞬にして、百合の両膝が折れ、百合は、そのまま腰をキャンバスに落とし、仰向けに倒れた。

 百合は、両腕を投げ出し、仰向けに倒れたまま、二十秒近くたっても、動く気配を見せなかった。潤子は百合に近づき、両手のグローブを腰に当てて、百合を跨ぐようにして立った。百合は、それに気付くと、潤子の顔に視線を向けた。

 潤子は、百合の顔を睨みつけ、吐き捨てるように言った。

「百合さん。もう立てないですか? もう終わりですか?」

 そして潤子は、膝を曲げて腰を落とし、前かがみになって、大きな乳房を百合の顔に近づけた。

「このおっぱいを、もみくちゃにするんじゃなかったんですか? 私を、いかせてくれるんじゃなかったんですか?」

 潤子に罵声を浴びせられると、百合の、少しだけぼやけていた瞳に精気が戻った。「今の言葉、絶対に許さない」。百合の怒りが、表情にありありと浮かんでいた。

 しかし、百合の受けたダメージは、すでに致命的だった。必死になって、肘を引き寄せようとするものの、なかなか身体が言うことを聞いてくれない。

 それでも何とか百合が背中を浮かすと、潤子は一歩退いた。

 百合は、ゆっくりと、…… 何十倍かの引力に逆らってでもいるように、ゆっくりと立ち上がった。



Scene. 21


 何とか立ち上がったものの、もう百合には、自分からパンチを出すだけの力が残っていなかった。潤子が百合に近づき、ジャブを百合の顔に当てると、百合はこれを避ける素振りすらできずに、顔を揺らしながら後ろに下がり始めた。百合の足取りはとてつもなく重く、ふらついてさえいた。

 潤子は、のろのろと後退を続ける百合の歩調に合わせるように、ゆっくりと百合を追っていった。やがて、百合のお尻が銀色のコーナーマットに触れた。潤子は完全に、百合を銀のコーナーに追い詰めた。

 後ろに下がることができなくなってしまったことを悟った百合は、必死に腕を上げ、ガードを固めようとしたが、その腕は、胸の下までしか上がらなかった。潤子が、軽く百合のボディを叩くと、百合のガードはだらしなく落ちた。

 百合は、一部たりとも自分の身を覆うことができなくなってしまった。百合の怒りの表情は、すでに苦しみと哀しみが混ざり合ったものに変わっていた。


 潤子は、百合の乳房を何度か軽く叩いたあと、百合に身体を近づけた。そして、百合の腋に左腕を掛け、自分の左肩を押し付けるようにして、身体を預けると、空いている右手のグローブを、百合の乳房に押し付けた。

 潤子のパールホワイトのグローブが、百合の乳房を弄ぶと、百合は小さな喘ぎ声を上げた。潤子が、百合の腋から左手を抜き、さらに両手で百合の乳房を練りまわしても、百合には、少しだけ肩をすぼめることしかできなかった。無抵抗になってしまった百合に向かって、潤子は叫んだ。

「こんなことを、してくれるんじゃなかったんですか!」

 屈辱に満ちた辱めと罵声を浴びせられても、百合は表情を変えることすらできなかった。

 潤子が百合の身体から離れると、百合は、ほんの少しだけ、身体の向きを潤子の正面からずらした。百合には、これが自分の身を守るための、できる限りの努力だった。

 そんな百合に向かって、潤子は再び叫んだ。

「それとも、こうですか!」

 潤子は、大きく右腕を振りかぶると、百合の左の乳房に、パールホワイトのグローブを叩き込んだ。百合の叫び声が場内に響いた。そして、もう一度、潤子のグローブが、今度は百合の右の乳房にめり込んだ。

 百合は、再び叫び声を上げ、その場にうずくまった。



Scene. 22



「…… あぅ、……… ぅく、…… ぅぁああぅ、………」

 百合は呻き声を洩らし、両膝と額をキャンバスにつき、両腕で乳房を抱え込んだまま、身体を震わせて、痛みに耐えていた。百合の顔のそばには、吐き出されたマウスピースが転がっていた。固く閉じられた両目からは、涙が滲み出ていた。


