安達玲奈(あだち・れいな)は、凛花女子学園運動部会館の中にあるボクシング部の部室で、活動予定や予算関係の書類などの作成に追われていた。
あと数日で最高学年である四年生に進級する玲奈は、次年度のボクシング部部長を任されていた。玲奈は、「私は部長なんて器じゃない。」と思っていたが、性格の明るさや、後輩の面倒見の良さを買われ、半ば押し付けられたような格好で部長の任務を引き継いだ。しかし玲奈は、部長として避けては通れない、この手のデスクワークが大の苦手だった。三日前から取り組んでいたものの、まさに悪戦苦闘。今日の締め切りを前に、昨晩は徹夜に近い状態だった。
玲奈は提出書類の最終チェックに差し掛かっていた。隣りの練習室からはサンドバッグを叩く音が聞こえてくる。園は春休みに入っていたが、帰省予定のない競技選手組は部の活動を続けていた。私も早くサンドバッグを叩きたい。玲奈は少しだけ部長を受けたことを後悔していた。
何とか全部の書類を完成させ一息ついたところへ、二年生の部員が、不安そうな表情で玲奈のところへやってきた。
「やっぱり、三崎さんは今日も来てないみたいです。」
「…… そう、…… いったい、どうしたのかしらねぇ。……・」
三崎潤子(みさき・じゅんこ)は、秋と年度末の対抗戦で連勝している唯一の一年生部員だ。四園の中で、ここ数年の対抗戦の成績が一番劣る凛花ボクシング部にとっては、抜群の才能を誇る、「希望の星」のような存在だった。
潤子は、春休み期間中の活動にも参加する予定だったが、おとといからこの日までの三日間、顔を見せていないばかりか、連絡が取れない状態になっていた。まじめで、練習熱心な潤子なだけに、体調を崩すとか、ちょっとした用事ができたとかの理由で、何の音沙汰もないまま部の活動を休むとは、玲奈には考えづらかった。今日の帰り、あの娘の寮に寄ってみようか、と玲奈が考えていたとき、玲奈の携帯電話に着信があった。玲奈が受話器を耳に当てると、受話器の向こうから潤子の声が聞こえてきた。
「三崎さん? どうしたの? 心配したわよ。」
「…… あのぅ、…… ご心配をおかけして、…… 本当に申し訳ありません。……」
「大丈夫? ケガとかしてない?」
「…… はい。…… そういうことではないので、…… あの、…… 実家にいました。……」
普段は明るい潤子の声が、恐ろしく歯切れの悪いものになっていた。事故とか、ケガとかではないようだが、何かよほど重大なことが潤子の身に降りかかっているのは間違いない、と玲奈は思った。
「ね、電話で話しにくかったら、直接会って、話を聞いてあげてもいいのよ。」
「…… はい。…… そうしていただけると、……」
「わかった。今どこにいるの? …… 駅? 学園前の駅ね? …… うん。… そっちに行ってもいいのよ。大丈夫?
…… うん。… うん。… 運動部会館の談話室でいいのね。……… うん。… じゃ、二十分後に。着いたらわかるようにしておく。それでいい?
…… うん。… じゃ、待ってる。」
玲奈が潤子との通話を終えると、さっきの二年生が尋ねてきた。
「三崎さん、何かあったんですか?」
「実家に帰ってたらしいけど、様子がおかしいわ。私と二人だけで話がしたいって。この近くにいるみたいだから、私、この書類を提出してから、直接談話室で会って、話を聞いてくる。管理人室に連絡して、空いてる部屋、抑えといてくれない? 奥の小さいとこ。」
「わかりました。取っておきます。」
「じゃ、よろしくね。」
後輩部員に談話室の確保を頼むと、玲奈はセカンドバッグと出来上がったばかりの書類を脇に抱え、早足で部室を後にした。
玲奈の作った書類には数箇所に不備があったこともあり、玲奈は園の事務局に書類を提出するのにかなり手間取ってしまった。何とか受け取ってもらった時には、すでに潤子と待ち合わせた時間を少し過ぎてしまっていた。
とにかく潤子の様子が気になる。玲奈は大急ぎで運動部会館に戻り、管理人室で後輩に手配してもらった談話室の番号を聞き出すと、その部屋に向かって走り出した。
玲奈が指定された談話室の前に着いて、ドアの磨りガラス越しに中を覗くと、既に誰か中にいるようだった。ノックをして中に入ると、潤子がドア側の椅子に腰掛けていた。両手を腿の上に置き、うなだれたように背中を丸めている。玲奈は、小さいテーブルの反対側に置かれた椅子に腰を下ろし、潤子に話し掛けた。
「ごめんねー。待った?」
「…… いえ、…… あのぅ、…… ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありません。……」
玲奈は、電話で話したときの印象から、潤子の精神状態をかなり悪い方に予想していたが、事態はそれよりも深刻になっているように思えた。潤子の声は、電話のときよりもさらに元気のない、蚊の鳴くような小さなものになっていた。玲奈は早く潤子の話が聞きたかったが、それを催促するのがかわいそうになるほど、潤子の落ち込んでいる様子はひどかった。
玲奈が潤子に声をかけるのをためらっていると、少しの沈黙のあと、潤子は自分から口を開いた。
「………… 姉が、・・…… 倒れました。…… 病状はそれほど深刻なものではないんですが、しばらく入院しなければならないようですし、……
あまり身体に負担のかかる仕事は、この先何年かは無理だろうと、お医者さんに言われました。……」
玲奈は、潤子の普段の会話の中に、「姉」、「お姉ちゃん」と言う言葉が、よく出てくることに気づいていた。潤子には、七つか八つ、年上の姉がいることは聞いていたし、潤子がいかに姉のことを慕っているのかが、潤子の口ぶりから容易に見て取れた。その潤子の姉が倒れたという。確かに潤子が落ち込むわけだ。でも、それにしても様子がおかしい。
「…… それで、………… 園を、…… やめることになると思います。……」
玲奈は大きな衝撃を受けた。
園をやめる、それほどまでに潤子は追い詰められていたのか、と玲奈は思った。同時に、潤子の姉が倒れたことと、潤子が園をやめることがどうつながるのか、玲奈は、さらに詳しい事情を、潤子の口から聞き出さずにはいられなかった。
「どういうことなの? 理由を教えてくれない?」
「…… 私は、小学生の時に両親を事故で亡くしました。…… 親が死んだとき、姉は、この、凛花への入園が決まっていました。……
でも、姉は進学をやめ、就職しました。…… 姉は毎日夜遅くまで働いてました。……
そんなに多くなかったけれど、親の生命保険もありましたが、それにはほとんど手を付けようとせず、全部私の進学費用に充てようと考えていたみたいです。…………
私は、親を失ってからずっと、姉に養ってもらってきたようなものです。……
私も高校を卒業したら、就職しようと思ってました。…… でも、姉は私に、普通の大学に進んで、アルバイトで自分の学費を賄うことすら許してくれませんでした。姉は私を、どうしてもこの園に入れたかったんです。…………
『あなたは、ちゃんと学業に励みなさい。お金はちゃんと取ってある。』と、姉は言ってました。……」
「…… そうだったの。……」
「お姉ちゃんには、もう負担をかけられません。今度は私が働いて、お姉ちゃんを助けてあげなければならないと思うんです。……
私、この園が、このボクシング部が大好きです。できることなら、やめたくなんかないです。……
でも、寮生の身分のままではアルバイトもできません。ですから、もう園に残ることはできないと思います。……」
姉妹揃ってこの凛花女子学園を志し、どちらも家の事情で卒園がかなわない。……
ずいぶんかわいそうな話だな、と玲奈は思った。
何とかしてあげることはできないだろうか。……
潤子が、園を、ボクシングをやめずに、お金を稼ぐ道。…… ふと、玲奈の頭に、あることが浮かんだ。
ある。…… 聞いたことは、確かにある。…… でも、それは、……
玲奈の頭に浮かんだ、ある考え。…… それは、玲奈には、潤子の目を見て話すことができないものだった。
玲奈は、潤子の目から視線を逸らした。
「三崎さん。」
「…… はい。……」
「あなたは、報告に来たの? それとも相談に来たの?」
「………… どういうことですか? ……」
「もう園をやめることを決めていて、それを報告に来たの? それとも、私に今後のことを相談に来たの?」
「…… 相談するって、・・…… 何か、お考えがあるんですか? ……」
「まだ、退園の手続きはしていないのよね?」
「…… ええ、まだです。」
「一つだけ、当てが、…… 約束はできないけど。……」
「……」
「一日だけ、私に時間をちょうだい。それと、…… 明日の夜、寮の私の部屋に来てくれるかな。……」
潤子は不思議そうな顔をしていたが、やがて、「わかりました。」と言い残し、哀しげな表情のまま、談話室を後にした。
潤子が部屋を出たことを確認すると、玲奈は、自分のセカンドバッグから携帯電話を取り出し、玲奈の一年先輩で、凛花女子学園ボクシング部前部長、西園寺紘美(さいおんじ・ひろみ)の電話番号をコールした。
「あ、安達です。ご無沙汰しております。実は、早急に相談したいことがありまして、……」
翌日、潤子が玲奈の寮を訪ねると、潤子の他にあと二人、先客がいた。一人は玲奈の前にボクシング部長をしていた西園寺紘美。二週間前に卒園式を済ませていた紘美は、女性用のビジネススーツを身に付けていた。そしてもう一人は、潤子が初めて見る女性で、年は二十代の半ば、背丈は背の高い紘美よりもさらに高く、百七十センチを超えているようだ。精悍な顔立ちをしているこの女性も、紘美と同様、女性用のビジネススーツ姿であった。
紘美の顔を見て、潤子の暗い表情が晴れやかになった。
「紘美先輩! こんばんは。 おひさしぶりです!」
「こんばんは、三崎さん。」
紘美の表情はいつもにこやかで、いたって物静かでもあり、その外見からは、非常に優れたボクサーであることはなかなか想像できない。
紘美が己の感情をあらわにしたのを、潤子は一度だけしか見たことがなかった。それは、学園生活最後の秋季対抗戦に階級代表として出場し、準決勝を勝ち上がったものの、その試合中、バッティングで目尻を大きくカットしたことが原因で、ドクターに決勝を棄権するように言われたときだった。「次の試合に勝つために、今までやってきたんです!
