女園四峰シリーズ 第一話


ラスト・ファイト





〜 序章 〜


「もう一度だけ訊くよ、遥。……… 本当に、…… 本当にいいのね。」


 八月下旬。あと二日で夏休みが終わる、そんな夜。

 ある女子寮の部屋。

 腰の近くまである長い髪の女学生が、椅子に座って、まっすぐに前を見据えていた。
同じ部屋の中には、もう一人の女学生が、同級生の後ろ姿を見つめていた。

 片膝をついて、少し表情をこわばらせている娘の右手には、大きな鋏が握られていた。親指と、中指、薬指は、既に鋏の輪の部分に掛けられている。

 娘は、その鋏を使うことをためらっていた。恐らく遥は、「やっぱりやめる」、とは言い出さないだろう。しかし、遥が娘に語った『事情』は、娘の右手の動きを躊躇させるにはあまりにも充分だった。思いとどまって欲しい。私がこの鋏を入れてしまえば、遥がどこか遠いところへ行ってしまうような気がする。そんな想いが、遥の望みに応えることを、娘にためらわせていた。

 呼吸ひとつ分の沈黙の後、椅子に座っている娘の口が開いた。

「うん。」

 椅子に座っている娘の返事は、同級生の想いを否定した。

 また訪れた、三十秒ほどの沈黙。重い、重い時間が流れて行く。

 やがて、片膝をついた娘が、小さな溜め息をもらした。

 そして、決心したように、声のトーンを落として、言った。

「わかった。………… じゃあ、…… 切るよ。」

 椅子に座っている娘の、まっすぐに伸びた長い髪が、一束、また一束、床に落ちていく。

 髪を切り落とされている娘は、瞳にうっすら涙を溜めた。


 少し悲しいけど、もう私には、この髪は要らない。

 今の私には、無用の物だ。………



〜 第一章 〜


 盛華館(せいがかん)女子園運動部会館の中を、二日前に長い髪を切り落とした娘が歩いていた。娘は、『小談話室A』と書かれたプレートが掲示されている部屋の前で立ち止まった。

 夏休みが明けた登園日の初日、盛華館女子園ボクシング部の部長を務めている、四年生の高倉瑞穂(たかくら・みずほ)は、運動部会館の中にある小さな個室で、約束の相手を待っていた。多くの運動部が部室として使用しているこの建物の中には、少人数のミーティングができる、個室スペースが二十ほどある。その中には、二〜三人用の、「小談話室」と呼ばれる部屋がいくつかあり、瑞穂はその中の一つにいた。

 前の日、瑞穂は、同じボクシング部員で三年生の丸山遥(まるやま・はるか)からの、頼みごとがあるから会って欲しいという電話を受けていた。電話なのでもちろん相手の表情はわからないのだが、瑞穂は、受話器の向こうから聞こえてくる遥の声に、何か悲壮感のようなものを感じ取った。瑞穂は、遥と二人だけで話ができるよう、この部屋を指定した。

 遥は、『小談話室A』の表示の下にある、もう一つのプレートに目を遣った。『使用中』の文字が、既に約束の相手が在室していることを示していた。遥は、しばしの間ドアの前に佇み、そして、これでいいんだ、と自分に言い聞かせ、ドアをノックした。

「丸山さんね。どうぞ。」

 中から聞き慣れた声が返って来た。

「失礼いたします。」 遥はドアを開け、部屋の中に入った。

 瑞穂は、遥の姿を一目見て、「あっ」と小さな声を漏らさずにはいられなかった。競技指向の部員の中でただ一人、腰まであろうかという、言わばトレードマークだった遥の美しい長い髪が、ばっさりと切り落とされていたからだった。

 この娘に何があったんだろう。…… そんな疑問を頭に巡らせながら、しばしの間、瑞穂は、呆気にとられたように、遥の顔を見つめていた。はっと我に返った瑞穂は、先輩の言葉を待ってその場に立ちつくしている遥に、声をかけた。

「あぁ、ごめんなさい。かけてちょうだい。」 

 座るよう促されると、遥はそれに従って、瑞穂とテーブルをはさんだ位置にある椅子に腰を下ろした。

 「やっぱり、瑞穂先輩もびっくりしてるんだな。」と、遥は思った。

 瑞穂は不安を感じていた。話の内容が、髪を落として来たということと無関係とはどうしても思えなかったし、それが良い話であるということも考え難かった。

 瑞穂はもう一度、ここ数週間の遥に関する出来事を思い返していた。

 夏の集中練習で顔を合わせたのが最後だから、それからまだ一週間しか経ってないし、そのときは不自然なことは何もなかったはずだ。わからない。この娘に、いったい何が、……