 百合の悲鳴が場内に響き渡ってから、一分近くが経った。百合は、額と両肘、両膝をキャンバスについたまま、大きな呼吸を繰り返していた。

 百合への憎しみと、百合を倒すという激しい決意、そして、今まさにそれが成就しようとしているという異常な精神状態が、普段の潤子からは想像もできないような残忍さを、潤子に植え付けていた。

 意識が残っているうちは、百合を許さない。

 泣いても、叫んでも、絶対に百合を許さない。

 潤子は、百合の顔のそばに立ち、百合が立ち上がるのを待った。百合は、潤子の白いシューズに目を向けると、身体を起こし始めた。肘がキャンバスから離れ、黒いグローブのナックルパートが、キャンバスについた。しばらくその体勢で動かなかった百合は、やがて、黒いマウスピースを拾い上げ、それを何とか紅を引いた口で咥え込むと、膝を立てて、ゆっくりと立ち上がった。

 しかし、百合には、涙を堪えている顔を潤子の方に向けて、コーナーマットに寄りかかり、膝を伸ばしているのが精一杯だった。腕はわずかに曲げられているものの、トランクスのベルトラインの高さまでしか上がらなかった。

 潤子は、百合に最後の攻撃を仕掛けた。

 無防備に立ち尽くしている百合に、潤子は強烈な左アッパーを見舞った。百合のアゴが真上にめくり上がり、顔から表情が吹き飛んだ。百合の身体は、銀色のコーナーマットにもたれかかり、ゆっくりと潤子の前に跳ね返ってきた。百合の瞳からは精気が失せ、表情を失った百合の顔が、再び潤子の前に差し出された。

 潤子が力のこもった右フックを百合の顔にめり込ませると、百合はそのままキャンバスに崩れ落ち、大の字に伸びた。最後の一撃で、口から弾き飛ばされた百合のマウスピースは、すでにリングの外に消えていた。

 潤子は、キャンバスに横たわっている百合を鬼のような形相で睨みつけたまま、その場に立ち尽くしていた。百合の両腕は投げ出され、まったくグローブを握る手に力が入っていないのが見て取れた。

 やがて、百合の両足が、かすかに痙攣し始めた。

 潤子は、それを見届け、「終わった」、と心の中で呟いた。

 自分の興奮が静まっていくことを感じた潤子は、ダウンカウントを始めるために、ニュートラルコーナーに向かって歩き出そうとした。そのとき、潤子は、百合と視線が合ったような気がした。

 百合は、焦点がはっきりしない瞳を潤子に向けていた。潤子は、百合の目を見つめたまま、再びその場に佇んだ。そして、潤子の目に、信じられない光景が飛び込んできた。

 百合の頭が、わずかにキャンバスから浮いた。

 百合の瞳は濁ったままだったが、それでも潤子に向けられていた。

 両肘が引き寄せられ、ついには、背中の一部も、キャンバスから離れた。

 両足を痙攣させるまでに打ちのめされても、それでもなお、頑ななまでに負けることを拒み、立ち上がろうとする百合の姿が、そこにあった。

 それでも、百合の痛々しい姿は、主催者が試合をストップさせることを決断させるには、充分過ぎた。

 長いブザーの音が会場に響き渡った。


 試合終了を告げるのブザーが鳴ったあとも、百合は立ち上がろうとする努力を止めなかった。しかし、しばらくすると、やっと負けたことを受け入れたように、百合は全身の力を抜き、再びべったりとキャンバスに仰向けになった。



Scene. 23


 世話人がリングの上に上がり、何とか痙攣が収まった足を伸ばしている百合から、黒いトランクスを引き剥がした。百合は、トランクスの下に黒い単色のアンダーウエアを身につけていたが、試合の契約通りに、これも観客の目の前で、百合の身体から引き剥がされた。そして、その『戦利品』は、潤子に手渡された。


 試合が始まる前、潤子は、もし百合を完全に打ちのめし、百合を丸裸にすることができたら、リングの上で百合の太股を大きく開かせ、その身体を踏みつけて、勝利をアピールするつもりでいた。