やらせてください!」と、叫びながらドクターに詰め寄る姿が、潤子の記憶に鮮明に残っていた。
ボクシングの技能以外でも、学業の成績は常にトップクラス、教師、同輩、後輩からの人望も厚い。紘美は、潤子にとって、『スーパーレディ』であった。もちろん潤子は、そんな紘美のことが大好きで、尊敬もしていたし、憧れてもいた。
潤子は、紘美から、もう一人の、初対面の女性へと視線を移した。その女性は、潤子と目が合うと、潤子より先に自己紹介をした。
「荻野鞠子(おぎの・まりこ)と申します。はじめまして。」
「あ、三崎潤子です。はじめまして。」
紘美と懇意であるらしいこと以外は、荻野と名乗るこの初対面の女性が何者であるのかは、潤子にはまだわからなかった。
「この方は……」と、潤子が紘美に、その女性について尋ねようと紘美の方に向き直ったとき、先に紘美が口を開いた。
「話は安達さんから聞いています。まず、お姉様のご容態について、詳しいことがわかったら、教えていただけないかしら。何かお手伝いできることがあるかも知れません。」
「…… はい。…… 心配していただいて、恐縮です。」
「それと、…… あなたが園を去るのは、私にとっても辛いことです。それで、というわけではないのですが。……」
紘美の表情から笑顔が消えたように、潤子には思えた。
「私は、あなたが園に残ったまま、ある程度のお金を手に入れる方法を提供できる、と考えています。」
「本当ですか!」
「しかし、それは大きな代償と引き換えです。精神的な苦痛、今は、そういう言い方にしておきます。あなたがそれを克服できるならば、あなたはそれに見合うだけの報酬を手にできます。」
紘美の口から続いて出た言葉は、前の日、玲奈が潤子の目を見て話せなかったことに言及していた。紘美は、まっすぐに潤子を見つめたまま、言葉を続けた。
「…… それは、あなたが、『裏のリング』に立つことです。」
紘美は、一呼吸置いてさらに話を続けようとしたが、荻野と名乗る女性がそれを遮った。彼女は、紘美と目配せをするような仕草を見せたあと、潤子に向き直り、口を開いた。
「ここから先は、私の口からお話をさせていただきます。『裏のリング』では、レスリングや、ボクシングの試合が、対抗戦や園内の競技とはかけ離れた、ある意味、凄惨な試合が行われています。お話の順番が前後するような気がしますが、あなたにとっては一番肝心な部分だと思いますので、一番最初にファイトマネーの話をさせていただきます。……
まず、ファイトマネーは、反則行為や、試合を途中で放棄するといった場合を除き、試合の勝ち負けに関係なく出場者に支払われます。試合の勝者が手にするもの、敗者が失うもの、については、後ほどお話できるかと思います。次に、あなたがボクサーとして、『裏のリング』で試合を行った場合のファイトマネーは、……」
このあと、鞠子の口から出た金額に、潤子は驚いた。五試合闘えば、授業料、寮費まで含め、園生として一年間生活していくのに最低限必要な額に届いてしまう、それほどの高額だった。もうあと何試合かすれば、園生を続けたまま、姉を援助することだってできるかも知れない。紘美が言っていた、「大きな代償」という言葉がかなり気にはなったが、潤子は、『裏のリング』とは何なのかを、もっと知りたいと思った。
「今の私にとっては、ありがたいお話です。詳しい内容を聞かせていただけないでしょうか。……」
「あなたが通っている凛花女子学園を含め、市内には四つの女子園がありますね。『裏のリング』は、その四園の卒園生が共同で、……
正確には、園に非常に近い関係にある、ある団体が運営しているものです。『裏のリング』に立つ選手は、だいたいがその卒園生で、園出身者以外の選手を見かけることはあまりありません。凛花では稀ですが、現役の園生がリングに立つこともしばしばあるようです。あと、試合を見にいらっしゃるお客様も、すべて園の関係者、およびその方々から紹介を受けたゲストに限られています。ああ、申し遅れましたが、私は、『裏のリング』と、出場される方の橋渡しを担当する人間、と考えていただいて結構です。」
呆気に取られたような表情をしている潤子を冷静な眼差しで見つめながら、鞠子は話を続けた。
「試合に出る方には、肌を晒していただくことになります。さきほど、西園寺さんが、『精神的な苦痛』という表現をされていましたね。…… 私どもが高額のファイトマネーを出場される方に提供する理由の一つがこれです。具体的には、ボクシングの試合では、上半身に何も身につけずに闘っていただくことになります。…… 私がお話ししていることの意味は、おわかりにわかりますね。」
「…… つまり、………… 裸、…… ということですね。……」
「…… その通りです。さらに、恒例として、試合に敗れた者はトランクスをリングの上で脱がされます。敗者が失ったトランクスは、勝者の『戦利品』となり、その場でオークションに掛けられ、落札金額分が、そのまま勝者のファイトマネーに加算されます。『戦利品』である敗者のトランクスへの指値は、ある意味、お客様の満足度を反映させています。……
これが、形の上では、勝者が得るものです。敗者が失うものは、…… 説明する必要はないと思います。本当の『勝者の報酬』は、敗者が失うものを守ることができること、でしょうね。」
「…………」
「『裏のリング』は、試合そのものは真剣勝負ですが、一種のショーだと考えていただいた方がわかりやすいかも知れません。若い女性が闘う様子を、お客様に堪能していただく場を提供し、出場選手はファイトマネーという形で報酬を得る。ただし、負けてしまえば、恥辱という形でペナルティが課せられる。『裏のリング』とは、そんな場所です。」
やはり甘い話ではないな、と潤子は思った。ボクシングの試合をすることには何の問題もない。が、裸で、ということは、無抵抗で受け入れるのは無理な話だ。まして、負けたときのことを考えると。……
それにしても、なぜこれほどの多額のお金が選手に支払われるのか、潤子には少し不思議に思えた。その疑問に答えるように、鞠子は、さらに説明を続けた。
「ファイトマネーは、出場者全員が同じ額と言うわけではありません。先ほどお話したように、『裏のリング』は一種のショーです。普通のショーを考えてみてください。有能なダンサーには、それに見合った報酬が与えられますね。『裏のリング』でも同様です。『裏のリング』が出場者に求めるもの、それは、格闘者としての技能云々も、もちろん考慮されますが、選手の容姿が非常に大きなファクターになるのです。顔立ち、スタイルなど、リングに上がる方の容姿によって、ファイトマネーは大きく変化します。失礼だとは存じましたが、今日一日かけて、あなたについて、あらかじめ査定をさせていただきました。その結果、あなたには最高ランクのファイトマネーを用意できるとの判断に至りました。また、レスリングとは違い、ボクシングの場合は出場者に肉体の損傷を強いるケースが多く、なかなか試合数をこなしていくことができないため、ファイトマネーの基準額は大幅に上がります。それらをすべて計算した結果が、先ほどあなたに提示させていただいた金額になるのです。」
「…………」
「もちろん、試合への出場は強制ではありません。条件を受け入れ、『裏のリング』に上がる、あるいは拒否されるかは、まったくあなたの自由意志です。ただし、『裏のリング』と関係を持つことをおやめになる場合でも、ここで私があなたにお話したことの内容は、現役の園生には一切他言を行わないでください。安達さんも、この点は同様に願います。よろしいですね。」
「…… はい、わかりました。」
潤子の返事と同時に、玲奈もうなずく。
「最後に、あなたが『裏のリング』に上がる場合には、あらかじめ園の保健局にその旨を伝える必要があります。これは、現役の園生が『裏のリング』でケガなどを負った場合に、対応を速やかに行うことだけが目的です。もちろん、その情報が保健局以外に漏れることはありません。また、一切の手続きは私の方で済ませますので、あなたが手を煩わす必要はありません。ただ、園にそのような形で連絡が行く、ということだけお伝えしておきます。」
鞠子は、持参した鞄の中から、白い封筒を取り出し、潤子に手渡した。
「今の段階では、私がお話できるのはここまでです。その封筒の中には、契約書と詳しいルールの説明が書かれた書面が同封されていますので、あなたのお部屋に戻ってからお読みください。私宛ての連絡先もその中に書かれてありますので、さらに説明が欲しいと思ったら、遠慮なく私に連絡していただいてかまいません。…… それと、先程のお話と同様に、あなたが『裏のリング』との関係を望まない場合には、この封筒の中身は、焼却するなどして確実に処分してください。よろしくお願いいたします。」
鞠子と紘美は、このあと、早々に玲奈の部屋を立ち去った。部屋に残された玲奈と潤子は、重苦しい雰囲気の中にいた。潤子が鞠子から受け取った封筒を開けようとしたとき、玲奈はそれを制止した。玲奈の様子は、普段とは明らかに違っていた。
「ちょっと待って、三崎さん。…… 言いにくいんだけど、…… 中身を見るのは、自分の部屋に戻るまで待っていただけないかしら?」
玲奈は、談話室の時と同じように、潤子と目を合わせられなくなっていた。そして、少し震えていた。
「…… 私、その封筒の中身を見るのが怖い。……… 紘美先輩は、あなたがここに来るまでに、私に『あなたも部長になったんだから、少しは裏のことも知っておいた方がいいわよ。』って言ってた。あえて私を同席させたのも、そのためらしいの。……
私、あなたが園に残れるためなら、私にできることは何でもしてあげるつもりでいた。……
でも、今の話を聞いてしまうと。…… あなたの裸を晒すお話に加わるなんて。・・……
本当に申し訳ないけど、もうこれ以上、私には、このお話についていくことができないの。……
何も見なかった、何も聞かなかったことにしたい。………… 頼りない部長でごめんなさいね。……
でも、今の私には荷が重過ぎる。……」
潤子は、こんなに怯えた様子の玲奈を見るのは初めてだった。きっと、私のことを、本気で考えてくれてるから、怖いという感情が湧くんだろうな。玲奈の優しさ、純粋さの現れなんだろうな、と潤子は思った。
潤子は、封筒をその場で開封するのをやめ、自分の鞄の中にしまった。
玲奈は両手で顔を覆い、すすり泣きを始めていた。普段は勝気の部類に入る玲奈の、これほどまでに変わり果てた姿を見るのは、潤子にはとても辛かった。
「大丈夫です。あとは一人で考えます。では、失礼いたします。」
両手で顔を覆ったまま、首を縦に振ることが精一杯の玲奈を残して、潤子は玲奈の部屋を後にした。
自分の部屋に戻った潤子は、鞠子から渡された封筒を開けた。これといって特別なものはなく、鞠子の話していたように、契約書と、ルール説明と簡単な留意事項が書かれている紙が入っていた。