 わからないなら、本人に訊けばいいと、瑞穂は思い直した。「その髪は…」と言いかけたが、それは思いとどまり、瑞穂はあくまで平静を装う方向で行くことに決めた。

「さっそく、本題に入りましょう。話を聞かせてちょうだい。」

 自分が髪を切ったことを、瑞穂が気にしているのが、遥にははっきりとわかっていた。が、それには触れずに、遥は、己の決意の、結論の部分だけを瑞穂に告げた。
 
「十月の園内競技会から、私を外してください。…… それと、…… 対抗戦まで、サポートからも外して欲しいんです。」

 遥の答えに、瑞穂は戸惑った。

 ボクシングをやめたい、とか、やめなければならなくなりました、というわけではないようだ。何かの事情で、一時的に部の活動から離れたい、というのとも雰囲気が違う。察するところではむしろ逆だ。もしかすると、……

「理由を話してくれるわね。」

 瑞穂は、まっすぐに自分を見つめている遥に向かって言った。

 瑞穂の言葉で、遥の視線が少しだけ下に向けられた。そして、再び瑞穂の目を見据えた遥の口から、思いの丈が、堰を切ったように飛び出した。

「私、対抗戦で勝ちたいんです。競技会じゃなく、対抗戦で勝ちたい。…… 今までのことを考えると、難しいことはわかってます。いや、勝てなくてもいい。一度でいいから、対抗戦で、まともに相手と打ち合ってみたいんです。だから、今から対抗戦までの間、できるだけ練習したいんです。…… 三年になっても、今まで自分の意志でサポートもやってきましたけど、今度だけは外れて、時間を全部練習に使いたい。…… わがままだって言うことはわかってます。でも、お願いします。練習や試合の時に邪魔になると思ったし、手入れの時間が無駄になるから、髪も切り落として来ました。…… だから、お願いです。対抗戦までの時間、全部自分の練習に使わせてください。お願いします。」

 一気にこれだけ言うと、遥は俯いたまま黙ってしまった。瑞穂は、しばらくの間、目を伏せた遥を見つめ、心の中でつぶやいた。

「なるほど、そういうことか。……」

 そして、小さな溜め息を洩らしたあと、こわばった表情を解き、微笑を浮かべた。

「わかりました。あなたの言う通りにしましょう。頑張りなさい。」



〜 第二章 〜


 遥がボクシング部に入部した理由は、他の部員とは少し異なっていた。それは、選手としてリングに立つことだけが目的なのではなく、「ボクシングをいろいろな面から研究したいから」、ということで、競技選手登録をして日々練習に励む一方で、レフェリングや、セコンドの技術、用具管理、安全管理に至るまで、ボクシングに関わるあらゆる知識を吸収していっていた。『サポート』と呼ばれる練習や試合の裏方を担当する役回りも、通常は二年生までが請け負うにもかかわらず、遥は三年に進級しても自ら志願して積極的にこなしていた。リングの上で闘う以外にも、覚えなければならないこと、体験してみたいことはたくさんある、と遥は思っていたからだ。

 競技選手としては、残念ながら遥は三流、いや、それ以下だった。

 部長の反対を押し切って、他の部員と同じように一年秋の学園対抗戦で初めて公式戦に臨んだ遥は、最初のラウンドで三度キャンバスに沈められ、あっさりTKO負けした。試合開始から数十秒はそれなりに渡り合えていたものの、アゴに強烈な右フックを浴びてダウン。その後は一方的に殴られ、最後のパンチを食らったとき、リングの真ん中で大の字に伸びた遥の意識は完全に吹き飛んでしまっていた。記録の上ではTKOになっているが、事実上はまぎれもない『失神KO負け』。それが遥のデビュー戦の結果だった。

 その後も、遥のリング上での経験は苦いものばかりだった。公式戦のリングの上で、遥は最終ラウンド終了のゴングを聞いたことが一度もない。六戦全敗。すべてKOか、スリーノックダウンによるTKO負け。最初の三分が終わって自分のコーナーに戻ることができたのも、たった二度だけで、その二試合ですら、いずれも次のラウンドで決着がついていた。もちろん、二本の足でリングに立っているのは、いつも相手の方だった。

 それは仕方がない、それでもいい、と遥は考えていた。

 あの、遥にとっての、『事件』が起こるまでは。…………



〜 第三章 〜


 八月中旬から二週間続いた、俗称「集中練習」が最終日を迎えていた。

 『集中練習』は、普通の呼び方なら「夏合宿」に当たるものだ。盛華館女子園は全寮制なので、合宿という概念こそないものの、授業による時間の拘束から離れ、部員全員が集まって連日ボクシング漬けの日々を送る、それが「集中練習」だった。

 遥は一学年下の二年生部員とスパーリングを行っていた。実際のところは、遥だけ特注の防具を身に付け、ほとんど遥の方からは手を出さずに相手のパンチを受け続ける、サンドバッグ代わりの、生身の「殴られ役」だった。遥は、そんな損な役回りも進んで買って出ていた。そしてその最中に、『事件』は起こった。

 遥が打ち返して来ないと考えていたスパーリングの相手は、ラウンド中ずっとパンチを出し続けていた。あと少しで予定の二ラウンドが終了、という頃には、疲労からかなり大振りになってしまっていて、遥はそんな相手を、「あぁ、この娘は、まだまだ甘いな。」と思いながら、大きなヘッドギア越しに、冷静に観察していた。