 しかし、両手のグローブで百合から奪い取ったリングコスチュームを掴み、その拳を掲げてポーズをとることはしたものの、潤子は、百合の身体を、それ以上蹂躙することは思いとどまった。

 潤子の脳裏に、両足を痙攣させながらも、濁った瞳を潤子に向けて、立ち上がろうと努力する百合の姿が焼きついていた。それほどまでに、最後の最後まで闘志を失わずにいた百合を、必要以上に辱めることが、潤子にはどうしてもできなかった。


 リングの上では、オークションの準備が進められていた。百合は、銀色のコーナーの下まで身体を引き摺り、両腕をだらりと肩から下ろし、コーナーマットを背にして、キャンバスに腰を下ろしていた。潤子は、まだ、百合から奪い取ったリングコスチュームを手にしたまま、オークションが始まるのを、リングの上で待っていた。

 まもなく、オークションが始まろうとしていた。百合の顔には表情が戻っていた。百合は、悲しそうな目で、潤子を見つめていた。

 潤子は、オークショニストと思われる女性に請われて、『戦利品』をその女性に手渡すと、視線を百合の方に向けた。

 百合は、潤子に見られていることを感じても、涙を一杯に溜めている瞳を潤子に向けたままだった。紅が引かれた百合の唇は、への字になり、必死に泣き声を洩らすのを堪えているようだった。

 一筋、…… もう一筋、…… 百合の目から涙がこぼれ落ちた。そして、百合は、潤子には思いもかけない行動を取った。

 潤子の目を見つめたまま、百合は、ゆっくりと股を開いていった。

 百合の剥き出しの性器が、潤子の、そして、たくさんの観客の目の前に晒された。


 潤子の目は、百合の姿に釘付けになっていた。

 百合の行動が、百合の意思によるものであることは疑いようがない。…… 潤子は、自分の目の前で起こった、百合の行動を理解しようと、考えを巡らせた。が、答えは見つからなかった。

 潤子は、百合に向けていた視線を下に落とし、やがて、百合に背を向けた。



Scene. 24


 オークションが進められている最中、潤子はなるべく百合の方を見ないようにしていた。

 やがて、落札者が決まった。潤子はオークショニストの女性と握手をし、再び百合の方に視線を向けた。そこには、相変らず、剥き出しの女性自身を隠そうともせず、大きく股を広げ、ぼろぼろと涙を流したまま、潤子を見つめている百合の姿があった。

 潤子は、どこからリングを降りるべきなのか、少し迷った。自分に割り当てられた銀のコーナーには、百合が座り込んでいる。潤子の心の中には、もう百合に対する憎しみはなかった。敗者となって、リングの上で恥ずかしい姿を晒している百合に対して、憐れみすら覚えていた。そんな百合の目の前を通ってリングを降りるのは、潤子には辛かった。

 潤子は、紘美の言葉を思い出した。紘美は、これから裏のリングに何度か立つことになるであろう潤子に対して、いくつかの助言を行っていた。

「どんなに相手がかわいそうだと思っても、『裏のリング』の上では、絶対にその素振りを見せてはいけない。勝者は敗者に対して、常に無慈悲であること。勝者と敗者の間に存在するコントラストこそが、『裏のリング』という名のショーの、最大の見せ場なのだから。」

 潤子は、あくまで情け容赦のない勝者を装う決意を固め、銀のコーナーからリングを降りることに決めた。

 潤子はもう一度、四方の観客に向かって、両拳のパールホワイトのグローブを高々と上げ、勝者であることをアピールした。そして、リングを降りるために、百合のいる銀色のコーナーに向かって歩き始めた。

 潤子は、ロープをくぐる前に、百合に向かって、勝ち誇ったように、にやりと笑って見せた。百合は、視線を潤子の顔に向けたままだったが、やがて、耐え切れなくなったのか、潤子の顔から視線を逸らし、俯いた。