潤子はそれに目を通した。勝敗に関係なく、一試合を全うすればファイトマネーは保証されること、ケガをした場合には、主催者側が治療にかかる費用を負担すること、関係者以外に不必要な情報が漏れるようなことがないこと、などが書かれていた。多少、ルールでわからないことがあったが、だいたいの内容は理解できた。
シャワーを浴びたあと、ショーツ一枚の姿のまま、潤子は鏡の前に立った。大きな、形の良い乳房をした十九の娘の、生まれたままの上半身が映っている。
この胸を人前に晒せば、園に残ることが、園でボクシングを続けることができるかも知れない。
私は、それに耐えることができるだろうか。……
鞠子さんは、『裏のリング』は、私のことを最高の待遇で迎える、と言った。
これは、私に残された最後のチャンスなのかも知れない。………
次の日、潤子が姉が入院している病院へ見舞いに行くと、担当の医師から、姉の病状について少し詳しい話を聞くことができた。それによれば、病状は心配していたほど悪くはなく、早い時期に退院できそうだとのことだった。ただし、それでもしばらくの間は静養が必要、できることなら、再度一ヶ月ぐらい入院をして、集中的に治療を行った方がいい、と担当医は付け加えた。
中途半端な気持ちのまま、潤子は寮へ戻った。夜になると、潤子は玲奈に電話をかけ、姉の病状を玲奈に説明した。玲奈は、「わかりました。紘美先輩も心配しているみたいだから、伝えておきます。」と返事したにとどまり、潤子が『裏のリング』に立つのかどうかについては、あえて口に出そうとはしなかった。
玲奈との通話が終わると、潤子は、前の日に鞠子から渡された連絡先に電話をかけた。お互いに簡単な挨拶を交わしたあと、鞠子は話を切り出してきた。
「封筒の中身をご覧いただけましたか。」
「はい。」
「そうですか。その上で私にご連絡をいただけた、ということは、『裏のリング』に興味をお持ちいただくことができた、と判断してよろしいでしょうか。」
潤子は、一瞬だけ答えを躊躇した。心の準備はできていたが、鞠子のこの問いを肯定してしまえば、もう後戻りできなくなる、そんな気がした。
姉の顔が潤子の脳裏をよぎった。そして潤子は、「はい。」と答えた。
「わかりました。それでは、ルール説明の中に、いくつか聞き慣れないものがあると思いますので、それらについて、いくつか補足させていただきます。」
「…… はい。お願いします。」
「では、説明が簡単なところから始めましょう。まず、打撃禁止箇所がないということですね。これは、対抗戦などで禁止されている部位への攻撃も認められるということです。もちろんグローブによるものに限られますが、対抗戦では禁止されている、胸、ベルトラインより下への打撃、すべて認められます。よろしいですね。」
「…… はい。」
「次に、試合時間についてです。ノーインターバル制、時間無制限と書かれていると思いますが、これは、ラウンドの概念がない、ということを表しています。プロレスの無制限一本勝負をイメージしていただくと、わかりやすいでしょう。つまり、試合開始のゴングが鳴ったら、KOで試合が決着するか、主催者側が試合を止めるまで、休むことなく闘っていただく、ということになります。」
「…… はい、わかりました。」
「それから、ダウンカウントの開始と進行について、対戦者のリクエストを要する、とあると思います。ダウンしただけでは、ダウンカウントはスタートせず、ダウンをさせた側の選手が、指定の位置、いずれかのニュートラルコーナーについてから、カウントが始まる、ということです。そして、カウント開始後も、対戦者が指定の位置を離れるとカウントは中断されます。ここは大事なところですので、ちゃんと理解しておいてください。意味がおわかりになりますか?」
「…… もう少し、説明をしていただけますか?」
「通常のボクシングの試合では、倒れた側、ダウンをした側が立てるか立てないかで勝負が決まりますが、このルールではまったく逆になります。試合終了を決定する裁量権は、すべて勝者側に委ねられているのです。ダウンを奪った側の選手には、ニュートラルコーナーへ向かう義務はありません。その選手が望まない限り、ダウンカウントはスタートしないのですから、殴り足りないと思ったら、一分でも二分でも相手が立ち上がるのを待てば良いのです。なお、ダウンした選手が長い時間立ち上がれない場合を含め、試合の続行が無理だと判断したときには、主催者側が試合を止めます。ただ、そうでないとき、戦闘が可能であるにもかかわらず、ダウンした選手が立ち上がろうとしないときには、それは試合放棄と見なされます。試合放棄には、ファイトマネーの全額没収を含む、最高のペナルティが課せられますので、ご承知おきください。」
少しだけの沈黙のあと、鞠子は、声のトーンを落とし、念を押すように言った。
「敗者には、試合から降りる権利はないのです。」
「だいだいこんなところでよろしいでしょうか。…… では、また何かありましたら、……
『裏のリング』に立つことをお決めになるようでしたら、ご連絡ください。……
では、……」
「待ってください。」
電話を切ろうとする鞠子を、潤子が遮った。
前の日の夜、潤子は『裏のリング』に上がるかどうかの答えを出していた。
一試合だけ、闘ってみよう。
一試合だけ闘って、どうしても辛かったら、『裏のリング』からも、園からも縁を切る。
園をやめるのは、それからでいい。
『裏のリング』は、私が園に残るための、たった一つの選択肢なのだから。……
潤子は、鞠子に自分の意思を伝えた。潤子の声には、祈りのようなものがこめられているように、鞠子には思えた。
「…… やります。…… 私、やります。」
「わかりました。では早速ですが、四日後の夜に、レスリングの試合が組まれています。お望みであれば、この日にあなたの試合を組み込むことができると思います。ただ、少しだけ問題があるのですけれども。」
「どういったことでしょうか?」
「それは、あなたの相手を、あなたに見合う対戦相手を探すのが多少困難だ、ということです。あなたの『裏のリング』での容姿ランク、それとあなたのボクサーとしての技能を考え合わせると、対戦相手はかなり絞られてしまいます。一人だけ候補を挙げることができるのですが、この方はあなたよりもいくらか大柄なのです。すでに卒園された方で、園生の頃は、ライト級に登録されていました。この方の体重は、今でも維持されています。ですから、体重で言うと、恐らくあなたと十五ポンドほど違うと思います。もし四日後に試合を組んでしまいますと、対戦者は間違いなくこの方になってしまいます。ボクシングにおいて、これだけ体重差が開いてしまいますと、軽い方の選手、このケースではあなたの側に、かなりの負担を強いることになるのはおわかりですね。また、『裏のリング』の決まりごととして、グローブは一律十二オンスとなっているので、残念ながら、この点においても、あなたにハンディキャップを差し上げることができないのです。」
「ライト級ですか。…… 確かに、二階級分の差がありますね。」
「もちろん、あなたがこの方と対戦を望まないのであれは、意向は尊重いたしますが、はっきり申し上げてしまいますと、その場合には、あなたの試合をいつ組めるのか、お約束ができなくなってしまいます。何週間かお待ちいただいても、この方以外に対戦者の候補を探すことができない可能性もありますので、それだけはお伝えしておきます。」
二階級の差。それがどれほどの重荷になるのかは、潤子にはもちろんわかっていた。ただ、試合までの期間が長引いてしまうのは、自分には耐えられそうもない。また、園に残るために、できるだけ早く『裏のリング』を知っておきたい、と潤子は思った。
「差し支えなければ、この方に今すぐ連絡を取り、四日後に対戦する準備があるかどうかだけ確認をしておくこともできます。もちろん、試合を組むことが前提ではなく、あくまでスケジュールの確認だけ、という形を取りますが。」
「いえ、…… あの、…… もう、試合を組む方向で進めていただきたいのですが、……」
「…… 本当によろしいのですか? もう少し、考える時間を取ることもできるのですよ。」
「いいんです。私には、できるだけ早く、『裏のリング』を体験しておく必要があるんです。体重のハンディのことは、了承いたします。…… 試合を、…… 試合を組んでください。」
「…… 承知いたしました。それでは、そのように取り計らわせていただきます。では、試合を組むに当たり、二、三、確認したいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、どうぞ。」
「まず、試合当日のコスチュームですが、『裏のリング』には、恒例のようなものがいくつかありまして、その中に、デビュー戦の際には純白のコスチュームを着用する、というものがあります。これは、レスリング、ボクシング共通で、デビュー戦であることのアピールであると考えていただければ結構です。あなたには、白のトランクス、白のシューズを着用していただくことになります。用具類はすべてこちらでご用意できるのですが、シューズだけは、本当に自分に合ったものでないと具合が悪いでしょうから、ご自分で用意された方が良いと思います。凛花の園生でしたら、対抗戦で使っているスクールカラーのシューズそのままで大丈夫でしょう。白のシューズはお持ちですね。」
「はい。大丈夫です。当日持参すればいいんですね。…… あ、あと、マウスピースも要りそうですね。」
「察しがよろしいですね。その通りです。あなたに用意していただきたいのは、白いシューズと、マウスピース、ソックスが必要であれば、白無地であることを条件に、持ち込んでいただいても結構です。それ以外のものは、すべて私どもで用意させていただきます。」
「わかりました。」
「それと、試合の時間についてです。レスリングとボクシングの試合が同じ日に組まれる場合は、ボクシングの試合が後になるのが普通です。第一試合開始の定刻は午後十時半。レスリングの試合は六十分の契約で行われますので、あなたの試合が開始されるのは、恐らくちょうど深夜零時ということになると思います。この点は、よろしいでしょうか?」
「はい。大丈夫です。」
「では、一旦失礼して、このあと、先ほどお話した対戦相手の候補の方と、連絡を取らせていただきます。その方の了解が取れれば、再度あなたにご連絡を差し上げます。その方は何度か『裏のリング』を経験されていますし、特にご説明を差し上げる必要もないでしょうから、十分ほどお時間をいただければ充分かと思います。」
潤子が了解の旨を伝えると、鞠子は電話を切った。そして、かっきり十分後、再び潤子の部屋の電話が鳴った。鞠子は、先方の了解が取れた、と潤子に伝えた。
「それでは、これで双方が試合を了承をされたようですので、これを以って、正式な契約とさせていただきます。よろしいですね。」
「はい。ありがとうございます。よろしくお願いいたします。」
