第五ラウンド終了のゴングが鳴った。
安達玲奈(あだち・れいな)は、青コーナーに向かって歩き始めた。
セコンドを務めている三崎潤子(みさき・じゅんこ)は、ゴングが鳴る前からエプロンに上がり、ロープを跨ぐ体勢に入っていた。潤子は、ゴングの音と同時にリングの中になだれ込み、手にしていたアイシングバルーンを素早く玲奈の両目のあたりに押し当て、玲奈の口からマウスピースを抜き取ると、玲奈の身体を片手で抱きかかえるようにして青コーナーへ連れ戻り、玲奈をストゥールに座らせた。
試合が始まってからここまで、試合の主導権は、相手の、雅ヶ丘女学園の二年生に完全に握られていた。紫色のトップスとトランクスを身につけた、潤子と同じ学年の雅ヶ丘の二年生は、長いリーチを生かし、玲奈を徹底的にアウトボックスしていた。玲奈との距離を冷静に保ち、玲奈の顔にジャブの嵐を降らせ続けていた。
終わったばかりの第五ラウンド、玲奈のパンチは一発も相手に当たらなかった。ただただ、顔に相手のジャブをもらい続けただけの三分間だった。玲奈はこれまでに一度もダウンしていなかったが、玲奈の両の瞼は大きく腫れ上がり、視界が残っているのかさえ疑わしいような有様だった。
潤子は、目の前で荒い呼吸を繰り返している玲奈に声をかけた。
「もう、やめましょう、玲奈先輩。…… もう、これ以上、……」
「駄目よ。…… 私はまだやれる。…… 絶対にタオルを投げないでね。……」
玲奈は、潤子の言葉を途中で遮った。
悔しい。
絶対にこのままでは終わりたくない、と玲奈は思っていた。
玲奈の対抗戦での戦績は、極めて平凡なものだった。デビュー戦こそ相手の娘を一ラウンドTKOで仕留めたが、それ以降はKO、TKOでの勝ちはなく、トータルで見ても、負けた回数の方が勝ちよりも少し多い。それでも、ボクシングに関しては四園の中で一番格下と見られている凛花の中にあっては、玲奈の戦績は、かなりましな部類ではあった。
七月初めのある日、玲奈は、部室のデスクで、出来上がったばかりの夏季対抗戦プログラムに目を通していた。自分の対戦が記されているページを見つけると、玲奈は少し憤りを感じた。
第17試合<SR> 黒川百合(雅丘A:Fe) × 安達玲奈(凛花C:Fe)
年三回の対抗戦は、市内の四園が持ち回りで幹事を担当することになっていて、マッチメイクの権限は、すべて幹事を務める園に委ねられる。その年の夏季対抗戦は、雅ヶ丘が幹事園となっていた。
それにしても、相手が二年生とは。私もずいぶん嘗められたもんだ、と玲奈は思った。右側に名前が書いてあるので、玲奈は青コーナーということになる。幹事園の選手は常に赤コーナーという決まりごとがあるために、自分が青コーナーに追いやられるのも、癪に触った。
それでも、二年生が出場する試合であるにも拘わらず、六ラウンド/フリーノックダウン制のシニアルールを採用する旨の表記<SR>がある。相手の娘は、それなりの実力があるのかも知れない。
「…… 黒川百合、…… くろかわ・ゆり、……」
玲奈は相手の娘の名前を何度か口ずさみ、過去の記憶を辿っていった。二年生なのだから、その前の年の二度の対抗戦に出場しているはずで、もし実力者なら、何がしか印象に残っているはずだ、と玲奈は思っていた。しかし、玲奈は、その人物にはまったく思い当たらなかった。
玲奈は首をかしげると、デスクの中から前の年の学年末対抗戦のプログラムを取り出し、巻末の登録選手一覧に目を通してみたが、その中にも、黒川百合の名前は見当たらなかった。
玲奈が考え込んでいるところへ、同じ四年生の部員が部室の中に入ってきた。玲奈は、この部員が雅ヶ丘のボクシング部に何人か友人がいることを思い出し、その娘をつかまえ、対戦相手のことを尋ねてみた。
「ねえ、この『黒川百合』って娘、知ってる?」
「…… ちょっと待って。・・・・ うーん。……」
四年生の部員は、しばらく腕を組んで、黒川百合という娘について何か思い出そうとしていた。二十秒ぐらいたって、その娘は口を開いた。
「確かねぇ、今年からボクシングの試合にも出る娘が一人いるらしくて、そんな名前だったなぁ。……
うーん、…… 黒川百合、…… うん、思い出した。そうよ。きっとその娘ね。去年はレスリング部に居たんだけど、レスリングだけじゃ物足りないからって、二年に上がってからボクシング部にも掛け持ちで入部したみたいなの。レスリングは上級生もまったくかなわないぐらい強くて、ボクシングの方も、もうかなりの腕前みたいよ。」
『レスリングだけじゃ物足りない』、『掛け持ちで』、という言葉に、玲奈は敏感に反応した。
いかに相手の娘が優れたレスラーであったとしても、片手間の感覚でボクシングの公式戦に出るような娘に、ボクシングだけに精進している自分が簡単に負けるわけには行かない。まして相手は二年生で、対抗戦には初めて出場する娘なのだ。
玲奈は、もともと勝ち負けへの執着はそれほどでもなく、大切なのは日々の努力であって、一生懸命闘って負けてしまうのは、それはそれで仕方がない、と考えるタイプだった。しかし、この試合だけは負けたくない。何としても、相手の娘に一泡吹かせてやりたい、と玲奈は思った。
それは、四年生として、部長として、そして、ボクサーとしてのプライドだった。
「セコンドアウト」が場内に告げられた。
潤子は玲奈にマウスピースを咥えさせ、アイシングバルーンを玲奈の目に当てたまま、ロープを跨いだ。
やがて、最終ラウンド開始のゴングが鳴った。玲奈は大きく深呼吸すると、リングの中央に向かって進み始めた。
しばらくの間、それまでのラウンドとまったく同じ光景がリングの上で繰り返された。ときおり玲奈が放つ大きなパンチを確実に避けながら、百合は玲奈の顔にジャブを浴びせ続けた。
ラウンド開始から一分が過ぎようとしたとき、玲奈は突然、自分からパンチを振るのを止め、両手の青いグローブで顔を完全に覆って後退し始めた。百合は、玲奈の変化に気付くと、玲奈に素早く近づき、鋭い振りのフックを左右一発ずつ、玲奈のボディに打ち込んだ。玲奈は身体を丸め、さらに後退した。
ロープに詰まってしまった玲奈に、百合は容赦なく襲い掛かった。百合は、玲奈のガードの上から、強烈なパンチを、何発も玲奈に浴びせた。玲奈は、必死にガードを固めているものの、ときおり百合が放つボディブローを食らい、身体を沈み込ませていった。
やがて、レフェリーがスタンディングダウンを取るために、二人の間に割って入った。同時に、リングドクターが、この試合が始まってから二度目の短いブザーを鳴らした。レフェリーは、玲奈にダウンを宣告し、事務的にエイトカウントを取ると、玲奈の腕を引いてドクターの前に連れて行った。
玲奈は両手のグローブを上段ロープの上に置き、大きく口を開けて、呼吸を繰り返した。リングドクターの女性は、親指の腹を慎重に操って、玲奈の瞼の状態を確かめていた。
「大丈夫? まだ、続けられる?」
玲奈はドクターの指から顔を離すと、俯いて、マウスピースを噛みしめた。玲奈は、ドクターの言葉を、肯定も、否定もしなかったが、ドクターは、玲奈が何を想っているのかを悟った。
「…… もう、見えないのね。……」
塞がってしまった玲奈の目から、涙が滲み出た。玲奈は俯いたまま、しばらくの間じっとしていたが、やがて小さく頷いた。
「あなたは、本当によく頑張ったわ。………」
玲奈に言葉をかけると、ドクターは玲奈の頭を優しく抱え込んだ。ドクターから目で合図を受け取ったレフェリーは、タイムキーパーに向かって、顔の前で両肘から先を交差させた。
試合終了を告げるゴングが打ち鳴らされた。
リングの上では、レフェリーに右手を上げられた百合が、試合中と同じように、傷ひとつ負っていない顔に冷たい笑みを浮かべ、ドクターに抱かれている玲奈を見つめていた。