 相手が左のロングフックを放ったが、遅く、迫力のないものだったので、遥は難なくダッキングでかわした。そして、すっと相手に近づき、「試合になったら、こんなのも飛んで来るんだから、大振りしちゃダメよ。」という、ほんの軽い気持ちで右のショートフックを振った。そのパンチはヘッドギア越しに、崩した体勢を立て直しかけていた相手のアゴにクリーンヒットした。

 相手の腰がガクッと、不自然に落ちた。踵に体重が掛かり、両腕が中途半端に開いている。遥の目の前に、見慣れない光景が広がった。

 遥の中の何かが、遥に「打て!」と命じた。

 遥の身体は、ためらうことなくその命令に従った。一歩踏み込んで左フック、更に右アッパーを力一杯打っていた。

 テンプル、アゴを立て続けに打ち抜かれ、相手は腰からキャンバスに崩れ落ちた。それは、遥がボクシングを始めてから初めて遭遇する、『自分の殴った相手が、キャンバスに倒れた瞬間』だった。

 遥は、唖然とした表情で相手を見つめ、両手に残された、今まで経験したことのない手応えに酔っていた。

   ……… 何だろう。…… 甘美な、この不思議な快感は、………

 ほどなく、ラウンド終了を告げるブザーが鳴った。はっと我に返った遥は、お尻をべったりとキャンバスに下ろしたまま、荒い呼吸を繰り返している後輩の傍に膝をつき、声をかけた。

「ごめんね。びっくりしたでしょう。大丈夫?」

「あ、いや、とんでもない。大丈夫です。まだまだ自分は未熟者ですね。ありがとうございました。」


 『集中練習』のメニューがすべて終わり、寮の自室に戻った遥は、ベッドの上に仰向けになり、スパーリングの相手からダウンを奪ったときのことを思い返していた。

 自分でパンチを出しただけでよろけるほど疲れていて、ましてディフェンスのことなど完全にお留守の後輩が相手だったから、倒すことができた。

 そんなことは、わかってる。

 でも、あの手応え。…… それと、あの快感。……

 ボクシングの本当の魅力とは、これなんだろうか。……

 ボクシングをしている人たちは、みんなこの感覚を求めてリングに上がるんだろうか。……


 集中練習が終わると、夏休みが終わるまでの短い間、部の活動はお休みになる。遥も、寮の自室で、ゆっくりと身体を休め、買いだめしておいたボクシング関連の資料を読み耽る、…… 予定だった。

 しかし、『事件』が遥の中に植えた種が芽を出し、遥の心を蝕んでいた。目だけは資料のページに落とされているものの、遥の頭の中には、内容はほとんど入って来なかった。

 『事件』のシーンだけが何度も何度も蘇ってきた。

 次の日も、その次の日も、「相手を殴り倒すことへの欲求」は、加速的に遥の中に広がっていった。同時に、今まで、常に倒される側にいた自分に対して、無性に腹が立った。

 今までずっと、こんなおいしい料理の材料になっていたなんて。……

 悔しい。

 強くなりたい。

 強くなって、試合のリングの上で、あの快感を味わいたい。……

 買い物をするために寮の外に出て、同じ年頃の女性を目にすると、その女性が自分に殴り倒される姿を想像してしまう。それほどまでに、遥はその欲求の虜になってしまっていた。そして、『事件』から一週間後、その思いはピークに達し、遥はもうそれを振り払うことができなくなってしまった。

 次の対抗戦まで、あと三ヶ月。それまでの間、持てる時間、力を、すべて練習に注ぎ込む。

 それ以外のことは、全部犠牲にする。

 対抗戦のリングの上で、…… 私は、相手を殴り倒す。



〜 第四章 〜


 瑞穂と面談したその日から、遥は、今までとは別人のように、練習だけに没頭した。授業が終わると、真っ先に練習場に入り、夜遅くまでサンドバッグを叩き続けた。授業のない日には、三食分の弁当を持参して、一日中練習場に籠もった。過去の遥からは想像もできないような、「丸山先輩が鬼になった。」と、後輩たちが噂するほど、その練習はハードなものだった。練習が終わると這うようにして寮の部屋へ戻り、シャワーを浴びるだけで、あとは泥のように眠る。そんな毎日が続いた。

 園内競技会が終わり、対抗戦まで一ヶ月を切る頃になると、遥の能力は、普通の相手とならそれなりに打ち合えるレベルまで上がってきた。さらに二週間の後には、スパーリングの相手からたびたびダウンを奪えるほどにまで進歩していた。しかし遥は、「練習中じゃ意味がない。試合で、対抗戦で相手を倒すんだ。」と自分に言い聞かせ、よりハードな練習を己に課していった。そんな遥に触発されて、他の部員の練習にもより一層熱気がこもるようになった。対抗戦を目前に控え、盛華館ボクシング部は最高の雰囲気に包まれていた。