潤子が『裏のリング』に上がる夜がやってきた。
その夜は、三月の終わりにしては、冷たい雨が降っていた。鞠子の運転する黒いセダンで、潤子は、今夜の試合会場である、市内で二番目に大きなホテルに着いた。
潤子は六階の部屋に通された。普段は一般の客室として使われてるような部屋だった。潤子には、個室、あるいは二人用の部屋のように映った。ここが控室の代わりなのだろう、と潤子は思った。
車を降りてからも、鞠子はずっと潤子に付き添っていた。鞠子は、潤子と一緒に部屋の中に入ると、潤子に椅子を勧めた。
「このお部屋が控室です。あなただけに割り当てられたものですので、安心してお使いください。それと、今夜は、私があなたのお世話を、……
試合にはセコンドがつきませんので、試合開始までと、試合が終わったあとの、あなたのお世話を担当させていただきます。よろしくお願いいたします。」
「あ、はい、こちらこそ。よろしくお願いします。」
「前にお話した通り、今夜は、あなたの出る試合の前にもう一試合、レスリングの試合が組まれています。様子をご覧になりたければ、そのモニターで試合内容を見ることができますよ。」
鞠子は、小さなテレビを指さした。それは、ホテルの備え付けのものとは明らかに違う、小型のものだった。
潤子はおそるおそるスイッチを入れてみた。ほどなくモニターに、四本の黒いロープに囲まれ、これも黒い無地のキャンバスが敷かれたリングの上で、二人の選手が闘っている様子が映し出された。
一人のレスラーは、顔の上半分だけが隠れる、少し派手な、黒をベースにした覆面を被り、これも黒を基調にしたセパレートのリングコスチュームを身に付けていた。ロープの高さから考えると、背は潤子と同じか少し高いぐらいで、潤子よりは数段がっしりとした、よく鍛え上げられた逞しい体躯をしていた。
彼女の股の下にはその相手、キャメルクラッチに極められているレスラーがいた。覆面のレスラーより大柄だが、身体を大きく反り曲げられて、苦悶の表情を顔に浮かべている。彼女は、シューズ以外には、ビキニのボトムのような、水色の小さな布だけしか身に付けていなかった。剥き出しになった乳房を隠そうともせず、彼女は必死にロープに向かって手を伸ばしていた。
「この試合は、裏のリングのレスリングではごく一般的な、基本ルール契約に基づいて行われています。試合時間は六十分で、ファイブカウントのフォール、もしくは主催者のストップのみで、勝敗が決まることになっています。競技者は、相手の締め技、極め技などに対して、ギブアップをすることができますが、試合は続行されます。ただし、ギブアップするたびに、ひとつずつ着衣を失います。最初に覆面を、次にトップ、最後にボトムです。つまり、三度ギブアップをしてしまうと、全裸にされてしまうことになります。それでも、試合は終わりません。主催者がストップをかけない限り、たとえ丸裸にされても、契約の時間が終了するか、相手がフォールしてくれない限り、試合は続行されます。」
潤子は、モニターから目を離せなくなっていた。横で説明をしている鞠子の声も、まるで上の空だった。
「技をかけられている方のコスチュームは、ボトムだけしか残っていませんね。今までに二度、ギブアップをしているのです。あの様子では、最後の一枚を失うのも時間の問題でしょうね。『裏のリング』のレスリングでは、いかに敗者を凌辱するか、どれだけ敗者に惨めな思いをさせられるか、が勝利の価値と考えられていますので、契約時間の終了直前までは相手をフォールすることはまずないですし、負傷、失神以外でストップがかかることもありません。ですから、契約の時間が終わるまで、…… まだ四十分以上残っています、…… 彼女は全裸で試合を続けなければならなくなりそうですね。」
ほどなく、水色のボトムを穿いているレスラーがギブアップをしたような仕草を見せ、覆面のレスラーが、キャメルクラッチを解いた。そして、うつ伏せに倒れている相手のコスチュームのボトムを、毟るように奪い取った。
モニターに映し出されていた光景は、潤子には、あまりにもショッキングだった。潤子はモニターのスイッチを切り、モニター自体からも目を背けた。
続いて鞠子の口から出た説明は、潤子のショックをさらに大きなものにした。
「あなたの試合も同じです。負ければ、トランクスを、リングの上で相手に奪われるのですよ。」
「それでは、お時間が近づいておりますので、着替えを済ませてください。試合用のコスチューム類はこの中に入っています。…… トランクスは、最高ランクのあなたのために、特別に誂えさせていただいたものです。気に入っていただけるとよろしいのですが。…… では、私は別室で待機しておりますので、準備ができましたらご連絡ください。その後で、私がバンデージとグローブの装着をお手伝いさせていただきます。…… それと、マウスピースをお預かりさせていただきます。試合の直前に、あなたがリングに上がられてからお返しいたします。」
鞠子は、潤子にホテルの内線番号を書いたメモを渡し、マウスピースを受け取って、部屋を後にした。潤子は、試合の控室であるホテルの部屋の中に、一人残された。
潤子は、しばらくの間、鞠子の残していったバッグを見つめたあと、中を開けてみた。
中には、膝丈ほどの、タオル地の白いローブが入っていた。試合の時間が来るまで、これを上に羽織っていなさい、と言うことなのだろう。潤子がローブを少し引き上げると、そのローブは、グローブをしたまま脱げるように、袖口がかなり広く作られていた。
完全にローブを取り出したあと、潤子が鞄の中を覗くと、トランクスと、アンダーウエアのようなものが一枚ずつ入っていた。トランクスは地がまったくの純白で、ベルトラインとサイドラインにパールホワイトの生地が使われていた。一瞬だけ、美しい、と潤子は思った。それでも、対抗戦などで使われているものより遥かに丈が短い。アンダーウエアは、これも白い単色で、比較的厚手の、水着のボトムのような生地でできていたが、本当に下半身の大事な部分だけが隠れるような、申し訳程度の大きさのものだった。
潤子は、ベッドの端に腰掛け、ローブをベッドの上に広げて、トランクスとアンダーウエアを手にとった。それを、ローブの上に置くと、窓に掛けられているカーテンが閉まっていることを確認して、服を脱いでいった。
部屋に入るまでに身に付けていたものをすべて脱ぎ去ると、潤子は、用意されたアンダーウエアを身に付けた。そして、自分のために誂えられたという、白いトランクスに両脚を通した。
潤子は、部屋の中にある、一番大きな鏡の前に立った。鏡には、潤子の膝から上の姿が映し出されていた。手は素手のままだが、それ以外は、『裏のリング』に上がる前の、ボクサーの姿がそこにあった。
試合が終わったとき、私はこの鏡にどんな姿で映っているんだろう、と潤子は思った。
少しだけ、恥ずかしさがこみ上げてきた。潤子は鏡の前から離れ、寮から持ってきた自分のバッグをベッドの上に置いた。そして、白いローブに袖を通し、腰紐を蝶結びにすると、再びベッドの端に腰掛けて、バッグの中身を取り出した。
ソックスは、三種類あった。少しだけ迷ったあと、潤子はその中から、一番短い、完全にシューズの中に隠れてしまうソックスを選び、両足に履いた。そして、鞠子に指定された、白いリングシューズの中に足を入れ、シューズにストラップを通し始めた。
鞠子は、潤子の目の前に両膝をついて、ベッドの端に腰掛けた潤子の拳に、手際よくバンデージを巻いていた。潤子は、自分の拳に巻きつけられていくバンデージを見つめていた。
潤子は、その日の対戦相手について、本当に何も聞かされていないことに気づき、鞠子に尋ねてみた。
「…… あのぅ、…… 今日の相手は、どんな方なんでしょうか。………」
「名前や、出身園などは、明かすことができない決まりになっていますのでお教えできません。でも、ボクシングの試合に出る方は、ボクシング部の出であることが多いですし、対抗戦などの場で会っていることもあるでしょうから、顔を見ればわかってしまうことの方が多いようですね。……
固さは、このくらいでよろしいですか? …… 電話でお伝えした通り、今は、あなたより大柄、対抗戦のクラス分けで言えば二階級ぐらい上に当たる、とだけ申し上げておきましょう。彼女は強いですよ。覚悟してくださいね。」
そんな会話が交わされている間に、鞠子は、潤子の両拳にバンデージを巻き終わっていた。
鞠子は、潤子から着替えを終えたという連絡を受けてから、再度潤子の部屋を訪れたときに、厚紙でできている大きな箱を持ち込んでいた。鞠子はその箱を開け、トランクスのベルトラインと同じ素材でできているであろう、パールホワイトに輝くボクシンググローブを取り出した。
「これが今夜あなたが使用するグローブです。今夜のために、最高ランクのあなたのデビュー戦のために、お衣装と同じように誂えさせていただきました。」
両手にグローブを嵌め終わると、潤子の外見は、完全に試合を目前に控えたボクサーになっていた。
潤子は、ベッドの端に腰を下ろしたまま、グローブを腿のあたりに置いて、静かに試合を待っていた。
やがて、部屋の電話が鳴った。鞠子は、受話器を取り上げ、相手と二言三言会話を交わしたあと、受話器を元に戻し、潤子に顔を向けた。
「会場に入る時間です。行きましょう。」
白いローブに身を包んだ潤子は、鞠子に副われて、ホテルの中の従業員専用になっている階段を、一段一段降りていった。試合会場は二階にある、と鞠子は潤子に話していた。
階段を二階まで降りると、潤子はホテルの廊下、パーティールームがいくつか並んでいるのが見える、ロビーのような場所に出た。あたりに人気はまったく見当たらず、その照明は少しだけが残され、薄暗かった。
「今、この二階のフロアは、『裏のリング』の関係者とゲスト以外の方は立ち入ることができないように手配されています。今夜、このホテルの三階から五階までの階の客室は、すべて今日の試合を見にいらっしゃるゲストの方が予約されているものです。ホテルの客室を予約なさったゲストの方には、会場で良いお席を提供しているのですが、あなたの試合が追加されてから、数十本もの追加のお申し込みがあった、と聞いています。」
鞠子は、いくつかあるバーティールームの中でもひときわ大きい、立派な両開きの扉の前で足を止めた。鞠子がその扉を開けると、その内側にもう一枚、これも両開きの扉があった。鞠子と潤子が二人とも外側の扉の中に入ると、鞠子は外側の扉を閉めた。二つの扉に挟まれた、六畳ほどの小さなスペースの中で、鞠子は潤子の目を優しい眼差しで見つめ、言った。
「私が試合前にあなたに付き副えるのは、ここまでです。この扉を開けるとリングに通じる通路があります。そこを通ってリングに上がってください。ここから見て一番近い位置にある、銀色のカバーが貼られているコーナーがあなたのコーナーです。…… それと、…… ここで、ローブをお預かりさせていただきます。」