試合が終わったあと、玲奈は、この試合のリングドクターを務めていた女性から、厚い手当を受けていた。ドクターのこの日の担当は、玲奈の試合が最後だったので、彼女は、リングの上で玲奈の応急手当を済ませたあとも、控室まで玲奈に付き添い、長い時間をかけて玲奈の瞼の腫れを少しでも和らげようと努力した。手当が終わったあと、玲奈の額から鼻の付け根までの間には、白い包帯が何重にも巻かれていた。
凛花の選手に割り当てられた控室は、とてつもなく重い雰囲気に包まれていた。
この日、玲奈を含めて、出場した五人全員が負けた。そして最後に、部長である玲奈が、両目を塞がれて、ドクターに試合を止められるという屈辱的な負け方をした。
「明日も試合が残ってるんだよ。今日のことは今日のこと。さあ、元気を出していこう。」
手当を終えた玲奈が、周りにいるであろう部員を気遣って、一人で声を出していた。しかし、顔に包帯を巻かれた玲奈の姿はあまりにも痛々しかった。玲奈の声に呼応するものもなく、全員が俯き、口を閉じてしまっていた。
その中でも、二日前に、この対抗戦で凛花の選手の中では数少ない勝ちを収めていた潤子の落ち込みようは、一番酷かった。
セコンドとして、私は、取り返しのつかないエラーを犯してしまった。
自分が下級生だから、試合を止められなかった、というのは理由にならない。
私は、第五ラウンドが終わったとき、玲奈先輩を説得すべきだった。
絶対に、最終ラウンドのリングに、玲奈先輩を送り出してはいけなかった。……
この先何日か、玲奈先輩は、何も見ることができない生活を送らなければならないだろう。
玲奈先輩の目から最後の光を奪い取ったのは、私なんだ。……
潤子は、玲奈の両目が完全に塞がるまで試合を止めることができなかったことを、激しく悔いていた。潤子は、両手で顔を覆って泣いていた。潤子には、包帯を巻かれた玲奈の顔を見ることができなかった。
夏休みが終わり、凛花女子学園ボクシング部の練習場には、部員たちがサンドバッグを叩く音が響いていた。その中には、玲奈の姿もあった。玲奈は、瞼の治療のため、夏休みの間、基礎体力を維持する程度の練習しかできなかったが、ようやくその傷も癒え、玲奈は、鬱憤を晴らすように、積極的に身体を動かしていた。
九月中旬のある日、玲奈は部室のデスクで、秋季対抗戦の資料に目を通していた。この年の秋季対抗戦は、凛花が幹事園を担当する。マネージャーに当たる部員がほとんどの事務作業はこなしてはくれるものの、部長である玲奈がまったく無縁というわけにはいかない。何で私が担当する年に、よりによって、秋季対抗戦の幹事が回ってくるんだろう。これさえなければ、部長の仕事はもっと楽しいんだけど。……
相変らず、苦手なデスクワークに、玲奈は手を焼いていた。
部室のドアを叩く音が聞こえた。玲奈が中に入るように促すと、潤子がドアを開け、一礼して部屋の中に入ってきた。
「お忙しいところ、申し訳ありません。…… お話があるんですが、今、よろしいですか?」
「ええ、大丈夫よ。ああ、立っていないで、その椅子にかけなさい。」
玲奈は微笑を浮かべて、デスクの反対側に置かれている椅子を掌で指し示した。潤子はそれを受け、椅子に腰を下ろし、デスク越しに玲奈と向かい合った。潤子は、特にもったいぶる様子もなく、すぐに用件を切り出した。
「あのぅ、…… 私、登録階級を一つ上げたいんですけど。……」
玲奈は、しばらく潤子の顔色を窺っていた。玲奈には、潤子が何を考えているのか、うすうす見等がついていた。玲奈は視線を潤子に向けたまま、潤子の正面に向けていた顔の角度を少しだけ横にずらした。
「三崎さん、あなた、私の敵討ちをしよう、とか考えてない?」
「…… それは、…… 確かに、黒川さんと闘ってみたいのは事実ですが、……」
潤子は、恥ずかしそうに頬を染めた。確かに、潤子が階級変更を決断した大きなきっかけは、百合と闘いたいということに間違いはなかった。
しかし、潤子が、今のバンタム級から、フェザー級へ階級を上げることについては、それ以外にまったく根拠がないわけではなかった。
もともと潤子は、どちらかというと身体の線が細いタイプだった。が、練習で身体を鍛えることで、筋肉がつき始めた潤子は、バンタム級の体重を維持するのが少し困難になってきていた。ここ二回ほど、競技登録選手に義務付けられている定期検診で、許容範囲上限であるバンタム級のリミットプラス三ポンドをクリアするために、少しだけではあったが、潤子は減量をしなければならなかった。また、前回の対抗戦直前には、五ポンド近い減量が必要な身体になってしまっていた。
玲奈は、潤子本人から希望があった以上、この際、自分と同じフェザー級に潤子の階級を変更すべきなのだろう、と思った。
潤子は、凛花の中にあっては、勝ちが見込める数少ない選手の一人になっている。次の対抗戦である秋季大会では、園の階級代表選手を選ばなければならない。凛花には、三年生、四年生のバンタム級の部員に、有力な選手がいなかった。玲奈は、二年生ではあるが、次の秋季対抗戦で潤子をバンタム級代表に選ぶつもりでいた。
潤子がバンタム級から抜けると、代表戦レベルでは、確実に負ける選手を選ばねばならなくなる。………
それなら、フェザー級の選手としては比較的体重に余裕がある自分が、もう一段身体を絞り込んで、バンタム級に階級を落とすのはどうか。今では、ほんの少しだけ自分の方が体重はあるが、体つきを考えると、バンタム級のリミットまでの減量が楽なのは、恐らく潤子より自分の方だろう。
自分がバンタム級で、潤子がフェザー級の代表である方が、むしろ自然な形なのではないだろうか。
本当にそれでいいのか、玲奈は良く考えてみた。潤子の方は特に問題はないが、玲奈がバンタム級に階級変更して秋季対抗戦に出場するためには、半月後の定期検診までに最低でも四ポンドの減量が必要になる。試合までに、さらに三ポンド。……
そのぐらいなら何とかなる。自分と潤子の力を対抗戦にぶつけるためには、それがベストの選択だ。
決めるのは今しかない。今を逃すと、軽量側への階級変更は間に合わない。今、腹をくくらないと、バンタム級の選手として、秋季対抗戦のリングに立つことができなくなる。
玲奈は決断を下した。
「わかりました。では、三崎さんには、フェザー級に階級変更した上で、秋季対抗戦で、園のフェザー級代表として出場していただくことにします。」
「えっ、私がフェザー級の代表ですか? 玲奈先輩じゃないんですか?」
「そうです。あなたが凛花のフェザー級代表です。私は、バンタム級に階級を落として、バンタム級の代表で、秋季対抗戦を闘います。」
玲奈は、明らかにバンタム級への転向が成功しているように見えた。減量は予想より遥かにスムーズに行なうことができた。余計な肉だけが落ち、玲奈の身体は、一段と引き締まったものになった。何より身体が軽い。今までフェザー級で試合を続けていたことを少し後悔するほど、玲奈は生き生きと練習に取り組んでいた。
一方の潤子も、体重のコントロールから開放され、どんどん逞しくなっていった。戦術的には、アウトボックス一辺倒では駄目だ、ということで、潤子は、『裏のリング』での敗戦以来、ボクサーファイターにスタイルを変えていたが、それもすっかり板についてきた。
雅ヶ丘や若草山に比べると、格段に劣る練習環境の中にあっても、潤子は確実に成長を続けていた。凛花のボクシング部には、まともに潤子のスパーリングパートナーを務められる選手はいなくなっていた。いつしか、玲奈でさえ、まったく潤子の相手にならなくなってしまった。
そんな潤子のスパーリングパートナーに、この春に凛花を卒園した、前ボクシング部長の西園寺紘美(さいおんじ・ひろみ)が名乗りを上げた。紘美は、自分の仕事が休みの日には、できるだけ園を訪れ、潤子のスパーに付き合うように努力した。