 潤子は、勝者の表情を崩さないまま、心の中で、「ごめんなさい、百合さん。」と語りかけ、ロープをくぐり、会場の通路に続くステップを降り始めた。

 潤子が絨毯の敷かれた床に降り、二、三歩歩きかけたところで、潤子の耳に、百合の泣き声が聞こえた。それまでの間、百合は、涙を流してはいたものの、泣き声を上げることだけはしていなかった。

 潤子は、百合のことがたまらなく心配になった。潤子はリングの方に向き直り、ステップを一段だけ上がって、百合の様子を見てみた。

 百合は、左手の黒いグローブを顔に押し当て、声を上げて泣いていた。

 百合の太股は、閉じられていた。



scene. 25


 潤子は、鞠子に付き添われ、控室になっているスイートルームに戻ってきた。

「今日は、お疲れさまでした。…… 明日のお昼ぐらいまで、この部屋を使っていただいて結構です。私はこれで一旦失礼いたしますが、食事が必要でしたら、連絡していただければお持ちします。では、ゆっくりお身体を休めてください。」

 鞠子は、潤子からグローブとバンデージを外し、シューズを脱ぐのを手伝うと、そう言って、部屋を出て行った。

 潤子は、靴下を脱いで裸足になると、白いローブの下にトランクスを穿いたままの格好で、スイートルームの豪華なベッドの上に横たわり、天井を眺めながら、百合との試合のことを思い返していた。

 あれほどまでに渇望した、百合との闘いの勝利、それを手にしたにもかかわらず、潤子の心は晴れなかった。『裏のリング』で勝利することの、後味の悪さが潤子を包んでいた。

 百合の乳房を力一杯殴ったこと。…… リングを降りるときに、見下したような視線を百合に投げ、そして百合を嘲ったこと。…… 思い返すと、胸が痛くなった。私は、どうかしていたんだろうか。……

 それと、もう一つ、潤子の心の中に引っ掛かっていることがあった。

 オークションの直前に、百合の取った行動。女性であれば、見られるのが一番恥ずかしいはずの女性自身を、なぜ百合は、自ら晒すような真似をしたのか。…… あのとき百合は、涙を流していた。

 あの光景は、見ているのがとても辛かった。いったいなぜ、………

 潤子は、少しの間考えてみたが、もっともらしい答えに辿り着くことができなかった。


 目を閉じた潤子の頭の中に、もう一つのシーンが蘇ってきた。両足を痙攣させながらも、潤子から目を離さず、立ち上がろうとする百合の姿だった。

 それは、なかなか潤子の頭の中から消えなかった。


 潤子は、初めて『裏のリング』に上がった夜のことを思い出した。

 あの夜、…… 紘美に痛めつけられ、嬲られた、あの夜、…… 私はどうだっただろう。……


 紘美先輩に勝てない、と感じたあと、私は闘うことをやめてしまった。

 私は、紘美先輩に許してもらうことしか考えていなかった。

 許してください。もう、許してください。…… それだけしか考えていなかった。……

 今夜、百合さんは、どんなに苦しくても、最後まで闘うことをやめなかった。……


潤子には、自分がとんでもなく小さい存在であるように思えた。



Scene. 26


 次の朝、潤子は深い眠りから目覚めた。ベッドの横にあるデジタルの時計は、午前十時過ぎを示していた。

 潤子は自分の荷物をまとめ、少しばかり風変わりな控室となった、スイートルーム全体を見回した。こんな豪華な部屋には、二度と泊まることができないかもしれない、と潤子は思った。

 退室の準備ができたことをホテルの内線で伝えると、ほどなく鞠子が潤子の部屋にやってきた。簡単に挨拶を終えると、鞠子は、潤子が気に掛けていたことについて、切り出してきた。

「百合さんのこと、心配なのでしょう。」

「…… はい。」

「大丈夫。まだ痛みは残っているでしょうが、大きなケガはしていません。ちゃんとお医者様からの確認も取れていますよ。…… あなたは、本当に心の優しいお嬢さんですね。試合の前には、心の底から百合さんを憎んでいたはずなのに、試合に勝ったことが決まったすぐあとには、もう百合さんのことを気遣ってらっしゃったようですしね。」