 盛華館のボクシング部は、雅ヶ丘、若草山の二園に比べると、言わば格下の感があり、あまり対抗戦での成績は良くなかった。瑞穂は、目に見えてレベルが上がっていく後輩たちの姿を見て、「こんどの対抗戦はいい結果が残せるかも知れない。私も負けちゃいられない。」と思っていた。そして、遥が部全体に与えた影響の大きさを実感していた。


 対抗戦の開幕まであと十日ほどになった。

 その日も、遥は、最後の一人になるまでサンドバッグを叩き続けたあと、練習を切り上げ、着替えのためにロッカールームへと重い身体を運んだ。自分のロッカーを開けると、なにやら小冊子のようなものが入っていた。表紙に、『四園ボクシング部秋季対抗戦プログラム』と書かれている。遥は、その冊子を手に取り、しばらく表紙を見つめ、そして、椅子に腰掛けて、パラパラとページをめくっていった。

 秋の対抗戦は、年に一度の階級別チャンピオン決定トーナメントを含む、全七日間。総勢二百名近い競技登録選手が出場する、各園ボクシング部にとっての、最大のイベントだ。

「表紙が緑色だってことは、今年は若草山が幹事園なんだな。……」

 頭の中にはそれくらいのことしか浮かんでこないほど、遥は疲れていたが、ほどなく、試合スケジュールの中に書かれた自分の名前を見つけることができた。

 遥の試合は五日目に組まれていた。


第6試合   丸山 遥(盛華B:Fe) × 三崎潤子(凛花@:B)


 遥は少し驚いた。相手の娘は一年生だ。そして、相手の学年を指す@の横に書いてある「B」の文字が、遥が登録しているフェザー級よりひとつ体重が軽い、バンタム級の登録選手であることを示している。

 何かの間違いじゃないか、と思い、遥は、冊子の後ろの方にある競技登録選手一覧にも目を通してみたが、やはり相手の「三崎潤子(みさき・じゅんこ)」の名前はバンタム級の選手として掲載されていて、名前の後ろに「凛花@」と書かれていた。

 一年生だということは、この秋の対抗戦がデビュー戦のはずだ。一クラス下の一年生のデビュー戦に組まれるなんて、私もずいぶん安く見られたもんだな、と遥は思った。

 今までの成績を考えると、それは仕方がないことなのかも知れない。…… これまでの遥ならそんな風に考えたかも知れないが、大きな目標に向かって身を削るような思いを続けてきただけあって、遥の心に浮かんだのは、まったく違う感情だった。

 私は生まれ変わった。

 相手が誰であろうと、その娘に勝つ。

 大切にしていた髪を切り、二ヵ月半の間、すべてを賭けて、練習を積んできたし、自信もついた。

 もう私は、「出ると負け」の丸山遥じゃないんだ。

 相手が決まったことで、その後の遥の練習には更に気合が込められるようになっていった。溜まった疲れを抜くために、練習量を調整する直前まで、遥は連日遅くまで練習場に残り、サンドバッグを叩き続けた。



〜 第五章 〜


 盛華館のスクールカラーである、緋色のトップス、緋色のトランクスを身につけた遥は、試合前の注意にレフェリーに呼ばれ、リングの中央で、対戦相手の一年生と対峙していた。

 遥は、相手を良く見てみた。

 顔は、どちらかといえば、童顔の部類だろう。均整の取れた顔立ちには、まだあどけなさが残っている。一言で言えば、「可愛い」顔だ。

 身長は遥よりほんの少しだけ低い。一階級下というだけあって、華奢というほどではないが、体躯の線は遥より細い。顔に比べて手足が長く、もう少し背が高かったらモデルにでもなれるのではないかという身体のバランスであると同時に、一年生とは思えないほど、しっかりと締まった身体をしていた。凛花のスクールカラー、白をベースにしたトップスの下には、形の良い、大きな乳房が押し込まれていた。

 そしてもう一つ、相手の娘は、長い髪を後ろに束ねていた。

「…… 四ラウンド制、ラウンド三回のダウンで負けになります。…… では、母園の名誉に恥じないファイトを期待します。グローブを合わせて、………… 互いのコーナーに戻って。」

 レフェリーに促されて、赤コーナーに戻った遥は、嫉妬とも憎悪ともつかぬものを感じていた。

 可愛い顔、抜群のスタイル、…… そして、長い髪。……

 遥の脳裏に、級友に髪を切り落とさせたときのことが蘇ってきた。


 私は、ボクシングを始めてからも手入れを欠かさなかった、大切にしていた長い黒髪すら犠牲にして、この試合に賭けてるんだ。

 絶対にこの娘には負けない。

 一年生だろうと何だろうと、関係ない。

 …… 絶対に、…… 絶対に、負けるもんか!