紘美が協力することで、潤子のレベルは飛躍的に伸びていった。自分よりリーチが長い選手と闘うときのコツや、絶対に打たれてはいけない急所の守り方など、潤子は、紘美の技術をむさぼるように吸収していった。『裏のリング』で対戦したときには、潤子は紘美にまったく刃が立たなかったが、この頃になると、多少押され気味にはなってしまうものの、潤子は、対等近くにまで、紘美と渡り合えるようになっていた。
十一月の初旬。あと三週間で、各園ボクシング部にとって最大のイベント、秋季対抗戦が幕を開ける。
玲奈は、運動部会館のミーティングルームの、大きなテーブルの席についたまま、終わったばかりのミーティングのことを思い返していた。今しがた、玲奈の目の前で、全部で百試合を超える、すべての対戦カードが決まったばかりだった。
マッチメイクは、幹事園としての、大きな仕事の一つになっている。夏季と学年末の大会については、すべて幹事園がその任を負うが、秋季大会だけは、階級別の代表トーナメントが行われる関係上、幹事園以外から、部長が代表選手を記入した用紙を持ち寄り、トーナメントの組み合わせ抽選の立会いも兼ねることになっている。
玲奈は、自分のことはともかく、潤子の対戦相手のことが気になっていた。特に、雅ヶ丘のフェザー級代表は誰なのか、玲奈は一刻も早くそれが知りたかった。
ミーティングの始めに、まず各園から、代表トーナメント出場選手を記入した書面の提出があった。
玲奈は進行役として、各園の部長から、それぞれの園の階級代表が記入された用紙を集めて回ったが、その際、雅ヶ丘の代表選手が記された用紙に目を通していた。
各級代表選手の学年欄に『4』の数字が並ぶ中、フェザー級代表の欄には『2』と書かれていた。……
名前は、…… 黒川百合。……
玲奈が何となく予想していた通り、百合は、上級生の選手を押しのけて、雅ヶ丘のフェザー級代表を勝ち取っていた。
引き続き、トーナメントの組み合わせ抽選が行われた。玲奈は、バンタム級代表の中では、もっとも強いと評価されている雅ヶ丘の選手と、初日の準決勝を闘うことになった。
潤子は、若草山代表の四年生との試合が決まった。百合の相手は盛華館の娘だが、普通に考えれば、勝ち上がるのは百合だ。潤子が若草山の代表選手との試合に勝てば、百合と闘うことになる。
フェザー級の各園代表の四人を比べると、ミーティング以前に提出されていた資料では、潤子の相手である若草山の娘が一番評価が高かった。が、百合とすでに一戦を交え、また、潤子の日々の成長を見てきた玲奈の感触では、恐らく、潤子や百合の方が若草山の代表より上、潤子と百合のどちらが強いかは、……
闘ってみないとわからない、だった。
自分が考えているフェザー級代表の力関係について、玲奈はそれほど自信があるわけではなかったが、少なくとも、潤子が決勝に勝ち上がれる目は充分にある、と玲奈は思った。
トーナメントの組み合わせ抽選が終わると、凛花以外の園の部長は御役御免となり、ミーティングから外れた。この時点でミーティングルームに残っていたのは、玲奈と、西園寺紘美、それと荻野鞠子(おぎの・まりこ)の三人だけになっていた。
ここから先のことは、玲奈には、何がどうなっているのか良くわからなかった。
鞠子は、『裏のリング』と繋がりのある才媛だったが、このミーティングの場で、異様なまでの事務処理能力、マッチメイキングの能力を発揮した。それは、玲奈の理解の範疇を遥かに凌駕していた。
鞠子は、持ち込んでいたノート型パソコンを開くと、紘美の手助けを借りて、あらかじめ各園から提出されていた登録選手のデータを、目にも止まらぬ速さで入力していった。
この時点で、すでに全試合スケジュールの仮モデルができ上がっていた。鞠子は、マッチメイクに必要な選手のデータを打ち込むだけで、対抗戦のスケジューリングが行えるソフトウエアを自作してきていた。
それが終わると、鞠子と紘美とで、パソコンのモニタを覗き込みながら、確認作業とスケジュールの微調整を行った。玲奈が呆然と二人の作業を眺めていると、鞠子はおもむろにパソコンからフロッピーディスクを引き抜き、それを玲奈に手渡した。玲奈には、手渡されたフロッピーディスクに何が記録されているのか、皆目見等がつかなかった。
「ディスクの中に七日分のスケジュールが入っているから、印刷して、最終チェックをしておいてくださいね。トーナメントの組み合わせ以外なら、あなたの権限で組み合わせを変えても構いませんよ。……
じゃ、あとはよろしく頼みます、部長さん。」
秋季対抗戦が開幕する日がやってきた。
対抗戦の初日は、開会式の後、代表選手の準決勝に当たる試合だけが行われる。体重の軽いクラスから順番に、八クラスで二試合ずつ、計十六試合。この試合に勝った選手同士が、六日後の日程最終日に、決勝を闘うことになる。
潤子は、すでにグローブをつけ、控室の中で軽く身体を動かしていた。
潤子の試合の一つ前に行われている玲奈の試合が始まってから、もう二十分近く経っているはずだ。自分をフェザー級に上げるために、玲奈がバンタム級に階級を変更したのではないか。……
その想いは、かすかではあったが、潤子の心の中に引っ掛かっていた。潤子は、玲奈の試合が気になって仕方がなかった。
控室のドアの前で足音がした。足音は控室の前で止まり、ドアが開いた。
ドアを開けたのは、白いTシャツを着た凛花の一年生部員だった。その娘は、ドアを開けるとすぐ、控室の前の廊下に目を遣った。
まもなく、両腕を二人の二年生部員に抱えられた玲奈が控室に入ってきた。
左目の回りが真っ赤に腫れ上がっていた。玲奈の顔の下半分に押し当てられている白いタオルには、大きな赤いシミがところどころについていた。玲奈が身に付けている、白いトップスと白いトランクスにも、いたるところに血の跡が残っていた。タオルを変えるために、それまで使っていたタオルを玲奈の顔から離すと、玲奈の鼻の穴から、一筋、血が垂れてきた。唇にも、切れた痕がはっきりと残っていた。
しかし、両肩を支えられてはいるものの、顔に残っている闘いの傷痕に比べると、玲奈の足取りはしっかりしていた。玲奈は、潤子の姿を見つけると、大きなため息をついた後、少しだけ自嘲気味に微笑み、潤子に声をかけた。
「…… 見ての通りよ。…… 頑張ったんだけど、…… 駄目だった。……」
「玲奈先輩! しゃべっちゃ駄目です!!」
玲奈の両側で玲奈を支えていた部員は、玲奈を控室のベッドに、仰向けに寝かせた。一人の部員が、玲奈からグローブを引き剥がし、バンデージに鋏を入れた。その作業に自分の手を任せていた玲奈は、潤子の方に顔を向け、潤子の目を見つめた。苦しそうに大きく呼吸を続けながら、玲奈は再び口を開いた。
「…… 今日の試合が、私の、園生としての、最後の試合になっちゃったわね。………
勝てなかったけど、…… 今日の試合は、間違いなく、私のベストファイトだった。………
悔いはないわ。…… でも、……」
潤子は、玲奈が自分に何かを伝えたがっているような気がしてならなかった。潤子は、必死に自分に語りかけている玲奈の言葉を、噛みしめるように聞いていた。
「…… でも、あなたは、勝たなきゃ駄目。…… 私と同じ、一生懸命頑張ったんだけど負けました、じゃ駄目なの。…… 黒川さんと闘いたいんでしょう? …… だったら、今日の試合は負けちゃいけない。…… 今日の相手だって強敵よ。…… でも、その娘に勝てないと、…… 黒川さんとは闘えないのよ。」
潤子には、玲奈の気持ちが痛いほどわかった。今日の試合に勝つことが、そのまま玲奈の恩に報いることになる。潤子は少しだけ瞳を潤ませたが、精一杯の笑顔を玲奈に向けると、大きな声で玲奈の檄に応えた。
「大丈夫です。絶対に勝ちます。必ず、勝ってこの部屋に戻ってきます。」
潤子は、玲奈の目の前で右手のグローブを力一杯握り締めると、セコンドを務めてもらう、三年生の先輩に向かって言った。
「じゃ、行きましょう。よろしくお願いします。」