 潤子は、鞠子から視線を逸らし、表情を緩めた。

 情け容赦のない勝者を演じ切ったと、自分では思っていたのだが、鞠子にはそれが通じなかった。

 この人には、隠し事ができない。この人は、何でもお見通しだ、と潤子は思った。

「その通りです。…… 試合の前、そして試合をしている最中も、百合さんが、憎くて憎くてたまりませんでした。…… でも今は、…… 百合さんと会いたい。会って、少しでもお話をしてみたい。そんな風に思います。」

「そうですか。…… あなたがたは、本当は気が合うのかも知れませんね。百合さんも、あなたに会いたがっているようですよ。」

「えっ? 百合さんが?」

「ええ。百合さんのお付きを担当されている方から、先ほど知らせがありました。…… それと、百合さんの控室になっているお部屋は、今日遅い時間まで来客の予定がないそうです。日が暮れる前まで、あと四時間ぐらいなら、そのまま使用しても構わないと、ホテルの方にもお許しをいただいています。百合さんのお部屋に寄られてみて、二人だけでお話をしてみてはいかがでしょう。」

 潤子は、初めて鞠子と出会ったときに、鞠子に対して、「冷徹な女性」という印象を持った。が、それ以来、鞠子と言葉を交わすたびに、どんどん優しさが溢れ出てくる。潤子は、鞠子のそんな魅力を感じ取っていた。そして、鞠子という不思議な存在について、もっと知りたくなった。

「あの、…… 鞠子さんは、いったい、どんな方なのですか。私には、何でも知っていらっしゃる、何でもわかっている。そんな風に思えるのです。…… 私、鞠子さんのことを何も知りません。よろしかったら、何か教えていただけないでしょうか。……」

 潤子は、思い切って、鞠子に尋ねてみた。鞠子は、にっこりと微笑んで、それに答えた。

「確かに、あなたより、少しばかり長生きしていますから、あなたよりもいろいろなことがわかるようですね。…… 私は、『裏のリング』に手を染めている、裏の人間。…… それと、あなたと同じ、凛花で学園生活を過ごした人間、とだけお教えしておきます。…… 今は、これだけで充分でしょう。私には、あまりかかわり合いにならない方が良いのですよ。…… それより、早く百合さんの部屋へ行ってあげてくださいな。きっとお待ちですよ。」

 潤子は、鞠子の言葉を受け止め、顔に微笑を浮かべて、小さく頷いた。

「鞠子さん、私の先輩だったんですね。…… わかりました、そうします。…… 今日は、ありがとうございました。鞠子先輩とは、きっと、『裏のリング』とは別のところで、またお会いできる気がします。そのときにお話を聞かせてください。…… では、失礼いたします。」



Scene. 27


 潤子が、百合の控室に充てられていたスイートルームのドアをノックすると、試合の前にちらりとだけその姿を見た、三十年配の女性が潤子を出迎えた。彼女は、潤子の姿を確認すると、潤子を部屋の中へ招き入れた。

「お待ちしていましたよ、潤子さん。百合さんは、まだベッドの上で休んでおられますが、身体の方は、もう大丈夫のようですから、この点は心配なさらなくても結構ですよ。…… 百合さんは、言葉の端に、あなたに会いたいと洩らしました。それで、あなたのお付の方に、…… 鞠子さん、でしたね …… お知らせしておいたのです。…… 私の前では、百合さんはずいぶん強がって見せていましたが、私には、百合さんが、心の底からあなたに会いたいと願っている気持ちが手に取るようにわかります。…… この部屋がまだしばらく使えることは、鞠子さんからお聞きになっていますか?」

「はい。」

「そうですか。では、ゆっくりしていってくださいね。潤子さんの分も、軽い食事を用意しておきましたので、召し上がってくださいね。それと、鞠子さんにでも、私にでも構いませんので、部屋を出る前に連絡をください。お迎えに上がります。…… それでは、私はこれで失礼いたします。」