 嫉妬と混ざり合った闘志が、遥の身体に漲った。


 四日前、ミドル級代表戦で若草山の代表をKOで下した瑞穂は、遥のセコンドとして、リングの上にいた。二日後には、同じ日に凛花の代表を下した、雅ヶ丘の選手との決勝戦が待っている。自分のコンディションを最高の状態に保つために、通常であればゆっくり身体を休めるところだが、瑞穂は、この試合だけは、見ておくだけでなく、体験しておきたかった。遥の努力が、たとえどんな形で終わろうとも、セコンドとして、一緒に受け止めておきたかったからだった。

 その遥は、頬を紅潮させて、試合開始のゴングを待ちきれない様子で、瑞穂の前で小刻みに身体を動かしている。瑞穂は、これほどまでに闘志を剥き出しにしている遥を、試合のリングの上で見るのは初めてだった。勝ち負けにそれほど執着しない、今までの遥とはまったく別人のようだった。

 「セコンドアウト」のコールが場内に響いた。瑞穂がマウスピースを咥えさせると、遥はそれをがっちりと受け止め、噛みしめた。それを見届けると、瑞穂はロープを跨いでリングの外に降りた。

 やがて、試合開始を告げる、乾いた金属音が場内に鳴り響き、遥はコーナーを離れていった。その後ろ姿を目で追いながら、瑞穂は祈った。

「神様、どうか、この娘を勝たせてあげてください。」



〜 第六章 〜


 遥が両手のグローブを鼻の下でがっちりと固めて前進していくと、相手の一年生もファイティングポーズを取って遥を迎えた。その姿は、クラウチングスタイルに構えた遥とはまったく対照的だった。腰を伸ばし、右腕を90度に曲げて、右手のグローブを大きく突き出した胸の膨らみの少し上に置いていた。そして、左の肩を遥の方に向け、その肩から脱力した腕を下ろしている。対抗戦の場で目にするのは非常に稀な、「ヒットマンスタイル」だ。

 瑞穂は、相手の構えを見て、はっとした。

「この娘は、ただものじゃない!」

 遥は、多くの部員を相手にスパーリングを重ねてきたが、今、遥が闘っている相手の構えは、まったくそれとは異質のものだ。公式戦の、反則がない限りダウンの回数だけで勝敗が決まるルールでは、それほど多くないラウンド数の中で、相手を最低限一度はダウンさせない限り勝つことができないし、逆に一度でも先にダウンを取られてしまうと、相手に守りに入られたときに挽回できなくなってしまう可能性が高い。だから、他園同様、盛華館のボクシング部員も、一発でダウンにつながる顔をきっちり両手でガードし、ジャブを数多く打ってアウトボックスするよりも、インファイトに持ち込んで大きなパンチを当てることに片寄る傾向があった。まして、ヒットマンスタイルに構える部員など一人もいなかった。

 瑞穂の背筋に、冷たいものが走った。いやな予感がする。


 試合開始から一分半が経過した。リングの上で、遥は苛立ちを感じていた。

 遥は、相手の一年生に翻弄されていた。

 試合が始まってから、遥のパンチはまだ一つもまともに当たっていない。相手の一年生は、遥の繰り出したパンチを、すべて上半身のシフトだけでかわしていた。そして、巧みに足を使い、左のジャブを正確に遥の顔に当て続けていた。

「私は、殴られるためにここにいるんじゃない!」

 苛立ちが大きくなるにつれて、遥のパンチは少しずつ大振りになってきていた。そして、それはことごとくかわされ、見返りにもらうジャブがストレート気味に変わってきていた。

 「まずい。」 瑞穂がつぶやいた。同時に、遥が右腕をスイング気味に大きく振った。またもや簡単にスウェイでかわされ、遥はバランスを崩した。左側に傾いた体重をもとに戻しかけたとき、相手の胸の大きな娘は、初めて左腕を直角に曲げたまま横に振り抜いた。グローブが遥の右の頬に突き刺さり、遥の頭が捻じ曲がった。

 平衡感覚を失った遥は、その場に尻餅をついた。


「ワン、…… トゥー、……」

 ダメージなんかない。今すぐお返ししてやる。

 素早く立ち上がろうとした遥の耳に、瑞穂の声が聞こえた。

「カウントエイトまで休むのよ!」

 遥が声の主の方に視線を向けると、声の主は言葉を続けた。

「このラウンドを終わらせて帰ってきて! 何とかしてあげるから!」

 瑞穂に策があるわけではなかった。が、瑞穂にはこういう言い方しかできなかった。ただ、どんなに苦しい展開になっても、このラウンドを終わらせて、遥に自分が待っているコーナーへ戻って来て欲しかった。

 セコンドである瑞穂の指示通りにゆっくりと立ち上がった後、瑞穂の顔を見つめていた遥は、「わかりました。じゃ、行って来ます。」とでも言いたげに、一瞬、はにかんだような微笑を瑞穂に投げた。そして、カウントエイトでファイティングポーズを取り、再び相手に向かって進んでいった。


 遥がダウンをした後、胸の大きな娘は、それまでよりきついパンチを遥に当て始めた。遥の顔がパンチで揺れることが多くなり、ますます劣勢に追い込まれていくに連れて、遥の手数はだんだん減っていった。そして、相変らず、遥のパンチは、すべてかわされていた。遥の右目の辺りは、赤く腫れ始めていた。すでに鼻の中も少し切れているらしく、鼻から口にかけて、赤く染まっていた。