玲奈の言葉の通り、相手の選手は強敵だったが、潤子は明らかに実力で勝っていた。身長でわずかに潤子を上回っていた相手の娘は、試合開始から長いリーチを生かし、ジャブを主体に試合を組み立てて来た。しかし、紘美とのスパーリングで、潤子はアウトボックス対策を充分に会得していた。潤子は素早く相手の懐に潜り込み、ショートレンジのボディブローを打ち続け、序盤から主導権を奪った。
第四ラウンドの後半まで来る頃には、潤子は相手のスタミナをほとんど奪い尽くしていた。潤子は、足が止まった相手をじりじりとコーナーに追い込むと、一気にラッシュをかけた。身体を丸めて、顔をガードしているだけになってしまった相手の娘に、潤子は容赦なくボディブローを打ち込んだ。やがて、相手の娘は、頭を抱えた格好のままキャンバスにうずくまった。そして、はあはあと呼吸を繰り返すだけになり、そのままテンカウントを聞いた。
潤子は、勝利が決まったリングの上で、何度も両手の拳を握り締めた。潤子にとって、この一勝は、ただのKO勝ち以上の価値があった。潤子の両目のあたりは少しだけ腫れ上がっていたが、潤子は、ほとんど無傷のまま、準決勝を勝ち上がることができた。
これで心置きなく百合と闘える。潤子の喜びは、ひとしおだった。
潤子がしっかりとした足取りで控室に戻ると、部屋の中にいた全員が、潤子に祝福の言葉をかけた。玲奈はまだベッドに寝かされたままだったが、潤子と目が合うと、「おめでとう」と言いたげに頷いた後、潤子にアドバイスを送った。
「このあと、黒川さんの試合があるわよ。順当に行けば、彼女が勝ち上がるわ。彼女の試合、見ておいた方がいいんじゃない?
今からなら、多分間に合うわよ。」
玲奈の言う通り、潤子は百合の試合が気になっていた。潤子は、グローブとバンデージを近くにいた部員に外してもらうと、リングコスチュームの上に、ジャージの上下を身に付けた。
「すみません。じゃ、ちょっと見てきます。」 と言い残し、潤子は控室を後にした。
潤子は、試合会場へ通じる通路を歩いていた。あと少しで会場に出る、という場所にある角を曲がると、久美子という名前の、潤子と同じクラスの娘が、潤子の方に向かって歩いてきていた。久美子はボクシング部に籍を置いてはいたが、いわゆる『掛け持ち組』で、競技選手登録をしていない。この日、久美子は、潤子の応援を兼ね、会場に足を運んでいた。
久美子は、控室で潤子を激励した後、玲奈の試合、潤子の試合と、その試合の次に行われる、フェザー級準決勝のもう一試合を見てから一度控室に戻ると、潤子や他の部員に告げて、控室を出て行っていた。
「あ、潤ちゃん。」
「あれ? 久美ちゃん。…… どうしたの? もしかして、もう終わっちゃったの?」
「うん、やっぱり雅ヶ丘の人が勝ったよ。…… 黒川さん、…… だったよね。」
「ええ、…… でも、ずいぶん早かったわね。…… で、どんな感じだった?」
クラスメイトである潤子が試合に勝ったにもかかわらず、久美子が潤子と顔を合わせたとき、久美子の表情に翳りがあったことに、潤子は気付いていた。潤子が百合の試合のことを尋ねると、久美子の表情はさらに暗くなり、潤子の顔から目を背け、俯いてしまった。
「……………… 話したくない。………」
「…… そんな、…… 私なら大丈夫よ。何があったの? ね、教えてくれない?」
潤子に促されて、久美子は重い口を開いた。
「………… 酷い試合だった。…… 相手の、盛華館の人、何もできなかったよ。……
試合が始まってすぐに、黒川さんのフックを、まともにもらっちゃって、……
あっという間に、コーナーに追い込まれて、めった打ちに、………… そのうちに、ガードもできなくなっちゃって、……
ダウンする前に、レフェリーが試合を止めたんだけど、…… 立ったまま、失神しちゃってたみたいなの。……
そのまま、キャンバスに倒れて、…… 身体中、痙攣しちゃってて、………」
「…………」
「…… それだけじゃない。…… 黒川さん、…… 笑ってた。…… リングの上では、少しだけ相手を気遣ってるような仕草をしてたけど、……
黒川さんがリングを降りるときに、私、見たんだ。…… 間違いない。口元に笑みを浮かべてた。…………
酷いよ。……」
久美子は、潤子の両腕を強く掴んだ。久美子の瞳には、涙が溢れていた。
「潤ちゃん、決勝であの人と当たるんでしょう? 私、潤ちゃんがあんな風になるの、絶対に見たくない。……
決勝の日、会場に来るのやめようかな。……」
潤子は、大きなため息を一つついた後、久美子の肩に手をかけた。久美子が潤子の顔を見つめると、潤子は久美子に向かって微笑んだ。
「大丈夫。私だって、伊達に勝ち上がったわけじゃないんだよ。決勝も勝てるかどうかはわからないけど、精一杯頑張る。だから、決勝の日も応援に来てね。……
じゃ、一緒に控室に戻ろっか。… ね。」
久美子が頷くと、潤子は久美子と手を繋ぎ、久美子と一緒に、控室への通路を戻っていった。久美子は何も言わず、下を向いたまま歩いた。久美子は、ときおり、空いている方の右手で涙を拭っていた。
秋季対抗戦の最終日、年に一度の、階級別のチャンピオンが決まる日になった。
全部で八階級分行われる決勝戦のうち、潤子が出場するフェザー級の決勝は、俄然注目を集めていた。
理由は、何と言っても、決勝のカードとしては極めて稀な、二年生同士の対決だということだった。決勝に駒を進めた二人は、決してフロックで勝ち上がったわけではなく、二人とも、準決勝で相手の四年生を堂々と打ち破っていた。
潤子と百合。二人の戦績も申し分のないものだった。ここまで、潤子の対抗戦の成績は、四戦四勝四KO。そして百合の方も、二年生になってからの対抗戦デビューではあったが、こちらも二戦二勝二KOで、いずれも上級生に当たる選手をまったく寄せ付けずに連勝していた。
百合は、一年のときからレスリングの公式戦に出場していたが、その圧倒的な強さと、情け容赦のない戦いぶりから、名前と掛け合わせて、『雅ヶ丘の黒百合』、『ブラック・リリー』とニックネームがつくほどの、有名な選手だった。
百合自身、このニックネームがお気に入りだった。百合は、普段、園でボクシング部の活動をするときに身に付けているトランクスにも、黒い百合の花が描かれているものを、いつも使用しているほどだった。
その『ブラック・リリー』が、ボクシングの試合でも圧倒的な強さを見せ、チャンピオンメダルに王手をかけている。対する潤子も、準決勝で、下馬評では優勝候補と目されていた選手を実力で捩じ伏せている。未知数の能力を秘めた二人の対戦は、この日の話題を独占していた。
玲奈の顔は、まだ目の周りの腫れが引いていなかったので、この日まで、玲奈は、他の部員の試合ではセコンドに付くことを自重していた。が、日程の最終日に当たるこの日、玲奈は潤子のセコンドにつきたいと思っていた。部員の中で、一人だけ準決勝を勝ち上がり、最終日にたった一人だけ試合を残している潤子を、そばで見守り、できる限りのサポートをしてあげたい。それが部長の務めだ、と玲奈は考えていた。
潤子も、玲奈がセコンドにつくことを、強く希望していた。
凛花の控室に、バンタム級の決勝が終わった、と連絡が入った。
肩に大きな白いタオルを掛け、控室の中で身体を動かし続けていた潤子は、控室に残っていた数人の部員の方に顔を向け、「じゃ、行ってきます。」と声をかけた。
潤子は、白いTシャツ、白いジャージーパンツを穿いた玲奈に先導されて、控室を出て、会場に通じる通路を歩き始めた。
秋季対抗戦代表トーナメントのフェザー級決勝、第一ラウンドを終えて、潤子は赤コーナーに置かれたストゥールに腰を下ろした。
「ずいぶん派手にやり合ったわね。興奮するのはわかるけど、そんなんじゃ六ラウンド持たないわよ。……
お互いにね。」
一ラウンドだけを消化したとは思えないほど、荒く、大きな呼吸を続けている潤子の口に水を注ぎながら、玲奈は、潤子に声をかけた。
少しの間だけは、互いに牽制し合うような立ち上がりだった。