ローブを脱ぐ、…… ついに、そのときが来た。裏のリングで闘うことの最初の試練が、潤子に訪れた。
鞠子は、潤子の前にひざまずき、潤子の腰に巻かれたローブの腰紐を解いた。潤子は両腕を交差させ、乳房の上に置いていた。鞠子が潤子の背中側に回ると、潤子は壁に一歩近づき、少しだけためらうような仕草をしたあと、両腕を真下に下ろした。ローブの後ろ襟が、滑るように潤子の背中を通過した。ボクサーとしては少しばかり華奢な、潤子の背中が、鞠子の前にさらけ出された。
「…… 鞠子さん、……」
ローブの両袖が完全にグローブから離れると、潤子は、再び両腕を胸の前で交差させ、鞠子の方に向き直った。
この夜が、人生の中で一度きりの、『裏のリング』になるかも知れない。潤子が知りうる限り、『裏のリング』と繋がりを持っている唯一の人間である鞠子に、言葉尻は少し冷たいけれど、自分を丁重に扱ってくれた鞠子に、自分のことを覚えていてもらいたい、と潤子は思った。
「…… 私は、…… この試合が終わったとき、醜い姿に変わってしまっているかも知れません。……
私の裸を、…… 今の私の、この身体を、覚えていてください。……」
そう言うと、潤子は、瞳を少しだけ潤ませて、自分より十センチほど背の高い鞠子の目を見つめ、ゆっくりと腕を下ろしていった。鞠子の目の前に、潤子の美しい上半身が晒された。
鞠子も、潤子を見つめていた。鞠子の精悍な表情が少しだけ緩んだ。
「私は、…… あなたに最高ランクを差し上げられたこと、…… そして、私の見立てが間違っていなかったことを、とても嬉しく思います。………
私は、この務めに就いてから、何百人もの方のお身体を拝見してきました。……
あなたのお身体は、私が今まで見たものの中で、間違いなく一番美しいものです。……
ありがとうございました。」
潤子は、それに応えて頷くと、みたび腕を胸の前で交差させた。そして、会場に続く内扉の方に身体を向けた。
「ありがとうございました。…… では、行ってまいります。」
潤子が内扉を押すために、左の腕を身体から離しかけたのを、鞠子は制止した。そして、扉に手を掛け、再び潤子の方に目を遣った。
潤子は、軽く鞠子に会釈をすると、鞠子の手で開かれた扉を通って、リングへと続く通路へと歩き出した。
パーティールームの照明は、リングだけに当てられていた。潤子の視界には、暗闇の中にぽっかりと浮かぶ黒いリングが映し出されていた。客席はテーブル席になっているらしいのが、テーブルの上の小さな明かりから見て取れた。観客の顔は、潤子には暗くてよく見えなかった。が、観客の囁きあうような声は、潤子に聞こえていた。
潤子は、腕を胸の前で交差したままの姿で、リングへの通路を歩き終えると、下二本分のロープを跨いだ。そして、腰を曲げて、上半身をリングの内側へ入れ、後ろ足を抜いた。
潤子は、銀色に光るコーナーマットを背に、初めての『裏のリング』に立った。
対戦相手は、既にリングの上にいた。金色のベルトラインが入った、潤子のものよりもさらに丈の短い、黒いショートトランクス、トランクスと同じカラーコンビネーションのシューズを穿いて、潤子に背中を向けてウォーミングアップをしていた。動きの合間から、手には赤いグローブをつけているのが見えた。
体型は潤子と同じような感じだが、潤子よりも数段締まった身体をしていた。その身長は、潤子より五〜六センチは高い。鞠子に聞かされていた通り、二階級上の選手、自分より十五ポンドほど上だろう、と潤子は思った。その背中はうっすらと、汗で光っていた。
あの体型、あの髪型には、見覚えがある。潤子が、その人物に思い当たったとき、潤子の全身から血の気が引いた。
「…… そんな、……… そんなことが、…………」
次の瞬間、相手が潤子の方に向き直った。
潤子の推理は間違っていなかった。
潤子の対戦相手は、憧れの先輩、西園寺紘美だった。
潤子は、リングの中央で紘美と対峙していた。リングの中央にはもう一人、黒のシャツと黒のパンツスーツ、黄色の蝶タイをした女性が立っていた。彼女は、デビュー戦である潤子に、試合進行上の留意点を聞かせていた。
「私は、この試合の『世話人』を務めさせていただく者です。あなたは今夜の試合が初めてでしたね。レフェリーだと思っていただいて結構ですよ。私は試合開始の前にリングを降りますが、リングの外からこの試合を管理いたします。…… 」
『世話人』の話を聞いている二人の様子は、まったく対照的だった。潤子はやや背中を丸め、会場の扉を開いてからずっとそうであったように、両腕を胸の前で交差させて、明らかに乳房を隠すようにして立っていた。それに対して紘美は、グローブを身体の前、お臍のあたりで合わせ、胸を張って、その大きく、見るからに張りの良さそうな乳房を、惜しげもなく晒していた。
「…… 私が試合の中断を求めるときには、ブザーを鳴らしますので、試合中にブザーの音が聞こえた場合は、速やかに戦闘を中断してください。よろしいですね。…… では、マウスピースをお返しいたします。試合開始のゴングが鳴りますまで、ご自分のコーナーでお待ちください。」
『世話人』の女性は、紘美の口に、続いて潤子の口に、マウスピースを装着させ、リングを降りた。潤子は自分のコーナーに戻り、相変らず両腕を胸の前で交差させたまま、銀色のコーナーマットを背にした。対角線上のコーナーでは、紘美が同じように金色のカバーを貼ったコーナーマットを背にしていた。紘美は両腕を上段ロープに掛け、こちらも相変らず乳房を惜しげもなく晒していた。
場内にアナウンスが流れた。
「…… 主催者は、ご来場の皆様に、この試合をご提供できますことを、非常に喜ばしく思います。この試合の対戦者は、お二方とも、最高ランクに格付けされますほどの、美しいお嬢様でございます。コスチュームからご推察の通り、銀のコーナーのお嬢様は、今夜が当リングでのデビューであります。主催者は、このリングの上で、素晴らしい光景が数多く生まれ、ご来場の皆様に、充分ご満足いただけることを確信いたします。……」
アナウンスが終了すると、試合開始を告げるゴングが鳴った。
潤子は、腕の交差を解いて、腕の中にすっぽりと胸を囲み、白いグローブをアゴの下に並べるようにして、紘美に近づいていった。紘美も、左腕を肩から真っ直ぐに下ろし、右腕を少しだけ曲げて、潤子に近づいてきた。
紘美までの距離が三メートルほどになると、潤子は身体を少し前傾させ、グローブの位置を口が隠れるところまで持ち上げた。紘美も上半身を軽く丸め、左の肩をいくぶん前に出し、赤いグローブをアゴの前に前後に並べて、ファイティングポーズをとった。二人の距離はさらに縮まっていった。
あと少しだけ前に出て、ジャブを打とうと思った潤子の顔に、続けざまに三発、紘美の鋭いジャブが飛んできた。三発すべてが潤子の左目の少し上にヒットし、その一発ごとに、潤子の顔はわずかに上を向いた。まったく予期していなかった位置からのジャブに、潤子はたじろぎ、二歩、三歩と後退した。
潤子は驚きを隠せなかった。自分の方からでは絶対にパンチが届かない距離からのジャブ。鋭く、重い、二階級重いクラスの、最上級のボクサーが放ったジャブ。それは潤子にとって、まったく未体験のものだった。
圧倒的なリーチの差が、そして二階級分の体重の差が、潤子の前に立ちはだかった。
潤子はさらに身体を丸め、両手のガードを鼻が隠れるところまで上げた。
「いつもの構えと違うじゃない? あなたの構えは、こうでしょう?」
紘美は、そう言うと、左腕のガードを下ろし、左肩を完全に潤子の方に向けた。ヒットマンスタイル。潤子が普段の試合でしているものと、まったく同じスタイルに、紘美は構え直した。
潤子はパニックに陥った。どうやって紘美と闘ったらいいのか、まったくわからなくなってしまった。
離れていたら、あの、鋭く重いジャブの餌食になることだけは間違いない。それなら、ガードを固めて、とにかく相手に近づくしかない。
頭では理解できていたが、始めに受けたジャブの印象が、すでに潤子の頭の中に、強烈にインプットされてしまっていた。自分がパンチを届かせる距離にまで紘美に近づくためには、紘美のジャブだけが届くゾーンを越えなければならない。……
潤子の身体は、潤子に残された作戦に従うことを拒んだ。
それでも潤子は、何とか紘美に近づこうと努力した。しかし、それは、ことごとく紘美の放つジャブの前に打ち返された。潤子が近づいていく気配がないと、紘美は自分の方から潤子に近づき、潤子のガードの上から何発か重いパンチを叩き込んてきた。
このままではどうにもならないと判断した潤子は、紘美に向かって突進した。しかし、アウトボックスが身上の、潤子の急造インファイトが、二階級上の上級ボクサーに通じる筈はなかった。
潤子が素早く間合いを詰めたが、紘美はサイドステップを踏み、左のフックを潤子のボディに放った。わき腹に重いパンチを食らった潤子の右腕が一瞬だけ下がった。その隙を縫って、紘美は潤子のあごにアッパー気味の左フックを振った。潤子のアゴが斜め上にめくれ上がり、マウスピースが弾け飛んだ。
潤子は、あっさりと、腰から崩れ落ち、両手のグローブを黒いキャンバスについた。
試合開始からたった一分足らずで、潤子は最初のダウンを奪われた。
四つん這いの格好でキャンバスを見つめていた潤子は、しばらくすると、左の膝を立てて、立ち上がった。潤子は、再び両方のグローブで鼻から下をがっちりガードし、紘美に向かって進んでいった。しかし、その脚捌きにはダメージが残っていることが、はっきりと表れていた。
潤子のパンチが届く距離にまで、潤子は紘美に近づいたが、紘美は左手のグローブをガードの位置に戻しただけで、ジャブも打たず、横にも後ろにも移動しなかった。潤子は左のジャブを二発打ったが、軽く上体を振っている紘美には当たらなかった。潤子はさらに紘美に近づき、今度は右ストレートを放ったが、紘美はこれをダッキングでかわし、両腕を潤子の腋の下に入れてきた。
潤子には、なぜ紘美が自分からクリンチをしたのかがわからなかった。しばらくすると、紘美は右の腕を潤子の腋の下から抜き、肘を大きく曲げて、グローブの掌側を、潤子の顔に押し付けた。
潤子の口の中に、何かが押し込まれた。すでに息が上がり始め、大きく口を開けていた潤子は、それを受け入れるしかなかった。それは、潤子がダウンしている間に紘美が拾い上げた、潤子のマウスピースだった。
潤子が、自分の口の中に捩じ込まれたものが何なのかを理解するまでには、少しだけ時間がかかった。紘美は、再び右の腕を潤子の腋の下に入れていた。左手のグローブを使って、マウスピースの位置を直している潤子の耳元で、紘美が囁いた。
「マウスピースを吹き飛ばしたり、吐き出させたりすると、お客様はたいそう喜ばれるのよ。…… もう一度、…… その素敵な姿を、もう一度見せてちょうだい。」