 第一ラウンドが終了するまで、あと二十秒ほどになった。

 何発かボディを打たれて、ガードが下がり始めた遥のアゴの先を、胸の大きな娘の左ストレートがかすめた。遥の顔がきゅっと回転し、遥は再び平衡感覚を失い、後ろ側によろめいた。何とかダウンせずに踏ん張ったが、バランスを保つために、遥は両腕を広げてしまっていた。

 相手が踏み込んで来るのがわかった。

 「次のをもらっちゃいけない!」 遥の本能が、顔をガードしろ、と命じた。

 次のパンチに襲われる前に、遥は顔面を両腕で覆うことができた。が、悲運なことに、次のパンチは遥の顔に向けて放たれたものではなかった。

 爆弾が破裂したかのような激痛が、遥のお腹を襲った。


 胸の大きな娘が放った、渾身のボディフックが、がら空きになっていた遥のお腹にめり込んでいた。



〜 第七章 〜


 「ぐ…」と、短い呻き声を残し、遥の腰と両膝が、がくんと折れた。

 リングコスチューム同様に、スクールカラーで誂えられた赤いマウスピースが、遥の口元から半分飛び出した。

 両目が不自然なほど見開かれ、苦悶の表情が遥の顔一杯に広がっていく。

    …………… 息が、……… できない。……………

 遥の両膝が、続いて八オンスの赤いグローブが、最後に両肘が、キャンバスに吸いつけられた。股を広げ、お尻を突き上げた格好で、遥はリングに這いつくばった。

 リングの傍らでは、瑞穂が、セコンドであることすら忘れ、両手で口元を覆い、遥の絶望的な状況を見つめていた。

 いったい何が起こったのか。一瞬、遥には理解できなかった。

 わかるのは、お腹が全部抉り取られたのかと思えるほど痛いこと。呼吸ができないこと。そして、今まで闘っていた胸の大きな娘ではなく、白いキャンバスだけが間近に見えるということ ………

「ニュートラルコーナーへ!」

 レフェリーは、胸の大きな娘に、どこに行けばいいのかを指示した後、自分の足元にうずくまっているもう一人の娘に向かって右腕を伸ばし、人差し指を立てた。

「ダウン。…… ワン、…… トゥー、……」

 レフェリーの声を聞くことで、遥の意識は、ままならない身体とは裏腹に、驚くほど鮮明になった。

 私はまた、ダウンしてるんだ。

 早く立たなきゃ。 

 でも、お腹が痛い。全身にまったく力が入らない。苦しい。せめて、息だけでも、……

「…… スリー、……」

 ダウンしたときとまったく同じ格好で、遥はキャンバスに這ったままだったが、次の瞬間、遥は少しだけ望みのものを手に入れることができた。僅かだが、呼吸ができるようになったのだ。

 ただし、それは更なる醜態と引き換えだった。

 遥の口から、赤味がかった銀色の飛沫と一緒に、赤いマウスピースが吐き出され、キャンバスで弾んだ。

「…… フォー、…… ファイブ、……」

 吐息の栓が開放されたことの反動で、遥の身体がほんの少しだけ浮き上がった。
しかし立ち上がるための手助けにはまったくならなかった。身体が前方にのめり、四つん這いの体勢が、横向きに、そして仰向けになっただけだった。

「…… シックス、…… セブン、……」

 あまりの苦しさのためなのか、いつもよりゆっくりカウントが進んでいくように、遥には思えた。

 遥の四肢は、少しずつ動くようになっていたが、遥の意志を嘲うかのように、まとまりなく、空しくうごめくばかりだった。そして、べったりとキャンバスにへばりついた遥の背中だけは、その位置から離れることを拒み続けた。

 遥の苦悶の表情は、だんだんと泣き顔に変わっていった。何かを訴えかけるように、レフェリーを見つめる遥の瞳には、涙が溢れ出てきた。

    ……… お願い、…… 待って。……… 今、立つから、…………

「…… エイト、……」

 「立て、遥! 立つんだ!」 そう自分に言い聞かせ、遥は、持っているすべての力を、自分の身体に伝えようとした。しかし、たったひとつだけ遥にできたのは、「けはっ」という音と共に、胃液と血が混じった唾液を噴き上げたことだけで、遥の望みを叶えるための身体の部品は、何一つ、遥の意志通りには動いてくれなかった。