試合が始まったとき、百合は、それまでの試合と同じように、相手を見下ろすような、冷ややかな眼差しを潤子に向けていた。しかし、潤子の鋭いジャブが百合の顔にヒットすると、百合の表情は明らかに変わっていった。冷たい眼差しは、徐々に真剣味を帯び、やがて、獲物を狙う猛獣のようなものになった。
試合開始から一分ほど経ったとき、百合が強引に左右のフックを振り、これをかわした潤子がフックを振り返したことをきっかけに、いきなり激しい攻防が始まった。ミドルレンジからお互いに鋭いジャブを突つき合い、どちらかが大きなパンチを振ると、これを間一髪でかわした相手側がすかざす反撃に出る。二年生同士とはとても思えない、クリンチ一切なしの、極めてレベルの高い、そして激しい攻防は、ラウンドが終わるまで、絶え間なく続いた。
第一ラウンド終了のゴングが鳴ったあと、二人はしばらくの間、リングの真ん中で、火花が散るような睨み合いまで演じた。それが終わって、二人がそれぞれのコーナーへ向かって歩き出すと、それまで静まり返っていた観衆から、歓声と拍手が巻き起こった。注目の対戦は、回りの期待をまったく裏切らなかった。
玲奈は、潤子の成長ぶりを間近で感じ取っていた。ボクシングを始めて間もないはずの百合の実力は、玲奈の予想を遥かに凌いでいたが、それにまったく引けを取らずに応戦した潤子の力も、同様に玲奈の想像し得る範囲を、すでに突き抜けていた。
この試合は、どんな結果になろうとも、間違いなく一生忘れることのないものになる、と玲奈は確信していた。その試合に、セコンドとして立ち会えることに、玲奈は感謝すらしていた。
場内に、「セコンドアウト」がコールされた。
玲奈は、ストゥールから腰を上げた潤子の口にマウスピースを戻すと、ロープを跨ぎながら、再び潤子に声をかけた。
「次のラウンドは、もう少し冷静にね。じゃ、頑張って。」
潤子は、大きく呼吸を繰り返しながら、玲奈に向かって頷いた。潤子の瞳は、試合をすることが嬉しくてたまらない、とでも訴えるかのように、きらきらと輝いていた。
第二ラウンド開始のゴンクが鳴った。潤子は、リングの中央に向かって歩き始めた。
玲奈の指示通り、潤子は、第二ラウンドから、攻めのバランスをアウトボックス側にシフトした。無駄に大振りせず、ジャブを多用し、潤子は冷静に百合の動きに応じていた。
百合は、ミドルレンジでの戦いでは分がないと見たのか、潤子とは対照的にインファイトに打って出て来た。潤子のジャブに手を焼きながらも、ガードを固めて潤子に接近し、ボディを打って、あわよくば大きなパンチを当てようとしているようだった。
潤子は、そんな百合の戦略にもうまく対応していた。百合の強烈なボディブローに、何度か顔を歪めることもあったが、近づいてきた百合に対して、顔へのパンチだけは確実にガードし、振り幅の短いフックなどを織り交ぜて、潤子は巧みに試合を進めていた。
第二ラウンド、試合の主導権は、どちらかと言うと潤子が握っていた。そして、第三ラウンド、第四ラウンドと進むに連れ、潤子の優位は揺るがないものになってきていた。百合の両目の周りは、腫れが目立つようになってきた。第四ラウンドの終盤では、逆に潤子が百合のボディを打つようになり、百合の手数はかなり落ちてしまっていた。
第四ラウンドが終わったとき、百合はすぐに潤子から視線を切り、青コーナーへ向かった。潤子の目にも、玲奈の目にも、百合はかなり衰弱しているように映っていた。第五ラウンドが始まるときにも、百合は、ゴングが鳴るまでストゥールに腰を下ろしたままだった。
第五ラウンドに入ると、潤子の優位はさらに強まった。相変らず百合は、何とか潤子の懐に潜り込み、ボディブローを打ちながら、潤子の顔に一発を放つタイミングを計るような戦術を取っていたが、顔に小さなパンチを浴びたり、潤子にクリンチで逃げられたりして、なかなか有効なパンチを決められずにいた。逆にボディを打たれ、潤子に身体を預けるシーンも目立つようになってきた。
玲奈は、このラウンドで勝負を決めることができるかもしれない、と考えていた。
第五ラウンドの終盤、潤子の右フックが、クリーンに百合を捕らえた。強烈な一撃を頬に食らった百合は、その衝撃から、少しだけ腰を落とした。百合は、大きく後ろによろけ、ロープに身体を預けることで、何とかダウンをせずに踏ん張り、すぐにガードを固めた。
ロープに詰まった百合に、潤子はラッシュをかけた。百合のガードの上から、潤子の連打が降り注ぎ続けた。潤子は二十発近い連打を放ったが、百合も、自分から手こそ出せないものの、急所への一撃を食らわないよう、必死に防戦していた。
潤子が百合に連打を浴びせている最中、潤子は自分の身体の異変に気付いた。
腕の振りが遅くなっている。…… 疲れているのだから、振りが鈍るのは当たり前なのだが、それを割り引いても、自分がイメージしたタイミングで、パンチが相手に届いていない。……
何となく、自分の足の運びも鈍くなってきているような気がする……。
それでも、潤子の目の前には、ガードを固めることしかできなくなっている百合が居た。
これはチャンスなんだ、と潤子は自分に言い聞かせ、腕を振り続けた。
このラウンドまでに、 百合の放ったボディブローは、少しずつ、しかし確実に、潤子を蝕んでいた。突然、リングの上で経験したことのない怠さが、潤子の身体を襲った。潤子には、次のパンチを打つために、少しの休息がどうしても必要だった。潤子は手を振るのをやめ、両手のグローブで鼻から下をがっちりガードし、百合から視線を外して、身体全体で百合をロープに押し込んだ。
潤子は、再び百合にラッシュをかけようとした。潤子が右のフックを力一杯打とうと振りかぶり、もう一度百合の方に視線を向けると、潤子の視界を、ガードした腕の奥にあるはずの百合の顔が横切った。百合は、歯を食いしばってパンチを振り出そうとしていた。百合の右手のグローブは、まだ潤子の視界の外に消えたままだった。百合の戦意はまだ衰えていなかった。
突然、潤子の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
潤子が振った右手のグローブは、百合の目の前を通過しただけだった。
潤子の右膝が折れ、キャンバスについた。潤子は、身体を斜め下に回転させたまま、キャンバスに崩れ落ちた。
百合の渾身の一撃が、潤子のアゴを打ち抜いていた。
潤子は、すぐに立ち上がったが、左手のグローブで上段ロープを掴んだまま、レフェリーのカウントを聞いていた。潤子の両足は震え、相当のダメージが残っていることが、はっきり見て取れた。潤子はカウントエイトでロープから手を離し、ファイティングポースを取ったが、潤子の目は、まだ焦点が合っていないように見えた。
レフェリーが「ボックス」を宣言し、試合が再開された。ニュートラルコーナーに控えていた百合が、中途半端な構えのまま、その場に立ち尽くしている潤子に、二、三歩歩み寄ったとき、第五ラウンド終了のゴングが鳴った。玲奈は、待ちきれない様子でロープを跨いで、潤子のもとへ駆け寄ると、素早く潤子の口からマウスピースを抜き取り、まだ足元がふらついている潤子を抱えるようにして、赤コーナーへ連れ戻した。
玲奈が、ストゥールに腰を下ろしている潤子の頭に、ペットボトルに入れたあった水を一気にかけると、潤子の表情は、はっきりしたものになった。焦点の戻った瞳で玲奈を見つめている潤子に、玲奈は大きな声で言った。
「声で返事をしなくていいから、深呼吸しながら聞いてて。今、第五ラウンドが終わった。残りは一ラウンドだけ。あなたは一回ダウンをして、一ポイント負けている。次のラウンドで、黒川さんをダウンさせないと負けよ。状況はわかってる?」
潤子は、頭にかけられた大量の水を顎から滴らせていた。セコンドである玲奈の指示に従って、大きく深呼吸を繰り返しながら、潤子は、玲奈の言葉の終わりに、小さく頷いた。