潤子の身体に戦慄が走った。情けを掛けられたんじゃない。私をじっくりと嬲るために、紘美先輩はマウスピースを私に返したんだ。殴られることとはまったく別の、大きな恐怖感が、潤子の身体を貫いた。潤子は反射的に紘美の腕を振り払い、紘美から離れた。
紘美はオーソドックススタイルに構えを戻し、潤子に近づいて、ジャブを数発放った。恐怖感から、本能的に胸だけを守るような構えになってしまった潤子は、なす術もなく、一発ごとに大きく顔を揺らした。
「自慢のヒットマンスタイルは、どこへいってしまったの? いつまでも胸を隠してないで、早くいつものスタイルに戻りなさい。」
潤子がリングに上がってから、紘美が一度も自分の胸を隠すような仕草をしていないのは、潤子にはわかっていた。胸を隠したいために、自分が試合開始からヒットマンスタイルが取れないでいたことも、潤子にはわかっていた。
潤子は、悔しさで、少し泣き顔になった。紘美に差し戻されたマウスピースを噛みしめ、潤子は左腕を下げ、右手を左の頬の下に置いた。潤子の、大きな、形の良い乳房が、あらわになった。
自分の本来の構え、ヒットマンスタイルに戻った潤子だったが、構えを変えても、いささかも劣勢を挽回することはできなかった。
紘美に少しずつ近づくと、潤子がジャブを放つよりも前に、紘美のジャブが飛んできた。さらに近づくと、逆にボディを攻められた。そんなシーンが五、六回繰り返されたあと、紘美に間合いを詰められてバックステップしようと思った紘美の左の乳房を、紘美の左ストレートが直撃した。
「痛いっ!」 と思わず叫んでしまった潤子は、両腕で胸を覆い、後ずさりした。紘美がじわじわと間合いを詰めてくる。潤子は胸を覆ったまま、後ろに下がるしかなかった。しかし、それもほんの数歩だけだった。潤子のお尻が、コーナーマットに当たった。もう、潤子は、後ろに下がることすらできなくなってしまった。
潤子は、両手でできるだけ体の前面が覆えるように、身体を丸めた。紘美が潤子のグローブで覆われている顔のあたりに、左右のフックを一発ずつ放つと、潤子の身体は、さらに丸まった。潤子のグローブは、甲側を紘美の方に向けて、額のあたりでぴったりと閉じて置かれていた。
潤子は、すでに眼を瞑ってしまっていた。
紘美は、今度は潤子のわき腹に、重いパンチを当て始めた。一発ごとに潤子のガードが顔から引き剥がされ、落ちていった。両方のわき腹に、四発ずつボディフックを叩き込まれた潤子のガードは、既に顔を覆うことすらできなくなっていた。
紘美は、それでも潤子の顔には、パンチを打たなかった。そして、肘が両側に開いてしまった潤子のガードの間を裂くように、紘美はボディアッパーを潤子のお腹にめり込ませた。
「ぅぐっ…」と呻き声を残し、潤子は苦痛に耐え切れず、マウスピースを吐き出し、その場にうずくまった。右の腕でお腹を抱え、キャンバスに左手のグローブと両膝をついて、潤子は荒い呼吸を繰り返した。
潤子の戦意は、早くも萎え始めていた。
「…… 強い。…… 強過ぎるよ。………… 私には、絶対に勝てないよ。・・……
」
潤子の吐き出したマウスピースは、キャンバスでリングの中央側に撥ね、潤子がうずくまっている場所から少し離れたところに落ちていた。紘美は、そのマウスピースをつま先で操り、潤子の目の前の位置に置いた。潤子がキャンバスに沈められてから、すでに二十秒近くが経過していたが、紘美は、ダウンカウントをスタートさせる気配を微塵も感じさせなかった。紘美は、潤子の目の前に立ち、近くの観客にも聞こえるような声で言い放った。
「今度は自分で拾ってちょうだい。…… さあ、ゲームを続けましょう。」
紘美の口調は、主人が奴隷に命令するような、慈悲のかけらも感じられないものだった。その通りに、紘美と潤子は完全な主従関係になりつつあった。マウスピースを拾い、立ち上がれ。潤子には、紘美が、そう命令しているように感じられた。主人の命令に従い、潤子はキャンバスに落ちているマウスピースを拾い上げ、それを口の中に戻すと、ゆっくりと立ち上がった。
その後の試合展開は、試合ではなく、まさに『ゲーム』そのものだった。ボディを集中的に狙われ、自分でマウスピースを吐き出すほどのダメージを負った潤子は、もう自分から手を出すことができなくなってしまっていた。
紘美は、強いパンチを打たなくなった。ただ、潤子の身体の、あらゆる場所に、軽い、嬲りつけるようなパンチを繰り出し続けた。潤子が胸をガードしていると、紘美はボディや、ベルトラインの下を叩いて、潤子のガードを下げさせた。潤子が身体を丸めると、額のあたりをかち上げ、上体を起こさせた。
時折、紘美は、自分から潤子に抱きつき、クリンチをした。潤子の身体を引き寄せ、自分の張りのある乳房を、潤子の、大きな、やわらかい乳房に押し付け、練りまわした。潤子は、紘美の両肩に腕をまわし、顔を歪ませて、必死に恥ずかしさに耐えていた。
肉体的なダメージはそれほどでもなかったが、精神的なダメージはどんどん蓄積されていった。潤子には、自分が紘美に弄ばれていることが、はっきりとわかっていた。それでも潤子の心には、悔しさは湧いてこなかった。ただただ悲しかった。その悲しみは、潤子の戦意を容赦なく毟り取っていった。
潤子には、腕とグローブを使って、身体の何分の一かを覆うことだけしかできなくなっていた。それでも、覆うことのできない場所に、紘美の軽いパンチは降り注ぎ続けた。
潤子は、そんな軽いパンチを受けてさえ、何度かキャンバスに倒れ込んだ。
潤子が倒れるたびに、紘美は潤子の顔の近くに立ち、カウントを始める意思のないことを、無言で潤子に伝えた。潤子は、そのたびに必死に立ち上がった。潤子を立ち上がらせていたのは、もはや闘争心でも、ボクサーの本能でもなかった。主人に対する忠誠心のようなもの、それだけが潤子を立ち上がらせていた。ただ、立ち上がるまでに要する時間は、三十秒、四十秒と、だんだん長くなっていた。
ついには、潤子が立っている時間より、倒れている時間の方が長くなった。潤子の精神は限界に近づいていた。紘美はそれを見取り、潤子を、ロープと同じ、黒に塗られたニュートラルコーナーへ押し込んで、潤子のアゴにショートフックを見舞った。潤子の口からマウスピースが飛び出し、きれいな放物線を描いて、リングの外へ消えた。
コーナーマットを背にした、潤子の上半身がずり落ちた。潤子は下から二番目のコーナーマットを枕にするように、キャンバスに座り込んだ。
潤子には、下段ロープに引っ掛かっている左腕をロープから外す力も、大きく広げられた太股を閉じる力も、残っていなかった。ただ、荒く呼吸を繰り返し、惨めな姿をさらけ出したまま動けないでいる自分に、耐えるしかなかった。
そして、自分の股のあたりに落とされている視線を、何とか前に向けたとき、潤子が待ち望んでいた光景が目に映った。
潤子は、この試合のゴングが鳴ってから、紘美が潤子に背を向け、対角線上にあるコーナーに向かって、ゆっくりと歩いていく姿を初めて目にした。紘美は、目的地に到着し、再び潤子の方を向き直ると、上段ロープに両手を掛けて、カウント開始を要求するポーズをとった。
場内にアナウンスが流れた。
「ダウン。…… ワン、…… トゥー、……」
もう、終わるんだ。紘美先輩は、やっと私を解放してくれるんだ。…… そう感じた潤子の耳に、カウント進行の声が聞こえた。その安堵感から、潤子の緊張の糸がぷつりと切れた。
潤子は、自分の下腹部に起こっている異変にまったく反応できなかった。潤子が、「あっ」と小さな声を上げたときには、もう遅かった。
みるみるうちに、潤子の純白のトランクスが淡い黄金色に染まり、大きく開かれていた太股の間に、小さな水溜りが広がった。
潤子の瞳から、一瞬にして大粒の涙が溢れ出た。
……………… おしっこ ………… 漏らしちゃった …………
失禁したことで、潤子の意識は鮮明になってしまった。
涙がとめどなく流れ落ちた。潤子は、手で顔を覆いたかったが、そんな力は残されていなかった。下を向き、キャンバスに座り込んだままの格好で、潤子は涙を流し続けた。涙の雫が、次々と、わずかに赤く腫れた大きな乳房の谷間を通り抜けて、トランクスに吸い込まれていった。
そんな潤子には、紘美がニュートラルコーナーを離れ、カウントがエイトでストップしていたことを認識する余裕など、もちろんなかった。
紘美は、再び潤子の目の前に立つと、自分のマウスピースを右手のグローブの中に落とした。そして、潤子の小水でできた水溜りの中にマウスピースを放り投げ、言った。
「マウスピースを咥えるのよ。…… まだ、ゲームは終わっていないわ。早く立ちなさい。」
優しかった紘美先輩。…… 憧れだった紘美先輩。…… その紘美が、この上なく無様な姿を晒している自分を見て、試合を終わらせてくれないどころか、自分に、お小水溜まりに落ちているマウスピースを咥えろと強いている。……
潤子には、紘美の言葉が信じられなかった。潤子は何度か力なく首を横に振り、大粒の涙を流しながら、紘美の顔を見上げた。そこには、潤子を見下ろし、左のグローブを腰に当てて右腕を伸ばし、右手のグローブを少し開いて、キャンバスに落ちているマウスピースを指し示している紘美の姿があった。潤子の望みは、無残にも、最悪の形で打ち砕かれてしまった。
「………… まだ嬲り足りないですか、紘美先輩、…………
…………… お願いですから、……… もう、許してください。…………」
潤子には、もう、ひとかけらの戦意も残っていなかった。そして、殴られ続けたことの痛みすら、潤子は感じていなかった。………
悲しみ、…… 限りなく重い、悲しいという感情が、潤子を押し潰していた。
紘美は、右腕で潤子のマウスピースを指し示すのをやめると、両方のグローブを腰に当てて、胸を張った。流れ落ちる涙を拭おうともせず、しばらくの間、紘美を見つめていた潤子は、やがて観念したようにのろのろと動き出した。
潤子は、上体を少し持ち上げると、お小水溜まりの中に浸かっているマウスピースを拾い上げようと試みた。手が震えているのが自分でもはっきりわかった。何度か試みたが、マウスピースは潤子のグローブに納まってくれなかった。潤子はもう一度、すがるような目で紘美を見上げた。紘美は、再び右手のグローブでマウスピースを指し示していた。
潤子は、がくりとうなだれたあと、再びのろのろと動き始めた。何とかマウスピースを見下ろす位置で四つん這いになると、顔をマウスピースに近づけた。そして、頬を水溜りの中に浸し、震える口を開いて、マウスピースを咥えた。
そして、右肘から先を同じ水溜りの中に浸して、グローブを口元にあてがい、マウスピースの位置を直した。
潤子は、ゆっくりと、…… 左手のグローブを、上から二番目のロープに掛け、……
ゆっくりと、立ち上がった。
紘美は、潤子が失禁したあと、それまで以上に、陰湿に潤子を嬲った。時折、潤子のお腹と、額のあたりを軽く叩きながら、小さな、軽いパンチを、パンチングボールと戯れるように、潤子の乳房に当て続けた。