 立てないということが何を意味するのか、その答えが遥の脳裏を駆け巡り、遥の本能だけが、受け入れることを拒否していた。

    …………………… やめて、……………………

「…… ナイン、……」

 立ち上がることの努力が、すべて無駄だったことを悟った遥から、戦意が昇華した。遥の目に映っているレフェリーの顔は、涙ではっきり見えなくなっていた。


 もうだめだ。

 あんなに頑張ったのに、また負けちゃうんだ。

 あと少しで、この人に、また、あの言葉を聞かされるんだ。

 相手じゃなく、いつでも私に向かって投げつけられた、あの言葉、……

 リングの上で、何度も何度も聞かされた、あの言葉、……


 やがてレフェリーは、ルール通りに、「試合続行に必要なポーズを十秒間とれなかった者」に対して用意されたペナルティを、目の前に横たわっている遥に課した。

 ボクサーにとって最大の屈辱、KO負けを宣言されるというペナルティを。

「…… テン。…… ユー・アー・アウト。」



〜 第八章 〜


 試合終了のゴングが鳴った直後から、皮肉にも、遥の身体は少しずつ遥の意志通りに動くようになっていった。お腹の痛みはまだ強く残っていたが、どうにも我慢できないほどではなくなっていた。苦しいながらも、ちゃんと呼吸もできるようになったし、声も出せるようになった。

 今までの遥は、試合で屈辱的な負け方をしても、取り乱したり、泣き出したりすることはなかった。しかし、いつもとは違う意気込みで臨んだ試合だっただけに、この試合で遥の受けたショックはとてつもなく大きく、遥は自分の感情をまったくコントロールできなくなってしまっていた。

 相手が一年生で、しかも自分より一階級軽いクラスだったこと。いつものように一ラウンドでKOされたこと。瑞穂と約束を果たせず、瑞穂の待っているコーナーに帰れなかったこと。……

 そして、何より、相手に一発のパンチも当てられないまま試合が終わってしまったことが、遥の精神を完全に崩壊させてしまっていた。


 どうして、…… どうして、私はこんなに弱いんだろう。……

 短い間だったけど、あんなに練習したのに。……

 あんなに頑張ったのに。……

 何で私だけ、いつもいつも、こんな辛い目に会うんだろう。……


 遥は、キャンバスの上で仰向けに倒れたまま、両手のグローブを顔に当てて、大声を上げて泣いた。


 遥の傍らで、白衣を着た四十代の女性と、『SEIGAKAN』とプリントされた赤いTシャツを着た女学生が、遥を見下ろしていた。リングドクターと、遥のセコンドについていた瑞穂だった。

 ドクターの声は、瑞穂に向けられていた。

「身体の方は、大丈夫ね。意識もちゃんとしてるし、鼻の中の傷も大したことはないわ。でも、精神的なダメージはかなり大きいから、ちゃんとフォローしてあげるのよ。わかったわね。」

 瑞穂は、ほんの数分前に祈りを捧げた神に呪いの言葉を吐きたい気分だった。そして、目の前で、仰向けに横たわったまま大声で泣きじゃくっている遥が、不憫に思えて仕方なかった。


 この娘は、髪を切り落としてから、毎日毎日、血反吐にまみれるような練習をしてきた。……

 あれほど真剣に、すべてを擲って練習を続けた部員が、かつてあっただろうか。私でさえ、したことも、見たこともないくらいだ。……

 この娘が練習に打ち込んでいる姿は、他の部員たちの大きな励みになっていた。……

 今日だけは、…… この娘だけは、勝たせてあげたかった。……

 それなのに、…… こんな、…… こんな残酷な結果に終わってしまうなんて。……


 瑞穂が、ドクターの了解をもらい、遥の上半身を起こすと、遥は、グローブをつけたままの手で、瑞穂に抱きついてきた。そして、瑞穂の胸の辺りに顔を押し付け、激しい嗚咽に何度もむせながら、母に許しを乞う子供のように、「ごめんなさい。瑞穂先輩。ごめんなさい。」と、何度も何度も叫んだ。

 瑞穂は遥の顔を軽く抱き、心の中で遥に語りかけていた。


 謝らないでいいのよ、遥。あなたは、よく頑張ったわ。

 私、あなたに、何もしてあげられなかった。

 ごめんね。

 気が済むまで、私の胸で泣きなさい。一緒に居てあげるから……。


 瑞穂に副われてリングを降り、控室に向かう間も、遥は、瑞穂にしがみついて泣いたまま、「ごめんなさい、ごめんなさい」と、繰り返した。


 二日後、瑞穂は、ミドル級代表戦の決勝にも勝ち、優勝した。

 規定の第六ラウンドまでに、双方三度ずつダウンしたまま延長戦にもつれ込み、延長の八ラウンド、九ラウンドでもお互いにダウンを奪い合う壮絶な戦いを、瑞穂は制した。

 ダウンの数は最後まで相手に先行される形だったが、そのたびに瑞穂は「このまま負けるようじゃ、遥に顔向けできない。」と自らを奮い立たせた。先にダウンを喫し、ダウン一回の差で負けが決まりかけていた第九ラウンドでは、ラスト十五秒で狂ったようにパンチを繰り出してダウンを奪い返し、ポイントをタイに戻した。十ラウンド目に突入すると、相手は戦意すら萎えてしまい、軽いパンチを三発受けただけでキャンバスにへたり込み、そのまま動かなくなってしまった。