「相手にもダメージが残っているはずだけど、次のラウンドが始まったら、一気に勝負をかけて来るかも知れない。でも、ダメージが残っている内は、焦って打ち合いに応じちゃダメよ。最低限、足のダメージが抜けるまでは我慢するのよ。いいわね!」
玲奈はボクシングの怖さを実感していた。何百発のパンチを当てても、一撃ですべてが水泡に帰してしまう。玲奈は潤子を見舞った不運を呪った。
しかし、潤子は何とか自分のコーナーに戻ることができた。前のラウンドで、時間があと三十秒残っていたら、おそらく潤子は百合の襲撃をかわし切れずに、致命傷となるパンチを食らって、完全にキャンバスに沈んでいただろう。まだ完全に神に見捨てられたわけではない、と玲奈は思った。
規定の最終ラウンドとなる、第六ラウンド前のセコンドアウトがコールされた。潤子は、まだストゥールから腰を上げずにいた。潤子はいつも、セコンドアウトのコールと同時にストゥールから立ち上がっていたが、潤子は初めて、ストゥールに座ったままでラウンド開始のゴングを迎えようとしていた。
玲奈は、潤子にマウスピースを咥えさせた。マウスピースを噛みしめている潤子の目には、再び活力が漲っていた。玲奈はそれをしっかりと確認すると、ロープを跨ぎ、潤子に声をかけた。
「あと一ラウンド。焦らずに、チャンスを待つのよ。苦しいとは思うけど、頑張ってね。」
第六ラウンドのゴングが鳴った。
潤子はストゥールから立ち上がり、その場で何度か身体を上下に動かし、足が思い通りに動くのかどうかを確かめるような仕草をしてから、ゆっくりとリングの中央に向かって進んでいった。
玲奈の目には、潤子の足運びが、少しだけ不自然に映った。しかし、インターバルが始まったときに比べれば、格段にダメージは抜けているように見えた。
あと少しだけ、…… 足からダメージが抜けるまで、あと少しだけ我慢することができれば、まだ充分にチャンスはある、と玲奈は思った。
百合は、急ぎ足ではないものの、腕をガードのポジションに上げずに、潤子に近づいてきた。潤子は、両手のグローブで鼻から下をしっかりとガードして、やや後ろに下がり気味に、百合との距離を保とうとしていた。
まもなく、百合は、潤子をパンチの射程範囲に捉えると、潤子に襲い掛かった。
百合は、明らかに潤子を倒しに来ていた。百合は、潤子の顔へ、ボディへ、力一杯打ち込んできた。潤子は、あっさりとロープに追い詰められたが、玲奈の指示通り、自分からは手を出さずに、百合のパンチをガードすることに専念していた。致命傷になるパンチをもらわないように、顔を確実にガードし、多少のボディブローをもらっても大丈夫なように、腹筋にできるだけ力を入れて、潤子は百合のラッシュに耐えていた。
やがて、百合の手が止まった。百合の身体にも、ダメージが貯まっていた。百合は、潤子をさらにロープに押し込もうとしたが、潤子は素早く百合の腋に手を入れた。二人はクリンチをしたまま、大きく深呼吸を続けた。
レフェリーが二人を引き離し、「ボックス」を命じた。
潤子は何とかロープ際から離れた。百合は、すぐに潤子を追いかけようとはせず、腕を通常のポジションに戻して、ゆっくりと潤子に近づいていった。
潤子は、自分の足からダメージが抜けていることを感じ取っていた。ボディを打たれて、足を動かすこと自体、さらにきつくはなっていたが、ふらつくような感じではなくなった。潤子はジャブを打ってみた。百合の顔が歪み、百合の前進が止まった。
潤子は、百合のラッシュを耐え切った。
そのあと、しばらくは互角の打ち合いが展開された。疲労から、潤子も、百合も、極端に手数は減っていたが、残る力をすべて拳にぶつけるように、足を止めて、ときおり力一杯腕を振った。
潤子には、どうしても百合からダウンを奪う必要があった。百合は、前のラウンドのダウンで、潤子を一ポイント分リードしていたわけだが、そのまま逃げ切ろうという素振りは微塵も見せずに、潤子との打ち合いに真っ向から応じていた。
第六ラウンド終盤、右フック同士が相打ちになった。潤子は一瞬だけ平衡感覚を失い、少しだけ腰を落としたが、何とか踏ん張った。しかし、この相打ちで大きなダメージを負ったのは、百合の方だった。百合は大きくバランスを崩し、腕を広げたまま、三歩、四歩と横によろめいた。
潤子も代償を負ったが、それと引き換えに大きなチャンスを、最後のチャンスを、潤子は手に入れた。
潤子が少しだけ乱れた足取りで百合を追うと、百合は何とか腕をガードの位置まで上げたものの、ずるずると後退を始めた。そして、百合の背中が赤いコーナーマットについた。
リングの外に控えている玲奈の、祈るような眼差しの、まさに目の前で、潤子は、百合を赤コーナーに追い込んだ。
コーナーマットを背にして、背中を丸め、わずかなグローブの隙間から潤子を見つめている百合に向かって、潤子はあらん限りの力を込めて、腕を振り始めた。潤子の赤いグローブが、何度も、百合の顔を覆っている青いグローブに食い込んだ。
百合が、しっかりと顔をガードしていることは、潤子ははっきりと認識できていた。それでも、潤子は百合の青いグローブめがけてパンチを出し続けた。もう、顔以外を狙ってもダウンは取れない。潤子は無意識にそう感じ取り、グローブの奥にある百合の顔に向かって、腕を振り続けた。
潤子の耳に、玲奈が「ラスト30!」と叫ぶ声が、はっきりと聞こえた。
もう時間がない。…… 早くダウンを取らなければ。……
潤子の肉体は、限界に近づいていた。一振りごとに、潤子の腕の振りは遅く、鈍くなっていった。百合は相変わらす歯を食いしばり、潤子を見つめながら、必死にガードを固めていた。もう、限界に近づきつつある潤子が百合からダウンを奪う可能性は、万に一つも残っていないように見えた。それでも潤子は、残りわずな力を振り絞るように、腕を振り続けた。
ついに潤子は、身体の中の燃料をすべて使い果たしてしまった。潤子には、もう、自分の腕をコントロールする力が残っていなかった。百合が反撃に出た仕草が見えたが、潤子には、もうガードをするために腕を上げることすらできなかった。
百合のパンチも、疲れきった身体から放たれているのがはっきりとわかるような、迫力のないものだったが、潤子はまったく無防備に、百合の右のフックを顔に受けた。潤子の動きが完全に止まった。百合が左フックを潤子の顔に向けて振っても、潤子はまったく反応しなかった。百合のグローブが再び潤子の顔を大きく捻じ曲げた。
百合のパンチが、四発続けて潤子の顔にヒットしたとき、潤子の膝がガクンと折れた。そのまま、潤子は、糸の切れた操り人形のように、再びキャンバスに崩れ落ちていった。潤子の顔は、キャンバスに当たって、少しだけバウンドした。
玲奈の目の前に、マウスピースを口からはみ出させながら、うつろな表情を向けている潤子の顔があった。その手前にある潤子の腕は、力なく、掌側を上に向けて伸びていた。
レフェリーが、カウントを始めるために、百合にニュートラルコーナーへ向かうように指示したが、百合も力を使い切っていた。ロープにつかまりながら、二、三歩、ロープ沿いに歩くのが精一杯だった。百合はその場で上段ロープにもたれかかるようにして、両腕をロープに掛けたまま下を向き、大きな呼吸を繰り返した。
最終ラウンドは、もうあと数秒しか残っていなかった。玲奈には、潤子が立ち上がったなら、カウントが終わった時点で試合も終わることがわかっていた。
たとえ潤子が立ち上がっても、ダウン二回分、二ポイントの差で、潤子は負ける。しかし、潤子が立ち上がることができなかったら、潤子にはKO負けの汚名が被せられる。
玲奈は、エプロンの床を両手で叩きながら、潤子に向かって、大声で叫んだ。
「立ちなさい、潤子! お願い! 立って!!」
潤子は、濁った瞳で玲奈を見つめたまま、右手のグローブを、何とか上から二番目のロープに掛けた。カウントはすでに「ファイブ」を過ぎている。