 百合のお付きの女性は、にっこりと微笑んでそう言うと、部屋を出て行った。

 潤子の目の前で、静かにスイートルームのドアが閉まった。

 部屋には、潤子と百合だけが残された。


 百合に宛がわれていたスイートルームは、潤子のために用意された部屋よりも広かった。潤子は、ロールパンやフレッシュジュースが載ったプレートが置かれたテーブルのすぐ近くに、百合の居るベッドを見つけることができた。百合は、自分が身を委ねているベッドに近づいてくる潤子に、少しだけ哀しげな視線を落としていた。

 潤子は、ベッドから少し離れたところに置かれていた椅子を引き寄せた。それをベッドの脇に置いて、腰を下ろし、百合を見つめると、百合は潤子から顔を背けてしまった。

 潤子には、百合の表情は、顔を見たくないのではなく、見ることができない、というように映った。事実、潤子には、百合の素振りからは、嫌悪や敵意は微塵も感じ取ることができなかった。

 潤子の目の前に居るのは、無敵を誇った、非情の『ブラック・リリー』ではなかった。

 そこにあったのは、試合に敗れ、勝者となった自分や、大勢のお客様の前に惨めな姿を晒し、身も心も傷ついた、自分と同い年の娘の姿だった。


 前の夜、激しく罵り合い、殴り合った、潤子と百合。

 そして今は、ほんの少しだけ、お互いに心を開こうとしている、潤子と百合。



Scene. 28


「…… 百合さん。…… 昨日は、…… ごめんなさい。」

 長い間の沈黙のあと、潤子はやっと、そう口にした。百合は、潤子から顔を背けたまま、小さく首を横に振った。

 再び、長い沈黙が訪れた。

 潤子は、百合に、憎いという感情を持っていないことを伝えたかったが、そのためのきっかけになりそうな言葉さえ見つからなかった。

 それならば、どうしても気になっていた昨夜の百合の行動のことを、思い切って百合本人に訊いてみよう、と潤子は思った。

「…… あの、…… 一つだけ、訊いてもいいですか? ……… オークションが始まる前、百合さんは、…… あのぅ、…… 股を開きましたよね。……… そのわけを、教えてはいただけませんか? ……」

 潤子がそう問いかけると、百合は身体を覆っていた薄手の布団をたくし上げ、上を向いていた身体を動かして、潤子に背を向けた。

 もちろん、答えたくない質問だろうし、思い出したくもないことなのは容易に推測できる。…… 百合は沈黙したままだった。潤子は、質問したことを後悔した。

 「あ、やっぱり、答えなくてもいいです。」、と潤子が口にしようとした瞬間に、百合が言葉を返してきた。

「わたくしは、あなたに打ちのめされ、敗者になりました。昨日の夜、わたくしは、今まで敗者に強いてきた『義務』を果たしたのです。」

「…………」

「わたくしは、この『裏のリング』で、わたくしと闘ったすべての方を、リングの上で丸裸にしてまいりました。そして、わたくしは、彼女たちに、勝者であるわたくしがリングを降りるまで、顔を隠すこと、股を閉じることを許しませんでした。…… 勝者のために、勝者の栄光を一層際立たせるために、敗者は惨めな姿を晒さねばならない。それは、わたくしが、今までわたくしと闘って敗れた方に強いてきた、敗者の義務だったのです。」

「敗者の義務……」

「試合に勝ったあなたを、より一層強く、美しく見せるために、敗者となったわたくしには、無様で、惨めな姿を晒す義務がある。…… わたくしは、自分が負けることなど、つゆほども考えておりませんでした。…… でも、結果はそうではなかった。…… どんなに受け入れ難いことであろうとも、わたくしだけが敗者の義務から逃げるわけにはまいりません。わたくしは、昨夜、わたくしの前に敗れていった方たちと同じ義務を、わたくし自身に課しただけなのです。」