〜 終章 〜


 秋の対抗戦が全日程を終了した、五日後の夜。

 遥が自分の寮で本を読んでいた時、玄関のチャイムが鳴った。

「はぁい。」

 遥が玄関のドアを開けると、凛花の制服を着た学生が二人、立っていた。

 一人は、遥と同じ三年生の安達玲奈(あだち・れいな)、もう一人は三崎潤子。二年前と今年、秋の対抗戦で遥を打ちのめした二人だ。

 遥は、二年前に玲奈が自分を事実上失神KOしたあと、盛華館の関係者をつかまえて、「大丈夫ですよね。あの人は、またボクシングできるようになりますよね。」と泣きながら訴えていたと聞かされた。また、遥が試合後に入院していた病室に、玲奈は毎日のようにお見舞いに来た。遥と玲奈とは、それ以来、互いに親友の間柄になっていた。

 この日は、潤子がどうしても遥に会いたいと玲奈にせがんだため、玲奈が潤子を連れて、遥の寮を訪ねたのだった。

「久しぶりね、玲奈。こんにちは、潤子ちゃん。さ、中に入ってくださいな。」

 部屋の中で、遥と玲奈が他愛のないおしゃべりを続けている間、潤子は少し気まずそうにしていた。わざと試合のことに触れないように、気を遣ってもらっていると思っていたからだ。それを見て取った遥は、あえて話題を変えた。

「それにしても強かったよね。潤子ちゃん。私もずいぶん練習したつもりだったんだけど、全然かなわなかったもんね。」

 いきなり、核心を突かれ、潤子は狼狽した。

「いえ、あの、そんなことないです。…… いや、そうじゃなくて、申し訳ないと思ってます。えーと、つまり、……」

「何言ってるの? あなたが強かった、ってことにしておかないと、私が弱かっただけ、ってことになるじゃない? あなたが謝ったりすることはないのよ。むしろ、あなたには、勉強させてもらったと思ってるの。ありがとう、潤子ちゃん。」

 潤子は恥ずかしそうに、顔を赤らめて、俯いてしまった。遥は顔を玲奈の方に向け、「もう大丈夫かな?」と、目で合図した。玲奈はそれに応えて頷いた。

 潤子との試合の後、遥はある決心をしていた。そのことは、玲奈には既に伝えてあったが、他人から知らされると潤子が大きなショックを受けるのではないかということで、潤子には直接話す方がいいと、遥は考えていた。

 潤子が自分の方を向くのを待って、遥は言った。

「私ね、リングに立つのは、もうやめることにしたの。」

 「えっ」と小さな声を上げて、潤子はその場で固まってしまった。

「選手としては、という意味よ。私、ボクシングが大好きなの。ボクシングとは付き合っていくつもりよ。たぶん、卒園しても、この先ずっとね。ただ、選手には向いてないみたいだし、選手として試合に出るのはもうやめる。その代わり、ボクシングといろんな形で関わっていくわ。後輩の指導とか、選手の安全管理の勉強とか、やりたいことは山ほどあるの。」

 潤子は、相変らず、遥の顔を見つめたまま、表情を変えられないでいた。そんな潤子を優しい眼差しで見つめて、遥は言葉を続けた。

「私ね、来年、盛華館のボクシング部長をすることになったの。試合で一度も勝てなかった私が、って思ったけど、いろいろ勉強するチャンスだから受けることにしたのよ。だから、あなたをやっつけられる選手を、一生懸命育てることにするわ。…… まぁ、うちの一年坊はあんまり強いのいないから、難しいとは思うけどね。対抗戦でうちの選手と当たったら、きっちり揉んでやってね。」

 遥に優しい言葉をかけられ、潤子の瞳が潤んだ。遥は、潤子の両肩を軽く掴み、潤子に顔を近づけた。

「あなたは、必ず代表戦でも優勝できる選手になれる。がんばって練習して、もっともっと強くなるのよ。いいわね。」

 潤子の目から、一気に涙が溢れ出た。そして、潤子は、遥に抱きつき、胸に顔をうずめて、わんわん泣き出した。

 潤子を軽く抱きながら、遥は再び玲奈の方に、顔を向けた。

「可愛い娘ね。」

「うん。才能はすごいんだけどね。階級代表にしようかっていう意見もあったんだよ。さすがにまだ一年だし、それだけはやめたけど。でも、ほんとに強いよ。この娘は。」

「そうかぁ。…… 私もついてないなぁ。そんな娘と当たるなんてねぇ。」

「人が変わったように練習したって話、聞いたよ。相変らず、ヒキ弱いねぇ。」

「少しはさぁ、慰めてくれるとかしてもいいんじゃない、玲奈。…… それにしても、一回ぐらいは勝ちたかったなぁ。……」


 やがて、潤子も、二人の会話の中に溶け込んで行った。

 遥には、潤子の才能が羨ましかった。でも、相手を殴るばかりがボクシングじゃない。初心に戻って、いろいろな面から、ボクシングと付き合っていくんだ。私の才能が本当に試されるのは、これからなんだ。と遥は思った。



 遥の部屋の明かりは、夜遅くなっても消えなかった。その部屋からは、女学生三人の弾んだ声が聞こえていた。




 空にはたくさんの星が輝いていた。




「ラスト・ファイト」 了


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