赤く腫れた乳房に、紘美のパンチを受けるたびに、潤子は、喘ぎにも似た小さな声を上げた。
「いい声だわ。もっと鳴いてちょうだい。」 「感じているのね。うれしいわ。」
リズミカルに軽いパンチを繰り出し続けながら、紘美は潤子を言葉でも弄んだ。それは潤子の、残り少ない、剥き出しになりかけているの精神の最後の薄皮を、一枚一枚、丁寧に剥がしていくようだった。
潤子の両腕は、すでにパンチを打つことはもちろん、ガードをするためにさえ、何の役にも立っていなかった。グローブを握る力すら失われ、だらしなく肩から垂れ下がっているだけに過ぎなかった。
潤子の顔からは、表情が失われつつあった。中空に顔を向け、中途半端に開かれた両目からは、機械のように涙が流れ続けていた。やがて、マウスピースを噛む力さえ失った潤子の口からは、マウスピースがこぼれ落ち、よだれが流れ始めた。
潤子は、幼児が放つ程度のパンチを五、六発受けただけで、キャンバスに崩れ落ちそうになっていた。しかし、潤子が倒れそうになると、紘美は潤子の身体を支え、潤子の両腋に腕を入れて、腰を伸ばさせた。そして、自分の乳房を潤子に押し付け、潤子の乳房を蹂躙した。
潤子が失禁し、ボクサーであることを止めてから、紘美の赤いグローブは、容赦なく潤子の乳房に当てられ続けていた。そして、その回数が二桁で収まり切らなくなったとき、潤子の精神が、ボクサーとしてではなく、一人の女性としての精神が、限界を超え、崩壊した。
憧れていた紘美に、存分に嬲られたという、あまりにも深い悲しみが、潤子の肉体を完全に麻痺させた。潤子の意識はまだ残っていたが、潤子の肉体は、立っていることを頑なに拒否した。紘美が潤子の身体を抱きかかえ、体勢を立て直そうとしても、潤子の膝は折れたまま、まったく力が入らなくなってしまっていた。紘美が潤子の乳房の頂きにある突起を刺激しても、潤子はもう、何の反応も示さなくなっていた。涙も、涸れてしまったのか、もう流れていなかった。
紘美は、潤子を抱えて、一番近くにある、潤子がリングに上がった銀色のコーナーに連れて行った。そして、下から二つ目のコーナーマットに、座らせるように潤子を置き、潤子に、リングの上での、最後のメッセージを送った。
「素敵なゲームだったわ。これはご褒美よ。」
紘美は、右腕を潤子の脇の下から抜いて、潤子の頭全体を抱えるように回し、潤子の顔を自分の乳房の谷間に捩じ込んだ。さらに左の腕も潤子の脇の下から抜くと、自分の乳房の下にあてがい、きゅっと力を込めた。潤子の顔は、紘美の乳房の中に、完全に埋め込まれた。
潤子の両腕が、もがくように、微かに動いた。が、十秒もすると、その動きは止まり、再び肩からだらりと垂れ下がった。
潤子は、紘美の胸の中で失神してしまっていた。
紘美が潤子の身体を開放すると、潤子の身体の、すべての部品が、自由落下を始めた。両膝が、両手のグローブが、そして表情を失った顔が、順序良くキャンバスに着地した。
『世話人』が試合をストップしたことを告げる、長いブザーの音が、場内に鳴り響いた。
潤子は、キャンバスの上で膝と腰を折り曲げ、お尻を突き上げていた。潤子の右の頬と右の肩はキャンバスに押し付けられていた。左目は薄く開かれ、まったく精気を失った瞳を覗かせていた。頬がキャンバスについていることで、少しめくれ上がった唇からは、よだれが滲み出ていた。両腕は掌を上にしたまま、体側に投げ出されていた。
お腹のあたりが、小さく、ゆっくりと、規則的に動き、微かに呼吸をしているのがわかる。
それ以外は、……… 潤子はピクリとも動かなくなっていた。
紘美は両の拳を突き上げ、勝者のポーズを取っていた。四面すべての観客にその姿をアピールし終わると、リングの上で折りたたまれたような格好で倒れている潤子に近づき、シューズの裏でその身体を裏返した。
『世話人』の女性が再びリングに上がり、紘美に仰向けにされた潤子に近づいた。そして、べっとりと潤子の身体に貼り付いている潤子のトランクスを潤子の身体から引き剥がし、紘美に手渡した。紘美はそれを受け取ると、つま先で潤子の大腿を開かせた。そして、使用済みのパンチングボールを踏みつけるように、右足のシューズの裏を、赤く腫れ上がった、潤子の大きな乳房の上に乗せ、『戦利品』を右手のグローブで掴んだまま、再び両手を高く上げて、観客にその姿を誇示した。
気を失っている潤子をリングの上に放置したまま、オークションが始められた。
黄金色に染まった潤子のトランクスは、『裏のリング』が始まって以来の、最高の価格で競り落とされた。
潤子は、自分がやわらかいベッドの上に寝かされていることに気付いた。布団がかけられている感触があったが、身体が動いていないので、目で確認することはできなかった。
潤子には、部屋の天井だけが見えていた。少しだけ視線を横にずらすと、そこには鞠子の顔があった。鞠子は、潤子の意識が戻ったことを確認すると、潤子に声をかけた。
「気がついたようですね。」
「…………… はい。…………」
潤子は、ベッドに横たわったまま、周りを見回してみた。どうやら、試合の前にいたホテルの部屋と同じ部屋のようだった。
試合が終わって、…… 試合に負けて、失神している間に、この部屋に運び込まれたことが何となくわかった。ただ、試合の前に自分の裸身を映した大きな鏡には、全面にカバーが掛けられていた。試合に負けた選手が、鏡に映った自分の姿を目にすることがないように、配慮されているのかな、と潤子は思った。
潤子はまだ、ものを考えたり、思い出したりする気にはなれなかった。紘美との試合が終わった、それだけがわかれば良かった。潤子の心には、何の感情も、リングの上で嫌というほど味わった悲しさ、紘美に対する憎しみ、一切の感情が湧いてこなかった。潤子は、ただ、試合が終わったという事実に浸っていたかった。
しばらくたったあと、潤子は、身体のあちこちを小さく動かしてみた。布団がかけられているので、実際に見ることはできないが、腕、手、指、足、すべて思うように動いている感触があった。シューズが脱がされて、裸足になっていることもわかった。お腹に痛みが残っていることと、顔と乳房が腫れているような感じがする以外は、身体には何の後遺症も残っていないように、潤子には感じられた。
次に、潤子は、自分の身体のいろいろな場所を、バンデージが外された掌で触ってみた。下着は一切つけていないようだが、試合の前に身に付けていたローブのようなものを羽織っているのがわかった。僅かに、石鹸の匂いがするのにも気がついた。
「身体を、…… 洗っていただいたようですね。…… ありがとうございます。………」
「はい、簡単にですが、そうさせていただきました。」
潤子が意識を取り戻してから、初めてある感情が生まれた。それは、安心感、試合に負けた自分に、配慮がなされることへの安心感だった。鞠子がそばにいてくれるだけでも、潤子にはありがたかった。
潤子が意識を取り戻してから十分ほどたったあと、安らかな表情を浮かべている潤子に、鞠子が語りかけた。
「あなたは、西園寺さんに感謝すべきでしょうね。」
「…… 感謝、……… ですか、……」
「そうです。今、私が思いつくだけでも、いくつか挙げられます。」
「……………… どういうことでしょうか。……」
「まず、あなたが、肉体的な損傷をほとんど負っていないことです。特に顔ですね。あれだけ一方的な内容で、リングの上で失神までさせられたにも拘わらず、あなたの顔にはほとんど傷が残っていません。鏡を見れば、良くわかりますよ。」
鞠子が潤子に小さな鏡を手渡すと、潤子は、おそるおそる、その鏡に自分の顔を映してみた。鞠子が言っていた通り、目の周りが少し赤くなってはいたが、それを除けば、普段と変わらない潤子の顔が映っていた。
潤子は、紘美が、練習や試合で部員がケガをすること、特に顔に傷痕が残るような裂傷を負うのを極度に嫌っていたことを思い出した。対抗戦のときだけはヘッドギアなしで打ち合うわけだが、試合で部員が顔にケガをすると、本当にすまなそうに手当をする姿を、潤子は何度も見たことがあった。
「それと、あなたは試合中に何度もマウスピースを落としましたが、西園寺さんは、あなたの口からマウスピースが外れているとき、あなたの口の周辺には強い打撃を一切行っていません。また、あなたにマウスピースを装着させるよう、いろいろな手を使っていますね。西園寺さんは、あなたが万が一にも歯を失ったり、口の中に大きなケガをしないように配慮していた、と私には映りましたね。」
確かにその通りだ、と潤子は思った。最後には、お小水溜まりに顔を浸すことになったが、何かにつけて、紘美は潤子にマウスピースを咥えさせようとしていた。
回りのお客様を喜ばせるため、と紘美は言っていたが、そうではなかったのか。……
「次に、西園寺さんが、あなたを意図的に失神させたことです。」
「………… 良く意味がわかりません。………」
「あなたは、試合中に失禁してしまった。…… 覚えていますか。」
少しの躊躇のあと、潤子は首を縦に振った。
「あなたが気を失っている間に、恒例に従って、あなたはトランクスを脱がされ、それはその場でオークションに掛けられています。意識を失っていない限り、勝者と同様に、敗者も自力でリングを降りなければならないのですが、あのときの状況では、オークションが終わるまでに、あなたが自力でリングを降りることは難しかったと思います。そうすると、あなたは、自分のトランクスが競り落とされるのを、目の当たりにせざるを得ないわけです。自分の垂れ流したお小水をたっぷりと吸い込んだトランクスが、あなたの目の前で売られて行く。…… 潤子さん、あなたはそれに耐えることができますか。西園寺さんは、あなたを失神させることで、その光景があなたの脳裏に焼きつけられることを防いだのです。…… 間違いないでしょう。」
「…………」
「あなたが失禁する直前に、西園寺さんはニュートラルコーナーに戻り、カウントをスタートさせています。恐らくあの時点で、西園寺さんは試合を終わらせるつもりだったはずです。ところが、あなたが失禁したことで予定が狂ってしまった。そのままあなたをカウントアウトしてしまうと、その後あなたがどうなってしまうか、を考え、短い時間のうちに、自然な形、かつ肉体に対するダメージを極力抑える方向で、あなたを失神させるシナリオを書いたのでしょう。肉体的ではなく、精神的にあなたを痛めつけながら試合を続け、最後にあなたの顔を自分の胸に捩じ込んで、あなたを確実に気絶させるという方法を選んだのだと思います。」
潤子は、覚えている限り、もう一度試合の内容を思い返してみた。それは、鞠子の分析とぴったり一致していた。……
打撃ではなく、紘美の言葉や自分の乳房を弄ばれることで戦意を毟り取られたこと、何発かを除けば、お腹以外にあまり強烈なパンチを受けた印象が残っていないこと。特に、潤子が失禁してからは、紘美が嬲るような軽いパンチしか打っていないこと。それと、もちろん失神した後の記憶がまるでないこと。……