Last Scene


 潤子は、百合の答えを噛みしめるように聞いていた。

 どんな状況であっても、決して逃げない、精神的な強さ。そして、勝ち負けに対する厳しさと潔さ。

 潤子は、百合の素晴らしさに触れたように感じた。

 しかし、今、目の前にいる百合は、勝者である自分が目の前に居るという事実に押し潰され、強さの裏側にある弱さ、脆さを見せてしまっている。……

 潤子には、百合のことが、とてもいとおしく思えてきた。

 百合のことをもっと知りたい、心を開いて、百合にもっと近づきたい、と潤子は思った。

 それでも、潤子には、百合に語りかける言葉が見つからなかった。


 潤子は、やるせない表情で俯いていた。…… どうしたら、百合に近づけるのだろう。…… そんな想いが、潤子の頭の中を駆け巡った。

 潤子は、百合が再び仰向けになり、自分の方に哀しげな眼差しを向けていることに気付かなかった。

「…… 三崎さん、………」

 潤子が、はっとして百合に視線を戻すと、百合は、恥ずかしいとでも言うように、少しだけ視線を潤子の目からずらした。

「…… あの、…… わたくしと、お友達になってはいただけないでしょうか。……」

 潤子は、呆然として、百合の表情に視線を落としたままだった。百合は、少しだけ辛そうに、言葉を続けた。

「…… 今まで、わたくしには、信頼できる友人、本当に気兼ねなく言葉を交し合える友人が、一人も居りませんでした。…… それは、今までわたくしが他の方々とどのように接してきたのかを考えると、無理のないことなのでしょう。…… 普段、回りの人達すべてを僕のように扱うのは、気持ちのいいものでした。…… でも、心を分かち合える友人がいないという事実は、時として、激しくわたくしを苛みました。…… 夜、寮の部屋で一人で居ると、たまらなく寂しくなることがあるのです。…… それでも、わたくしは、人との接し方を変えることができませんでした。……」

「…………」

「今まで、わたくしは、あなたの前で、大変失礼な振る舞いを続けてまいりました。…… まして、今のわたくしは、敗者の身。…… ほんとうに差し出がましいお願いであることは、重々承知しております。……… でも、これから、あなたと良いお付き合いをすることで、わたくしは生まれ変わることができる。…… わたくしには、そんな気がするのです。……」

 百合が、はっきりと、自分に向かって心を開こうとしている。でも、どう答えて良いのかわからない。

 潤子は言葉に詰まった。

 百合は、相変らず潤子から視線を逸らして、潤子の答えを待っている様子だったが、やがて、さらに哀しげな表情を浮かべ、目を閉じた。

「やはり、こんなわたくしとは、お近づきになっていただけないのでしょうね。……」

 潤子は、表情を緩めて、首を横に振った。潤子は、薄手の布団の上に置かれていた百合の右手を、自分の右手で軽く掴み、引き寄せた。それを感じ取った百合は、潤子の顔へと視線を向け直した。百合の瞳は、涙でうっすらと光っていた。

 そんな百合に、潤子は、できる限りの微笑を向けて、口を開いた。

「そんなことないです。…… いいですよ。私で良かったら、お友達になりましょう。」

「三崎さん。………」

 潤子は、空いている左手も百合の手に添えた。そして、両手に少しだけ力を込めた。

「じゃ、手始めに、その喋り方を何とかしましょうね。私のことは、三崎さん、じゃなくて、潤子、潤ちゃん、って呼んでね。…… えーと、あなたの方は、…… 百合ちゃん、でいいですよね。」

 百合が潤子の言葉に頷くと、百合の目から一筋の涙が流れ落ちた。潤子は、百合の手から左手を外し、百合の涙を指で優しく拭った。

 百合は小さく息を吐き出し、微笑んだ。それは、百合がいつもしていたような、冷たい微笑みとはまったく違う、心を許した相手に喜びを伝えるための、精一杯の笑顔だった。

「ありがとう。」 

 声にはならなかったが、百合の唇が、確かにそう動いた。

 潤子と百合。二人の絆は、このとき、しっかりと結ばれた。





 部屋の中には、柔らかい冬の日差しが差し込んでいた。

 そこには、勝者も敗者もいなかった。

 心を通わせ合うことができた二人の娘は、手を取り合い、いつまでもお互いの存在を感じ合っていた。





「潤子vs百合/裏」 了


戻る