潤子のお尻がキャンバスから離れた。
潤子が、膝を伸ばそうと最後の力を振り絞ったとき、ロープからグローブが外れた。
支えを失った潤子には、もう体勢を立て直す力は残っていなかった。潤子は、そのままキャンバスに仰向けに倒れた。
レフェリーのカウントは、あと三つしか残っていなかった。潤子は、キャンバスに両腕を投げ出したまま、残る三つのカウントを聞いた。
「…… エイト、…… ナイン、…… テン。…… ユー・アー・アウト。」
玲奈は、リングドクターの傍らに膝をつき、リングの上で仰向けに倒れたままの潤子を見つめていた。
全体的に見れば、この試合、潤子が勝っていてもまったく不思議ではなかったし、第五ラウンドの終盤までは、はっきりと潤子が押し気味に試合を進めていた。最終ラウンドでも、潤子は百合をダウン寸前まで追い詰めた。
本当に、今日、この娘には運がなかった、と玲奈は思った。
ドクターの指図で、担架が用意された。すぐに潤子の身体は、担架の上に乗せられた。
医務室に充てられている部屋へ向かうまでの間、玲奈はずっと潤子に付き添っていた。その途中、潤子は、薄く開かれた瞳を玲奈の方に向けると、消え入るような小さな声で、玲奈に向かって唇を動かした。
「………… 申しわけありませんでした、…… 玲奈先輩。……………」
玲奈には、潤子に返す言葉が見当たらなかった。
玲奈は潤子から目を逸らし、俯いた。
医務室での検査の結果、幸いなことに、潤子は重大な損傷を負っていないと診断された。二時間の後には、潤子は自分で歩けるほどまでに回復していた。玲奈は、潤子に付き添って、潤子を控室に連れて帰り、潤子を再び、控室にあるベッドの上に横たわらせた。
潤子には、百合にKOされて、試合に負けたことが、はっきりと認識できていた。試合の内容も、思い返すことができた。控室のベッドの上で、潤子は、「惜しかったなぁ。あとちょっとだったのに ……」と呟いた。
潤子の心には、悔しさは湧いてこなかった。潤子には、今日の試合で、リングの上で自分ができるだけのことは、すべてやり尽くした、という実感があった。
潤子は、安らかな表情を浮かべ、控室の天井を見つめていた。
その頃、リングの上では、表彰式が行われていた。
階級別チャンピオンに輝いた八人の選手の中には、もちろん百合の姿もあった。両目の回りが腫れ上がった百合の顔は、八人のチャンピオンの中で、一番敗者に近いものだった。
他の選手が嬉しそうにチャンピオンメダルを受け取っている中で、百合だけは、苦々しい表情を浮かべたまま、チャンピオンメダルを手にしていた。
秋季対抗戦の最後のプログラムである表彰式が終わってから、すでに二時間が経過していた。メインの会場では、今しがたまで、二百人以上にも及ぶ娘たちが若さをぶつけ合った、リングの解体作業が進められていた。
凛花の控室には、玲奈と潤子、それと、この大会のスーパーバイザーの一人として、最終日に会場に足を運んでいた、紘美の姿があった。潤子は試合のダメージから充分に回復し、ベッドの上に横たわったままではあったが、紘美と玲奈の会話に加わっていた。
「もう遅いから、今日は帰りましょう。」 という、紘美の言葉に玲奈が頷き、三人の会話は終わった。玲奈は、潤子の身の回りの品を片付け、帰り支度を始めた。潤子はベッドから起き上がり、玲奈に声をかけた。
「それじゃ、私、これから医務室に行って、先生に挨拶してきます。」
玲奈は少し驚いた。紘美は相変らず、二人に優しい眼差しを送っていた。
玲奈は、紘美の顔を見てから、ベッドの隅に腰を掛けて、備え付けのスリッパを履こうとしている潤子に目を移した。潤子は顔に少しだけ激しい試合の痕跡を残していたが、それ以外は、まったく普段と変わらない姿に戻っているように、玲奈には見受けられた。
医務室は、凛花の控室とは目と鼻の先にあった。玲奈は先にドクターへの挨拶を済ましていたので、潤子に付き添わなくても大丈夫だな、と思った。
「わかった。じゃ、私は、あなたが戻ったら、すぐここを出れるように準備しておく。……
ちゃんと挨拶を済ませてらっしゃい。」
潤子は、紘美と玲奈に、「すぐに戻ります。」と声を掛け、控室を出て行った。
医務室には、五十代と見受けられる、白衣を着た女性のドクターが一人だけ残っていた。彼女は、潤子の試合を、リングドクターとして担当していた。ドクターは、すっかり元気を取り戻した潤子の姿を見て、とても嬉しそうに微笑んだ。
今日のあなたの試合は、自分にとって忘れられないものになった。今までに何百という試合を担当してきたが、今日のあなたの試合ほど、激しく、素晴らしく、クリーンな試合は見たことがなかった。あなたにとっては残念な試合結果に終わってしまったが、次の年の対抗戦で、是非もう一度、あなたの試合に立ち会いたい。あなたが代表戦で優勝し、リングの上でチャンピオンメダルを手にする姿を見てみたい。……
ドクターは、潤子にそんな言葉を掛け、潤子の健闘を心から労った。
潤子は、「それではこれで失礼いたします。」、とドクターに告げ、医務室のドアを出て、医務室前の通路に足を踏み出した。
そこには、意外な人物が潤子を待っていた。
紫色の、雅ヶ丘のジャージー上下を身に付け、胸の前で腕を組んでいる百合が、医務室のドアのすぐ横の壁を背にして、目の前の地面に視線を落としていた。
百合は、試合後の挨拶を直接潤子にするよう、先輩の部員に促されていた。それを受けた百合は凛花の控室を訪ねたが、そこで潤子が医務室に挨拶をしに行っていることを知った。
百合は、潤子に言っておきたいことがあった。それには、回りに人が何人か居るより、一対一の状況である方が都合が良かった。
百合は凛花の控室を出ると、医務室に向かい、潤子の用件が済むまで、医務室の前で潤子を待っていた。
百合が潤子に話したい内容に気を取られていたので、相手を認識するのは、百合よりも潤子の方が早かった。百合が自分に近づいてくる潤子に気付いたとき、潤子は、握手をしようと右手を差し出そうとしていたが、潤子の姿を認めた途端に、百合の表情が変わった。百合は、試合の前に、レフェリーの前で潤子と対峙したときとまったく同じように、相手を見下すような眼差しで、潤子を見つめていた。
潤子は右手を差し出すのをやめ、百合に掛ける言葉を捜していた。その潤子より先に、百合は口を開いた。
「わたくしは、今日の試合、あなたに勝ったとは思っておりません。いずれ近いうちに、またお手合わせ願いたいものですわ。次にあなたと闘うときには、必ずあなたをわたくしの足許にひれ伏せさせて見せますわ。」
変わったしゃべり方をする娘だな、と潤子は思った。結果としては、潤子は百合に負けたわけだが、全体的には、潤子の方が押し気味に試合を進めていた。満足できない、というのは、何となくわかる。冗談なのか、とも思ったが、百合の眼差しは真剣そのものだった。
百合の口元に、冷たい笑みが浮かんだ。そして、百合の口から続いて出た言葉に、潤子は凍り付いてしまった。
「裏のリングでお手合わせすることにしても、構いませんことよ。お望みでしたら、また、お小水まみれにして差し上げますわ。あの、雨の夜のようにね。」
百合は、裏のリングと繋がりを持っているだけでなく、リングの上で潤子が味わった、最大の屈辱、恥辱を知っていた。
なぜ、百合は、あの日の醜態を知っているのだろうか。……
潤子は、百合から視線を逸らした。通路の壁に寄りかかって、潤子は、呆然とした表情を変えられないまま、記憶を遡っていた。それでも、答えはまったく頭の中に浮かんで来なかった。
そんな潤子とは対照的に、百合の表情は勝ち誇ったようなものに変わった。百合は、再び口を開いた。
「ご存じないのも、無理ないかも知れませんことね。では、教えて差し上げましょう。あなたの試合の前に、黒い覆面をつけて試合をしていたレスラーがいましたのを、覚えていらっしゃるかしら?