あれは、すべて紘美にかけられた温情だったのか。……
「そして、これですね。」
鞠子は、あらぬ方向に視線を泳がせている潤子の気を引くようにそう言うと、手にしていた小さな鞄の中から一枚の書状を取り出した。
「これは、ある医師への紹介状です。あなたに経済的な負担をできるだけかけないで、あなたのお姉様が良質の医療を受けられるよう、西園寺さんは、この試合までにいろいろな交渉を行ったようです。運動部に所属している園生が、練習や試合などが原因で、病気、ケガなどをした場合、ほぼ無償で医療を受けられることは知っていますね。西園寺さんは、あなたのお姉様が凛花の入園予定者だったことを理由に、競技選手待遇のベッドをあなたのお姉様用に確保し、優秀なお医者様にも、内々に担当医になることを了承していただいています。」
潤子は、もう何も言えなかった。
自分を肉体的に破壊しないように、そして、自分が園に残れるように、紘美はあらゆる手を尽くしてくれた。……
潤子は、無性に紘美に会いたかった。
鞠子は再び鞄の中に手を入れ、小切手のようなものを取り出した。
「では、今夜の報酬をお受け取りください。…… どうぞ。……」
潤子がそれを受け取り、金額を確かめると、契約書に書かれてあった通りの金額が記されていた。
それにしても、ずいぶん厚い紙でできてるんだな、と潤子は思った。が、少し指に力を入れると、小切手は三枚に広がった。潤子は、あわてて全部の小切手の額面を見てみた。最初に見たものと同じ額面のものがもう一枚。最後の一枚には、他の二枚の四分の三ほどに当たる金額が書き込まれていた。
「これは、……」
潤子は、初めに見た一枚の小切手を鞠子に見せるようにして、言った。
「今夜のお約束は、この分だけだったはずですよね。」
鞠子は微笑んで、それに答えた。
「二枚目のものは、あなたの今日のお相手、西園寺さんのファイトマネーです。彼女も、あなたと同じ、『裏のリング』では最高ランクのボクサーなんですよ。それと、最後の一枚は、西園寺さんの『勝者の報酬』であり、あなたが失神している間に失ったものの代償、あなたが身に付けていたトランクスの落札代金の分です。」
「…………」
「 『裏のリング』のお話で、私が初めてあなたにお会いする前に、西園寺さんから申し出がありました。西園寺さんは、もし、あなたが『裏のリング』に上がるのであれば、自分と試合を組んで欲しい、自分が潤子さんのお相手をします、とおっしゃいました。それで、そのようにマッチメイクさせていただいたのです。…… 西園寺さんは、最初からご自身のファイトマネーをあなたに提供するつもりでいたようです。先ほど、試合が終わってから、西園寺さんに確認したところ、その通りだとおっしゃっていました。」
鞠子は、そこまで言うと、潤子から視線を逸らし、部屋の入口のドアの方を向いた。
「これでよろしいのですね、西園寺さん。…… あなたも、そんなところに突っ立っていないで、早く中にお入りなさい。」
「…………… 失礼いたします。……」
ドアが静かに開き、紘美が部屋の中に入ってきた。紘美は照れくさそうに頬を少しだけ紅く染め、潤子に近づいた。固まったように動かない潤子のそばまで来ると、紘美は潤子に語りかけた。
「その通りです。これは、受け取ってちょうだい。」
この紘美の一言で、潤子の呪縛が解けた。潤子は、すがるような目で紘美を見つめた。
「…… そんな、…… だめです。…… こんな大金、私には受け取れません。これは、紘美先輩のものです。紘美先輩が持ち帰ってください。」
「いいのよ。今夜、あなたはすごく辛い、哀しいことを体験した。その見返りだと思ってちょうだい。私に嬲られるのは、本当に辛かったでしょう。…… ごめんなさいね。」
「紘美先輩、……」
「とにかく、この小切手はあなたに受け取っていただきます。もし、どうしても私にそのお返しがしたいのなら、それは、あなたが園に残ってボクシングを続けること、それで返してくださいな。あなたが園を去ることは、今夜私が受け取る権利のある報酬を失うことよりも、私にとっては何倍も辛いことなの。…… だから、園をやめないでね。これからも、私でよければ、いつでも力になってあげるわ。」
潤子の目から、一気に涙が溢れた。ほんの小一時間前、リングの上で、涸れるまで涙を流した潤子だったが、それでも、後から後から涙は溢れ出てきた。潤子には、紘美に抱きつき、紘美の腕の中で泣くことしかできなかった。潤子は、「ありがとうございます。」と紘美に言いたかったが、とても言葉にはならず、ただ声を上げて泣くばかりだった。
潤子の手には、三枚の小切手が、しっかりと握られていた。
紘美は、鞠子が操る黒いセダンの助手席に腰を下ろしていた。潤子を寮の部屋まで送ったあと、車は紘美が寮を出てから移り住んでいる、市の外れへと向かっていた。
「私が、三崎さんをできるだけ傷つけないようにしていたこと、わかっちゃいましたか?」
「ええ、もちろん。私もこの世界で生きている人間ですから。そのくらいのことはわかりますよ。その他にもいろいろね。…… 例えば、私が潤子さんと話している最中、ずっとあなたがドアの外で話を聞いていたこと、なんかもね。」
「えぇっ。私がドアの外に立ってたの、いつ頃から気づかれていたんですか?」
「初めから。あなたがドアの外に立ってから、潤子さんにタネ明かしを始めましたからね。」
「ひゃぁ。鞠子先輩は何でもかんでもお見通し、ってわけですね。…… まいったなぁ。」
鞠子は紘美と同じ凛花の卒園生で、紘美の三年先輩に当たる。鞠子はボクシング部員ではなかったが、部室や練習場にちょくちょく顔を出していたので、紘美は、一年生の時に、何度か鞠子の顔を見たことがあった。
鞠子は、部員の誰よりも強かった。鞠子はどこの部にも所属していなかったが、ボクシングだけでなく、他の格闘技すべてにおいて、鞠子に敵うものは、園内に誰一人としていなかったと、紘美は先輩の部員に聞かされたことがあった。また、園内では格闘無敵あると同時に、学業の成績も、他の園生とは比べ物にならないほど、飛びぬけて良かったが、卒園するときに当然任されるはずの首席代表だけは、頑なに固辞した、という話も聞いていた。
「今日は、お疲れ様でしたね。西園寺さん。」
「いや、とんでもない、…… と言いたいところですが、正直、今日は疲れました。まさか、あの娘が、おし
…… 失禁してしまうとは。…… 特にあのあと、あの娘を嬲るのは、かなり辛かったです。それと、あの娘を失神させたあと、さらに踏みにじるようにしたこと。あれは本当に辛かった。………
でも、そうでもしないと、不自然になっちゃいますからね。あれは、『裏のリング』の儀式みたいなものですから。」
「確かにそうですね。それと、胸に顔を押し込んで気絶させる手際、なかなかお見事でしたよ。クリンチの延長と見なされて、反則にならないこと、よくご存知でしたね。」
「…… そうですか。…… まあ、立場は逆でしたけど、初めてのことじゃありませんでしたし。」
「あら、そうでしたか?」
「何をおっしゃってるんですか。私の『裏のリング』のデビュー戦で、私を、その立派な胸の谷間の中で気絶させたのは、どこのどなたでしたかね。」
「あっはっは、そんなこともあったわね。」
初めて紘美が『裏のリング』に上がったのは、紘美が二年生の時だった。外見に似合わず、鼻っ柱の強かった紘美は、園内の競技会や対抗戦の試合だけでは飽き足らず、『裏のリング』に闘いの場を求めた。『裏のリング』の緒戦で当たったのが鞠子で、その鞠子に、紘美は完膚なきまでに叩きのめされた。この夜の潤子とは違って、乳房を嬲られるようなことはなかったが、さんざん痛めつけられた挙句に、胸の谷間に顔を埋められて、失神させられたのだ。その日を境に、紘美はどんな時でも謙虚になるようになっていた。
「話しちゃっても良かったんじゃないんですか? 三崎さんのお姉様の、入院の件とか、お医者様を紹介する件とか、鞠子先輩が全部ご自分で手配したって。確かに鞠子先輩に話を持ち込んだのは私ですけど。外で聞いてて、ずいぶんくすぐったかったですよ。」
「私はね、あまり表に出ない方がいいのよ。裏の人間だし。正義の味方は似合わないわ。私がしゃしゃり出るより、あなたがスーパーレディでいた方が、潤子さんのためよ。」
「そうですかねぇ。…… でも、どうして鞠子先輩は、そんなに、裏の人間であることにこだわるんですか?」
「聞きたい?」
「え? えぇ。もちろん。お聞きしたいです。」
「じゃ、あなたには特別に話してあげる。でも、他の人には、絶対に内緒にしておいてね。」
「…… はい。わかりました。」
「…… 私はね、昔、ずいぶん悪い子だったの。中学校ぐらいの時までね。高校に入ってから更生したんだけど、園を受験するためには、私の過去が邪魔だったの。私、どうしても凛花に入園したかった。私を更生させてくれた恩人が、凛花の出身者だったのね。で、自分の過去を隠し切って、何とか入園した。でも、何かの機会に私の過去が明るみに出ると、いろんな人に迷惑がかかるから、園に入ってからも、極力名前が残るようなことは避けていたの。ボクシングとか、レスリングの対抗戦に一切出なかったのもそれが理由よ。公式戦に出ると、どうしても名前が残ってしまうから。……
そんなわけで、学園生活は少し窮屈だったけど、楽しかったわ。卒園してからこの世界に入ったのも、そのためね。……
これから先も、できるだけ、表に出ないように、表に出ないように生きていく。でも、辛くはないわ。表の世界とは違った、いろんな人に出会えるし。性に合ってるみたい。けっこう楽しんでるわよ。」
紘美は、鞠子の話を黙って聞いていた。あんなに強かった鞠子が、なぜ部に所属しなかったのか、なぜ首席に選ばれることを拒んだのか、この夜、初めて紘美は真実を知った。私はスーパーレディなんかじゃない。鞠子こそが、本当のスーパーレディなんだ、と紘美は思った。同時に、紘美の中にほんの少しだけ残っていた、鞠子に対する不信感のようなものも、鞠子の話を聞くことで跡形もなく消え去った。
「潤子さん、園に残れるといいわね。」
「そうですね。お姉様の分も、学園生活を楽しんでいただきたいです。」
紘美は、四年間の学園生活を思い出していた。最後の対抗戦で決勝を棄権したのは残念だったけど、それ以外は、本当に楽しい、夢のような時間だった、と紘美は思った。今夜はまったく実力を出せなかったけれど、素晴らしい才能を持つ、三崎潤子という娘と巡り会うこともできた。潤子には何とか、学園生活を四年間続けさせてあげたい。まあ、しばらくは、玲奈が付いているから大丈夫だろう。部長を任すには少し頼りないところもあるけれど、後輩の面倒見だけは本当にいい娘だから
…………
雨は上がっていたが、空には月も星も見えなかった。
黒いセダンは、少しばかりの水煙を残しながら、真夜中のハイウエイを滑るように進んでいた。
「敗者の報酬」 了