あれが、わたくしですわ。わたくし、『裏のリング』では、結構名の知れたレスラーですのよ。もっとも、まだわたくしの覆面に手をかけた方は一人もいらっしゃいませんから、顔を知っている方はほとんど居りませんけれども。わたくしは、試合後の控室で、あなたの試合を、あなたが素敵なお姿で気を失われるまでの一部始終を、モニターで拝見させていただきました。」
あのレスラーが百合。…………
潤子は、短い時間ではあったが、『裏のリング』でのデビュー戦の前に控室のモニターで見た、黒い覆面のレスラーの姿を思い返していた。モニターを見ている限り、そのレスラーの顔は見えなかった。が、言われてみれば、背格好は百合にとてもよく似ているような気がした。
あの、自分よりも大柄な対戦相手から、簡単にギブアップを奪い、リングコスチュームを毟り取っていったレスラーが、目の前に立っている百合……。
「わたくしの試合、ご覧になっていただけましたかしら。わたくし、最初から相手にならないと判断した方は、リングの上で、きっちり辱めを受けさせることにしておりますの。残念ながら、レスリングでは、わたくしを楽しませていただける方には、まだ巡り合っておりませんけれど。あの夜は、相手の方があまりにも弱かったものですから、少しばかり懲らしめる必要があるように思いましたの。試合中、あの方は、泣いてわたくしに許しを乞うておりましたが、契約のお時間の間、存分に痛めつけて、辱めて差し上げましたわ。二度とわたくしの前に姿を見せられぬようにね。」
『存分に痛めつけて、辱めてやった……』、この言葉に、潤子は反応した。潤子の脳裏に、七月の対抗戦で、百合に無残な敗戦を喫した玲奈の姿が浮かんだ。玲奈は、五ラウンドと少しの時間をかけて、ジャブで完全に両目を塞がれ、ドクターに試合を止められた。あの試合も、そうだったのか。……
潤子は、挑むような目を百合に向けた。
「玲奈先輩も、そうですか? 玲奈先輩も、あなたにとっては、取るに足らない相手だったんですか?
だから、あんなに時間をかけて、玲奈先輩の目だけを狙い続けたんですか?……」
百合は、きょとんとした目で、潤子を見つめていたが、やがて、思い出した、とでも言いたげに、表情を元に戻し、潤子の問いに答えた。
「ああ、あの方。夏の対抗戦でわたくしと当たった方ですね。あのときには、わたくしはボクシングを始めてから間もなかったので、初めに習ったジャブを試合で試させていただいたのです。でも、最初の何十秒かで、わたくしは、あの方には絶対に負けないと確信いたしました。わたくしは今でも、あの試合のことは少し残念に思っておりますの。あの方は、とても勇敢でしたわ。ご褒美に、最後はリングの上で気持ちよく眠らせて差し上げようと思っていたのですが、最後の仕上げをしようと思っていたところで、試合を止められてしまいました。本当に残念でしたわ。」
百合の一言一言が、潤子の心に突き刺さった。確かに、玲奈はそんなに強い選手ではない。それでも、潤子は良き先輩として、大好きなボクシング部の人間味あふれる部長として、玲奈を深く尊敬していた。
その玲奈が、ここまで百合に見下されていたとは。潤子には、とても我慢がならなかった。同時に、自分が百合に負けてしまったことが、たまらなく悔しかった。こんなことなら、何が何でも、百合をキャンバスに這わせてやりたかった、と潤子は思った。
潤子は、しばらくの間、俯いたまま、奥歯を噛みしめていた。そして、顔を百合の方に向け、少しだけ瞳を潤ませて、百合を睨んだ。潤子の両手の拳は、固く握られていた。
「…… 酷い。…… あなたは、酷い人です。………… いいでしょう。『裏のリング』で、試合をしましょう。……
あなたには、もう、絶対に負けません。」
「おや、その気になりまして? とても、嬉しゅうございますわ。では、お互いの傷が癒えたら、……
ひと月もあれば充分ですわね。」
「わかりました。試合は一ヵ月後。リングの上で、必ずあなたのトランクスを奪い取って見せます。覚悟しておいてくださいね。」
「おーっほっほっほ。威勢のいいことで、たいへん結構ですわ。それまで、せいぜい身体を磨いておいてくださいな。わたくしの勝利に、花を添えていただかなければなりませんからね。あなたが、あの黒いリングの上で、無様に横たわっている姿が、もう目に浮かぶようですわ。」
相変らず、百合を睨みつけている潤子に、冷ややかな視線を送りながら、百合は言葉を続けた。
「そうそう、それでしたら、お互いの名前を、あらかじめ公表することにしましょう。三崎潤子さん、でしたわね。ご存知だとは思いますが、わたくしは、黒川百合。わたくしのことを、『フラック・リリー』と呼んでいらっしゃる方も多いようですわね。わたくしたちの名前を出すことで、多くのお客様にご来場していただくことができると思いますの。そうすれば、その場で、わたくしがあなたを散々に打ちのめすところを、たくさんの方にご披露できますものね。」
もう百合には、何を言っても無駄だ。『裏』の、黒いリングの上で、百合を打ちのめし、その場で思いの丈を百合にぶつけてやる。
絶対に負けられない。…… この試合だけは、絶対に負けるわけにはいかない。
潤子は、固く心に誓った。
「では、ひと月後、『裏のリング』の上でお会いしましょう。…… ごきげんよう。」
黙っている潤子の前で髪を梳き上げる仕草をしたあと、百合は潤子に言葉を投げかけ、踵を返した。
潤子は、百合が廊下の角を曲がり、百合の姿が見えなくなるまで、視線を逸らさずに、百合を睨み続けていた。
「 The Black Lily 」 了